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【第1部後編】紀元2世紀の浜松を考える・第3回『浜名湖畔における生活拠点の形成』を聴講して。③弥生時代後期の集落増加とその特徴 ④弥生時代の生活拠点と伊場遺跡群 さやのもゆ

3 浜名湖畔における弥生時代後期の集落増加とその特徴

当講座で取り上げた、
弥生時代中期・後期の集落遺跡5ヶ所。
各遺跡の位置を講座資料レジュメに表記したもの。
(講座資料レジュメより引用)

「ここからは、弥生時代後期に形成された浜名湖畔の遺跡について、お話をしていきます。ご紹介するのは以下の遺跡です。

 ② 中薄(なかすすき)遺跡  (雄踏町山崎)
 ③ 本村(ほんむら)遺跡   (浜松市大山町)
 ④ 鹿小路(しかこうじ)遺跡 (雄踏町宇布見)

② 中薄遺跡(雄踏町山崎)

中薄遺跡の地形図。
このうちのB地点(地図中央)からは
弥生時代後期の遺構(住居)が3棟発掘された。
(『雄踏町誌』資料編5より引用)


弥生時代中期から後期にわたって遺構(住居跡)や遺物が発見された中薄遺跡の発掘調査エリアでは、B地点において弥生時代後期の竪穴(たてあな)住居跡が3棟出土しています。

中薄遺跡のB地点を全体図に拡大したもの。
弥生時代後期の遺構は、地図の下半分の左から
3号住居跡、2号住居跡、1号住居跡(破線)が
発掘された。
(引用同)

それに加えて、時代を下った古墳時代後期のそれも2棟出土しているのを考え合わせると、当地は時代を越えて、居住地として使われていたことが分かります。」
(中薄遺跡は、弥生時代後期~古墳時代~奈良時代~鎌倉時代に渡って断続的に集落が形成され、各時代の遺構および遺物(土器)が出土しています)

ここでは、同遺跡で発掘された弥生時代後期の竪穴建物3棟のうち、最も形が残っている『3号竪穴』についてスライド解説。

中薄遺跡のB地点の「3号竪穴建物」(実測図)には、
同遺跡で唯一、炉(ろ)の跡が残っている
(右側の溝付近、P4とP3の間)。
5個の石で囲った内側に
円形に粘土を敷き詰める、
独特の手法で築かれていたという。
参考・引用『雄踏町誌 資料編5』

「住居跡のうち、『3号竪穴』の柱穴(はしらあな)は4ヵ所あり、竪穴(住居)の平面は丸みを取った正方形(隅丸方形=すみまるほうけい)。
さらに周囲には、溝(みぞ)を掘っています。

竪穴の区画内に見える黒いシミは炉(ろ)の跡でして、火を焚いて出来た土焼けの痕跡が、深さ約20cmにも及んで残っていました。
これは、炉が長時間に渡り、火力を強くして使われた為ではないでしょうか。」

中薄遺跡で発掘された土器のうち、完成形で残ったものは多くないとの事ですが、採集した遺物の量は、実にテンバコ(ボックス型コンテナ)35ケース分に詰まってる状態だとか。

もっとも当時は発掘体制も整っておらず、収集した土器はすべて、洗った上で記録・収蔵してあるそうです。

「その一部の土器を石膏で復元した完成形の土器に組み入れて形を整えたものが、雄踏町誌に掲載されています。が、現在(2025)に至るまで公的には発表されていないのが現状です。
今後はこの土器を、形を整えて彩色し、良い形で展示したいと考えてます。

中薄遺跡における、弥生時代後期前半の土器の特徴として、伊場遺跡で発掘された同時期の土器・土製品(どせいひん)との共通点が見られる事があげられます。
まずは、土器(壺、高坏、台付甕)に施された模様ですがー。
『櫛描き(くしがき)文』(くし型の工具で刻んだ直線・波形文様など)が刻まれたり『浮文(うきもん=土を丸めたものを土器に付ける)』がくっついていたりする土器が、伊場遺跡の遺物にも見られます。

中薄遺跡出土土器実測図より、
高坏(たかつき)のの脚部分。透かし孔(あな)が空けられており、直線(横帯)文が刻まれている。
(『雄踏町誌』資料編5より引用)
壺の口縁(こうえん=フチ)には
波状(はじょう)文が刻まれている。
(引用同)
小壺の頸部と胴部分には二条の刺突(しとつ)文、
間には円形の粘土で浮文(うきもん)が
ほどこされている。
(引用同)

これには伊場式との共通点が見られ(直線文などの櫛描文・高坏の脚が下端に反り返る・壺の浮文)、尾張や三河(愛知県)、いわゆる西日本土器文化圏の影響を受けたーあるいは、西側の技術を知る者が造っているのではと考えられます。

ほかには、『環状土製品(かんじょうどせいひん)』と呼ばれる、直径5~6センチほどのドーナツ形をした遺物が破片の状態で発掘されているのですが、断面のたわんだ膨らみ方が特徴です。

環状土製品の実測図。
環状石斧を模したミニチュアで、
儀式などに用いられたのではと
推測されている。
(引用同)

もっともこれは、紡錘車(ぼうすいしゃ=糸を撚る(よる)道具・土製品)としては穴が大きすぎる。なので、あるいは環状石斧(かんじょう・せきふ)である可能性が考えられます。この『環状石斧』とは『斧(おの)』の一種で、縄文時代から弥生時代中期にかけて、武器として使われた物です。が、一方で戦いの軍配に使われたり、権威の象徴として儀式用に造られた可能性も否定できません。
伊場遺跡にも同型の遺物がありますのでーもしかすると、環状石斧を模して儀礼用に造られた〝ミニチュア〟ではないかと考えられています。
このような遺物(環状土製品)が、集落跡の遺跡から発掘されることは少ないので、特別な用途に使われた遺物ではないでしょうか?」

③ 本村(ほんむら)遺跡
 (浜松市花川町)

「本村遺跡は浜名湖の北東岸(地図右端中の自衛隊浜松北基地より東名高速を挟んで北側の🟠)に位置していて、中薄遺跡と同じように三方原台地の丘陵上(標高約40m)に造られた、集落の遺跡です。

本村遺跡の立地を示した写真。
花川と和地大谷川の合流点付近、
三方原台地の上に位置する。
(当講座・展示資料より引用。
撮影には許可を頂いております。)

立地としては、現在の桜台工業団地になっている地域で、ちょうど花川(はなかわ)と和地大谷川(わじおおたにがわ)の合流点に挟まれた丘陵、その先端に近いところで遺跡が発掘されました。
同遺跡は発掘調査によって、居住域と墓域(ぼいき=墓地)が明確に分かれていることが分かっており、これが最たる特徴になっています。
講座資料の図(9)で見ますと、丘陵の先端(南)に近い方(ビニールハウスの前)のB地区が居住域となっていまして、5~6棟の竪穴建物(遺構)が並んでいるのが見えますね。

居住域の遺構(竪穴建物)が発掘された
B地区を北側から望む。
溝に囲まれた内側には、柱穴が見える。
(講座資料レジュメより引用)

それから、B地区より北側、三角形をした赤土台地の上がA地区になりますが、ここは墓域でありー『方形周溝墓(ほうけい・しゅうこうぼ)』と、呼ばれる四角形に区画したお墓が発掘されました。
この名前は『方形に周溝(みぞ)がめぐる』という意味の、墓地の形を表す用語で、弥生時代後期における、一般的な〝お墓〟の形になります。

そ本村遺跡の丘陵北側のA地区。
南側の居住域とは、墓域として区画を分けており、
15基もの方形周溝墓が並ぶ。
(引用同)

また、B地区の竪穴建物にも、2つ穴が空いている区画の周りに溝が掘られていますがー。
このB地区(居住域)に関しては、調査前に土取り工事で失われた部分は様子が分かっていません。が、遺構が出土されたことで、竪穴建物の造られた居住域であることが確認されました。

本村遺跡の出土品(遺物)、なのですがー。
同遺跡で土器の造られた時期は、弥生時代後期の前半のみ、という非常に短い期間に限られています。そのようなわけで、およそ紀元2世紀の間位、といった所でしょうか。」

本村遺跡(集落)が営まれた時期もまた、弥生時代後期の前半であるということです。
このことからは、集落が形成されて最盛期を迎えーやがて衰退していく様(さま)は、土器の姿に見出だされるという事が、分かりました。

本村遺跡より出土した高坏(たかつき)。
器の縁の外反など、弥生時代後期前半の
土器(伊場遺跡群)の特徴が見られる。
(浜松市立はまゆう図書館にて、
当講座の展示資料を撮影したもの。)

④鹿小路(しかこうじ)遺跡(雄踏町宇布見)
(雄踏町宇布見=ゆうとうちょう・うぶみ)

「鹿小路遺跡は、先にご紹介した②中薄(なかすすき)遺跡と③本村遺跡が、三方原台地の上(丘陵地)に集落を形成したのとは異なりー平野の微高地(びこうち)に位置しています。」

鹿小路遺跡の地形図(破線枠内)。
三方原台地の西南端にあたり、
九領川(くりょうがわ)の浸食によって開かれた
大久保の谷の出口付近の微高地。

三方原台地の西南端、九領(くりょう)川の浸食で谷が始まる地点(大久保地区)で、現在の浜松志都呂(しとろ)イオン北側に当たり、今でも水田として使われているのだそう。

「発掘調査は、さほど行われてはいません。が、地元の方が土器を拾って下さったりして、少しずつ収集された遺物は、テンバコ(ボックス型コンテナ)に七箱でした。
決して多い数字ではありませんが、発掘調査された範囲が狭かったことを考えますと、遺物が出土する確率(密度)は高いと言えるでしょう。

元は地元農家の方が水田作業時に発見したのがきっかけでした。」

ここでは、同遺跡より出土した遺物の中から、台付甕(だいつきがめ=なべ)の復元品を見ながらの、スライド解説がありました。

「『鹿小路遺跡より出土した台付甕に見られる弥生後期前半土器の特徴』として、

◆口縁部(こうえん=フチ部分)に刻み模様(刺突文 =しとつもん)が見られる。

◆なべ部分と脚台(きゃくだい)の接合(せつごう)部には補強帯(ほきょうたい)、と呼ばれる粘土ヒモが巻き付けてある。
(ちなみに、接合部は嵌め込み式なのだとか。)

◆壺の頸部~肩・胴部にかけて、櫛描文(くしがきもん=櫛形の道具で横線文や波状文などを刻んだ模様)がほどこされている。

◆同遺跡より出土の土器は、弥生時代後期の前半に限られる。(土器の存在は、集落の造営時期を示すとされています)

ー主にこの様な点が挙げられます。」

鹿小路遺跡で発掘された、弥生式土器。
実測図の右側3点は台付甕、
左側上から3点は壺、下2点(並列)が高坏。
『雄踏町誌 資料編5』
(1973、浜名郡雄踏町)より引用

構造的には、熱効率を良くする為に薄く作ったなべの下に脚台をつけたもので、なべの下から火をおこして煮炊きが出来る、という仕組み。

あと、粘土質の土で成形する際に粗い(あらい)土を使っているので、ザラザラした感触があるとの事でした。

講師によると、この台付甕を復元した際、始めから壁面(へきめん)を薄く造るのはムリだったので、厚めに成形しておき、生乾きになった時点で薄く削ったのだとか。

非常にリアル感のあるお話でしたがーそれもそのはず、スライドの台付甕は『ただ今、絶賛修理中』。
したがって、講座への持参はムリだったとのこと。

講師は「今日ここへ持ってきたかったのですけどー型を取った石膏(せっこう)がまだ、柔らかくて乾いてないんです」と、残念そうに仰いました。

写真は、本講座の資料展示品のひとつ、
『台付甕(だいつきがめ=なべ)』(本村遺跡出土)。

4 まとめ
浜名湖畔における弥生時代の生活拠点形成と
伊場遺跡群

「第3回の講座タイトル『浜名湖畔の拠点集落』についてお話をするにあたっては、
今回の連続講座『2世紀の浜松を考える』開催のきっかけとなった『伊場遺跡』と比較分析することがテーマとなります。

伊場遺跡群ですがーそのなかで最も規模の大きい『梶子(かじこ)遺跡(大きい🟠マーク)は、JR東海浜松工場の敷地内になります。
そして、すぐ南隣には三重の環濠(かんごう=堀)を巡らせた『伊場(いば)遺跡』。

伊場遺跡公園では、同遺跡を象徴する
『三重の環濠(かんごう』)跡が
一部、地表に展示されている。
背景(北)はJR東海浜松工場。

現在は、JR工場と東海道線の間に『伊場遺跡公園』として整備されています。
復元建物と三重の環濠の露出展示(部分)、案内看板が設置されてましてー。
近く、重要文化財に指定される見通しとなっています。」

伊場遺跡群で出土した、
主な遺物の集合写真。
数々の土器・土製品・銅製品・木甲など、
浜松を代表する弥生遺跡たる由縁(ゆえん)である。
(『伊場遺跡と弥生時代後期の文化』
2023、浜松市より引用)

重文指定が予定されている遺物は、土器・木甲(もっこう=木のよろい)・土製品(どせいひん)などがありましてー。
今日の講座でお見せした資料よりも状態が良く、なおかつ綺麗な物が選ばれております。

しかしながら、器種(きしゅ)ごとの形状や刻まれた模様としては、今日ご紹介しました「中薄(なかすすき)遺跡」や「鹿小路遺跡」、「本村遺跡」のそれと大差はありません。

舞阪町天白遺跡で出土した、
弥生時代中期の土器。
(『舞阪町天白遺跡』2009、
浜松市文化振興財団より引用)
同遺跡より出土した土製品。
(引用同)

なぜなら、いずれも西側ーつまり、尾張(愛知県)にとどまらず、
西日本の土器文化圏から影響を受けていることに変わりないからです。

その中にあって、浜松・西遠(せいえん=西遠州)地域に見られる特性としては、第一に、焼成(しょうせい)された土器の色にオレンジ~赤系統が多いという点が挙げられますね。

それから、赤と黒の漆(うるし)で彩色がほどこされた木甲は、同種で彩色の無いものが北九州でも出土している事から、伊場遺跡の木甲は北九州で造られたか、あるいは大陸由来の可能性が考えられる事も含めて、検証していく必要があるーそのような遺物なのです。

伊場遺跡の環濠、泥土の中からは、
木製のよろい『木甲(もっこう)』が
ふたつの木片となって発掘された。
写真は木甲の完成形を復元したもの。
(『伊場遺跡と弥生時代後期の文化』
2023、浜松市より引用)

伊場遺跡より発掘された『木甲(もっこう)』について、ご興味のある方には、博物館報(浜松市博物館)で館長が論考を執筆しておりますので、ぜひ、ご覧になって下さい。

今日の講座で取り上げた、伊場遺跡を含めた5ヵ所の集落は、弥生時代中期~後期にかけて浜名湖に拠点を形成したのですがー。
これら遺跡(集落)の時代を、土器のそれと合わせた形で紹介していきます。
中薄遺跡は、弥生時代中期ー今から約2000年前に集落(遺跡)が造られました(これは舞阪町天白遺跡も同時期)。
同遺跡は、弥生時代においては後期~終末期ごろまで存続しました。
これを歴史上の出来事に重ねますと、女王卑弥呼(ひみこ)が共立(きょうりつ=共同で擁立する)されるより少し前にあたります。
さらにそれ以降の時代を越えて(鎌倉時代まで)、中薄遺跡は長らく存続していきました。

一方の舞阪町天白遺跡は同じく弥生時代中期、約2000年前に墓域として使われていたのですがー。
その後、弥生時代後期の土器が少しだけ出土しています。

そして、本村遺跡と鹿小路遺跡の場合は、弥生時代後期に入ってから集落が開発されました。
その時期は、伊場遺跡が形成されるのとほぼ同時でありーさらに伊場遺跡が最盛期を迎えたのちに衰退していくーその辺りまでの時期になります。

こうして見ますと(弥生時代後期の段階で)、明らかに人、または遺跡(集落)が減っていく様子が見て取れますね。
ここで、今回のテーマからはいったん外れますがー。

台地上の遺跡(集落)が、弥生時代の終わり(紀元180~190年)に古墳時代へと移行するのに伴い、台地上の遺跡が増加します。

遺跡(集落)が衰退した原因としては、さまざまな説がありますがー。

ひとつは、弥生時代後期の時点で遺跡(集落)が拡散的に増え過ぎたために、食糧の確保が大変になってしまった。そこで、居住地を絞って人々を集約するといった対策を取ったのではないか、とする説。

あるいは、流行り病が起こって人が死に、あちこちのムラが滅んでいったのではないかーそれで、台地上の暮らしやすい所に人々が集まり、住み着いていったーそれに加え、政治的な意図による集約があった可能性を指摘する考えもあります。

他には、(自然)環境の変化ー地下水位が上昇したために、標高の高い台地(丘陵)に移り住んで行ったーこのような説も唱えられているんですね。

諸説ありますが、推測される様々な要素が重なったりーあるいは、場所によって条件が変わってくる事からー現段階では、その場に応じて、一番良い対処法を選んで行ったという事が考えられます。

実のところ、浜松市域の考古学研究に関しては、まだまだ課題が山積していましてー。
新制・浜松市が合併して、さまざまな事例が増えた事で、あまりにも市域の範囲が広くなり過ぎ・・整理仕切れていない、というのが現状です。

もっとも、旧制・浜松市としては数多くの発掘調査を行い、相当量の資料を収集しておりましたがー。
20年前の新制・浜松市合併によって、今回の講座で旧浜名郡舞阪町の中薄遺跡などをご紹介するにあたり、全てにおいてイチから作り込む必要が生じてきました。

もちろん、同町で文化財を担当した先輩方がお作りになった『雄踏町誌』などを引用させて頂きながらの検証にはなるのですがー。

今後の研究において、浜松市域全般の事例を再評価し、新たな系統を構築する形で進めていくのには、費用はもちろん、時間のかかる膨大な作業が残っています。

中薄遺跡に関しては、発掘調査(1971~72)から既に50数年が過ぎている。
やはり研究が進んでいますから、私たち次の世代は調査・研究の成果を還元していくーそのような事も必要な任務となるでしょう。

今日に至るまでの、弥生時代・後期の研究においては、博物館長や大学の諸先生がたの研究成果を生かした形で、
『弥生時代後期の集落ネットワーク図』の復元的な図示を試みました。
浜松市域の地図上で、地域間に線を引いてあるのが、関係性があると推測される意味でつないだ地域になります。

弥生時代後期の土器様式から推測される、
遠江地域における集落間のネットワークを
地図上に線でつないだ図。
(『山の神遺跡 第5次』
2000、浜松市文化協会より引用)

どういった関係性かと申しますとー。『情報を共有している可能性』であるとか、『婚姻関係があるのではないか』といった点。

では、そのような推測は何を根拠にしているのか?それはー『土器の形や模様』なんです。

土器が根拠になる理由としてー弥生土器、というのは、民俗事例から考えますと、基本的に女性が造っていたと言われています。
それを根拠にすると(あくまでも、女性がその場所にお嫁に行くなどして移動したということが前提ですが)、女性による地域間移動の中に親戚、および婚姻関係などの形跡が見出だせるのではないかーというもの。
このように(スライド地図)、当時のネットワーク(関係性)を地図上に復元していく研究が進められています。
しかしながらー線でつないだ所の地域は全て、関係性があるのかと言えば、必ずしもそうとは限りません。これには、まだまだ研究の余地があると考えています。

今の時点では、あくまで仮説の範疇(はんちゅう)でありー遺跡間の距離や交通の便利、水運が使える、などの点を踏まえた上で、当時の状況を推測・作図したものになります。

なので、もしかするとー例えば都田川流域と伊場遺跡を結ぶ線が引かれるーなどといった、別の繋がりが分かってくる可能性もあります。が、その点に関しては今後、さまざまな土器の造りや模様などを詳細に見ていきながら、相対的に比較研究した上で明らかにしなくてはなりません。

また、土器の造りによって、地域をグループ分けした地図がこちらになります。

弥生時代後期の土器様式(特徴)から、
地域ごとにグループ分けした地図。
(『山の神遺跡 第5次』
2000、浜松市文化協会 より引用)

地図に示された土器の形を見ますと、
本講座て紹介した浜松南部の弥生土器はふっくらした形をしているのですがー。
これが天竜川南部になると、ほっそりした形に造られる傾向があります。
また、都田川流域の土器にいたっては、壺の表面に突起が付いていたり。
あとは天竜川北部、旧浜北市の辺りでは、天竜川の東側に見られる土器様式(菊川式)から影響を受けた特徴があるなどー。
そうした事例を踏まえた上で、ある程度はグループ分けができるのでは?といった推測結果を示した図になります。

ただ、今回の講座で取り上げた、大山町の本村遺跡につきましては、現段階ではどこにも属していない状況にありますのでー。
今後の調査ないし研究によって、新たなグループに定義されるのかーあるいは別のグループに属するのか、といった点を明確にする必要があります。
そして、今日ご紹介した浜名湖畔の集落、というのはー土器の形では伊場遺跡のそれとの差異は見出だせないのですがー。
一番の特徴は、集落の立地環境に見ることができます。
弥生時代後期の遺跡で、今日はご紹介しませんでしたがー『弁天島湖底遺跡』というのがあらります。同遺跡と同じように、鹿小路遺跡や伊場遺跡も平野部の微高地上にあるのですがー。

これに比して、中薄遺跡や本村遺跡は台地上に造られた遺跡になります。
また、それ以外ですとー浜名湖西岸の湖西市が挙げられます。
位置は『観音山遺跡』の南側で運動公園のあたり。いずれも台地上で、標高30メートル地点(平地との標高差20~30メートル)に造られる傾向があります。
さらには、その中間の高さーいわゆる『低段丘(ていだんきゅう)』など、少し高い位置に造られた遺跡もあったりするんですね。

そのようなわけで、弥生時代後期の遺跡に関しては、私たち研究者から見たところ、一般的に浜松(南部)の遺跡は、平野部の低湿地付近、微高地に造られる、というイメージなのですがー。
浜名湖畔については集落を台地上に造る、そうした特徴をもつことを指摘できます。

最後にー。
これまでお話したことを併せて考えますと、今後に向けてまだまだやるべき事が非常に多く、山積しているのを痛感せずにはいられません。

それは、伊場遺跡の重文指定を含めて、さらに周辺遺跡を再評価する必要が生じてきた事にあります。
特に、本日のタイトルであります『浜名湖畔の遺跡(集落)』についてはー土地利用の傾向が特徴的であるところが、ポイントになってきます。つまり『その理由は何なのか?』ということが重要になってくるわけです。

現代の地形だけで見れば、生産できる水田域が狭すぎるのでは?と、いうことが考えられーおそらく当時の人々は、必要な食糧を生産するために、住む場所を丘の上に造って耕地を確保したのではないか。
あるいはー水田耕作の収穫だけでは足りないからということでー山の幸(さち)などを複合的に利用(採集)しながら、安定的に食生活ができる方法を模索していったのかもしれない。
あとは、交通の便が良いところを選びー少々、不便ではあるけれど、標高の高い所に住むようにしたのではー等々。

このように、浜名湖畔の集落に居住した人々の暮らしぶりには、実にいろいろな可能性が考えられますのでー。
そのような点において、実際の根拠に基づいた形で説明できるよう、地域研究を進めていく事が大事になってきます。
そして、地域研究が深まっていくことで、地域の特性が顕在化する方向で研究が進められることになりーひいてはそれが、特徴ある地域づくりに反映していくレベルに、研究が繋がって行くと考えています。
今日の講座『紀元2世紀の浜松を考える~浜名湖畔における生活拠点の形成』も、その一環になればと願うものであります。

皆さんも、私の講座を聴講してー『◯◯はよく分からない』とか『◯◯について、自分でも調べてみよう』などー行動に移して頂けると、地域研究を含めて気運が高まっていく事でしょう。
このように考古学研究、および地域研究が進められますとー様々のことが、より明らかになっていくと思いますので、皆さんには是非、ご興味を持たれた事などありましたら、ご質問をいただいたり、自分でお調べになっていただく等の事を進めて行っていただければーと、おもいます。」

ちょうど定刻の2時間となりましたので、
これをもちまして私の講座を終わらせていただきます。
ご質問等ありましたら、お気軽にお話いただければ、と思います。
土器もまた、この機会に触れて(見て)いただいてーご自身の感覚で、何かしら得るものがあれば良いですね。
それでは、本日のご清聴をありがとうございました。(聴講者の拍手)

講座終了後、本講座の資料展示品
『台付甕(本村遺跡)』を手に記念撮影。
貴重な機会をいただいて、大満足の講座でした。
(なお、資料の土器は、講師によるはからいのもとに
手に取らせていただいております。
平常は手を触れる事はできません。6月末まで展示)

参考・引用文献
◆『浜名湖畔における生活拠点の形成』
  (講座資料レジュメ)
◆『雄踏町誌5 資料編』
  (1973、浜名郡雄踏町)
◆『伊場遺跡と弥生時代後期の文化』
  (2023、浜松市)
◆『山の神遺跡5次』(2000、浜松市文化協会)










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