掌編小説|泥色のパレット
「最近どう?」
駅の裏手にある、何もない公園。自販機の唸る音だけが低く響いている。
プラスチックのベンチに腰掛け、一度だけ深く息をつく。 私と彼の間には、つい先日まで綺麗だった桜の残骸がこびりついていた。
「……相変わらずだよ」
「そっか。頑張ってるんだね」
その無邪気な一言には、喉の奥に、白く固まったものを無理やり飲み込ませるようななにかがある気がする。
私はただ、足元を見つめた。
「そういえば、俺、来月から海外行くことになった」
彼は眉を下げてみせた。高級そうなTシャツの白が目に刺さる。
「どこ?」
「フランス。……しばらく会えないから、少しだけ顔見ておきたくて」
「すごいね、本当に」
「……向こうに、恩師が居て」
「そうなんや。ますます、絵に深み増すんじゃない?」
「一緒に、来る?」
その声は、やけに綺麗な色みたいに鼓膜に残った。
指先でベンチのささくれをなぞる。 指の腹から伝わる微かな不快感だけが、今の私の確かな輪郭だった。
「……無理」
そう言った自分の声が、紙を擦るみたいに掠れて聞こえた。
「君の絵、俺は好きだよ」
「うん」
爪を立てて、桜の残骸をガリガリと削り取る。爪の間に、茶色く変色したそれが詰まった。
彼は少しだけ眉を潜めた。 その一瞬の沈黙を、私は見逃さない。
「向こうで、描いてみるのもありじゃない?」
「いや、いいや」
指の腹から、饐えた匂いがした。 季節に取り残された花びらと、発酵し始めた自分の自意識。 どちらがより醜い色なのか、もう分からなかった。
「……そっか。残念だな」
彼は立ち上がった。プラスチックがギッと乾いた音を鳴らす。
「じゃあ、行くね。個展の案内、送るから」
去っていく背中は、完成された油彩画みたいだ。彼のいる場所に、自分が入る余地は最初からなかった気がした。
一人、ベンチにこびりついた茶褐色の汚れを見つめる。……絵具なら削ぎ落として、新しい色を置けば済むのに。
指をゆっくりと開き、午後の光に透かしてみた。 皮膚を透過した光が、血管の青い線を濃く映す。
「……汚いな」
重い身体を引きずって、なんとか駅に向かう。
彼のには並ばない泥色だけが、私のパレットの上でいつまでも新鮮に、濁り続けていた。
──きっと、綺麗な色と並べるための色じゃなかった。
