エッセイ|まだ、残っている気がした。
もし一日しか人間でいられないのなら、どう過ごすだろう。 そんなことを考えながら、川のそばに立っていた。
足の裏には、何年もかけて削られた不揃いの石の感触がある。 体重を預けるたびに、角の取れた小石が砂と擦れ、わずかに沈む。少しずつ重心をずらしながら、身体がそのでこぼこに馴染んでいくのを待った。
水の匂いがする。 海よりもずっと軽くて、鼻腔を悠に抜けていく。透明で、ただ水っぽい匂い。 岩にぶつかって弾ける水しぶき。そこだけ絵の具を散らしたように白い 。
足元を流れる緩やかな音と、葉っぱが擦れる音が、耳元で重なり合っている。
青い蝶が、低い位置をゆっくりと横切った。羽が動くたび、色が少しずつ変わって見える。木々の隙間から差し込む光が水面に反射して、そこに映った私の顔も細かく揺れていた。
帰り道。窓の外では、山が少しずつ藍色に沈んでいく。 車内は、来る時よりもずっと静かで、BGMの音量さえどこか控えめだった。
ふと窓を開けると、やわい風が入り込み、 乱れた髪が頬を打つ。その奥から、さっきまでいた場所の匂いがした。 喉に引っかかるような、香ばしい炭の匂い。
対向車のヘッドライトが、ダッシュボードの上を定期的に横切っていく。クーラーボックスの中で、溶けきった氷水が、カーブのたびにチャプンと小さく鳴った 。
指先が、石の冷たさとざらついた砂の感触を覚えている。 石鹸で洗えば、明日には消えてしまう。そう思った瞬間、なんとなく指を閉じた。
私は、カーディガンの袖を鼻先まで引き寄せる。まだ、残っている気がした。
そのまま、しばらく離せなかった。
夜。プロジェクターの青い光が、シーツのシワを昼間の川のように深く見せる。物語が終わる瞬間に流れるエンドロールが、瞬きするたび、睫毛の影を壁に落とした。
