掌編小説|返す日
一か月ぶりに会った彼は、挨拶より先に鍵を返した。
「これ、もう使えへんやろ」
窓際のテーブルに置かれた鍵が、夏の光を一度だけ返す。
「うん。先週、替わったから」
右手をポケットに入れかけて、やめた。
「髪、切った?」
「切ってない」
「そう」
彼は鍵をテーブルの中央に残したまま、メニューを開いた。
つられて前髪に触れる。最後に会ったときには、もう切っていた。
「何にする?」
「同じのでいい」
彼が軽く片手を上げると、近くを通りかかった店員が足を止めた。いつもと同じものを二つ注文する。
「忙しかった?」
店員が去ってから、テーブルに置いた私の手のあたりを見ながら言った。
「まあ」
「そっか」
それ以上聞かれないことに安心して、聞かれなかったことに少し腹が立った。
「そっちは?」
「普通」
数秒して、アイスコーヒーが二つ運ばれてきた。
グラスに刺さった細いストローは、なぜか私のものだけ浮き上がっている。底まで押し戻し、そのまま一口飲んだ。
「そういえば、最近あの駅使わんから知らんかったけど、駅前のスーパー潰れるらしいな」
彼はアイスコーヒーに口をつけず、ストローで中身をぐるぐるとかき混ぜてから、窓の外を見た。
「ああ。君の最寄り駅じゃないもんね。半月前から貼り紙してあったよ」
「……へえ」
向かいのグラスで、氷が音を立てる。
私が半分ほど飲んだころ、彼がシロップの蓋を剥がす。
「え、ブラックじゃなかった? 好み変わったんや」
「まあ、気分やな」
「ふうん」
右手をポケットに入れる。
鉄の輪郭を、指先でなぞる。私の体温が移って、もう冷たくはなかった。
少し遅れて、ホットサンドが運ばれてきた。切れ目から、細い湯気が立っている。
「鍵、すぐ替えられたん?」
「早かったよ。十分くらいで業者さん帰っていった」
「そんなすぐ終わるんやな」
「ぼーっとしてたら替わってた。すごいよな」
「そんな簡単にできるのも怖いな」
「まあ、よかった。前の鍵、錆びてきてたし」
そう言うと、彼は二人の間に置かれた皿を見て、少しだけ笑った。
「……ホットサンド、湯気なくなったで」
「ほんまやな」
小皿へ一切れずつ移した。
最後の一口がなくなるまで、どちらも口を開かなかった。
「ごちそうさまでした」
手を合わせると、彼は立ち上がって伝票を取った。
「このあとは? 仕事?」
レジへ向かう背中に声をかける。彼は足を止めた。少し間を置いて首を横に振り、こちらを見る。
「特に予定ないよ。家まで送るわ」
そう言って笑った。
一か月ぶりに、知っている顔を見た気がした。
テーブルに残された古い鍵を拾い、鞄の内ポケットへ入れた。
マンションまで、なんでもない話をした。なんの話をしたのか、着くころには、ほとんど覚えていなかった。
エントランスの前で、彼は足を止める。
「じゃあ」
私はもう一度、右手をポケットに入れた。
「帰るん?」
「……そのほうが、いいんやろうし」
「え?」
「まあ、大丈夫。暑いし、はよ上がり」
彼が背を向ける。
「鍵、二本あるねんけど」
振り返った彼の視線が、私の右手へ落ちた。
「業者さんが?」
「うん」
「一人で二本使うん?」
「使わへん」
ポケットから新しい鍵を取り出す。
握っていたせいで、銀色の表面まですっかりぬるくなっていた。
彼はしばらく鍵を見ていた。
やがてこちらへ戻り、片手を差し出す。
「じゃあ、一本預かっとく」
差し出された掌へ鍵を落とすと、思っていたより軽い音がした。
「暑いし、はよ上がろ」
今度は彼が先にエントランスへ入った。
