3月11日(2000年) 自分の中に驕りがあったJ2リーグ開幕
もちろん2011年は忘れない
現代日本できょう3月11日に東日本大震災を思い出さない人はいないだろう。
もちろん僕もそうだし、浦和レッズにも多大な影響があった。
しかし試合日ではないし、レッズだけに起こったことではない。東日本大震災に関しては今後、書けるタイミングもある。それでレッズ30年を語るときに外せない日を優先した。
危なげなく勝った記憶だけ
2000年3月11日(土)、レッズは浦和駒場スタジアムに水戸ホーリーホックを迎えてJ2リーグ開幕戦を行った。浦和レッズとしては初めての2部リーグ公式戦だ。そして、最後の2部リーグでなくてはならない。
ただし、試合に関してはほとんど記憶がない。この年、鹿島から浦和を救うためにやってきた室井市衛と阿部敏之を見て、ありがたいな、と思ったり、小野伸二を見て、J2でやらせて申し訳ないな、と思ったりしていた。
前半阿部が、後半フェルナンド・ピクンがゴールを決めたと記録にあるが、ピンと来ない。危なげなく勝ったということだけ覚えている。

「勝ち点120からのスタート」と
この日のMDPのコラムに僕は「勝ち点120からのスタート」という見出しをつけた。
年間40試合をすべて90分で勝てば勝ち点120。それをどれだけ減らさずにリーグを終えるか、という気持ちで闘う、という意味だ。
まず、それぐらいぶっちぎりで優勝しなければ、前年の11月27日、降格が決まった後も「We are REDS!」のコールでこれからも変わらず応援するぞという決意を表明してくれたファン・サポーターに申し訳ない、という気持ちがあった。

また、どのメディアも「レッズは1年で上がれる」「断トツでJ2優勝」という論調だったから、勝って当たり前という試合が続くのはメンタル的にきついだろうが、それに耐えなければならない、という意味もあった。
それと一つひとつの試合も辛勝などは許されず、力の差を見せつけて勝ち続けていかないと、チーム力がJ2のレベルに下がってしまうのではないか、という懸念もあった。
想像できなかったその後の苦労
根底には、対戦相手へのモチベーションが上がりそうもないシーズンを盛り上げて行くには、試合のハードルが高いように見せるしかない、という意識があったと思う。「1年で復帰するために必死で闘おう」という発想ではなかったわけで、僕の中には驕りがたっぷりあったようだ。
開幕後、その驕りどおりに数試合が進んで行った。その後、前年の残留争いに匹敵する苦しみが待っていることなど想像できなかった。自分でハードルを上げる必要など全くなかった。
それは僕だけではなかったはずだ。
さて、みなさんは2000年3月11日、何をして何を感じていましたか?
※【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。
