#37 ひと息の記録: 人もモノも多面体
捨てることに意欲を燃やしていた時期があった。
使っていないもの、ときめかないもの。
いつか使うかもしれない、の“いつか”が来ないもの。
手放すたびに、暮らしが軽くなっていく気がした。風通しのいい部屋は、心の中まで整理してくれるようだった。
あの頃の私は、「減らすこと」は正しいことだと信じていた。
けれど最近、ふと手が止まる瞬間が増えてきた。
『なんでもかんでも捨てるのは、少し違うのではないか。』
そんな気持ちが、静かに芽を出し始めた。
ちょうどそのとき頭に浮かんだのが、こんな言葉だった。
『捨てて楽になるなら、とっくに親も夫も子供も、自分だって捨ててるよね』
――実際に家族と距離を取らざるを得なかった人がいることも、私は知っている。離れることでしか守れなかった心や人生があることも。
だからこれは正論でも理想論でもない。
あくまで、私の話だ。
腹が立って仕方ない日もある。
面倒事のすべてから逃げて布団に包まっていたいと思う日もある。
ひとりになりたい夜もある。
それでも私は今のところ、「捨てる」という選択ではなく、「付き合い続ける」という不器用な方法を選んでいる。
たぶん、これからも。
人は、優しいときと、冷たいときがある。
頼もしいとき、腹立たしいとき、好きな面と、嫌いな面を同時に持っている。
一方向からの評価では決められない。人は多面体だ。角度によって光り方が変わる。
そして最近、モノもそれに少し似ていると思うようになった。
もう使っていない。なくても困らない。
客観的に見れば「不要品」。
けれどそれが、疲れていた時期の私を支えてくれたクマのぬいぐるみだったり、あの頃を思い出し、もう一度頑張ろうと思わせてくれる絵葉書だったり、母の記憶が染み込んでいる空っぽの漆器の宝石箱だったりすることがある。
機能は終わっていても、意味が残っているモノがある。
以前の私は「今の私に必要かどうか」、その一点でジャッジしていた。
でも今は、少しだけ視点が増えた。
これは心を曇らせる存在なのか。
それとも、ただ静かに佇むだけのものなのか。
これはすでに役目を終えたのか。
それとも、過去の私を支えた証として残っているのか。
手放すことは、今も大切だと思っている。
でも同じくらい、「残す」という選択にも理由があっていいと思うようになった。
捨てる暮らしから、調律する暮らしへ。
減らすことに夢中だった私から、関係性を見直す私へ。
モノも人も、多面体。
だから私は今日も、ひとつひとつを、正解ではなく、関係として選び直している。
