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北杜夫『楡家の人びと 第三部』読書会(2026.7.3)

2026.7.3 に行った北杜夫『楡家の人びと 第三部』読書会の模様です。

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私も感想を書きました。

大日本帝国の富国強兵と楡脳病院の関係


読了してみて、関東大震災や東京大空襲の描写は、小説ということもあって、生々しい印象があった。
トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』と比べてみると、小説の背景となっている歴史的背景が『楡家の人びと』とは異なる。

『ブッデンブローク家の人びと』は高度な自治を伝統とする自由帝国都市リューベックの市民階級の没落である。ブッデンブローク家が売り家となり没落し、ハンノが亡くなって家系が途絶える一方で、ドイツは統一を果たし帝国として最盛期を迎えていく。

それに対して、楡家の没落は大日本帝国の没落とともにあったということである。

ミシェル・フーコーは『狂気の歴史』の第二章『大いなる閉じ込め』の中で、1656年にパリで行われた「大監禁」が社会不適応者を一般施療院に閉じ込め、社会から隔離し、それによって近代市民社会が誕生したことを分析している。
フーコーによれば、楡脳病院のような施設は、大日本帝国が義務教育と徴兵による労働力と兵力の画一化を進めたことの裏面として、社会不適合者の囲い込みと秩序化の役割を果たしている。

富国強兵のためには、生産力と軍事力が必要であり、そのためには国民の規律化が不可欠である。そういう規律化に適合しないものは、精神異常者として、社会から隔離され、施設で管理される。

楡脳病院の人びとの考えがヒューマニズムに基づいていたとしても、病院自体は大日本帝国の目的であった富国強兵という帝国主義の副産物である。

その帝国主義が、戦争によって敗れていく様が、楡家の没落として描かれており、市民階級の没落だけを描いた『ブッデンブローク家の人びと』と違って、楡家は超国家主義と一体化していたのである。

マンはナチスの第三帝国には与せず亡命した。マンが理想とする市民階級は第三帝国と相容れないものであった。
楡家の人びとが非常に好戦的で、戦争での勝利を疑わないメンタリティーであることは、日本の近代市民社会が、いかに帝国主義と足並みを揃えていたかをよく表している。

正確に言えば、日本の市民階級は、帝国の臣民ではあったが、高度な民主政治の担い手たる市民ではなかったのである。徹吉は日本社会ではインテリかもしれないが、戦争が日本に何をもたらすかの民主的な洞察を欠いている。
山形にすっこんで、鍬を振るうしかなかったのである。彼の非政治性は、徹頭徹尾、日本の帝国主義に奉仕せざるを得ない田舎の秀才の政治意識の限界を示している。

楡家の崩壊に大日本帝国の崩壊を重ね、その悲哀を語ってはいるが、トーマス・マンだったらそんな作品を書かないのではないだろうか、という感想だ。

濱口竜介監督の話題作『急に具合が悪くなる』を観に行った。その作品では「バザーリア法」について取り上げられていた。バザーリア法(1978年成立)は、イタリアの精神科医フランコ・バザーリアが主導し、公立精神科病院の新規入院を禁止して閉鎖に追い込んだ歴史的な法律である。イタリアの市民社会は、精神病患者を隔離するのではなく、地域の中で普通に暮らしながら治療や支援するようになったということである。日本ではまだこのような取り組みは私の知る限り行われていない。明治期以来の富国強兵の帝国主義的残滓を払拭できていない。

本作は、敗戦国の悲哀を乗り越える人間像を提示しないで終わってしまっている。しかしながら、果たして他の戦後文学にそんな人間像を提示した作品があるのかどうか、と私は考えざるをえない。

(おわり)

読書会の模様です。


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