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SweetFish

かつて調査に明け暮れていた頃、僕は偶然、とある悲惨な事件に出くわした。何人もの人びとが僕にそのことを語ってくれた。悲しかった。調査報告書に載せるわけにもいかないものだから余計に悲しかった。それで僕は、小説に書こうと思ったのだ(かつて別PNで他サイトに掲載していたものだけど、執筆以外に営業活動をしっかりしなければ誰も読まないようだったのでこちらへ引っ越しました)。


Ⅰ.籃の章

1.初夏の夕暮れ

コットンのカーテンを揺らして、少し温くなった風が頬を撫でる。まだ低い西日が、ゆらゆらと畳の上を泳ぎ渡ってゆく。ごとごとと廊下の向こうでものを動かす音を聞きながら、わたしは丸い座卓の上で英語の宿題を進めた。ゆっくりと、淵の水が回るように、時が流れてゆく。幸せ、ということばが頭をよぎる。わたしは、たぶんまだそれではない。けれども、今このひとときは、ずっと続いて欲しいと思うようなものだった。

父が亡くなって、もう五ヶ月になる。自宅を兼ねたこの建物で、父は質屋と骨董屋の間のような店を経営していた。家の東側は二十畳ほどの土間になっていて、お客さんが質草にしていったありとあらゆるがらくたが詰め込まれたまま残された。その南側は、その中でも多少ましと思えるものがいくつか陳列された店舗の構えになっていて、自然、寝食は建物の西側の二室に限られていた。

がらくたをごそごそと弄って遊んでいるのは、隣家に住む幼馴染みの裕太である。彼に骨董趣味があるというわけではないだろう。彼は、女一人の所帯になってしまったわたしが寂しくないように、いろいろと理由をつけてはこうやって上がり込んで来るのだ。今日は一緒に勉強をしようという触れ込みであったが、結局彼はすぐそれに飽きて、早々ぞうきんを片手に土間へと引っ込んでしまった。

わたしは、裕太が大好きだ。気兼ねを感じさせないその優しさに、ずっと守られてきた。有り難いと思う反面、とても申し訳ないとも思う。最近裕太は、時折普段とは違う鋭い眼光を向けることがある。肉を喰らう、獣の気配だ。わたしは、いつでもそれを受け入れるつもりだ。そのくらいしか、わたしに返せるものはない。でも結局彼は、一度もそうした態度を示すことはなかった。獣の気配が収まらないとき、彼はぞうきんを手にとって土間へと去る。わたしはその度に、歯痒い苛立ちを覚えた。

「なあ、店はもうやらないのか?」
「だってわたし、品物のこととか判らないもの」

廊下の向こうから聞こえて来る穏やかな声音に、少し大きな声を上げて応える。店はあまりうまく行っていたようには思えなかったが、わたしが大学に行くくらいの学費や生活費分は備えがあった。持ち家でもあるし、取り立てて切羽詰まった状況はない。知らないことに手を出すつもりはなかった。

「でもほらこれとかさ、絶対値打ちものだよ」

どすどす、と足音が響いて、タオルを首に掛けた裕太が現れる、両の手には、三十センチほどの魚の置物を抱えていた。

「これ、絶対金だよ」
「まさか。金色ってだけでしょう?」
「重いんだ。すごく重い。七キロもあった」
「どうやって量ったの?」
「そりゃ、秤でだよ」
「こういうやつ?」

わたしが手振りでクレーンのような仕草をすると、彼は鼻の汗を拭きながら頷く。あれ自体骨董品なのではないかと思われるほど旧い秤の使い方を、彼はとっくにマスターしてしまっているようだった。彼こそ、骨董屋に向いているのではないだろうか。

「七キロだと、一億円だぞ?」
「へーいちおくえん」

わたしは英語の宿題に戻りつつ生返事をする。どんなお客さんか知らないが、そんなご大層なものを質に入れるわけがない。もしそんなことがあったとしても、すぐ取り返しに来るだろう。くすんだ黄色っぽい置物よりも、眼と汗をきらきらさせている裕太の方が百倍価値がある。今時珍しいくらいのおばかさんだ。彼は、汗を拭いたり置物を拭いたりしていたが、やがて顔を上げて口を開いた。

「じゃあ、これ持って帰ってもいいか?」
「どうぞ?」

裕太はこんなふうに、週に一度くらいがらくたを持ち帰る。彼は毎晩わたしを自宅での夕食に誘ってくれるのだが、そのことがわたしの心の負担にならないように、気を遣ってくれているのだ。彼の愛好するロボットの玩具の横には、達磨だの羆だのの置物が日に日に増えていっている。今日からはこのいささか大きすぎる魚も、お仲間に入れていただくことになるのだろう。わたしは、ふうふう言いながら重荷を抱える裕太の背中を見ながら、サンダルをつっかけてお呼ばれにつき従った。

2.黒く長い影

小躍りする裕太を傍目に、わたしはひどく不吉な気持ちに襲われていた。魚の置物-おそらく鮎ではないかということであったが-は本当に金無垢で、美術的価値をまったく考慮しなくても一億円を軽く超えるほどの価値があるという。本当に金なのか調べたいと言い出した裕太に、軽い気持ちでつきあっただけだった。本物と言われるなど、思いもよらないことだった。指輪だの時計だのを預かって、五千円だとか一万円だとかを貸していた父の商売におよそ似つかわしくない。土間の隅にぽんとうっちゃって置くのも不可解だったし、何も言い残さなかったのも不思議だった。何かよからぬ素性のものなのではないだろうか。そんな黒々とした気持が脚元からじわじわと上ってきて胃の辺りを締め付ける。

「金より重い物質は自然界には滅多にない」

裕太が「教授」と呼ぶその人物は、四十を過ぎたくらいだろうか。ほっそりとしていたが筋肉質で、豹のような動物を連想させられる。ぴっちりとしたジーンズに黒いタンクトップを着て、その上からボタンもかけずに白いコットンのダンガリーを羽織っていた。伸び放題の髪が痩せた頬にに掛かっていたが、髭はしっかりと剃られている。脚でも悪いのか、大股ながら少し癖のある歩き方だった。

「だから偽物が作りにくいのさ。それが、この物質が珍重されてきた理由でもある」

わたしたちは教授にお礼を言って大学を後にする。重いトランクケースは裕太が引き受けてくれた。裕太も、ひとときの興奮が過ぎて口数が少なくなっている。敷地を出て二十メートルほどの沈黙の後、わたしはようやく口を開くことができた。

「ねえ裕太」
「うん」
「それ、やっぱり返してもらえるかな?」
「ああ、もちろんもちろん。元々これは美穂んちのものだし」
「惜しくなったってことじゃないのよ。全然あげたって構わない。裕太にはいつも助けてもらってるし」
「そんなこと」
「でも、これは何か違う。きっと裕太に迷惑がかかるわ」

自分でも何を言っているのかよくわからなかった。裕太にもよくわからないだろう。けれども、裕太は黙って頷いていた。彼も、後ろからゴロゴロと車輪の音を響かせてついてくる金の鮎に、何やら不吉なものを感じとっているのだ。ここで手を離して逃げても、この禍々しさから逃れることはできないだろう。広い世の中の誰かが、わたしの家にこれがあることをきっと知っている。この影は、この置物にではなく、わたしの家に刻まれた何かなのだ。

地下鉄を降り、いくつもエスカレーターを乗り継いで地上へと出る。裕太は、つとトランクケースから手を離し、消え入りそうになっているわたしの両腕をつかみとる。大きな、温かい手。そう、ぎゅっとしてて。ずっと。ちらりとそんなことを思った。

「探そう!」
「探すって・・・何を?」
「持ち主をさ。親父さんの帳簿とか残ってるんだろう? それで、持ち主に返すんだ」
「そう、そうだね」
「そうだよ!」

持ち主なんて、見つかるわけがない。根拠もなく、わたしはそう思った。裕太の眼もそう言っていた。けれども、わたしたちは何かせずにはいられない気持ちだった。早く、早く楽になりたい。こんな禍々しいものからは今すぐにでも縁を切りたかった。

折角の日曜がもう終わろうとしている。わたしたちは、父が遺した帳簿の類いを全てひっくり返して、魚とか鮎とかの文字を探した。けれども、これといったものは何も見つからず、わたしたちは埃と汗にまみれたまま言葉を失っていた。座卓をたたんだ六畳の真ん中で、二人とも丸太のように転がった。日が陰ってくると、冷たい風が忍び込んできて頬をかすめる。

しばしの沈黙の後、わたしの背後でそれが眼を覚ます。いつものそれとは違うささくれ立ったような感覚に背中がぞくりと寒くなった。鋭い眼光が肩口から背筋を這う。獣の気配。それは、いつも裕太が土間へと退散する合図となるものだった。けれども、裕太は動けない。土間には、【あれ】があるからだ。

「なあ、美穂」

獣がゆっくりと寝返りを打ち、人の言葉を発する。畳の下の奥の方から聞こえて来るそれに、わたしは応えなかった。やがて大きな手がわたしの肩に掛かる。病でも侵されたような、内に籠もった熱気を孕んでいる。わたしはぎゅっと眼を閉じて、いや、と呟くのが精一杯だった。

裕太が再び、ごめん、と告げて裏口を後にする。待って、と声を掛けたかったが、できなかった。これが先週のことだったら、わたしはにっこり笑って両の手を広げ、彼を迎え入れただろう。でも今は無理だ。【あれ】は、廊下の奥から黒々とした気配を放っていて、わたしはそのせいでおかしくなっている。わたしがそんなだから、裕太までおかしくなってしまった。これ以上、この呪わしいものに裕太を汚される訳にはいかなかった。

隣家からは、肉じゃがの匂いがする。わたしは、裕太の傍らでそれをお呼ばれしていた筈だった。悔しくて情けなくて、口唇を噛む。畳の上に、ぽたぽたと雫が落ちる音がする。わたしは、隣家に嗚咽が聞こえぬよう、傍らの座布団を二つに折って突っ伏した。

3.鮎は川を遡って故郷に還る

小ぶりのバスが、川沿いの道を軽快に上ってゆく。抜けるような青空の中ほどには、船尾も見えないような巨大な船が、雲の色を模して浮かんでいる。水面はきらきらと陽光を反射して、わたしはそれに眼を細めた。昨日のみじめな気持ちが嘘のように軽やかな心持ちであった。

もうこのまま寝てしまえ。汗と涙が混ざったものが頬にまとわりついたまま、わたしは捨て鉢にそう思っていた。そこへ、どんどん、と激しく裏口を叩く音が響いてくる。裕太が戻ってきたのだ。正直、今夜はもう顔を合わせたくはなかったが、彼の差し迫った様子から察するに、無視を決め込む訳にはいかないようだった。

「美穂、見つかったぞ!」

飛び込んで来るなり、裕太はわたしの両肩をおさえつけて揺さぶる。獣の気配は消えていた。既に風呂に入ったものと見えて、お陽さまの匂いがする。

「な・・・なにが?」
「持ち主だよ! 【あれ】の!」
「え・・・ええ?」
「こ、これ、これ!」

裕太が押しつけてきたのは、彼のスマートフォンだ。わたしは、促されるままにそれを耳にあてる。

「もしもし」
「その声は、小川さんかな?」

割れた土の鈴のような声。電話の相手は、痩せぎすの教授のようだった。

「先生?」
「ああそうだ。君は、【あれ】の元々の所有者が知りたいのではないか?」
「・・・知りたいです」
「そうだろうな。君たちのような若者には、【あれ】は重すぎる」

昼間と変わらず、冷たく突き放すような声。けれども、教授はわたしたちのことを心配してくれていたのだ。こんな遅くまで、その出自を調べてくれた。冷たい人物の訳がない。さっきの一件ですっかり涙腺の緩くなってしまったわたしは、今日初めて会っただけの相手に不覚にも嗚咽を漏らした。教授は、うん、うん、と子守歌のような調子で意味のない相づちを打ち、わたしが落ち着くのを待ってくれていた。

「それで・・・いいかな?」
「はい、大丈夫です」
「君たちの街に流れている川があるな。X川だ。そこを百キロほど上ると、『渡瀬』という地域がある。バスが出ているから駅から乗るといい。そこに、おそらく元々の所有者がいたのだろう」
「いたのだろう、とは?」
「残念ながらそこから先はわからない。行って誰かに聞いてみるといい。きっと答えがわかるから」

教授が調べたのは、金の鮎にかかわる伝承であった。青森県にはそういう言葉があるが、これは実際に泳いでいる鮎が金色ということで、置物の話ではないという。ただ一つ、鮎の置物にかかわる伝承が、この街と同じ川沿いにあることから、これでほぼ間違いないだろうというのが教授の読みであった。

「どんな伝承なんですか?」
「村の庄屋が川に『ヤナ』をかけた。『ヤナ』はわかるか?」
「ごめんなさい、わからないです」
「魚を捕るための罠だ。十メートル四方くらいの巨大なザルのようなものだ。それを川の中に仕掛けるのだ」

まったく想像がつかないが、はい、と適当に返事をして続きを促す。

「ある日庄屋の夢に竜神が出てきた。産卵のために川を降りるから、邪魔になるヤナを外せという。庄屋はそれにしたがってヤナを解体した。翌朝その場所に行ってみると、金の鮎があったという。それを祀り上げ、村は繁栄した」
「その鮎が【あれ】なんですか?」
「おそらくは」

教授から二・三の具体的なアドバイスを受けた後、ありがとうございました、と告げてスマートフォンを裕太に返す。裕太も教授に対して二言三言告げて、そして電話を切った。互いに見つめ合う。長年のつきあいだ。言葉にしなくてもわかることがある。さっきはごめん。こちらこそ。一通りのアイコンタクトが終わると、裕太が口を開いた。

「なあ、美穂」
「うん?」
「お前くさいぞ。風呂に入ってこいよ」
「え、そんなに?」
「肉じゃが、あるから」

踵を返す裕太の背中に、聞こえないように小さな声で、ばか、と言ってやる。おばかさん。だから、大好きだ。だからわたしは――。

翌日、朝の支度に手間取っているふうを装って、先に行ってて、と裕太に告げる。けれども、登校するつもりはまったくなかった。ライトグリーンのワンピースを頭から被って、薄手のボレロを肘にしてサンダルをつっかける。今日中に返してしまおう。そしてわたしは、腹を減らせて待つ獣のところに帰ればよい。昨日から中身が入れっぱなしになっているトランクケースをごろごろと引き摺って、わたしは学校と反対の方角へ歩き始めた。

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