【不治の病と車椅子とペスタロッチ】①
【不治の病と、車椅子と、ペスタロッチ】
第1部:育児に奮闘する脊髄小脳変性症パパ
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【1】タップダンス
『1』宇都宮市民文化センター
1991年、僕は再婚した。
その2年前、交際していた女性が、僕のタップダンスを観に来てくれた。
宇都宮市民文化センター大ホール。
大舞台だ。
ステージには、タップダンス教室の先生。
両脇に生徒が3人ずつ。
男性は、僕ひとり。
曲は、民謡で三味線の演奏。
タップダンス教室の先生の独創的なアイデアで、三味線とタップダンスのコラボ。
後半で、クルッとターン。
タップしながら。
先生は、もちろん、他の5人は、綺麗にターンできる。
だが僕は、練習段階で綺麗にターンできたことが、一度もなかった。
そして、本番。
弘子さんは、観に来てくれたかな?
綺麗にターンできるかな?
三味線の音が、聞こえてきた。
タンタン!
静かに床を打つ音。
三味線がだんだん激しくなり、
僕たちのタップも激しくなった。
そして、問題のターン。
あり得ない!
僕は転んでしまった!

急いで起き上がる。
倒れていた時間は、1秒にも満たなかったようで、
他の6人がターンを終えて次のステップを踏み始めたところだった。
タンタンタカタカ!
僕もダンスに復帰。
なんとか、踊り終えた。
ふと、オリンピックのフィギュアスケートを思い出した。
小さい頃から、スポーツは全滅だったけど、フィギュアスケートだけは好きだったなぁ。
オリンピック選手だって転ぶじゃないか。
ここ一番、ジャンプして回転で、転ぶじゃないか。
でも、すぐに起き上がって、演技を続ける。
僕のタップダンスも、すぐに起き上がって、演技を続けたじゃないか。
それでいいんだ。
それがいいんだ。
諦めないことが大切なんだ。
弘子さんは、すぐに帰ったらしい。
僕は、後片付けや反省会で、弘子さんを見送る余裕が無かった。
数日後、弘子さんから手紙。
【すぐに起き上がって、ダンスを続けて、カッコ良かったわ】
『2』東京転勤
1990年、僕は東京に転勤した。
社員食堂がある大企業に出向。
社員食堂は、セルフサービス。
好きなものをトレーに載せて行き、最後に清算する。
トレーの上にご飯・味噌汁・おかず①・おかず②、という風に載せていき、最後にお金を払う。
トレーを持って好きな席に座って食べる訳だが、これが問題になってきた。
席に座るまでに、味噌汁がトレーの上にこぼれて半分くらいに減ってしまうのである。
そうならないためには、かなり慎重に歩かなければならなかった。
同僚が、
《随分、慎重に歩くんですね》
と、驚いた。
恐らく健康な人は、骨盤や背骨が、歩行時の
【ゆれ】
を吸収してくれて、上体がグラグラゆれることはないのであろう。
また、仮に上体がゆれたとしても、手首やひじといった可動部分が、やはり
【ゆれ】
を吸収してくれるから、トレーは安定しているに違いない。
自動販売機で、紙コップのコーヒーなどを買うのも問題になってきた。
グラグラ体が揺れるものだから、自席に運ぶまでにこぼれてしまう。
冷たい飲み物なら手を濡らす程度で済むが、熱い飲み物となると大変だ。
手を濡らせばやけどするほどに熱い。
驚いてピクッと動かしてしまって、床にまでこぼすということが何度もあった。
当時既に、体のゆれを吸収しながら安全に歩くということが、
出来なくなっていたのである。
この症状が出始めてしばらくは慎重に運んでいたが、
それが難しくなってくると、自動販売機の前で、半分くらい飲むようになった。
それさえも難しくなると、自動販売機で紙コップのホットコーヒーは一切買わなくなった。
【2】再婚
『1』前抱っこ
そして1991年、僕は再婚した。
再婚だからか、《いいパパ》になろうと張り切っていた。
長男が生まれた。
毎朝、スーツの上から長男を前抱っこ。
保育園に長男を預け、会社は遅刻ギリギリ!
遅刻ギリギリと言えば、去年も転んだっけ。
会社に遅刻しそうで、品川駅の地下通路を走った。
誰かのカバンに足を取られ、顔面から転倒!
前歯が1本折れ、歯医者で繋いでもらった。
『2』お迎え
育児は、楽しかった。
大変だったけど、やりがいがあった。
前抱っこしている時、オムツ替えている時、いつも笑顔で見つめくれた君。
お話ができるようになると、保育園に迎えに行くたびに、
《ふぁーふぁ(パパ)》
保育園から君を引き取り、
手をつないで帰る。
そんなある日、君は突然手を振り払い、道路に飛び出しそうに!
閑静な住宅街とは言え、危ない。
《待て!》
と叫んで追いかけた。
僕の叫びに反応したのか、君はピタリと立ち止まった。
君に追突しそうになり、おもいっきり踏みとどまったら、反動で後ろに転倒!
尻もちではなく、手首から落ちたらしい。
右手首骨折。
血の気が引いて、ワナワナ震えながらも、長男を家に連れて帰った。
妻に託し、すぐに病院へ。
右手にギプスしてもらった。
思ったより、軽症だった。
いやいや、転んだだけで手首骨折は、重症だ!
『3』ドッジボール
ある日、帰宅したら、
《パパおかえり! これ「何まけん」?》
その日は、妻が保育園にお迎え。
長男とジグソーパズルで遊んでいたらしい。
部屋に上がり、ジグソーパズルをのぞきこんだ。
《これ、ひろしまけん。
これ、さいたまけん。
これ、ぐんまけん。
これ、かごしまけん。
これ、とくしまけん。
これ、とやまけん。
これ、わかやまけん。
これ、「何まけん」?》
そ、そうだったのか!
でも、君が手に持っているのは、
、
、
大分県。
パパは転んで、Oh痛けん。
君が保育園最後の年。
朝、君と次男の手を引いて、保育園へ。
《手を引いて》と言うより、
《支えてもらって》という感じだった。
保育園に到着したら、長男のクラスは、ドッジボール。
長男は、早速合流。
次男の手をつないだまま、そばにいた他の親に挨拶。
突然!
園児が投げたボールが飛んできた!
よけることができず、尻もち。
またもや、血の気が引いて、ワナワナ震えながら次男を預けて、病院へ。
診断は、【尾骨骨折】。
しかも、ギプスができない。
治るまでの1ヶ月は地獄だった。
満員電車の中、誰かがお尻に触ると、
飛び上がるほど痛い。
『4』卒園
保育園の運動会。
長男のクラスでも、親の出し物をすることになった。
ダンスをすることになり、途中、父親だけで馬跳びと側転。
僕は、練習段階で全くできなかった。
本番では、ダンスはしたものの、
父親の馬跳びと側転では、母親に交じってしゃがんだ。
退場の時、長男のクラスのそばを通った。
長男は、楽しくない様子。
《僕のパパだけ、なんで側転しなかったんだろ? つまんない》
卒園式で、
【さよなら僕たちの保育園】
を歌った。
🎵 たくさんの毎日を
ここで過ごしてきたね
何度、笑って
何度、転んで
何度、風邪をひいて
父親の僕が、
何度も、転んで
何度も、骨を折って怪我ばかりだったけど。
『5』おたふく風邪
長男が卒園して、次男だけになった。
そんなある日、長男がおたふく風邪に。
続けざまに次男も。
病院に連れて行ったら、
《お父さん、今からでも予防注射しますか?》
と訊かれたが、断った。
大丈夫だろうと、たかをくくっていた。
だが、長男・次男が治るのと入れ違いに、僕はおたふく風邪に。
しかも、ウイルスが睾丸に入ってしまい、副睾丸炎になり、入院することになった。
卵のように膨れ上がった睾丸!
医師の触診は、激痛!
一週間点滴して腫れがひき、退院。
久しぶりに会社に戻ったら、大変なことになった。
会議で議事録の担当になったが、文字が書けない。
そう言えは、それ以前にもおかしなことがあった。
我々SE/プログラマーは、2人で打ち合わせや検討をする時、四角形を描くことが多い。
その四角形の右下が、ピッタリ合わなかったり、隙間があく。

何かおかしい!
そう言えば、大学時代にもおかしかった。
ノートが取れないのだ。
理系の授業は、数学や物理学。
先生は、雪崩のように黒板に数式を書く。
黒板の端から端まで20mもある大講堂。
その黒板に雪崩のように、数式を書く。
ろくな説明も無く、前のほうを消して、新たな数式の雪崩!
大学では、新たに偏微分記号(δ)が出てくる。
ある同級生にノートを見せてもらった。
δy/δxとなるはずのところ、2y/2x になっていた。
めくるページ全て、2y/2x になっていた。
《これ、2じゃないよ。δだよ》
《えっ? そうなの?
どうして約分しないのかとずっと思ってた》
ノートが取れないから、落第する科目が多発。
結局、退学。
大学時代には、蹲踞(そんきょ)の姿勢で転んだこともあった。
【3】原因が判明
『1』呂律
次男が生まれる少し前に、内科で、こんな会話があった。
《呂律が回ってないですね。脳波検査します》
結果は、異常無し。
同じ時期、取引先で、
《呂律が回っていませんね。何かご病気ですか?》
それが、不信感を抱かせたのか、契約不成立。
色々な症状を思い出し、まとめた。
転んで歯を折る・骨折する。
文字や図形が書けない。
呂律が回らない。
インターネットで色々調べて、パーキンソン病ではないかと思ったのが、
2000年だった。
『2』退職
副睾丸炎で入院の後、会社で議事録が取れない。
会議で呂律が回らない。
打ち合わせで、四角形が描けない。
パソコンの入力が遅い。
通勤もツラい。
パーキンソン病かも知れない。
僕は、退職した。
改めて受診した大田病院(東京都大田区)で、CT検査をした。
ひとりで検査を受け、ひとりで病名告知を受けた。
《脊髄小脳変性症です。不治の病です。
これからは、家事をすると良いですよ》
小さい頃から不器用で、運動が苦手。
高校の時、歩き方がおかしいことに気づき、
大学でノートを取れず、蹲踞で転び、
タップダンスで転び、会社でも色々。
悶々と過ごした20年がやっと終わった!
嬉しくて、妻に電話。
《検査の結果、どうだった?》
《脊髄小脳変性症だって》
《治らないの?》
《うん》
電話の向こうで、すすり泣き。
謎が解けて嬉しいのは、僕だけなんだ。
子どもたちは小さい。
住宅ローンもある。
夫は、無職。不治の病。
妻への病名告知は、配慮に欠けていた。
『3』保育園・小学校
長男の小学校、次男の保育園。
階段を登り降りするのが、ツラくなっていた。
学校は、バリアフリーではない。
次男小学1年生の授業参観を最後に、
小学校に行かなくなった。
脊髄小脳変性症と判明したので、しばらくは、リハビリで通院した。
2004年まで通院リハビリ。
患者仲間とのオフ会。
自殺未遂。
2005年から2007年。
障害者雇用で2社働いた。
その時期は、杖で通勤した。
2社目で、こんな会話(メール)があった。
《(総務部宛て)歩くのが、かなりきついです。
車椅子で通勤したいです》
《わかりました。検討します。
(2日後)
車椅子通勤は許可する。
社内では車椅子使用を禁ずる》
えっ?
それじゃ困る!
会社の中で歩けない!
結局、退職。
まだまだ体は動くのに、半寝たきりの生活になった。
それから東日本大震災までの4年間、
あまり記憶が無い。
杖がツラいので、歩行器になった。
リハビリに来てもらう日々。
父が肺がんで亡くなった。
初めての車椅子は、父の葬式。
だが、歩行器生活は、2015年まで続いた。
【4】離婚
『1』介護ベッド
ある日突然、妻が介護ベッドを借りた。
言われるがまま、介護ベッドに寝る生活になった。
でもどうして介護ベッド?
自分で寝起きして、風呂もトイレも自分で。
父の死を機に同居を始めた母が、
食事を作ってくれるから、テーブルで食べる。
長男はバイトがあり、いつも外食。
母・僕・次男3人の夕食。
どうして介護ベッド?
介護を必要としないのに、介護ベッドの生活が2年。
僕は、ケアマネージャーに連絡して、介護ベッドを返却した。
驚くケアマネージャー。
介護ベッドが無くなり、空いたスペースに、電子ピアノ(88鍵)を買い、ピアノの足元に布団を敷いた。
妻も驚いた。
僕は、ミュージシャンだ。
エンターテイナーだ。
障害者じゃない、音楽家だ。
15年ぶりのピアノ教室。
ライブハウスで、ピアノ弾き語り。
ビートルズ研究会。
新しい人生の始まりだ!
『2』自伝出版
2014年、僕は自伝を出版した。
内容は、脊髄小脳変性症ではない。
小さい頃~1992年までの家族トラブルを描いた。
ピアノ教室の発表会に家族を招待して、
オリジナル曲を披露した。
妻曰く、【偽善者の歌】。
2015年からは、毎年、【誕生パーティー&出版記念パーティー】を開催した。
家族は招待せず、友人たちで楽しんだ。
誕生パーティーは、3回。
自伝は、7冊。
ライブハウスでのピアノ弾き語り50回。
こんなに元気なのに、どうして介護ベッドだったの?
『3』家庭内別居
その時期、妻・長男との会話は無くなっていた。
次男が時々、ピアノを習いに僕の部屋にきた。
外食は、妻・長男・次男。
僕と母は誘ってもらえない。
ある日、妻からメール。
《私たちが賃貸に出しているマンション。
半年前から、空いてます》
えっ!
そりゃ大変だ!
当初、僕たちが住んでいたマンション。
今は、賃貸に出している。
家賃収入で住宅ローンを返済していた。
家賃収入は、毎月7万円。
マンションが空いている、ということは、毎月の住宅ローン返済が滞る。
そういうわけにいかないから、毎月7万円ずつ、妻は借金していたのだろう。
妻のメールは、万策尽きたSOSだった。
住宅ローンを組んでいる銀行の担当者が、家に来るようになった。
僕は、障害年金を受給していたが、いつまでも払えない。
そこで、僕は単身で、そのマンションに戻った。
脳梗塞で入院中の母は、住民票だけ変更。
《君たち3人も、どこか家賃の安いマンションに引っ越すといい》
家族と別れて、元のマンションで独り暮らし。
だが、返済は厳しく、自己破産するしかなかった。
実は15年前に自己破産のアイデアがあった。
弁護士からの提案だった。
住宅ローンが厳しく、消費者金融から500万円も借りていた。
僕は、自己破産したかったが、妻は猛反対。
『4』合格したよ!
そして独り暮らし開始。
自己破産を強行。
別れた家族は、妻と長男の収入で充分暮らしていけるだろう。
次男から、大学合格の知らせ。
おめでとう!
僕は小さい頃から、両親からの虐待・担任教師からの不当体罰・イジメなどにさらされた。
一発逆転を狙ったマンション購入も25年の多重債務。
脊髄小脳変性症で失職。
それでも、次男が大学入学。
もう僕自身の人生を歩んでも許されるだろう。
【5】夢叶う
『1』夢叶う
東京都大田区 → 神奈川県茅ヶ崎市 → 神奈川県秦野市と、引っ越し。
2019年に、町内清掃ボランティアを始めた。
小学1年生の時に授業で知った【ペスタロッチ】。
ずっとやりたいと思っていた清掃ボランティアを始めることができた!
車椅子ユーザーがゴミ拾い?!
道行く人は、皆驚く。
2026年の時点で900日も清掃ボランティアをした。
中学1年生の時に過食症になった。
時々、変食があり、続いていた。
しかし、自炊を覚えたら、過食症も克服。
克服するには、障害者手帳を手放すことが必要だった。
2020年、障害者手帳を茅ヶ崎市役所で返納。
離婚成立。
2025年からは、少額ながら、著作権収益が入金されるようになった。
カラオケ配信・TiktokやYouTubeへの楽曲配信が、結果を出し始めた。
ウクライナの難民キャンプに支援金を送ったり、能登半島地震の被災者に支援金を送ったり。
近所の洋菓子店に、開店一周年祝いの花を送ったり。
それだけの行動力を支えてくれたのは、【車椅子】。
通販で購入。
だいぶ傷んできたから、そろそろ買い替えよう!
ありがとう、車椅子!
まだまだ夢に向かって突き進むよ!
よろしくね。
『2』長い?
10年前後で亡くなる患者が多い【脊髄小脳変性症】。
僕は、
・病名がわからず悶々とした20年
・杖6年
・歩行器6年
・車椅子13年、今も元気に独り暮らし
病歴は、45年!
医療福祉と絶縁状態。
障害年金の更新の時だけ、診断書を書いてもらいに神経内科へ。
複視・嚥下障害は、酷いし、
両手でペンを持って文字を書いている。
病状は、まだまだ軽い。
最近、
《違う病気なのでは?》
《長生きの秘訣は?》
と言われる
長生きの秘訣?
うーん、脊髄小脳変性症の薬を飲まず、家事がリハビリ、夢見る毎日。
かな?
『3』もし治ったら
IPS 細胞の研究は、なかなか進まないらしい。
IPS 細胞を立体構造にすることが難しいらしい。
僕が生きている間は、きっと不治の病のままだろう。
研究している人々には申し訳ないが、全く期待していない。
でも、もし治ったら、
タップダンスを再開して、
今度こそ、転ばない演技を披露したい。
第2部に続く
Please return to . . .
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