【ログ⑧】考えるだけでは足りない。動くだけでも足りない。
「なぜ、私たちは存在しているのだろう?」
「なぜ、人は怒りに飲み込まれてしまうのだろう?」
「忙しさに追われ、その先に何があるのだろう?」
「そんなこと考えて何になるの? もっと現実的なこと考えなよ。」
世の中の土台を疑うことは、そんなにおかしいことなのか?
一度、整理してみる。
いつの間にか、私たちの頭の中は、
「今日やるべきTODOリスト」
「次のプレゼンどうするか」
「もっと効率よく成果を出すには?」
そんなことでパンパンになっている。
目の前のことを、どう処理するか。
これって、いわゆる形而下の問いだ。
でも、たまには、こんなふうに思うことはないだろうか。
「そもそも、なんでこの仕事をしているんだっけ?」
「成功って、誰が勝手に決めた価値観なんだろう?」
「人間って、結局、何を求めて生きているんだろう?」
これが、形而上の問い。
どちらが正しい、どちらが間違っている。
そんな話をしたいわけじゃない。
だけど。
形而下だけで生きていると、知らないうちに、どこかの偉い人が作ったルールに、ただ従っているだけになってしまう。
しかも、無自覚に。
小さな頃から、私たちは教育によって、
「疑うこと」を覚えないまま育ってきた。
……でも、そんなことを考えていても、現実は甘くない。
お金は湧いて出てくるものじゃない。
周りと差をつけて、這い上がらなきゃ。
成功したい。優秀でありたい。それが、かっこいい生き方。
そう思って、気づけば実用書を買いあさり、夜中まで勉強している。
ここで、改めて問いたくなる。
何が起こっているのだろうか。
私たちは、どう生きるのがいいのだろうか。
形而上的な問いに向き合うことは、正直、疲れる。
答えはないし、考えれば考えるほど、余計にわからなくなったりもする。
でも、それでも考える意味は、ある。
「社会も、正しさも、常識も、全部作られたものなんじゃないか?」
一見、無駄に見える問いでも、それなしでは、この世界も、自分自身も、まともに理解できない。
社会に押し付けられた「こう生きるべき」を一度疑って、自分だけの立ち位置を見つける。
それができるのは、形而上の思考をした人だけだ。
ただし、問題はここからだ。
問いだけを抱え込んで、現実に何もしなかったら、それはただの空想癖になる。
ずっと頭の中でぐるぐる回って、気づいたら、何も変わらないまま、時間だけが過ぎている。
「わかっているけど、何もできない」
そんな無力感に潰される危うさも、確かにそこにはある。
一方で、考えるよりも、まず動く。
これができる人は、たしかに強い。
周りが迷っているあいだに、一歩踏み出して、現実を変えていける。
行動しながら、試して、修正して、前に進む。
このスピード感は、実践派だけの武器だ。
でも。
動くことばかりに夢中になっていると、だんだん「なぜ動いているのか」を見失っていく。
・みんながやっているから。
・成功するためには必要だから。
・止まったら、置いていかれそうだから。
心理実験では、7割の人が周りに合わせて間違った答えを選ぶ。本質を考えない行動は、こんな落とし穴にハマる。
気づけば、誰かの決めたルールを、疑いもせず走り続けるだけの毎日になっている。
しかも、立ち止まるのが怖くなってくる。
本当は一度くらい、「これって本当に自分が望んでることか?」って問い直したいのに、そんな時間を取るのが、無駄に思えてしまう。
動き続けているから安心する。
でも、その先に何があるかは、誰も知らない。
突き詰めると、考えるだけでも、動くだけでも、どちらも片手落ち。
形而上の問いを持たなければ、いつの間にか、誰かが決めたルールを当然のものとして受け入れてしまう。
無自覚のまま、既存の構造に組み込まれる。
一方で、考え続けるだけでは、現実には何も変わらない。
頭の中で答えを見つけたつもりでも、行動が伴わなければ、何ひとつ具体的な結果は生まれない。
思考と実践は、どちらか一方では成立しない。
問いを持ち、行動する。
この両輪があってはじめて、自分の人生を自分で選び取ることができる。
歴史を振り返っても、それは同じだ。
ただ考えただけでも、ただ動いただけでも、時代は変わらなかった。
世界を動かしたのは、目の前の課題をどうこなすかではなく、世界そのものをどう捉え直すかという、根本的な問いを持った人間だった。
たとえば、ガリレオ・ガリレイ。
「地球が宇宙の中心だ」という常識に疑問を持った。
それは単なる学問上の好奇心ではない。
人間という存在が、どこに位置づけられるべきか……
そんな、形而上的な問題意識だった。
そして彼は、それを望遠鏡で観測し、データを示し、現実に向き合った。
考えただけではない。動いた。
だからこそ、人間の世界観そのものを揺るがした。
ガンディーもそうだ。
「暴力は支配の連鎖を生むのではないか?」
そう考え、単なる政治戦略ではなく、
人間の尊厳とは何か、力とは何か、を問う形で、
「非暴力・不服従」という行動に変えた。
ただ理想を語るだけではなく、それを現実にぶつけた。
スティーブ・ジョブズも同じだ。
「テクノロジーは、人間の感性を拡張するべきなんじゃないか?」
彼はそう考えた。
道具を作るのではなく、人間のあり方を更新すること。
それをMacやiPhoneに落とし込んだ。
彼らに共通しているのは、単に考え、単に動いたことではない。
「存在」や「人間」という土台そのものを問い直し、そこから行動に落とし込んだこと。
それがなければ、
彼らの名前が、私たちの教科書に載ることはなかっただろう。
だから私たちも、彼らに見習って、問いを持ち、動くことを選びたい。
形而上の疑問を持つことで、なぜ生きるのか、何を目指すのか、自分で考える。
形而下の行動を重ねることで、その答えを、現実の中に形にしていく。
どちらかを捨てた時点で、自分の人生を、自分で決める権利を手放すことになる。
問いながら、動く。動きながら、問い続ける。
その地道な繰り返しだけが、流されるでもなく、立ち止まるでもなく、自分の道をつくっていくのだと思う。
