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(梗概)
 市立の美術館に勤める加奈は、事務職の公務員だ。その平凡な暮らしを持て余しながら、かといって新しい生き方へと踏み出す勇気はない。

そんな加奈は、ある日閉館後の美術館で不思議な体験をする。人間とは思えない黒い影の男が闇の中から浮き出るように現れ、加奈にその余命が短いことを宣告したのだ。死 神らしきその男の言葉を後押しするように、加奈は医者から癌の疑いが強いことを告げられる。

加奈は、伝説の砂漠の町、アクラムへと向けて一人で旅立つ。そこで知り合ったアメリカ人のTVクルーたちは、これから「永遠に続く究極の幸せ」を手に入れる秘密を探る取材に行くところだと言う。不思議な偶然から、そのグループと、それから道案内に雇われたアラブの男、サーメルと行動を共にする加奈。なぜ遠く離れた砂漠にたった一人で来たのか、その理由を誰にも告げることのない加奈に、サーメルは突然、言う。「死にませんよ、あなたは、まだ」

広大な砂漠と、イスラムの文化を背景に、繰り広げられる冒険と不可思議な出来事の数々。ユダヤ民族主義と殖民運動を組織するユダヤ人シオニストたちとアラブの流血の紛争。女子割札(女性器切除)の悲しい実態。悪霊と幻想に翻弄された数々の奇怪な出来事。砂漠の古城の中、空中を旋回する魚やクラゲや鯨たち。次々に起こる非現実的な体験の後、加奈は、「土壌を清く保ちて個なる種を蒔け」という謎の言葉の意味を自分なりに探りあて、新しい自分への一歩を踏み出していく。


金の砂漠


慈悲あまねく慈悲深き御名において。

万有の主、アッラーにこそ凡ての称讃あれ。

最後の審判の日の主宰者に。

御恵みを下された人々の道、正しき道へと導きたまへ。神の怒りを受けし者、

また踏み迷える人々の道でなく。(コーラン第一章)

(著者より:このストーリーは以下の曲とともにお楽しみいただけると嬉しいです)」



   1


 砂漠をまっすぐ突き抜ける道路の向こうに、夕日が沈もうとしている。とてつもなく大きく、燃え立つようにどこまでも紅い色の太陽だ。目の前の空を覆うずっしりと紅い巨大な塊が、目に見える速度でぐんぐんと、地平線の向こうに低く吸い込まれていく。

 限られた時間の中で存在する何ものかを見ると、そこには「生命」そのものがあるような気がして人はそこに変化する命の似姿を見る。

 ランジローバー4WDのハンドルを握りながらバックミラーをのぞけば、反射光で頬が赤く染まっているのが、サングラス越しにでもわかる。強い風に髪がなびく。埃をよけるために首に巻いたスカーフが音をたててはためく。風を切る音とボリュームいっぱいのラフマニノフの交響曲は妙に違和感なく溶け込んでいる。

 前にも後ろにも車は見えない。このまま永遠に誰にも出会わず、ただどこまでも走り続けることだけが、死ぬまでに与えられた唯一の課題であるような気にさえなってくる。

 加奈はアクセルをいっぱいに踏んだまま、静かに目を閉じた。体中、オレンジ色の光に包まれている。頬を吹き抜けていく風を感じた。ふーっとこのまま空へ飛んでしまいそうな錯覚にかられる。小さいときブランコに乗っていて、目を閉じたときの感じに似ている。これまでの世界、昨日までの世界から、鋭角的な刃で一瞬の内に切り離されたような感覚。そしてそのまま空へぽんと放り出されたような、そこで時間がそのまま止まってしまったような、そんな気分。

 のどがとても渇いていることに、はじめて気づいた。助手席に置いたバッグの中にあった水のボトルはずいぶん前に空になっている。バックシートには確かに予備の食料と水が入ったボストンバッグがあるはずだが、車を止めて取り出す気になれず、加奈はそのまま走り続けた。

 もうカイロを出てから6時間半になる。その間、ずっと高揚した気持ちのままで車を走らせ続けてきた。もしもここで人に出会ったら、彼女はきっとこの砂漠旅行を楽しむ旅行者に見えるだろう。

なぜ自分がここに来たかという経過を聞かれても、うまく説明できないだろう、と加奈は思う。恐らくは誰もが、冗談めいた作り話しだと思うだろうから。

 砂漠を突っ切る一本道を走り続けてきて、広大な砂漠以外に何もなかった景色に人家の明かりが見え出した。ようやく町らしきものに近づいてきたのだ。

景色の中には、いくつかの大きなモニュメントが見える。

 その土地のリーダーの絶対的な権力の象徴であり、また魔よけとしての意味のある像の数々。

 その中に一つ、黒い大きなジャッカルの像が見えた。それは加奈の働く市立美術館にあったモロッコの彫刻を思わせた。

 つい数日前まで毎日通っていた職場であるのに、今はもうまるで遠い昔のことにようにも思える。加奈が公務員として四年間も働き続けてきたその市立美術館は、市民競技場や動物園、植物園の建て並ぶ市の中心部に位置している。都市計画の一環として整えられた緑の美しい公園の一画にあり、人工の川沿いの、長い並木道を抜けたところに位置していた。

 美術館は市の教育委員会の運営で、一般事務の公務員として入った加奈の仕事は、庶務係で事務を取ることだった。美術学芸員の出張手当を計算したり、日々に必要な文具類、コピー用の紙類を調達したり、催し物に関する案内の手伝いをしたりと、仕事は単調なもので、それは必ずしも加奈が本当にしたいことではなかった。待遇がよいことと、女性も男性と同じように昇給昇進していけることを理由に、今は亡くなった父が勧めなければ考えもしなかった仕事だった。

 ただ、それでは自分は本当に何がしたいのかと考えることもなく、そのまま続けてきたのは彼女自身の責任であることは確かだ。けれど自分が本当に求めていることをして生きていくという希求の気持ちが、そこではいつしかとなくひゅるひゅると風化していくようだ。そんななまぬるい空気がそこにはあった。

 ずっと働き続けてきた理由には、教育委員会といっても一般のお役所仕事ではなく、配属が美術館であったことも、幾分は影響していると思う。加奈は小さい頃から絵を描くことが好きだった。美術の成績はとてもよく、絵を描いて、子供の頃はいろいろな賞をもらった。絵を描きはじめれば、どんないやなことでも一瞬の内に消え失せた。まるで曇りガラスをさっと拭いたときのように、描こうとしているものが、明確な姿を現し、きらめき出す。そして、自分と、その対象となる物以外の一切を排除した結晶化された世界に浸ることができた。

 けれどそれはもう遠い話しだ。いつのまにか、もうそんなことは忘れてしまって、せっかく美術館で働いていることを機会にまた絵を描いてみようとは思うこともなかった。一度忘れてしまうと、それはグラスの水に落とした角砂糖のように、瞬く間に輪郭を失っていった。

 ただ、美術館に展示された絵画や彫刻を見ることは好きで、仕事の合間や終わった後に、よく一人で見て歩いた。同じ作品であっても、改めてもう一度見てみると、以前には気づかなかったこと、色調の移り変わりやディテールの美しさを発見して心が動くことがしばしばあった。その一瞬に感じる針で胸を突かれたような感覚、その痛みが何を意味するのか、その頃は考えてみたことがなかった。美しいもの、感動するものを作り出す側ではなく、傍観者として観賞する側でしかないことへの無力感か苛立ちであると気がつくほどに、加奈は自分と向き合うことに慣れてはいなかった。

 もう一度大学に行きなおして美術を勉強するか、あるいはデザインの専門学校に行ってみたいと思ったことはあった。できればグラフィックデザインかテキスタイルデザインのような仕事をしてみたいと思ったが、それも漠然としていた。そんな希望は父の、「そんな曖昧な考えで成功するはずはない。お前は世間知らずなだけだ」という一言でかき消された。

 加奈の兄は中学、高校と、ジャズにはまりっきりで、トリオを組んでピアノを弾いていた。夜には家にいたためしはなく、大学も中退してクラブで演奏する一方で、フリーターのような暮らしを長年続けていた。昔気質の父はそんな兄をどうしていいのかわからなかったのかもしれない。加奈には必要以上に厳しく教育し、「これからは書いたり読んだりできるだけでなく英語が話せなくてはだめだ」と小さい頃から英会話の教師をつけた。しかしそのくせ、社会で自らの力を試し、キャリアを積んで成功するような生き方ではなく、「安全で確実な」公務員の道を選ばせた。

 加奈もそんな父に反発するわけではなく、その勧めに素直に従った。自分に自信がなかったせいもある。ただ純粋に絵を描いてみたいと思ったが、ファインアートでどのように身をたてられるのか想像もつかず、デザインの仕事といっても、どうしてもこの分野でないといやだという強い気持ちも持てないまま、もやもやとした感情をもてあましていた。

 加奈の母の一番下の妹は、デザインの仕事をしていた。デザインといっても服飾の分野で、市内にある中堅どころのメーカーでチーフデザイナーとして働いていた。

 加奈が不確かな自分の気持ちについて少し話すと、「何たって親方日の丸の公務員が一番よ」と一笑した。

「加奈ちゃんは五時きっかりに仕事が終わるだろうけど、あたし達なんか、五時なんてそこからまたひと仕事よ」
 叔母は離婚をして小さな子供を育てていたので、加奈の公務員の待遇をむしろ羨ましがっているようだった。

「へーっ、有給年次休暇が一年目から二十四日もあるの? いいわねぇ。あたしなんて年に一週間も取れればいい方。ショーの前は土日なしの出勤よ。テキスタイルのデザイナーならそんなこともないかもしれないけど、テキスタイルはどこでも即戦力を問われるから、経験なしではむずかしいわね。経験をつけるには、ただ働きも同然で、それこそ丁稚奉公なみの覚悟が必要ね。グラフィックデザイナーはよく知らないけど、今どきプロダクションでも代理店でも大変よぉ。なんせ不況だから。犬みたいにこきつかわれる覚悟がなきゃあね」

 それから父と同じように「加奈ちゃんは世間知らずだから」とつけ加えた。

 いつの間にか、加奈はあれこれ考えないようになっていた。仕事が終わった後や昼休みに時折、館内の展示室へ足を運ぶだけだ。

 あの日も一日の仕事を終えた後、閉館後の美術館の展示室へ寄ってみた。

 同じ敷地内にある別館で、職員用の通用門から入った加奈は、そのまま階段を使って特別のイベントがある二階の展示室に入った。

 照明はもう消されていたが、高い天井近くの小さな窓からは、たそがれどきの柔らかな陽光が差し込み、薄暗い館内をより立体的に浮き上がらせていた。

 その日は新進の画家達のグループ展の催しで、ポーロックやオルガ・バートセーバ風の奇抜な抽象画が、大展示室の壁にいくつも展示されていた。

 その中のひとつが加奈の目を強く引いた、はじめそれは海かと思えたが、よく見ると砂漠の絵だった。深い蒼色の砂丘がキャンバスの三分の二を覆っている。砂の描く力強いうねりが、藍色の空と溶けあってダイナミックな躍動感を創り上げている。

 不思議な力に吸いつけられるように、加奈はその前に立って、いつまでもその絵を見つめ続けた。

 気がつけば、陽が翳ってあたりは薄暗くなっていた。そのままゆっくりと歩いていくと、聞こえるのは大理石の床に響く自分の靴音だけで、館内はしんと静まりかえっている。公務員は定刻が過ぎるとさっさと帰ってしまうので、ここにはもう誰もいない。

展示室の守衛員もこの時間はどこにいるのかわからない。

 こうして静まりかえった館内を歩くのは慣れたこととはいえ、その日はなぜかあまりよい気持ちがしなかった。

 大展示場から、次の中展示場へ向かう途中、何か黒い影を見たような気がした。けれどそれはモノトーンの彫刻の影だった。

 館内にはもう落日の後の暗さが降りてきている。出口に近い渡り廊下へ向かうため、急ぎ足になりかけた時、横切った中二階の展示場の奥の隅の近くで、ゆっくりと動く影が見えた。立ち止まって、加奈は肩から掛けたバッグをとっさに強く握った。のどのあたりがややこわばるのを感じた。前に走るか、後ろに逃げるか。

 けれども足は動かない。怖いからではなく、むしろ胸を貫くような鋭い好奇心にも似た気持ちであるとわかったのは後からのことで、その時は、ただその黒い人影が闇の中から浮き出て、そしてゆっくりと近づいてくるのを見守り続けた。

 低く響く声で、「待っていたんですよ」その声は言った。あたりはもう暗くなっていて、その男の顔はよくわからなかった。しかしその声は静かに響いたにもかかわらず、加奈に対してまったく選択の余地を与えない何かがあった。立ち止まったまま、加奈は声の方向を凝視続けた。ひんやりとした感触が、背中の中心から首へかけて這い上がってきた。硬直した加奈の前に、黒い影の中から現れ出てきた男は、見上げるほどの長身だ。黒っぽいシャツと裾の長いコートをまとっている。

 黙ったまま加奈はその男の顔を見つめた。誰なのか、と問おうとしたが、何故かためらわれた。

男の目はまっすぐに加奈を見ていた。

薄暗くてもわかる、その異様な目の光に怖気づく自分を励ますように、

「何のために、私を待っていたの」

 やっとのことで言葉を口にした。固くなった喉元から、乾いた声が出たのを、加奈は自分で聞いた。

 男は表情を変えず、加奈から目をはなさないまま、「あなたを迎えに来たのです」そう答えた。

「私を。迎えに」

 ゆっくりと、反芻することで、加奈はその言葉の意味を理解しようと努めた。けれどそれは無駄なことだった。

「この世界に別れを告げるということです」と男は言った。

思考の表層部分で把握できることと深層部分で理解できることが、ゆっくりと分離していく異様な気持ちで、加奈は男の顔を見つめたまま、
「どこへ」
とだけ言った。

 男は無言で加奈の顔を見た。その目は加奈の質問はもうすでに答えのわかっている問いであることを示唆していた。加奈もそれをとっさに感じ取った。苦痛のような表情が一瞬、彼女の顔に影を作った。たちまちのうちに、理不尽な力で、男のその言葉の意味が理解できた。

「私は、まだ、ここで、何も、していないのに」

 途切れ途切れに、やっと言葉を組み立てた。

「たいていの人がそうです。死の準備をすることはやさしいことではありません」

 男は表情を変えることなく言った。まるでこれまで同じ質問に何千回となく答えてきたような事務的で冷淡な声だった。

「待って。あなたは一体誰なの?」

 けれども本能的に、加奈はすでにそれが誰なのか悟っていた。男の目も、加奈がもう知っていることを確認しているように見えた。

 その目を感じて、加奈はたじろいだ。

「待ってください。一体どれくらいの時間が、残っているの?」

「さあ。短いといえば短い、永いといえば永いかもしれません」と男は答えた。

そのとき遠くで声が聞こえた。

「加奈ちゃん」

渡り廊下の奥に立って加奈を呼んでいるのは美術館の守衛の川西さんだった。

「どうしたんだい、一人で。大丈夫かい?」

そう言いながら、川西さんは手に持っていた懐中電灯をこちらへ向けるようにした。

もう一度、加奈は目の前の男を見た。

川西さんには、見えないのだ。

 そう思うと、突然、足元から冷たくこわばった感触が胸元にかけて感電するように走りぬけた。

 逃げようとしたが、足が床からはえた木の根のように動かない。こわい夢を見ている時のように、叫ぼうとしても声が出ない。夢、これは夢だ。そう思おうとして、目を固く閉じた。体中で動かすことができるのは、たったそれだけのようだった。

「加奈ちゃん」

走り寄ってきた川西さんの声が、今度はすぐ近くで、聞こえた。

「川西さん」

 やっとのことで、そう言って、そばに立った川西さんの紺色の守衛服と帽子からはみ出た白髪のまじりの髪を見た。

視線を戻すと、目の前の男は消えていた。

「大丈夫かい?いったい、どうしたの?」

 もう一度、川西さんがたずねた。そして、とても心配そうに、加奈の顔をのぞき込んだ。

「歩いていたら、急に気分が悪くなったんです。もう帰ります」

額をぬぐいながら、やっとのことで答える。

 館内の守衛の責任者というよりはむしろ、面倒見のいい「おっちゃん」と、皆から慕われている川西さんは、「出口まで送っていくよ。それとも守衛室でしばらく横になって行く?」と、真摯に心配した顔だ。

 職員通用門までついて来てくれた川西さんには礼を言ったのかもどうかもわからない。それほど加奈は動揺していた。

 美術館を出ると、地下鉄の駅までのまでの並木通りの道を、脇目もふらずに歩いた。体を前へ進める事だけに意識しないと、自分の体がほどけて消えてしまいそうな気持ちさえした。

 一陣の風が吹いて、銀杏の木の葉裏のそよぎが聞こえた。夢ではない、そう思った。

 意識がいつもよりももっと透明で、鋭角的であるのが自分でもわかる。例えばそれは、地下鉄の駅の構内で、すべての音という音が手に取るようにわかることからも感じられた。子供の泣き声。女子学生のふざけ合う笑い声。構内のアナウンス。誰かが空き缶を屑箱に投げ込む音。それらの音の一つひとつが、鮮明に耳に響いて、今の自分の思考、ここで考えなければならないことという意味である思考と平行して、どこまでも取りとめなく床いっぱいにまかれたビーズ玉のように感じられた。

 地下鉄を降りた後、加奈はまっすぐ自分の住むマンションに向かって歩いた。

 マンションに帰ると、手紙が一通、郵便受けに入っていた。差出名は見覚えのある病院の名前だった。

 自分の部屋に戻り、ペーパーナイフを使って封筒を開けた。取り出した書面の文面を読むと、検査の結果について面談の必要があるので連絡するようにとの内容だった。封筒にはその病院の診察時間帯が印刷されてあり、火曜日の今日は夜間診療のある日だった。

 加奈は携帯電話をバッグから取り出して病院に電話をした。受付の女性に名前と手紙の内容を告げると、少しの間待たされ、やがて、林先生が診療にあたっているが今からすぐ来れるかと聞かれた。

これまでに何度かたずねたことのあるその病院はいつも混んでいて、通常は急病であってもなかなかすぐに診てもらえないことが多かった。
 行きます、と加奈は答えて、電話を切った。

 その病院はバスで停留所二つ分離れたところにあった。バスを降りて、停留所のすぐ前に病院は建っていた。十五階建ての灰色の建物で、加奈はその中に入り、エレベーターで三階へ上がった。エレベーターを降りるとすぐに受付カウンターが見える。脳外科の受付の窓口とその前の待合所になった場所だけに蛍光灯の灯りがともっていたが、その向こうに長く続く廊下に照明は灯っておらず、消毒のにおいとともに陰気な暗さを漂わせていた。

 待合所になった場所には、小学生くらいの子供連れの中年の夫人が一人座っていた。目を伏せてうつむいたままじっとしている。連れの子供が加奈をじっと見つめた。その視線は居心地を悪くさせるものがあったが、加奈は努めて無視して、受付に向かって歩いた。

 受付で名前を言うと、驚いたことにすぐ診察室に通された。診察室は大きく明るく、その向こうの看護婦の部屋からラジオのDJの声が低く聞こえていていた。 

 医者のデスクの前の小さな丸いすにかけるように、看護婦に言われた。看護婦はそこで加奈の脈と血圧をはかり、加奈の名前の入ったフォルダーからカルテを取り出して、そこに書き込むと、それを医者のデスクの上に置いて、部屋を出て行った。

 そこで座って待っていると、しばらくして今度は白衣を着た女医が部屋に入って来て、加奈の目の前に座った。

 加奈は黙ったまま、手に持っていた病院からの手紙を差し出した。医師はその手紙を手にとって読むと、今度は加奈のカルテから何か書類を取り出して読んだり書きこんだりして、ずいぶん長い間時間をかけていた。

やがて顔をあげると、

「頭痛と手足の痺れで来院したのですね。その後、どうですか。痺れはまだありますか?」

 幾分事務的にたずねた。

「左手に少しまだ痺れがあります」

 加奈はそう答えて、女医のシニョンにまとめあげた髪とその知的そうに見える広い額を見た。

 医者はさらに何かをカルテに書き込んだ。

「検査の結果はどうだったのでしょうか」

と、加奈が問い返した。

「これが先週のMRIの画像。ほら、ここに1センチ強の白い影が見えるでしょう?これが気になります。血液検査のマーカーは断定的ではないので、さらに詳しい検査をするか、それとももっと確かなのはバイオプシーです。早いほうがいいですね。中枢神経のリンパ腫だといけないので。これまでの結果では断定できないようですから、すぐ入院して次の検査へ移りましょう。今日はもう事務所は閉まっているから、明日の朝、一番に連絡をして入院の手続きを取ってください」

女医はデスクの上のカレンダーに目をやると、またカルテをめくって何かを書き添えた。一呼吸して、加奈は医師のその端正で冷静な横顔を見た。

「それは癌かもしれないということでしょうか」

 女医は、今度は、加奈の目をまっすぐ見た。「その通りです」そう答えた。

 加奈は視線をゆっくりと膝に落とした。

「そうですか」

 その声はこわばって聞こえたが、特に何の感情も湧いてこなかった。

「まだ何も決まったことではないから」

 これまでとは違った表情で気を取り直すように患者の顔をのぞき込むと、女医は加奈の膝に片手を置いて、「今日はこのまま帰って、ゆっくり休んで、ね。。。」あたたかさのこもるような声でそう言った。


   2


 加奈はバスに乗っていた。帰りのバスの中から、商店街の明るく輝くネオンが見えた。少し小雨が降り始めていて、小走りに駆けていく買い物帰りのカップルが見えた。いったいどうしていいのかわからない動揺している自分とは裏腹に、そんな自分を、はるか頭上のかなたから俯瞰しているもう一人の自分があった。そのもう一人の自分は不思議なほど冷静に感じられた。まるで水が流れていくのを静かな気持ちで眺めているような、そんなもう一人の自分が、加奈を気が狂うことから救っているように思えた。

 
 私は死を恐れているのだろうか。加奈は膝の上の自分の掌を見つめた。

「もしも恐れているとしたら」自分にそう問いかけてみる。

それは「死」だろうか、それとも本当に「生きて」はいないことだろうか。

 死はどの人間にも訪れる。けれども自分はこれまで、人ごとのように考えてきた。これまで人の命のはかなさを知る場面に遭遇したことは何度かあるものの、驚いたり悲しんだりしながら、けれど決してそれを自分のこととして心に留めようとしなかったのだ。

「死に向かう自分」をこれまで考えた事はなかった、と言うことに加奈は気づいた。

 ただ生きることと、「よく生きること」は違う。今の自分にとって、よく生きることはどんな意味を持つのか、それはまだわからない。ただ、「死」に関しては、自分の心に従い、魂が望む方法で旅立たねばならない。「死に方」だけは、決して他人に委ねてはならないのだ。

 そういえば、守衛の川西さんが、同じようなことを話してくれたことがあった。あれは確か美術館の職員の忘年会のような席だったと思う。川西さんは、アルコール依存症の経歴があって、これまでに何度もリハビリセンターのような収容所を行ったり来たりしてきたと、人づてに聞いた。妻も子も、失って一人で暮らしていることも。

 その日も宴会の場で、川西さんは、杯に酒をつぐようなまねはせず、コップ一杯、なみなみとつがれた酒を、まるで水を飲む用に、一息でクイッと飲み干した。まったく酔っている気配は無い。近くに同席していた加奈を見ると、親しげな微笑みを目に浮かべて伽奈に酒をすすめた。

「加奈ちゃん、生きてるかい?」

 酒をつぎながら軽い口調で言う。

「川西さん、酔ってます?」笑って返すと、急に真面目な顔をした。

「300年前、俺はいなかったんだよ。300年後にも死んでしまって、もういない。みんなそうなんだ。俺たちはみんなそうなんだ」

 特に悲観的な風でもなく、訥々と呟くような響き。

「300年前に自分がいなかったからって、悲しむ人間なんかいない。それは死んでたのと同じことだ。300年後に生きてないことを泣いて悲しんでも仕方ない。かって存在しなかったように、もう存在していないということだからね」

「川西さんは、死ぬことが怖くないのですか」

「大きな力で決められているその運命を、自分が選んだ運命としてしまえばいい。でもそれはやるだけのことをやってからだな」

遠い目をしてそう言う。それまでは見たこともないような一面だった。


 バスから降りると、加奈は携帯電話を取り出して、俊雄に電話をした。もう仕事はひけているころだろうと思った。三度ベルがなって、俊雄が出た。

「私」と言うと、電話の向こうで、「おおぅ」とのんびりした声が返ってきた。

 どこかの居酒屋にいるらしく、笑い声や音楽、食器のあたる音が背後に聞こえる。

「私ね、砂漠に行こうと思うの」

しばらく返答がない。

「いっしょに、行く?」

そう言うと、「う~ん」という答えが返ってきた。

 加奈は、俊雄の時折見せる純粋な子供のような顔を思い浮かべた。背の高い男で、大きな体にその童顔は不似合いで、それが魅力でもあった。二人は高校の同級生で、今も友達同士のつきあいが続いている。よく気が合うし、話しも合う。これまで何度も友達以上になるチャンスがあったにもかかわらず、今ひとつ進展しないのは何故だろう、と時々、加奈は思う。二人のことを知る友人たちも、加奈にいろいろなおせっかいなアドバイスをくれるが、加奈にはどうもそれがタイミングのせいであるような気がする。人生のイベントを左右するのはタイミングだ。

 俊雄は子供の頃からサッカーをしていて、大手の旅行代理店に勤める今も、会社のチームに入っている。人好きのする彼は後輩をまとめていくのがうまい。サッカー少年をそのまま大きくしたようだ、と時々加奈は思う。

「砂漠、砂漠、月の砂漠」

少し酔っているのか、反応がにぶい。

「エジプトかスーダンに近い場所にある砂漠の中のオアシスに近い町の名前、アクラムだった?ほら、前に言ってた」

「オアシス?」

「うん、確かリビアに近いエジプトの」

電話の向こうでしばらく考えている様子があった。

それから、「おぉー、アクラム、そうだ、アクラムだ」と思い出したように言った。

「切符を取ってもらえない?できるだけ早く、明日にでも」

「あまりポピュラーな場所じゃないぞ」と、彼は言った。

「手配をしてくれるだけでいいの」

「やってみるけど。でもどうしてまた急に?」

「いっしょに行く?」

もう一度だけ、たずねる。

「俺か、俺、金ないからなー」

 俺、金ないから、というのが俊雄の口癖だった。本当にお金がないから口癖になるのか、口癖だからお金がいつもないのか、と思ったりする。それでも最後には、明日もう一度電話しろと言ってくれた。何とか手配してみるから、そう言って電話を切った。 

家に帰ってから、加奈は神戸の実家の母に電話をした。

「ああ、加奈」母はいつ電話をしても、まるで何年ぶりかでやっと声が聞けた、というような感慨深い声で加奈の名を呼ぶ。

「お母さん、どうしてるの?」

「どうって、相変わらずやけどねぇ」

そして母は、今日は早い夕食を済ませて、これからゆっくり風呂に入るところだと話した。

兄のことをたずねると、

「今日は仕事に行ってるよ。臨時雇いか何か知らんけど、いったいあの子はどうする気やろうねえ」

電話の向こうでため息をつく。

「そうそう、栗かぼちゃのいいのがあったから、炊いてみたんやけど。あんた子供の頃好きやったねぇ。そうそう、お隣の野津さんからもらった、おいしいお茶があったから、昨日そっちへ送っといたよ」

のんびりとした母の声を聞いている内に、涙がこみ上げてきた。

まばたきをすると、熱く頬を濡らしながら、膝へとこぼれていった。

 電話の向こうで古い柱時計の打つ音が聞こえた。それは加奈の子供の頃からあった大きな時計で、小さい頃はその振り子の振れるのを見ることと、時がうねりを描いて過ぎていくことが同一線上にあった。

 幼い頃、ちょうどまだ背丈が母の腰までしかなかった時に、母の腰に後ろから両手を回してしがみついて、「ひっつき虫!」とふざけた記憶がとっさによみがえってきた。そうすると母はいつも笑いながら向き直って、加奈を抱きしめたのだった。

 つとめて普通の声を出すようにしながら、「お母さん、私ね、お母さんのこと、ものすごく大切に思ってる。いつも、ずっと。これからも」と、加奈は言った

 少しの沈黙の後、「何かあったん?」と母はたずねた。

「ううん、しばらく旅行に出ると思う。まだはっきりと日程は決まったわけじゃあないから、また連絡するけど」

 そして加奈は、しばらく休暇を取っていないので旅行に出てみたいと思ったこと、仕事はとても順調にいっていること、マンションの模様替えをしたことなどを話した。  

 電話を切る前に、母は、何があっても加奈のことだから大丈夫だ、余計な心配などしない、と言った。その言葉は心に染み入るようで、心の内側をあたたかくさせた。

 その夜はベッドに横たわって、つとめて眠ろうとした。体はとても疲れていたが、神経が高ぶって眠れなかった。何ども寝返りを打った。何も考えないで、とにかく眠るのだ、と自分に言い聞かせた。

 加奈ちゃん、と呼ぶ声が聞こえて、見ると美術館の川西さんがそばに座っている。加奈ちゃん、行くべきだよ、とその夢の中の川西さんは言っていた。「俺は行けなかったけどな」

 いつしか鳥の声が聞こえて、空が少し明るくなっていた。少しは眠ったのか、あるいは全然眠っていないのか、自分でもよくわからない。それでも加奈は起き上がったそして、ていねいに歯を磨いて顔を洗った。手のひらにあたる水の冷たさが新鮮に感じられた。


  3


 朝早く家を出た。時計を見なかったので何時かわからない。「私は、今から病院へ行くのだろうか」とまるで人事のように、加奈は考えた。そしてそのまま、まっすぐに歩いた。バスの停留所を越してさらに歩き、地下鉄に乗って見慣れた駅で降りた。通勤のため何百回として乗り降りした駅だ。通い慣れた職場である美術館へ向かって歩いていくためのこの並木道をこんな早い朝の時間に歩くのは初めてだった。朝の太陽の長い影が加奈の目の前に見える。空は高い。風は秋特有の空気のにおいで、それは心をとても神聖な気持ちにした。

  道を行くのは加奈一人で、美術館までの間、誰ともすれ違わなかった。美術館に着くと、加奈は職員通用口に回り、セキュリティコードを押して通用門を開けた。中に入ると、扉を閉め、そのまま事務所には行かず、展示場の方へ歩いた。昨日と同じく二階へ上がって、大展示室へ入っていった。高い天井に近い窓から差し込む朝日が、床にまぶしい模様を描いている。館内の照明はまだともっていない。その光が映し出す展示物―古いギリシャの彫刻や中世ヨーロッパの絵画などが、光と影の陰影を持って照らし出される。大きな展示室の全てが、何か幻想的な模様に見えた。

 もう一度、加奈は昨日見た絵画のそばへ歩いていった。朝の光のなかで、その絵はまた違った色調を帯びているように見えた。ただ決定的に異なっているのは、その砂漠の絵のなかに、人物が二人、描かれていることだった。息を呑んだ。もう一度、目を凝らしてみた。確かにそこには昨日なかった人物が描かれている。それは後ろ姿の影で、どちらも、男とも女とも言い難い。二人は手を取り合って、まっすぐに、砂丘の上に立っていて、月光に照らされている。二人の輪郭は寄り添い、重なりあっている。どちらも、まるでもう一人がそばにいてこそ完成されることができるかのように、二人の心はぴったりと寄り添っているかのように見える。

加奈は手を握り締めて、後ろに下がった。距離を変えれば何かが変わるような気がしたが、そこには変化はない。そしてその絵から離れて、反対側の展示物をぐるりと眺めた。そしてまたもとの絵のそばに戻った。間違いはなかった。これは昨日見たものと同じ絵だった。

彼女はその絵のそばに掲げられた、題材を書いた小さなパネルを見た。「ジハード」とそこには書いてあった。画家の名前はこれまで聞いたこともないような名前だった。

「ジハード?」加奈は心の中でつぶやいた。それは聖なる戦いという意味ではなかったか。中世のイスラム教と関係していたような気がする。そして最近ではテロ事件にも関連してニュースの中で時々この言葉を聞く。その絵を食い入るように見つめながら、加奈はいつまでもその前に立っていた。

どれくらいの時間が過ぎただろう、開館のベルが鳴った。その音の大きさに思わず飛び上がるように体が跳ね上がった。階下で閲覧者が何人か入ってくる気配がした。

 頭を振って、加奈は意識を正した。そのまま階下へ降りていった。事務所の自分のデスクに向かって、砂漠の町アクラムについてインターネットで検索しはじめた。これといった情報は見つからなかったが、地理的な位置や風土について多少の情報は見つかった。

 俊雄から電話があったのは午後になってからだ。旅の予約が取れたとい言う。

「宿も手配できた」と彼は言った。

「なんだかえらく気にいったみたいだな。オアシスの町、アクラムかぁ。行って来いよ」

 そして俊雄は飛行機の時間など細々した事をつけ加えた。

 そうと決まれば後はもう早かった。

 数日の間には国際運転免許証を整え、休暇届を出し、地図を買い、そしてすべての手はずを整えた。旅行に必要な準備を、自分でも驚くほどすばやく、淡々とこなした。今から思えばあれだけのすべてのことを短期間でやってのけたのは不思議なこととしかいいようがなかった。

加奈の心を占めていたのはたった一つ。砂漠へ行くこと。

 そして今、4WDのハンドルを握りながら、どこまでも果てることのないような道を走っている自分がいる。走っている間は、不思議と心を忙しくさせる様な入り乱れた考えが入り込んでこない。たとえ何か心に入ってきても、それは風のように、一瞬にしてはるか後方へ飛び去ってしまう。それは不思議なほど解放された気持ちだった。

 レンジローバーのアクセルをいっぱいに踏み込んでみる。両側に見える砂漠はどこまでも続いている。砂の色がやや赤みがかって見えるのは、燃える炎のような色をした太陽のせいだけではない。砂漠の砂そのものの色が赤みの強い褐色の色をしているのだ。ここからずっと離れているが、エジプトの東にある砂漠も砂が赤茶色をしている。そこに近い海が紅海と名づけられたのは、この砂の色のせいだと言われている。

 沈みゆく太陽が、広大な砂漠に大きな波のうねりのような光と影の模様を映し出す。それは時速120kmの速さで走っていく自分の体とは逆に、まったく静止した美しさだった。このまま永遠に続いていくような完璧に静止した時間。

 その静止画に突然光の粒子が舞い込んだように何か動くものが目の端に止まった。

 目を凝らしてみるとそれは斜め前方を駆け抜ける一頭の黒い馬だった。その背に人の影が見える。土地の人間らしく手馴れた様子で馬をあやつり、一体となるように走っている。黒い馬は力強く精悍でどこまでも美しい。今は深いオレンジ色に照らされた砂漠を背景に、その影は切り絵のように見えた。

 炎に包まれた黒い弾丸のように駆け抜けていくその姿を目で追いながら、一瞬、視界のバランスを失ってハンドルを切り直した。軋む音と砂埃を上げて、蛇行した車をもとどおり戻した後、今一度その黒い影を探したが、どこにも見当たらない。

まさか、蜃気楼……….?

 加奈はあたり一面、ぐるりともう一度見直した。けれど見えるのは、ただどこまでも続く砂丘と空ばかりだった。



 日が沈んで薄暗くなってきたころ、地図にあった町、チタムに着いた。ここで一泊して、また明日の朝発つ予定だ。

 ホテルに行く前に、まず十分な飲み水をどこかで確保しなければならない。しばらく走っていると、道よりの小ぶりな建物に何か看板のようなものが出ており、車が数台止まっているのが目についた。どうやらハイウェイに近いことから、長距離トラックのドライバーたちを相手にするレストランのようだった。

ドアを開けて中に入った。

古びた石の壁に木の床。表向きからは想像できないほど広々とした空間だった。

 壁に沿って長いいすが据え付けられており、古く重そうな木のテーブルが並んでいる。テーブルクロスは紅色をベースに鮮やかな緑や青色を散りばめたもので、イスラム教に関連すると思われる入り組んだ模様に織り上げられている。高い天井の天窓から斜めに陽が差し込んで、これらの色に深みと奥行きを与えていた。

 戸口で席に通されるのをしばらく待ったが、誰も出て来ない。中に入って目についたテーブルに席を取った。夕食時であると思われるが、客はまばらだ。奥のほうに店の者らしき男たちが座っていて、何やら顔を寄せ合って話し込んでいる。メニューをもらおうと手を挙げた。三人のうちの一人がこちらを見たように思えたが、気がついているのかいないのか、よくわからない。まだずっと話し込んだままだ。

 どうしたものかと思いながら、もう一度手を上げたとき、隣のテーブルから声が聞こえた。

「ここでは、辛抱強く待つしかないのよ。ははは」

 力のこもったハスキーな声。強い訛りのある英語で声をかけてきた相手はその太い声に似あわず人なつっこい目をした三十代前半の黒い肌の女だった。スレンダーな体とはアンバランスな大きな胸が濃い紫色のタンクトップの胸元から半分溢れるように突出している。なめらかなチョコレート色の肌に、細かくカールした肩までの黒い髪。煙草をくわえた唇は官能的に厚く、とびきり赤い口紅とリップグロスがたっぷりと塗られている。

「まあ今日中に夕食にありつければラッキーだと思わなきゃあね」そういって細い指の先ではさんだ煙草の煙を吐いた。

 加奈はもう一度店の男たちに目を向け、「気長に待つことにします」そう言って少し笑ってみせた。それを見た女の弧を描いた眉が少し動いて、やにわに興味をもったような表情に変わった。

「あなた、どこから来たの?」そういうなり加奈の前に席を移してくる。

日本から来たと聞いた途端、歓声をあげた。

「ジャパン! 日本の男たちってかわいくて大好き。それに体毛がなくてつるつるしてるしね。日本のシバイヌもかわいい」犬と男は同じペットのレベル扱いらしい口ぶりだった。

「私はニューヨークから来たの。日本人もいっぱいいるわ。つきあってたのは、なんて名前だったっけ。ちょっと待って、今思い出すから。そう、タケシ。とってもいい子だった。カンフー映画に出てくるハンサムな主役みたいで」

 ニューヨークから来たという割には、発音に訛りのある英語を話す。生まれたのはどこか他の国なのだろう。

「今のボーイフレンドはチャイニーズだから、日本人の男と似てるけど。でも味はスシとムーシューくらい違うわよね。でもさ」と女は相手のことはおかまいなしといった風にしゃべり続ける。「エジプトの男もいいわよ。ダークな肌で、セクシーで。ちょっと禁欲的なところがまたいいのよ」うっとりしたように言う。

ちょっとついてはいけない話題だと加奈が感じていると、店の扉が開いて男女数人の客が入ってきた。みんな体格がよく、砂漠の太陽に日焼けしたばかりの肌に派手なTシャツを着ている。それぞれにカメラやマイクロフォン、ライティング機器やサウンド器機などを持っている。明け透けな大きな声で話している英語のアクセントから、アメリカのテレビクルーだと想像がついた。

「ちょっとぉ。遅かったじゃない。砂地獄に転がり落ちて帰ってこないのかと思ったわよ」

 そう言って女が声をかけると、「お前さんの蟻地獄に転がり込んじまうよりマシだと思うけど」と濃いサングラスをかけた長髪の男がサングラスをはずしながら、愛嬌のあるウィンクとともに軽口を返す。

「この暑さ自体が地獄だよ。まったく」

 ベースボールキャップをかぶった別の男が汗を拭きながら、うんざりした声で言う。

 女は笑って、「そんなこと言って、いいウィードが手に入ったからって天国気分なんじゃないの」

 麻薬のことを言っているらしい。ベースボールキャップの男はあごを天井に向けて高らかに笑って、すぐそばの椅子にどっかりと腰をおろした。

「私はアビエラよ。彼はチャーリー。その向こうはマーク。それにヴィヴィアン。彼女はレポーター。私たち、テレビの取材でここへ来たの」

 加奈に向き直って女が言った。

 加奈は自分の名を言って、ここからアクラムの町へ行くことを告げた。

「アクラム。これから行くところも同じ方向だけど、あたし達が行くのはもっと内陸より。今夜はここに泊まって明日発つの。この奥はホテルになっているのよ」

 しばらくすると店の男がやって来て、テーブルの上にオリーブやパンをのせた皿を置いた。みんな連れあいなのか、とたずねるしぐさで、アラビア語で問いかける。アビエラが何かアラビア語ですらすらと答えた。店の男はわかったといった風にあいづちをうって、すぐさま、重い木のテーブルを動かして、テレビクルーの全員と加奈がいっしょに座れるようにアレンジした。きっとアビエラは、自分たちは一つのグループだからテーブルをくっつけてほしいと頼んだのだろう。

「アラビア語を話せるの?」加奈がたずねると、アビエラは「あたしはもともとエリトリアの生まれなのよ。どこにあるか知ってる?」と丸い大きな目で面白そうに加奈の顔をのぞきこむ。

ここへ来る前に、中近東とアフリカの地図は調べてある。

「アフリカの東側だったと思う。エチオピアのあたり?」

 そう言うと、感心したという顔で、「大当たり。スーダンの南とエチオピアの東。ここにいる連中は他の国のことなんて全然知らないわよ。エリトリアの大半がムスリム(回教徒)だってこともね」

そう言って、ハイファイブのために手を上げた。

 料理が次々に運ばれてくる。伝統的なクレイの器に入ったピラフのような米料理は今しがたオーブンから出てきたといういでたちで熱く芳ばしい香りを放っている。メジロの香り焼き。オクラとラムのトマト煮込み。ビーツと呼ばれる赤カブのような根菜の料理。ゴマをペースト状に練ったタヒーニ。中近東でポピュラーなタブーリと呼ばれるクレソンのサラダ。

「ここにはメニューなんてないのよ」アビエラが加奈に耳打ちする。「その日あるものを作ってもってくるだけ」

 それにしては上出来の料理だった。シンプルを極めたような料理なのにその味は深い。素材はみんな驚くほど新鮮で、その証拠にズッキーニに残る黄色い花はまだ畑から摘み取られたばかりというきれいな色をしている。この近くで採れたものばかりを料理しているのかもしれない。そしてラム肉の柔らかさ。とろりと甘いソースはザクロのジュースに蜂蜜を混ぜたような、不思議な優しい味がした。

 酒の類はいっさい見当たらない。店には置いていないのだ。イスラムの文化にあって、アルコール類はいっさいご法度だ。

 カイロにあるシェラトンやヒルトン、フォーシーズンズなどの一級ホテルならまだしも、都市から離れた地方では、客がワインやビールを持ち込むだけで怒り出す主人もいるからということで、誰も酒は持ち出さなかった。持込みのバーボンを飲もうとして、店から追い出されたという経過がここへ来るまでの他の町であったらしい。もう日が暮れかけて、近くには夕食を取れるところなどどこにもないのに、ここで追い出されては大変だ。

「あなたもここに泊まれば」とアビエラが加奈に声をかけた。それも悪い考えではないかもしれない。どうせスケジュールなんてないのだ。

 アビエラがクルーの全員に加奈を紹介してくれた。クルーは全員で七人。シンジケートのための特別番組の取材に来ている。取材を受け入れる側の体制が整っていないからと、ここまで漕ぎつけるにはずいぶんの長い月日がかかったらしい。今でもすべて承諾を得たわけではなく、プロドューサーの力とコネクションで何とかここまでやってきたものの、取材が果たして本当にできるかどうかはまだわからないのだという。

「どんなテーマの番組なの?」

 加奈が興味を持ってたずねると、レイと名乗ったカメラマンの男が「幸せに生きるための究極の秘密」だと答えた。

 これまでの軽口のやりとりからして冗談だろうと思ったが、カメラマンの男の顔はいたってまじめだ。「つまりね」とアビエラが笑ってつけ加えた。「アクラムからもっと奥の、リビアとの国境に近い場所に小さな集落があるの。ワヒの集落と呼ばれているんだけどね。そこは砂漠の真っ只中にもかかわらず、いつも食料が豊富で、そこに住む人たちはみんな楽園に住むみたいに暮らしてるって話しなのよ」

「楽園?」

「そう。それは特別な場所なの」

不思議そうな表情の加奈に、

「私たちもはじめはヴォルテックスみたいなものかと思ったのよ」

レポーターのヴィヴィアンがオリーブをつまみながら言う。

「ヴォルテックスって?」

「地球のあちこちにあるんだけど、そこへ行くと元気が出るような場所なのよ。アリゾナ州のセドナなんかもそうだし。要するに地球の磁気パワーというか、ツボみたいなもんなんじゃない? セドナにはスピリチュアルセンターみたいなものがいくつかできてる」

「でもそういうのじゃないのね?」

「全然違うのよ」と、少し興奮した様子で、今度はラム肉を串に刺したシシカバブを振りかざしながら言う。

「これから行くその集落ではね、重い病気になったりする人がないんだって。しかも大きなケガをする人もないっていうのよ。争い事もなくてみんな仲良く暮らしてる、おとぎ話みたいなところだって。みんなが自分の好きなことだけをして、それで暮らしていける。ね、興味湧いてくるでしょう?」

ニューエイジかあるいは何かうさん臭いカルトかという気もする。

カメラマンのレイがそこで口をはさんだ。

「それだけ聞いたらカルトみたいだけど―」

 そしてアラン・ミクリの丸い眼鏡の奥の怜悧そうな目で加奈を見て、「おそらくはイスラム教の信仰とかかわりがあるんじゃないかと思うんだ。どんな宗教でも奇跡は起こるとされているけれど、それは信仰の強さと関係している。きっとこの集落では絶対的な信仰があって、とても強い力をもった宗教的なリーダーがいるのかもしれない。多分ね。それにしても視聴者の興味を引きそうなおもしろい話しがいろいろあるんだ」

 そう言って、なぜその集落がプロドューサーの目に留まったかを物語るストーリーを話し出した。生粋のニューヨーカーらしく、レイの話す英語はとても早くてよくわからなかったが、言っていることはこういうことだと思う。

 何十年かに一回だけ砂漠の向こうに橋が渡る。何でできた橋かは、誰も知らない。とにかく果てしなく遠い砂漠の向こうにある橋を渡ると、思いのまま願いがかなう。そして永遠の幸福を得るのだ、という。

 エイエンノコウフク?
 そんなものがあるわけはない。

 そう思ってから、いやしかし、と加奈は思い直した。あるはずのないもの、起こりうることなどないと思っていることは、すべて、ただそう思ってきたことに過ぎない。最近起こったいくつかの出来事は、加奈の足元にある大地の基盤を揺るがすに十分のことだったから。

 そしてその橋を、その時はまだ年若い頃に見たというベドウィンの老婆がロジディという村に住んでいるという。そこは電話もないような、砂漠に取り残された小さな村だ。ほとんどが年寄りと子供で、若い、労働力のあるもの達は大きな町へ出稼ぎに出てしまっている。

 けれどもそれ以上の情報は何も入手できていない。本来ならプロダクションの企画の段階でしておくべきファクトファインディングがまったくできていないとのことだった。

何だか絶滅寸前のジャワサイを探しに行くようなプロジェクトだ。

 それでもケーブルに押されてサバイバルに大変なシンジケートのテレビ業界では、とにかく当たりそうなアイデアはまずやってみること、という信条がそのプロドューサーにあるらしい。

「日本人がどれだけ宗教に興味があるのかしらないけれど」とレイは続けた。

「イスラムにしてもキリスト教にしても、それからユダヤ教でも信じられているところの審判の日という概念がある」

そこでアビエラが口をはさんだ。

「イスラムの経典であるコーランにはね、最後の審判の日のことが恐ろしいくらいリアルに書かれてあるのよ。その日には死人がみな起きて審判の宣告を受けるの。生きていた頃の行いに応じて、天国へ行くか地獄へ突き降ろされるか、そこで決まるのよ。その地獄がどんなにひどい、恐ろしいものかって、そりゃあもう背骨が震え上がるほどよ」   

 イスラム教徒が信じるところのコーランについて、加奈にはほとんど知識がなかった。キリスト教によるところのバイブルのようなものなのか、とたずねると、アビエラは首を大きく横に振った。

「バイブルはプロフィットであるジーザス・クライストの教えに従って書かれたもの。ジーザスが死んでから三百年もたってから、その語り継がれた教えを集結して書き表したものでしょう? コーランはプロフィットであるモハメッドの口から出た神の言葉を忠実に記録したものなの。それが本当に神の言葉かどうかは、アラビア語が多少でもわかる者なら簡単に信じることができる。なんて言えばいいのか、つまり…….これ以上の簡潔さはありえないくらいの短い言葉で、それ以上は考えられないような深く広いことが的確に書かれている。人間が書いたものとは、絶対思えないわよ。しかもプロフィット・モハメッドは教育のない、文盲だったの」

 話しの内容の割にはアビエラの表情やしぐさはカジュアルで、特に宗教にとっぷりつかっているとも力説しているとも思えない。日常のことのような話す語調は、けれどもそれだけに尚、イスラムの宗教が、その地で育った者の中に強い根を張っている証であるように、加奈には感じられた。

「それにしたって」と言葉をさえぎられていたレイが、話題をもとに戻すように続けた。

「宗教と信仰の強い地域は他にだっていっぱいある。そこが天国に一番近い場所だと言われているからには、きっと他にも何かあるはずなんだ」

 何となく非現実的な感じがしたが、それだけ聞いただけでは本当のことは何もわからない。非現実的なことは現実に起こるのだ。あの日以来、加奈にはこれまでの自分のシナリオにないことでも、あるがまま、受け入れようとする姿勢ができあがっているような気がした。

「同じ中東の取材でも、俺たちはこんなお気楽なテーマだけど」

 これまで静かに座っていたあごまでの長い髪の男が口を開く。さっきアビエラと冗談を言い合っていた男だ。サングラスを取るとエアロスミスのスティーヴン・タイラーにそっくりの顔をしている。

「イスラエルのガザ侵略のレポートに送られたヤツもいるんだ。シリアスなニュース系は大変だぜ。俺たちと違って」

 そう言いながら頭の後ろで蛇のタトゥーの入ったその腕を組んだ。

「CNNに入って偉っそうにしてたレポーターもそうよ。イスラエルにイラク、それにイラン。ボスの一言で飛ばされる。毎日気が気じゃないのよ。みんながみんな、ジャーナリズムに命を張ってるわけじゃないものね」とヴィヴィアン。エリートのブロードキャスキャスティング ジャーナリストたちを毛嫌いしているのがあからさまだ。

「ここだってまんざら安全とは言えないさ」とレイが答える。

「イスラエルのガザ侵略や、もっとその前のPLOの台頭で世界の目がパレスチナへ向けられたのはまだ最近といえば最近だけど、そのずっと前から、アラブの間では反ユダヤ主義は相当高まってきているんだ」

「もちろんよ。ムスリム同士、というかアラブの絆は強いのよ。同じ民族であるパレスチナ人が虐げられているのを見て黙ってはいられないわ。しかももともとは彼らの土地なのよ。ふざんけんじゃねぇってのがアラブの本音よ。私の国のエリトリアではね、人を罵倒するときにお前は汚らしいジュウ(ユダヤ人)だ、って言う表現をするのよ。それがあなた、ニューヨークに来て、広告やメディアで働き出したら、そりゃあもう、大変。ユダヤ人だらけよ。それもトップエグゼクティブのお偉方ばかり」

 アビエラがタバコをもった手を振りかざし、その大きな目をくるくる回すようにしながら言う。それから今度は加奈の方に向き直った。

「アメリカではね、ユダヤ人のほとんどが、政治や、メディア、広告のトップの位置を占めているか、あるいは弁護士か医者なのよ。それだけじゃないわ。スターバックス、マクドナルド、コカ・コーラ、ユダヤ系の大企業がたくさんある。これらがみんな何らかの形でイスラエルに便宜を図っているのよ」

 加奈は驚いてしまった。狭い日本の狭い街にある、小さなマンションと小さな美術館を行き来するだけで、中東の問題など遠い世界の話しだと特に気にとめたこともない。

レイが言う。

「でもユダヤ人がみんなユダヤ民族主義を唱えているわけじゃあない。アビエラが言っているのはつまりシオニストだ」

「シオニスト?」

聞いたことのある言葉だが意味はよく知らない。

「シオニストはユダヤ人の特殊なグループなんだよ。中東に広大なユダヤの帝国を建設することを目的に動いている組織だ。旧約聖書には、エジプトの川、つまりナイル川から、イラクの中ほどを流れるユーフラテス川までをユダヤ人に与えると神が伝えたとあって、それを信じる狂信的なユダヤ人のグループがこのシオニストだと言われている。彼らがあんなにパレスチナにこだわるのは、そこにエルサレムがあるからなんだ」

それから今度は加奈に向き直って話しを続ける。

「エルサレムは彼らにとっての聖地だ。世界中に離散しているユダヤ人にとって、そこは祖国のようなものなんだ。でも同時に、エルサレムはイスラム教徒やキリスト教徒たちの聖地でもある」

 レイは博識で頭の良さそうな男だったが、人にモノを教えることを好む性癖があるらしい。おそらくはそのせいで、仲間からは煙たがられているのだ。東洋から来た何も知らない女の子は、彼にはかっこうの標的らしい。

「けれどもイスラムの人間たちに言わせれば、シオニストは宗教的な目的による集団ではなく、政治的なアジェンダの元にのみ動いているグループだということらしい。

そしてシオニストとイスラム教徒の間の摩擦は広がるばかりだ」

「じゃあシオニストというのは、ユダヤ人のなかでも一部なわけで、アラブの過激派みたいに、全員がそうじゃないってこと?」と加奈はたずねてみた。

「その通り。ユダヤ人のなかにはシオニストの動きに反対する人間もたくさんいる。シオニストはそういうユダヤの仲間でさえも弾圧しようしとしているんだ。イスラエルに住んでいる彼らの市民権を取り上げようとしたりね」

 それから、眼鏡のフレームを長い神経質そうな指の先で押して上げる。

「聞いた話しによると、ユーフラテス川の周辺では、このシオニスト達が相場をはるかに越える価格で次々に土地を入手しているということだ。そしてその裏にはアメリカやヨーロッパの政治家たちの力が動いているらしい。さっきアビエラが言ってたみたいに、諸々の大企業ももちろん力を貸している。ロックフェラーのような財閥だって噛んでいるかもしれない。政治と企業の癒着さ。その証拠にアメリカの送り込んだ暫定占領当局は、外国人でもイラクの土地を購入することができるように定めてしまった」

「でも」と加奈は言った。

「そこの土地の治安はとても悪いのでしょう? どうしてそんな土地を彼らが買っていくの?」

「もちろん治安は最悪だ。だからこそ地元の地主が土地を手放すのさ。つまりシオニストにとっては、治安が悪い方が、土地を買い占めやすいってことなんだ」

 拍車がかかった雄弁さで、レイが続ける。

「アメリカがセプテンバー・イレブンのテロ事件に直接関係のないイラクに戦争をぶっかけたのも、そこら辺と関係があるに違いないと僕は思っている。つまり戦争をしかけてごった返しを作ることそのものが目的なんだ。どさくさとカオスの状態に紛れて土地を手に入れ、ユダヤ民族主義を打ちたてようとしてるんじゃないかって。もちろん石油資源は大きな鍵だけれど、それだってロックフェラーのような財閥にとっては好都合、一石二鳥だ。ブッシュ政権はシオニストのマペット人形みたいなものだから」

そう言いながら両手の長い指を動かして、人形を操るしぐさをした。

 自分の生きている世界とはずいぶんかけ離れている。人事のように思ってきたことが、突然目の前で重みを増したようで、急にバランスを失ったような感覚が体をよぎった。今までは、ただぼおっと生きていてもそれで許されていたが、中東はそれとは性質をまったく異にする世界なのだ。

 店の扉が開いて背の高いアラブの男が一人で入ってきた。店の者たちと親しい知り合いらしく、音をたてて大きな握手をし、肩をたたいて抱き合う男同士のあいさつをする。

 アラビア語で何か親しげにしばらく話した後、こちらに向かってまっすぐ歩いてきた。

「はじめまして。ここでの道案内をするサーメル・エルシャリーフです」

英語であいさつすると、アビエラの顔がぱっと輝いた。

「サーメル!あなたがこんなにグッド・ルッキングだなんて知らなかったわ」

お世辞ではなく本心から惚れ惚れしたような様子で言う。

「それはどうも」

 目で笑って儀礼的にあいさつしたサーメルに、アビエラは席をたってその腕にからみつくようにして隣の席に座らせた。そばに席を取っていたマークがあからさまに嫌な顔をしたが、そんなことはおかまいなしだ。プロジェクトのコーディネーターである自分の名を告げ、クルーのみんなを紹介する。加奈のことは日本から来たツーリストで、自分たちのグループといっしょに行くことになったと告げた。そんな話しは初耳だが、加奈は何も言わないことにした。

サーメルは店の男から紙と鉛筆を借りて、テーブルの上にひろげ、その紙の上に簡単な地図を描いてみせた。

「ここが今私たちのいる地点です。ここから明日は朝早くに出て、ロジディへ向かいます」

 そして行程と簡単な日程を説明した。その間中ずっと、彼は口元に感じのいい微笑を浮かべていた。

 彼の説明がまだ終わらないうちに、ヴィヴィアンが言葉をはさんだ。

「ねえ、あなたは、そのワヒの集落のことをよく知っているの?」

サーメルは静かに向き直って、

「うわさを聞いたことはあります」と答えた。

「でも本当のことは誰も知りません。私の仕事はロジディまで道案内をすることです。何かいい手がかりが見つかることを祈ります」

ていねいで、適切で、スキのない言い方だった。

「本当にそこへ行くと誰でも幸せになれるのかしら」

 それでもまだあきらめきれない様子で、ヴィヴィアンが、半分は独り言のように、つぶやく。

「心の底から願えば、きっと願いはかないますよ」

 サーメルが言った。

  加奈はその静かな、禅僧のような横顔を見た。それは、風もなく波もない、澄みきった湖の水面を思わせた。とても落ち着いた、そばにいる人間を安心させるような横顔だった。

「あたし達は今、ガザの侵略とシオニストの話しをしていたの」とアビエラがサーメルに説明した。

「他の国ではいろんな情報が流れているけれど、そしてそれに加担しているのは、私たちメディアの責任だけれど、中東の国々ではまた違った解釈の仕方があるのでしょうね」

 ヴィヴィアンがレポーターらしい話し方でサーメルにたずねる。

「対立の影にはとても長い歴史があります」

彼の言葉はとても静かに響いた。

「四千年も昔にさかのぼる古代のエジプトの時代からです。モーゼの話しは知っていますね。それからホロコースト、バルフォア宣言、どれも深い意味をもつ出来事です。私たち中東の人間は、そこをイスラエルとは呼びません。今でもパレスチナと呼びます。イスラエルという国の名を認めてはいないのです」

中立的な語調ではあったが、その言葉には重みがあった。

「対立の根はとても深い。そのテンションは、もちろん中東全体に波紋を広げています。パレスチナからの難民もたくさんここに逃げてきている。エジプト政府はこれらの難民を受け入れていますし、シオニストの侵略に対しても神経を逆立てています。だからここにいる間は気をつけてください。銃を持った兵隊たちに会いましたか。とても増えているようです」

クルーたちはお互いに顔を見合わせた。スティーブン・タイラーが肩をすくめる。けれどまた誰かが、他のTVショーの特別番組のことを話し始めて、話題は、たわいのない方向へ流れていった。


  5


夜も更けてきて、クルーの何人かがそれぞれの部屋へ引き上げていった頃、加奈もまぶたが重くなってきた。アビエラがホテルのオーナーに話しをしてくれて、すでに部屋を取ってくれていたので、部屋に行って眠ることにした。

残りのクルーとサーメルにおやすみなさいと告げて、レストランになった一画を出る。廊下を抜けて今夜自分が泊まることになっている部屋の扉を開けた。

中はこぢんまりとした小さな部屋で、しんと澄んだ空気がただよっていた。昼間の熱気はもうどこにもない。

シンプルな椅子とテーブル、それにベッドがあるだけの部屋は、古びているものの、とても清潔だった。テレビも電話も、ラジオもない。時計さえも置いていなかった。白い石の壁にはコーランの一文が書かれた額がかけてある。天井はとても高くて、壁は天井まで続かず上部が開いたようになっている。日中の砂漠の熱気をそれぞれ個々の部屋に閉じ込めることなく各部屋に分散するために設計されたものかもしれなかった。

夜になると砂漠の気候は昼間とうって変わった冷え込みがあると聞いていたが、この建物の中に関して言えばとても快適だった。空調どころか自家発電の電灯もおぼつかないところがあるが、何百年も前に建てられたであろうこの建物は、砂漠の気候にうまく合うように設計されているのだろう。自然の天候と気温の変化に対応することのできる工夫と知恵の前には、人工的な冷暖房が薄っぺらな小手先の小道具にように思える。

部屋の隅の洗面所で手と顔を洗うと服を着替えてベッドに横たわった。ベッドは固く、ひんやりして心地よかった。洗いざらしたシーツは清潔なにおいがして、頬をつけると肌触りも悪くなかった。

うとうとと眠りかけたとき、バタンとドアを閉める大きな音とともに、笑い声が聞こえてきた。隣の部屋に入ってきたアビエラの声だ。続いて、低い男の声も聞こえる。二人は笑いあって何かを話していたようだが、少しの沈黙に続いてすぐにそれは秘密めいた嘆息に変わっていった。

「ああ。。。」という甘い、濡れたような声が聞こえる。「だめ。。。。やめないで」やがて声はだんだん大きくなる。

「そこよ、ああ。。。」

「ここだろう、ほら」

天井と壁の間にある空間から、その声は筒抜けに聞こえてくる。

ベッドのきしむ音とともに、その声が高い、歓喜の声に変わる。

「はっはっ、ああ。。。もうだめ。。」

加奈は仰向けに寝て枕で顔を覆った。静かに眠りたい。

何度か寝返りをうって隣の部屋の情事が終わるのを待ったが、声はいっこうに納まらない。

あきらめて、加奈はベッドの上に座り直した。くすくすと笑うアビエラの声に続いて、男の低い、快感にうめくような声が聞こえてくる。

加奈は体を起こしてベッドから降りた。

眠れそうにない。

窓から外を見てみる。下弦の月が出ていた。弧を描いた月は驚くほど大きい。透明感のある銀色がかった色味で、ほのかに淡い輝きとともに銀の粉を撒いたような光を放っている。まるで背中に薄羽のある妖精たちが、今すぐにでも飛んできて、腰を掛けそうにさえ見えた。糸のような細い月であるにもかかわらず、その光に照らされて外は明るかった。ゆるやかに続く海原のような砂が蒼く光って見える。

きなり色のカーテンを閉じて、加奈はバッグからフリースのジャケットを取り出すと、肩に羽織って、部屋の外へ出た。

オイルランプの灯った長い廊下を抜けて、石灰石のような白い石の階段を、数段降りた。建物の表側にあたる先ほどのレストランのスペースと、そのすぐ裏側にある厨房とは別に、泊り客のための部屋のある棟は別館のようになっている。石の階段を降りていくと、そこは別棟の中央にあたる場所だった。レセプションにあたるカウンターがあり、その奥には、ちょうど山小屋のロッジにあるロビー際のスペースのように、泊り客たちがくつろいで座れるようこしらえられた部屋になっていた。

ぱちぱちと音をたて、石造りの暖炉で薪が燃えている。部屋の中央には低い円形の木のテーブルが置いてある。壁に取り付けられた低い木の長いすがあり、床に敷いた厚手の絨毯の上には色の鮮やかな房のついた、いくつかの絹のクッションが散りばめられていた。

その長いすの足元に背を預けるように、長い足を投げ出したまま床に座っていたのは、先ほどTVクルーの後から店に入ってきたサーメルだった。暖炉に燃える火がその端正な彫りの深い顔をより立体的に映し出している。

階段を降りてきた加奈に目をとめると、その顔が笑顔になった。

「眠れないの?」

長年の友達に声をかけるような気軽なトーンでそう言うと、優雅に顎を動かして、隣の席を指し示した。

「しばらく座っていきませんか。ここは暖かい」

「何だか寝そびれてしまったみたい」

肩から羽織っていたフリースのジャケットに手を通しながら加奈は答えた。

「ここに来てから月を見ましたか? 砂漠の月は違って見える」

そう言いながら加奈のために席をあけるように座り直す。

「日本には月をめでる文化があるという話しを聞いたことがあります。そのことを話してくれたアメリカ人には、その意味がよくわからなかったようだけど。頭では理解できても、なかなか心で実感できないみたいだった。日本人は月を見てモノを考えるらしい、なんて不思議そうに言ってたから」

加奈は少し笑った。

そして「とてもきれいな月。さっき部屋の窓から見たの。あんなに大きな月は今まで見たことがないくらい」そう言いながら、サーメルの隣の、床の絨毯の上に座った。

「ここでは月は大きな意味をもっています。月の満ち欠けをもとにした太陰暦が、イスラムの暦です。多くの行事はこの太陰暦によって決められています」

加奈はそれについて少し考えてみた。潮の満ち引きも主に月の引力によって起こると聞いたことがある。月の動きをもとに時の刻みを知ることは、自然なことであるように思えた。

「何千年も昔の人たちが、同じ月を見ていろんなことを考えたのね」

半ば独り言のように言いながら、自分が日本から遠くはなれたこの砂漠に来て、今ここにこうしていることを思った。実際の距離だけではなく、これまでの自分にかかわるすべてのものから、とても遠いところにいる気がした。

サーメルは、加奈の横顔を静かに見て言った。

「あなたはとてもきれいな英語を話しますね」

「あなたこそ。外国で暮らしていたの?」

 加奈が膝をかかえながら両肩を抱くように座り直すのを見ると、寒がっていると思ったのか、彼は立ち上がって暖炉の前に行き、そばに積み上げてあった薪を取り上げて火の中に入れた。新たな薪はたちまち火を吸い上げ、勢いよく音をたてて燃え上がった。

「生まれて育ったのはカイロですが、十三歳から後はロンドンとアムステルダムで過ごしました。母は英国人です」

 道理で、と加奈は思った。

 彼の話す英語だけではない。その肌の色と濃い眉はエジプトの男のものだが、まっすぐ通った鼻筋、鋭い刃物で切り取ったようなあごのラインには異国の血がうかがえる。そして目の色は、深いへーゼルだ。それは加奈が子供の頃よく遊んだ城跡のお堀の水の、澄んだ深い底を思わせた。石の手すりに手をついて、覗き込めばどこまでも深く吸い寄せられるようなそんな水底の色だ。

「母はもう亡くなりましたが、とても料理の上手な人でした。それだけではなくプロフェッショナル・テイスターとして独立して仕事をしていました」

「プロフェッショナル・テイスター?」

「クライアントは食品会社です。いろいろな企業が毎日のように新製品を出すにあってのR&Dの段階で、実に細かなリサーチを行います」

加奈は黙ってうなずいた。

「その多くはフォーカスグループのように一般消費者を使った味見のテストだけれど、人間の味覚というのはあまりあてにならないもので、いろいろな状況に左右される。その直前に食べたものや、部屋の温度や湿度、その日の体調、実にいろいろな要素にね」と彼は言った。

「プロフェッショナル・テイスターは、訓練された感覚と、それから、何らかの才能をもっている。甘みや酸味、塩味、苦味、後味、触感や香りなど、百項目近くあるカテゴリーの一つひとつについて、的確にその等級を数値に置き換えて表すことができるんです」そう言いながら加奈を見た。

「絶対音感と同じように、絶対舌感のようなものがあるのです」

 絶対音感とは、聞いた音の音名を、他の音と比べなくても瞬時に言える能力であると、ピアノを弾いていた兄が言っていた。他の音との比較ではなく絶対的な音の高さがわかる才能、あるいは訓練の結果としての能力。

それと同じように、自分の心が本当に何を求めているのか知ることのできる、絶対的な能力があればいいのに、と加奈は思った。

まるでその考えが透けて見えるかのように、サーメルは、

「誰にでも、抜き出た能力は必ずあります。大切なのは自分の天命を知ることです。それがわかれば、おのずと道は拓けていきます。宇宙の法則によって」と言った。

彼の声は淡々としていて、何かを印象づけようとか、知っていることをひけらかそうというような響きが微塵もなかった。まるで普通のことを、ごく普通に語っているだけ、という風に見える。

「宇宙の法則によって」と加奈は繰り返した。

「そう」と彼はうなずいた。

「けれど現実には、自分が何をして生きていけばいいのか、そんなこともわからない人がいっぱいいるわ」

膝をかかえたまま、言う。

「現実は ―」と彼は淡く微笑した。

「現実とはパーセプションです。あなたの心がフォーカスしたもの、それがあなたにとってのリアリティーを形成するだけです」

そう言ってから、

「退屈じゃない? こんな話しは」と付け加えた。

「全然」

 素直にそう答える。

こんな話題を誰かと交わしたことはない。仲のいい友達や、俊雄とも、その日にあったことを話すか、あるいは音楽や映画の話題くらいだ。遠く離れたこの地で、日常からは遠く離れたことについて話していることが、なぜか今の心にもっとも近いことに思える。

「例えばこの部屋の」と、そう言ってサーメルは部屋の中を見渡すように示した。

「中を一通り見渡してみて。そしてここにあるすべての茶色のものを見て覚えてください」

 言われたとおり、加奈は部屋の中にある茶色い色をしたものを一つひとつ確認していった。暖炉のそばに積み上げられている丸木の束。古い木彫りの椅子。部屋の隅にある飾りだな。その上に置かれた古風な油壺。テーブルの中央に置かれている土器でできた灰皿。

「では目をつぶってください」

言われるままに目を閉じて、「用意はいいですか」という問いに黙ったままうなずいた。

「それでは」

サーメルはそう言ってから、少し間を置いた。

「この部屋にある青いものを言ってみて」

「青いもの?」

目を閉じたまま、加奈は、笑ってしまった。

「クッションにあった刺繍の模様が青だったような気がする。それと後は………」

 よく覚えてない。しばらく考えてみたが何も浮かんでこない。

「目を開けてみて」

そう言われて目を開くと、サーメルの透き通るような栗色の瞳が加奈の顔をまっすぐにのぞき込んでいた。

部屋の中を見渡す。

壁に掛けてある絵皿が蒼い茨の模様だ。それにテーブルクロスの端の房。紅茶のカップと受け皿のふち飾り。気がつかなかった。

「ほんとね。見ていても、見ていなかったのと同じ」

笑ってそういうと、サーメルも笑顔を返した。

「脳はコンピューターのようなものです。あなたが指令を与えたものだけを見ようとします。その指令は意識の中にあるものだけではありません」

「意識の外にあるもの……?」

「意識の下といった方が正確かもしれない。」

それについて加奈は考えてみた。

「もしもまだ眠くなければ………」腕時計をちらりと眺めながら、サーメルが言った。

「外へ出ませんか。ここからは少し離れているけれど、面白いものが見られるかもしれない」

 車は地中海の方向、チタムの町からは北側へ向かっていた。こうしてサーメルの隣で車に揺られていることを、加奈は不思議に思った。たった今会ったばかりの男について、まったく知らない場所に行こうとしている自分が信じられなかった。慎重で臆病な性格の自分には考えられないことだ。ヤケになって、どうでもいいと思っているわけではない。サーメルの中にある、何か不思議な力に心惹かれるものがあったからだと思う。

  加奈はハンドルを握るサーメルの横顔をそっと見た。浅黒い肌に濃い直線的な眉。鋭角的な顎のラインはそれだけで強靭な意志をもっているように見える。確かにアビエラの言うとおり、人を魅了する容姿だ。けれどそれだけではない。野性の動物のような本質を、自ら制御して柔らかな布に押し包んでいるような印象がある。静謐な雰囲気は、彼の心が中心から統一された証であるようにも思われた。

 加奈の視線に気づいて、彼も加奈を見た。そして目で、小さく微笑んだ。とてもいい笑い方だった。

「今日はいつになく砂漠が静かだ。風の動きもない。こんな日はめずらしい。砂漠の天候はよく変わるけれど」

 サーメルは砂漠のことを指して、二度目のセンテンスでsheという代名詞を使った。

「砂漠の代名詞が女性形だとは知らなかった」

加奈が言うと、

「船、海、マザーネーチャー。すべて予想がつかないものは女性名詞だ」と、さらりと言った。

 しばらくして小さな町に着いた。夜中だというのに、道を歩いている人が何人もいる。山羊を連れている男が目の前を通り過ぎる。ロバに引かせた車と共に、老人がゆっくりと歩いている。黒いベールで顔を覆った女は頭の上に何かが入ったかごを乗せ、手馴れた様子で頭の上のかごを片手で支えながら歩いていく。小さな店の軒には、羊肉が吊り下げられ、店先に並べられたいくつかの籐で編んだようなかごには、色とりどりのスパイスが盛り上げられている。

「ここは昔、隊商と交易で栄えた町です。昔ながらの生活習慣が今も受け継がれている。町が活気付くのは日中の焼けるような陽が沈んでからです。特に今はラマダンの月だから、神の教えに従って、イスラム教徒は日没まで断食をする。そして断食があけてからの夜は長い」

 二人は通りを少しはずれた、大きな建物の前まで歩いた。黒の玄武岩でできたような建物だった。相当古いものでところどころ崩れかけもいる。古城の遺跡か、あるいは廃墟のようにも見えるが、その高い窓からは中から灯りが漏れていた。

 重厚な木の扉を押して中に入ると、中は思ったよりも広い。地方都市にあるような小劇場くらいの広さだ。中央には丸い舞台のような高台が設けられている。その周りには四本の大きな柱が高く伸び、舞台の部分を覆う天井へと続いて、相撲の土俵にも似た、ガゼボの形を作っている。

 舞台の周りは、もうすでにたくさんの見物人で埋め尽くされている。土の床に敷いた敷物の上に座っているのは、ほとんどが男だ。皆一様に濃い口髭と顎鬚をたくわえ、頭に布を巻いている。その周りには立ったままの男達も多くて、映画、「アラビアのロレンス」に出てくるようなベドウィンの衣装そのままの者もいる。

 高い天井の中央部は開いたままの天窓のようになっていて、そこから月光が斜めに差し込み、暗い室内にスポットライトのような明るい光筋を作っている。

 暗い部屋の隅から、空を切るように、突然伸びやかな太鼓の音が聞こえてきた。肩から斜めにかけた小さな太鼓を指先だけで叩くように打ち鳴らして、若いミュージシャンは鋭いリズムを作り上げている。そして他の楽器が、それに合わせて音楽を奏ではじめた。

数人の青年が舞台に現れたかと思うと、音楽にあわせてそれぞれが体の軸を中心にくるくるとバレエダンサーのように回りはじめた。煌びやかなスカートのような衣装をひるがえし、それぞれのダンサーは一心に回り続ける。

 相当な早さだ。しかもその速度はさらに速まっていくように見える。

 古い石造りの建物いっぱいに響き渡る音楽。打楽器の音が胸を打つ。

「これはタンヌーラと呼ばれる旋回舞踏です」

 サーメルが低く静かな声で教えた。

「とても宗教的な踊りです。回りながら踊ることによって神と一体となるのです」

加奈はサーメルの静かな声を聞きながら、踊る青年たちの精悍でしかもおだやかな顔を見つめた。信じられないほどの早い動きとは対照に、彼らの顔はとても安らかに見えた。まるで魂が昇華していくのを待っているようだ。

 回旋する速度がますます速くなると、スカートのような衣装が大きく輪のように広がっていく。その鮮やかな色調。背骨を揺るがす音楽。美しく回転する駒のように一点の軸のずれもなく回り続ける舞踏家たち。高くそびえる壁に続く高い天井と、そこから差し込む月の銀光。そして四角く囲まれた天窓から見える、満天の星。

 そのめくりめく光と影は、加奈の身体を揺さぶり、息苦しくさせた。

 無心に踊る若者たちの影が石の壁に投影され、くるくると回る回り燈籠のような幻想的な影を映し出している。


「死にませんよ、あなたは、まだ」

 
ふいにサーメルが言った。

 加奈は彼の顔を見た。何も言うことができない。体がこわばって、心臓のあたりが硬くなった。

 サーメルは仏像のような静かな笑みを浮かべて、加奈を見つめ返した。

そして加奈へ向けてまっすぐに手を差し伸ばした。

「行きましょう」

魔法にかかったように、加奈はその大きな手を取った。胸の中で音をたてて、何かがはじけた。


あの、絵 。


 心臓を突き刺されたような感覚で、軽いめまいを覚えて、加奈は反射的にその手を引いた。

サーメルが加奈を連れて行ったのは、町のはずれにある古びた教会のような建物だった。

建物の正面で車を止め、「ここはこのあたりで最も古いモスクです」と彼は言いながら、助手席のドアを開けた。

車の外に出てみた。そのイスラム寺院の白い扉と壁は、幾何学模様を描いたタイルで埋めつくされている。タイルはコバルトブルーのものやターコイズブルー、さらに深い藍色のものがモザイク状になっていて、微妙な色彩の違いが、そこに絵画的な奥行と力強いリズムを与えていた。アーチ状になった部分には、双頭の鷲の絵が描かれている。

「この幾何学模様は、どこまでもパターンを繰り返すことなく続いています」と、サーメルが説明した。

「驚くべきことです。西洋では1970年代頃までこのようなコンセプトは存在しませんでした。そのために中世のイスラム文化は、数学的に非常に発達していたものと考えられています」

加奈は、五角形やひし形のそれぞれ形の違うタイルを指でなぞってみた。それらは伸びやかで、流れるような自由さを見せている。そしてこれらのタイルと平行して、金色の文字でコーランの経典を掘りこんだタイルが並んでいた。

寺院の中から人の声とどよめきが聞こえてくる。中をのぞくと、一人の老人が、たくさんの男たちに囲まれるようにして部屋の中央に座していた。

彼は手を振りかざして、何かを説いている。けれどもそこは、とてもリラックスした、友好的な雰囲気に満ちていた。彼が短く何かを言うと、皆がどっと笑った。

加奈がサーメルを見ると、彼も笑顔でそれに答える。

「彼がここのシークです」

「シーク?」

「イスラム教徒でいうところの牧師です。彼は今、コーランの中の逸話を説明しているところです。彼の話しぶりはとてもわかりやすくて、遠いところからわざわざその法話を聞きに来る人がたくさんいます」

加奈はもう一度、その老人を見た。その活き活きとした小さな目が動くたび、目の際のしわもつられて動く。人好きのする顔だ。加奈にはアラビア語はわからなかったが、その老人の身振りや手振り、話し方には、彼の人柄や人間としての優しさがにじみでているように感じられた。

「どんなお話しなの?」

「神は、泥から人間を創り上げた。そして同じく神の創造物であるジーンの者たちに向かって、新しい創造物である人間に跪拝するように命じた」と、サーメルは通訳した。

「ジーンの者たちというのは、同様に神の創り上げた者たちで、火から創られたと、記されています」

彼は続けた。

「ジーンの者たちの内、天使たちは皆、神の言葉に従った。けれどイブリースだけは、その言葉に服従することを拒んだ。イブリースは言った。『我々は火から創られた者だ。泥から創られた人間どもにひざまずくことなんてできない』」

「イブリース?」

「西洋でいうところのシャイターン、悪魔のことです」と彼は答えた。

「そこで神は言った。『もしも私の言うことに従えないなら、お前を地獄へ追放する』」

 加奈は目を見開いた。まるでギリシャ神話を聞いているようだ。サーメルは幼い娘に絵本を読んで聞かせる父親のまなざしで加奈を見つめた。

「ひるむことなく、イブリースは答えた。『もし復活の日まで、わたしに猶予をいただけるなら、あなたの創られた人間とその子孫を迷わせて、私の配下にしてみせましょう』    

 そこで神はこう言った。 『去れ。もし彼らの中で、お前にまどわされ従う者があれば、地獄こそがお前たちのふさわしい場所だ』」

そして、いたずら小僧のような顔をして笑ったかと思うと、息を呑んで次の言葉を待っている真剣な顔の加奈の頬に、その親指の指先でちょっと触れた。

加奈の目と、サーメルの目が合った。数秒の間、二人は無言で見つめあった。その時、後ろから彼の名を呼ぶ声が聞こえた。振り向いて、彼は手を上げた。

こちらに向かって歩いてきたシークの老人と、彼はしっかりと握手をした。老人はサーメルの肩をたたいて、満面の笑顔で親しげに話しかけている。そして加奈を見て微笑んだ。加奈も会釈するようにして老人を見た。

「加奈、シーク・シャーラウィ。シーク・シャーラウィ。日本からここに来ている加奈です」

 サーメルが二人を互いに紹介する。加奈が握手のために右手を差し出すと、シークは満面の微笑を浮かべ、両手で彼女の手を包むように握り返した。

「ようこそ」と彼は今度は英語で言った。

「私たちは、ロンドンで知り合いました。彼はそこでは、腕の切れる外科医だったのです」とサーメルが言った。

「同じ病院にいたんですよ」とシークがサーメルの方を見て流暢な英語で答える。

「あなたも医者だったの?」ちょっと驚いて加奈はサーメルに向き直った。

「麻酔医でした。でも、シーク・シャーラウィは、医者を辞めて、いきなりイスラムの教えの道に入ってしまった。そして思うところがあって、ここに戻ってきたというわけですね?」

老人はにこやかに笑って、二人を促すように、モスクの隅の方にある自分のオフィスへと案内した。オフィスといっても、それは三人が入ればもう他に余分なスペースがないほど、小さく、質素なものだった。法話を聞きに来ていた人々が、代わる代わる別れのあいさつにやって来ては、シークの肩にキスをして、後ろ下がりに部屋を辞して行った。それは最高の敬意を示すためのものらしかった。シークはそんな一人一人に、ていねいに笑顔で応えた。

人々が去ってしまってから、「久しぶりだな。どうしていた?」と、シークが気さくな調子でサーメルに話しかけた。二人がひとしきり昔話しや知人の話しをし終えたころ、まだ若い書生のような男が三人分の紅茶を運んできた。香りの高いミントの葉が浮かべてあった。

 そこで加奈は、「どのような経過があって、医学の道から転身されたのですか」と、興味をもってたずねた。

 シークは親しげな微笑を口元に浮かべて、「医者を長くしていて、人の命にかかわるいろいろな奇跡を目の当たりにすると、神の存在に改めて気がつくものですよ」と答えた。

「けれど進路をそんな風に転換するのは、とても勇気のいることでしょう?」

 純粋な興味をもって加奈は言った。自分の天命を知るのは大切なことだ、と、サーメルが言った時から、心が自然とその答えを捜し求めて動き続けているような気がした。

「決断に時間は必要なかった」

そう言いながら、老人は紅茶に砂糖を入れた。そして匙でカップの中をゆっくりと、優雅な手つきでかき回した。

「直感的な結果としての一瞬の決断が、論理的な思考や熟考の末に導き出した答えよりも正しいということはよくあるものです」と、老人は言った。

その言葉の意味について加奈は考えてみた。そして、自分がこの果てしない砂漠の地へ来たことを思った。あの美術館での不可解で気味の悪い出来事、そして病院での体験に続く行動と、ここへ来きたことには全くつながりはない。それはあまりに突拍子で向こう見ずなことだと思っていたが、そこには自分の意識では気がつかない何かがあったのではないか。それは意識のずっと奥底で長い間蓄積したまま放置され、沈殿して、忘れ去られていたもの。それが突然、生気を持ち、浮上しはじめたということではないだろうか。

「さっきここに来た信者の一人が、君のことを指して『イタリア人か』と尋ねていた。東洋人はここではとてもめずらしいから、生まれてこのかた会ったことがないんだ。私が『彼女は日本人だよ』と教えたら、彼はまじめな顔をしてこう言った。『なるほど、イタリアにも日本人はいる』って」

そして加奈の緊張を解きほぐそうとするように大きな声で笑った。

加奈たちも笑った。

ひとしきりしてから、「先ほどのイブリースの逸話はとても面白いと思いました。コーランにもそんな神話のようなことが書かれているのですね」と加奈は言った。

「しかも作り話しではないですよ」とシークはにこやかな表情のままだ。

「彼らは人間の心が弱っているときを狙って、近づいてくる。そして耳元でそっと囁くんだ。人をおとしいれるようなことを。そして正しい道を行くことから人をふるい落とす。それはコーランにも書かれている」

確かに、と加奈は思った。人には「魔が差す」瞬間がある。

加奈はカップを手にとって、紅茶をひと口、飲んだ。紅茶の甘さを、ミントの香りがひきたてていた。

しばらく取りとめない話しをした後、二人は礼を言ってモスクを後にした。

地平線にかかる空の暗い色にうっすらとオレンジ色の光が混ざりはじめた。後しばらくで夜が明ける。

二人を乗せた車は、もと来た道を走っていた。助手席に座ったまま、加奈は右側の窓から外を眺めていた。

さきほどのタンヌーラの旋回舞踊の舞台のそばでサーメルが言った言葉の意味について、たずねようと何度か試みたが、言葉を組み立てることができない。開けてはならないパンドラの箱の蓋をいったん開けてしまうと、そこからとてつもなく恐ろしいものが次々とあふれ出てくるよう気がして、怖かった。まるでまだ自分が長い夢を見ているようで、体や舌が自由に動かない、そんなもどかしさもあった。

その代わりに、加奈は言った。

「あなたも神様の存在を信じている?」

彼はうなずいた。

「この宇宙にあるすべての自然は、驚くくらい精巧にできています」と静かに言った。

「それが偶然にできたとは思えない。オックスフォードの辞書にある言葉がすべて、偶然から出来上がって、そこに並んだとは考えられない」

まっすぐに前方を見たまま言う。

「人間の体は原子でできている。原子は、原子核と電子からできている。そこにあるのはエネルギーです。そしてこの宇宙にあるものもすべて原子でできている。この宇宙は、美しい秩序に満ちている。そうでしょう? 原子軌道も、銀河も、DNAも」

そう言って、加奈を見た。

「さっき、シーク・シャーラウィが話してらしたことだけど」と加奈は言った。

「直感で下したような決断が、論理を立てて導き出した結論よりも、結果的には正しいことがあるということ」

それから後、何と言葉を続けたものかわからずに言葉を切った。

サーメルはハンドルを持ったまま、横顔で微笑んだ。

「彼が言っているのは、おそらくは、こういうことだと思う。自分の中に貯めこんだ思惑が、意識の上では処理できていなくても、心の皮相部分からもっと奥にある潜在意識の領域では、一定の秩序がたてられているということ。そしてそれは時が来ると自然に浮かび上がってくるということ」

それは、加奈が感じたことそのままだった。

サーメルは続けた。

「カフカの言葉です。『部屋を出る必要はない。そこに座ったままでいい。聴け。いや聴くまでもない。ただ待て。待つまでもない。静寂に身をおけばこの宇宙はその光を差し出すだろう』」

黙ったまま、加奈はサーメルの静かな横顔をみた。

遠い砂漠の向こうから朝の祈りを呼びかける高らかな声がいくつかのモスクから聞こえてきてこだましあう。

その声はしんとした空気を震わせて、長く、神聖な響きをたたえている。


アッラーフ・ アクバル

アッラーフ・ アクバル

アシュハド・ アンナラー・ イラーハ・ イッラッラー

アシュハド・ アンナ ムハンマダン・ ラスールッラー

アッラーは偉大なり

アッラーは偉大なり

アッラーの他に神はないことを証言する

モハメッドはアッラーの使徒であると証言する

礼拝に来たれ

繁栄のために来たれ

アッラーは偉大なり

アッラーの他に神はなし


アザーンと呼ばれるこの礼拝の呼びかけの声を、空港からここへ来るまでの間に何度か聞いていたが、今はそれがなぜか心に突き刺すように響いた。痛みに似た感覚を覚えて、加奈は思わず胸を押さえた。自分の手のひらの中にあった小さな運命が、今は色を変え、一人歩きしているような妙な感覚を覚えた。そして今、隣でハンドルを切るサーメルが、その言葉が、その存在が、どんどん重みを増しているように感じられた。これまでの誰に対しても、こんな風に感じたことはないと、加奈は思った。

空に赤みが差してきて、地平線の向こうに太陽が見え始めた。これまで宝石箱のように輝いていた星の数々が、ゆっくりとその輪郭を失いつつあった。

砂丘の上を静かに滑る風の音が聞こえる。風はさらさらと砂を撫で、なぐさめ、新しい砂模様の形へと導いているように感じられる。それは海鳴りのようでもあったが、遠い昔に聞いた異国の子守唄のようにも聞こえた。

気がつくともう宿の前まで来ていた。

サーメルは車を降りて回ってくると、助手席のドアを外から開けた。

「まだ出発まで時間があるから、二、三時間でもいいから眠った方がいい」

「そうします。どうもありがとう」車から降りると、サーメルが笑顔で右手を差し出した。

二人は握手をして別れた。

しんと静まった宿の廊下を歩き、部屋のドアの前まで来たとき、隣のアビエラの部屋の扉が開いた。中から出て来たのは、夕べベースボールキャップをかぶっていたクルーの内の一人だった。マークという名前だったと思う。乱れた髪と充血した目をしている。

加奈と目が合うと、ちょっとバツが悪そうに顔をゆがめて笑った。

「追い出されちまったよ」

そしてそのままあくびをしながら、歩いていった。

部屋に戻って、内側から鍵をかける。ジャケットを簡単にたたんでバッグの上に置くと、加奈はベッドまで歩いてそこに身を投げ出すように体を横たえた。体が重い石になって深い海の底に沈んでいくように感じられた。

眠りの中に溶けていきながら、頭の中には断続的なシーンが次々に浮かんでは消えていく。タンヌーラの翻る鮮やかな色の衣装。地平線の彼方のオレンジの光とアザーンの響き。黒いベールの女。山羊の頭。どこまでも果てしなく広がる満天の星。

サーメルの広い肩が見える。振り向いて彼は加奈に微笑みかける。

「心の中にある宇宙と、体の外にある宇宙はつながっています」と彼は言っている。

「世界はあなたの心からはじまります。すべては思いの結晶からはじまります。そしてその結晶はゆっくり意識下に沈んでいき、そこで地にまかれた種子の様に目を出し育ってゆきます」

 そして加奈はベッドに斜め横たわったまま、眠りの中に引き込まれていった。


   6


目が覚めたときは、部屋の中はもうすっかり明るかった。

ベッドの上で仰向けに目を開けたまま、天井を見た。息を吸い込むと、ベッドシーツのコットンのにおいとともに、まだひんやりとした部屋の空気が鼻から喉へと流れ込んでくるのを感じる。息を吐き出すと、今度はあたたかみのある空気がベッドと天井の間の空間へと解き放されていった。

こうして目が覚めて、一息ずつ確かめるように呼吸している自分を、もう一人の自分どこか部屋の高いところから俯瞰しているような気持ちがした。

顔と歯を洗って、身支度をしていると、ドアをノックする音がした。

部屋を斜めに横切って、ドアの前まで歩き、まず細く開けて誰なのか確かめてみる。

「おはよう」

 そこに立っているのはアビエラだった。

 もうきちんと、きれいなメイクアップをほどこしている。今日も大きく胸の開いた、体にぴったりとしたTシャツを着ていた。そのTシャツには銀のラメの入った文字で、「You don’t know me(君は私を知らない)」と書いてあった。

「ゆっくり眠れた?」

アビエラが屈託のない様子でたずねる。

「ええ、とても。一人で眠るのが惜しいような夜だったわ」

加奈はにっこり笑ってみせた。

彼女はまったく気にしない様子で

「信じられないかもしれないけど、朝ごはんは出ないのよ」

弧を描いた眉をやや吊り上げるようにして、言う。

「ラマダンの間はねえ、日の出から日没まで断食するの。知ってるでしょう? 自分たちはいいとして、でも客にも食事を出さないのよ。ひどいわよね。何かあるものを勝手に作って食べていけって言われたわ」

不服そうに肩をすくめる。

「あなた、何か作れる? 私は料理が苦手なの」

 起こしに来た訳がわかった。

 自分だけ部屋に戻ろうとするアビエラを引っ張るようにして、厨房へ向かう。

厨房はこじんまりしていたが、必要な鍋や道具類はみな揃っているようだった。

スイッチ一つで火のつくオーブンや電子レンジはもちろんない。調理せずに食べられるものはないかと片端から戸棚を開けていると、夕べのスティーブン・タイラーばりの男がサングラスを片手に、目をこすりながら入ってきた。

「やぁ、お二人さん」

たった今起きたばかりの声。

「チャーリー、あなたも手伝いなさいよ、朝ごはんは自分たちで作るように言われたのよ」

「ふん、自分たちっていうのはお前さんを除いた俺たちのこと?」

昨日と同じように部屋の中でもサングラスをかけて、そばの椅子にどっかりと腰をおろす。加奈に向き直ると、あごでアビエラをしゃくるようにして言った。

「この人、料理できない人なんだよ。何しろ包丁なんか持ったことないんだから。湯が沸かせりゃ上出来ってところだな。チキンは自分で自分の羽をむしって、シオ・コショウを体に浴びて、オーブンにマーチしながら入っていくもんだと思い込んでるんだ」

椅子に座ったまま、動こうとしない二人をそのままに、加奈は戸棚から瓶詰めのピクルスといちじくのジャムを取り出した。ピタパンを二つに切ってバスケット入れる。よく熟したマンゴの皮をむいて種を取り出し、スライスして皿にならべた。引き出しの中からマッチを見つけて、プロパンガスを使っているらしい旧型のコンロに苦労して火をつける。鍋に残っていたオクラのトマト煮を弱火であたため、別のフライパンで卵を焼いた。

「それにしても」

紅茶の缶の蓋を開けながら、アビエラに話しかける。

「あなたの生まれたエリトリアって、どれくらいの人口がイスラム教徒なの?」

そう言いながら振り返ると、アビエラはそこにはもういない。部屋に戻ってしまったのだろうか。チャーリーも消えている。

乾燥した薔薇の花びらがふんだんにブレンドされているらしい、香りのいい茶の葉を、どれくらい入れればいいものか、缶のラベルのアラビア語をアビエラに読んでもらいたかったのだけれど。

彼女の代わりにヴィヴィアンが、「あら、いいにおい」と厨房に入ってきた。「おはよう」と言いながら、コンロにかけた鍋のふたを開けて、中身を見ている。

「おはよう」と加奈も言った。

「アビエラに会わなかった?」

続いてそうたずねると、ヴィヴィアンは手に鍋のふたをもったまま、片眉を上げて意味ありげに笑う。その目線の方向をたどっていくと、厨房から廊下を挟んで斜め向かいの食料庫、その少し開いた扉の陰で男の背にからむ女の黒く細い腕が見えた。チャーリーの腕が女の足を這い、スカートの下から彼女の黒い下着を剥ぎ取って床に落とす。そしておもむろに、後ろ手で、ドアを閉めた。

加奈もヴィヴィアンを見返した。ヴィヴィアンが愛嬌たっぷりに、片目を閉じてみせる。

やれやれ。チャイニーズのボーイフレンドがいるなんて言っておきながら、夕べとはまた違う男だ、と加奈は思った。人事だからどうでもいいようなものだけど。


  7


朝食の後、一行は四台の車に別れて目的の村へと向かった。ロジディという名の場所は加奈のもっている地図にはない。地図にもないような場所へ行くのははじめてのことだった。

どこまでも同じような景色の、道とは思えないような道を、一行は進んでいった。

サーメルがいなければ、とても進んではいけない奥地のような場所だった。

太陽はもうすでに空高く昇り、前方に見える砂漠の表面が熱気のせいでゆらゆらと動いて見えた。まわりに見える何もかもが乾いている。ところどころに見える石も、ちょっと触っただけで音をたててくずれてしまいそうだ。すべてのものが、陽炎のなかでゆらゆらと揺れて見える。頭上から容赦なくおそいかかってくる太陽に、押しつぶされてしまいそうな気がする。

ようやく、目の前に何か見えてきた。遠くからではよくわからなかったが、近づくに連れ、それらは茶色と黒い布で覆った、ベドウィンのテントだとわかった。そのようなテントが、点々と散在している。それらの前には何頭かのらくだがつながれており、山羊の群れもあった。

前の車が止まって、中からレイとその助手の若い男が降りてきた。加奈もそのそばに車を寄せて止めた。結局こうして一行についてきてしまったのは、アビエラが熱心に誘ったからだとみんな思っているが、本当は違うことを、加奈は心で知っていた。そしてその衝動は、胸の奥深いところで暴力的なまでに自分を揺るがしていることに対して、半ば降伏したような気持ちになっていた。

ヴィヴィアンがテントの周りを歩きながら、その天幕の不思議な形や色をめずらしそうに眺めている。レイは、カメラのシャッターを切っていた。

「すごいね、こりゃ。風が吹いたら飛んじまいそうだ。俺は遊牧向きじゃあないな」

 チャーリーがサン・ペリグリーノのボトルを片手に言う。

 レイはシャッターを切る手を休めずに、

「いや、これは遊牧のためのテントじゃない。今はもう彼らは遊牧なんかしないんだ。定住生活のためのテントだよ、これは」

と、博識なところを見せつける。

「今では、オリーブやなつめ椰子を栽培したり、育てた山羊やラクダを売って生活しているんだ。このテントだって山羊の毛でできているんだって知ってたかい?」

けれどチャーリーはさっさとエアコンの効いた車に戻ってしまっていて、レイの話しなど聞いてもいない。

サーメルは、テントから出てきた中年の頑丈そうな体つきの男にあいさつをして、話しを始めた。男の、木綿でできたワンピースのような民族衣装のすそが風にはためいている。顔は日によく焼けた褐色で、深いしわが刻まれている。サーメルの言葉に何度かあいづちを打つと、もう一度テントの中に消えた。

サーメルはゆっくりとクルーが集まるこちら側に歩いてきた。

「ここでしばらく休ませてもらって、それからその老婆に会えるかどうか交渉しましょう」

レイはうなずいて、車の中から、皮のバッグを取り出してきた。

「もしも交渉がむずかしそうなら、俺もいっしょに行くから言ってくれ」

そう言って、抱えた鞄を片手でパンッとたたく。

サーメルは黙ってうなずいた。

しばらくして男が再びテントから出てきた。片手を上げてサーメルに来いと命じている様子だ。サーメルは再び、男のそばへもどり、今度はテントの中へ消えた。

太陽は高く、ぎらぎらとした熱を放っている。まるでオーブンの中にいるようだ。肌を守るために、長袖のシャツを着ていなければならない。肌を突き刺す太陽のもとでは、長袖のシャツの方が涼しいくらいだ。

らくだはのんびりと、つながれたまま口を動かしている。その口や、長いまつげの目の周りには、何十匹もの蝿がたかっている。けれどらくだ達は、気にとめる様子もない。

山羊の方はといえば、まだ少しはこぎれいだったけれども、やはり蝿がたかって、ムンとした独特のにおいがした。

クルーの一行は、水を飲んだり、つながれた山羊をからかってみたり、それぞれの時間をすごしていた。

しばらくしてサーメルが一行をテントの中に呼び入れた。女のテントと男のテントは別々だった。

「ここでは男女の差はとてもはっきりしています」

という言葉に従って、加奈はアビエラとヴィヴィアンとともに、他とはやや離れたテントの中に入った。

ベドウィンのテントは底面が円形で頂点に向けて尖った形の円錐形になっていた。放射状に組んだ骨組みの、そのまわりに幕を巻きつけるだけの単純な構造ではあったが、それでもさすがに夜昼温度の異なる砂漠に適した造りになっているらしく、焼けつくような外の気温に比べて中は不思議なほど涼しかった。

地面に敷いた絨毯の上に座ると、さきほどの男と同じ年齢くらいの女性が、銀色の杯型のカップに入った飲み物を乗せた盆をもって現れた。

差し出されるままにカップを受け取る。中身は何か白いミルクのようなものだった。

残りの二人は器の中をのぞいて、それからあたりを見回して、また、おそるおそる中をのぞいた。

「これってひょっとして山羊のミルク?」

ヴィヴィアンがそっと囁く。

「これってひょっとして、本物の銀?」

アビエラがカップを眺め回して真剣な顔で聞く。

「まさか」

ヴィヴィアンもカップをまじまじと眺める。

口をつけなければ失礼にあたるような気がして、加奈はおそるおそるカップに唇をあてた。ほんの少しだけ、味わってみる。冷たい感触とともに、甘い香りが広がった。

ちょっと、あなた、マジ? とでも言いたげな表情で、アビエラがこちらを見る。

「勇気あるわねぇ」

その口の動きだけでメッセージを送ってくる。

ミルクのような味ではなかったが、不思議となつかしい味がした。もう一口、その未知の飲み物を飲み込んだ。いったいそれが何なのか確かめる気持ちもない。これまでの自分なら、尻込みしていたろう。

それはなぜかリベラルで痛快な気分だった。

ベドウィンの女は何も言わずに優雅な動きで立ち上がると、そのままテントを辞した。その衣装は深いバーガンディーの色で、細かな刺繍が施されていた、藍色のベールとのコントラストが美しい。言葉は通じなくとも、歓迎の念を表そうとしていることが、その表情と立ち居振る舞いにはにじみ出ていた。

そのときはるか遠くで銃声が聞こえた、三人の女は思わず顔を見合わせた。加奈には最初それが銃声とは確信できなかった。けれど二度目、三度目の音を聞いたとき、さずがに背筋が震えた。

「キツネかヤマネコよ、きっと」

少し間をおいて、アビエラが、自分で自分を納得させるようにつぶやく。けれど、それっきりで三人とも黙り込んでしまった。

その後、先ほどのベドウィンの女が戻ってきて、アビエラに何か囁いた。

「行きましょう。お呼びがかかったわ」

アビエラの言葉がよくわからないという顔をすると、今度は、「サーメルが話しをつけたみたい。老婆に会いにいくわよ」

そういいながら立ち上がった。

テントから出て少し歩くと、クルーの一行はもうそこに集まって、三人が来るのを待っていた。

「私たちが会いに行くことを了承してくれたの?」

ヴィヴィアンが仲間に向かってたずねた。

レイがうなずく。

「信じられない。こんなにスムーズにいくなんて。難航していたプロジェクトだもの」

「サーメルの手腕ね」

アビエラが彼の肩にぽんと手をかける。

「いいスタートだけど、まだこれからだ」

レイが言う。

先ほどのベドウィンの女性がやってきて、サーメルに何か囁いた。

「ここから少しだけ離れたところに家があります。そこまで馬をアレンジしてくれるそうです」

「馬」

と全員が声をあわせた。

「そりゃあ、あの汚ねえらくだよりはましだけどよう…….」

チャーリーが言う。エアロスミスのスティーヴン・タイラーには、確かにらくだは似合わない。

「じゃあロバにすれば」

アビエラが茶化す。

「その老婆に会えるのはあなたたち女性だけです。彼女は他宗教の男性には会いません」

サーメルが説明した。

「Of Course」

アビエラが肩をすくめる。

結局、男たちはここで待って、アビエラとヴィヴィアン、加奈の三人に、サーメルともう一人の土地の男がつき添うことに話しが決まった。

「馬屋はこちらです」

 土地の男が案内してくれた。

馬屋といってもそれは至極簡単な組み立てのものだった。けれどそこにいる馬は強靭そうで素晴らしい。栗毛の馬が何頭かと、それから茶色のたてがみの黒い馬がいる。サラブレッドのような端正な面長の顔ではなく、もっと精悍なしゃくれ顔だ。波打つたてがみが美しく、これまで見たことのあるサラブレッドやアイリッシュドラフト種よりも足が細い。加奈がそう言うと、サーメルは「アラビアの馬です。砂漠を走るのに適した足です」と、答えた。それから、「馬のことを知っているのですね。乗れますか?」と、たずねた。

高校の頃少しだけ乗馬をしていたことがあると答えると、彼は満足そうにうなずいた。

サーメルの馬の後ろにアビエラが乗り、付き添いの男の後ろにヴィヴィアンが乗った。加奈は一番おとなしそうな雌馬を選んで、その背に飛び乗った。

ベドウィンの女が、三人の女たちのための衣装を持ってきてくれた。Tシャツやショートパンツから腕や足を露出したままでは、イスラムの戒律に生きる長老に会いに行くことはできないのだ。

男の馬が先に走り出すと、サーメルはあごを傾けて、加奈にそのすぐ後に続くよう示した。そして自分は一番最後から行くということを目で合図する。その何気ないしぐさが、これまで会ったことのあるどんな男よりも男っぽかった。

砂漠の砂の上を、馬はうまく走る。トロットでしばらく走っていたが、前の男が急に速度を上げだした。それに合わせて、加奈もキャンターで走り出すと、これまで穏やかに走っていた足の下の馬体に、ぐいぐいとエネルギーがみなぎるのを感じる。

砂漠の馬だ。風を切りながら、込み上げる感動とともに加奈は感じた。

振り返ると、サーメルと視線があった。馬と一体となった精悍な走りだ。手綱を引く二の腕の筋肉の隆起が光ってみえる。

砂漠で見た、あの馬と、そこに乗っていた人は、彼ではなかったか。そんな考えが閃きのように心をよぎった。加奈は頭を軽く振って、馬を走らせ続けた。

風が吹くと、砂丘の表面をさざなみのように砂が走る。そして美しい地模様を描きなおす。加奈はあの美術館で見た絵のことを思った。遠い昔に見たものと、今現実に足の下にあるものが、同じであって同じでない、それはたよりなげで、けれど解放されたような気持ちで、自分が乗っている馬が、まるで未知のものに向かって前にだけ進む不思議なベクトルのように感じられた。

長老が住む家は、白い泥でできたような小さな家だった。四角く切り抜いただけの小さな窓が、壁に見える。入り口もただそこだけ開いているだけで、扉のようなものはない。

サーメルと付き添いの男が先に馬を降りて、三人の女性に手を貸した。

それからベドウィンの女性が持たせてくれた長いワンピースのような衣装をすっぽりとかぶる。頭からはベールをかぶって、髪を覆った。

「残念ね。鏡があればいいのに」

ヴィヴィアンはものめずらしげにベールの端を引っ張りながら、ポーズを取ってみせる。

 加奈も、手の甲で髪を覆うベールをなでた。木綿の生地であるはずなのにそれはとてもさらりとして軽かった。色は深いオリーブ色だ。アラブの女が髪をベールで覆うのは、宗教的な理由だと思っていたが、ベールのせいで焼けつくような太陽の熱が少し和らいで感じる。砂埃も心なしか、しのぎやすい。おそらくは宗教的な理由だけではないのだろう。何千年も前の昔から、ベドウィンの女たちは絶大な自然の力から、ベールで身を守ってきたに違いない。

 家の中には、まずアビエラが入った。すぐ後にサーメルとヴィヴィアンが続く。加奈は一番後から入っていった。いっしょに来た男は、馬をつないでいる。中に入る気はないらしい。

 入ってすぐの部屋には数人の女たちが座っていた。目元以外のすべてをすっぽりと覆う黒い衣装を身につけている。加奈たちを見ると、めずらしそうにじいっと見つめる。これまでに外国人を見たことがないのかもしれない。

 その部屋を通り過ぎて、奥の部屋へ向かう。そこには白いベールをかぶった小柄な老婆が床に座っていた。床に置いたすり鉢のような器に左手を添え、右手には漢方薬をつぶして混ぜ合わせるときに使うような摺り棒をもっている。そして器の中の何かの葉のような緑色のものをたたいてつぶしていた。

その手は乾いて、しわがれていて、顔にも深いしわが刻み込まれていたが、まっすぐな鼻筋と切れ長の目のバランスがとてもいい。若いころは美しい女だったのに違いない。

 アビエラが床に膝をついて、アラビア語であいさつの言葉を言う。こちらを向いて、いっしょにいる三人を紹介した。けれど老婆はちらりと眼をあげただけで、すぐまた器に視線を落とした。

 他宗教の国のメディアの人間としてたずねてきた女に、特に相槌を打つわけでもない。聞いているのかいないのか、器の中の棒を動かし続けている。話し出してしばらくしはじめたアビエラの声が、だんだんナーバスになってくるのがわかる。何度かサーメルの方を、助けを求めるような目で見たとき、彼が助け舟を出すように、静かな声で何か言った。そこではじめて老婆が口を開いた。もう何千年も口をきいていないような、切れ切れの、しわがれた声だった。ゆっくりと、言葉を切るよう話す。何を言っているのか、加奈には検討もつかないが、アビエラの顔が曇っていくところを見ると、情勢は目的どおりの方向に向いているとはいえないことがわかる。

 何事かを少し話した後、老婆は、今度は少し首を曲げ、加奈の方をじっと見た。

 鋭い爪とクチバシを持つ鷹や鷲の、猛禽類の目だった。とても長い間、見られていたような気がする。

 そして老婆は何か言った。 

「その娘は」と言っているように聞こえた。

 ひと言、ふた言、言葉を続けると、そこで言葉を切って、アビエラが話しかけてももう後は何も言わなかった。黙ったまま、じっと目を閉じている。

 アビエラがもう一度、目で助けを求めるような信号を送ると、サーメルがゆっくりと、首を左右に振った。もうこれ以上は無駄だ、という意味だった。

 仕方なく、彼女は立ち上がった。それに続いて残りの三人も立ち上がったが、ヴィヴィアンはあきらめきれない様子だ。部屋を出て行こうとしていた仲間に続くことなく立ちつくしていたが、やにわに「お願いです」と声を上げた。「私たち、ずっと遠くから来たんです。自分たちのテレビ番組のためだけじゃない。もしも本当に、ほんの少しでも誰かを幸せにできるなら、そう思っているんです。お願いです。私だって、私だって、本当にいろんなことがあって……。どうしても、どうしても、知りたいのです。何かほんの手がかりだけでも……」たとえ言葉は通じなくても必死の思いは伝わるだろう、そう信じているような胸底から響く悲痛な声だった。

けれども老人はそのドラマを見事に無視した。やり場を失ったように立ちつくしたままのヴィヴィアンの肩を、アビエラはそっと抱いてうながすようにした。そうして四人は家の外へ出た。

 全員はまたもと来た道を黙って戻りはじめた。午後遅い時間の太陽が、眩しい光りの帯となってこちら方へと延びている。ゆらゆらと陽炎のような熱気に染まった空気に、馬の走る音だけが響いていた。

ロジディの村に戻ると、クルーの男たちはテント前で待ち構えていた。

戻ってきた馬を見ると、手に持っていたタバコの火をもみ消して、マークが真っ先に体を起こした。

「どうだった?!」

他の男たちも身を乗り出すように戻ってきた仲間を見た。

サーメルの助けで馬を下りたアビエラが、首を横に振った。

「だめよ。拉致があかない」

「何だって?!」

「全然取り合ってくれない」

「どういうことだよ」

「資格がないって」

「資格?!何の資格だ?!」

「知らない。私たちの誰もそこへ行く資格がないって」

「何言ってんだよ。どうするんだよ。ここまで来て!」

「何を言っても無駄なのよ。まるで呪文みたいなことを言うだけで…..」

「呪文?」

しばらく考えるように黙ってから、アビエラは言った。

「土壌を清く保ちて個なる種を蒔けそう言ったの」

「What a fuck?」

マークが目を丸くする。

「ったく!」

あたりどころのないチャーリーがそばのテントの幕にパンチを入れた。

「プロドューサーになんて言えばいいんだ? 何とかしろよ」

「何とかって、何をするのよ」

「このままじゃクビが飛ぶぞ」

その時、カメラマンのレイが言った。

「俺たちだけで行こう」

「えっ」

「大体の方角はわかっているだろう? そう遠くないはずだ」

それぞれがお互いの顔を見た。

そこで、チャーリーが言った。

「尻尾を股の間にはさんで、すごすご帰るわけにいかないんだよ!」 

その言葉に、全員が目と目を合わせた。

 方向が決まった。

車に戻るため、歩き出したとき、アビエラに追いつきながら加奈がたずねた。

「ねえ、さっきあの老婆が私のことを見て何か言ったような気がしたのだけれど」

アビエラは思い出したように、「ああ、そう言えば…..」そう言って、しばらく考えてから、言った。

「あなたのことを、自らのジハードを知らないと」

「ジハード?」

「コーランに出てくる言葉よ」

「聖戦という意味ではないの?」

「まあそれは一般的に言われていることで、そういう意味ももちろんあるのだけれど」

「テロ事件に関連して聞いた言葉だわ」

「そうでしょうね」

ちょっと、うんざりした様子を見せる。

「残念ながら、みんなそれしか知らないのよね」と彼女は言った。

「確かにそういう意味もあることはあるの。プロフィットのモハメッドがイスラムを広めようとしていたとき、その反対派が弾圧にかかってきた、その時に聞いたアッラーの言葉よ。自らのジハードのために武器を取れってね。でもそれだけだと、本来の意味が折り曲げられているように思う」

「他にどんな意味があるの?」

「コーランにはね、大きなジハードと、小さなジハードがあると書かれているの。武器を持て、というところは小さなジハード。自らの信仰のために立ち上がれと、教えているのね。けれど本当のジハードはもっと大きなものなの」

 加奈はアビエラの目を見て、次の言葉を待った。

「自らの正しい道を行くこと」

 そこで言葉をいったん切って、それから付け加えた。

「具体的にどうすればいいかということは、コーランのいろんな章に散りばめられているのだけれど、人生の瞬間についての意味を明らかにすること、意味への意志に気づく こと、自分自身に反することをしないこと、うまく言えないけど、そういうこと。嘘をつかないとか、人を騙さないとか、そういう基本的な事の他に、もっと高尚な、例えば『許すこと』も含まれる。ジーザス・クライストが彼を十字架に釘付けにして殺そうとした者たちのために、父なる神に祈ったでしょう? 『この者たちを許したまえ。彼らは自分の罪を知らないのです』って。それも立派なジハード。それにマハトマ・ガンジーの、真理の把握といわれている「非暴力、不服従」の思想もそうだと聞いたことがあるわ。ちなみに彼も弾丸を体に受けたとき、額に手を当てて、イスラム教で『あなたを許す』という意味の動作をしたということよ。でももっと大切なのはね―」

それから加奈の顔をまっすぐにのぞきこんだ。

「自分に与えられた人生の意味と課題を知ること、そしてそれを追求すること、それがジハードだと教えられてきた。それは何か自分の得意なことかもしれない。夢中になれることかもしれない。そしてその何かを追求することで、自分も幸せになって他の人も幸せにしていくこと、そう教えられたわ。エリトリアでは小さな子供たちはほとんど、コーランを学ぶ学校に入れられるの。いやいや通っていたものだから、他にあまり覚えてないし、実行もしてないけど」

それからちょっと笑って、

「私だってジハードをわかってない一人よ」そう言う。

加奈はアビエラの言葉をもう一度、心の中で繰り返した。

「自分に与えられた人生の意味を知ること。そしてそれを追求すること」 

その時にアビエラが言った。

「でも変よね。あの婆さん、なぜいきなりあなたのことをそう言ったのかしら。あたし達に資格がないって言われたのは、何となくわからないでもないけど」

 けれど、すぐさまそんなことは忘れてしまったように、「ねえ、あなたの車に乗せてもらっていいかしら? チャーリーの運転ではのんびり座っていられはしないのよ」そして、返事を待たずに、さっさと加奈の車の助手席に乗り込んでしまった。

他のクルーたちも車に戻ってエンジンをかける。

マークの運転するジープに、レイが飛び乗って、先頭を駆け出した。それに続いてもう二台の車が後に続く。加奈はその一番後ろについて、車を走らせた。

二、三時間は走っただろうか。単調な回り灯籠のように変化のない風景がえんえんと続く。加えての気が遠くなりそうな熱気のせいで、頭がぼんやりしていた矢先に、前の車のテールに点灯したついたブレーキの灯りを見て、加奈も急ブレーキを踏んだ。砂漠の一本道にはほとんど必要のないブレーキだ。右側の助手席に座ったアビエラが前方につんのめって、大きな声で「ファック!」と声をあげる。勢いよく止まったために車のタイヤが砂埃を上げ、目の前が曇って、見えないほどだ。

砂埃の向こう、前方に見えたのは、武装した兵士たちと、そこに止められている何台かの装甲車だった。

驚いて、サングラスをずらして目を凝らしてみる。

十数人の兵士たちは鉄のヘルメットをかぶり、それぞれに自動小銃を構えている。銃口は、加奈たちの車に向けられていた。

サーメルが車から降りてドアを閉め、ゆっくりとした足取りで前に歩いていくのが見えた。若い兵士たちに混ざって、年長の、一人だけ違った兵隊服を着た男の前まで歩いていく姿を、いくつかの銃口が追う。

いっこうに気にしない様子で、サーメルは隊長と握手をし、言葉を交わしている。しばらく話した後、一番前の車までもどって、窓から顔を出したレイに何かを伝えた。レイはいったん首を引っ込めたが、今度は書類のようなものを手にして、車から降りてきた。 

サーメルの後にやや隠れるような様子で後に続き、レイは兵士たちのそばまで歩いていく。隊長の前まで来ると、その顔色をうかがうように、その紙を差し出した。

「当局からの撮影の許可書だわ」

それを見て、アビエラが加奈の隣で言った。

男はちらりと見ただけで、ろくに読みもしない。やり場を失って、その書類をもった手をレイは落とした。

隊長は、サーメルに向かって何か言葉を続けている。それにサーメルは相槌を打って答えているのが見える。相変わらず、兵士たちはその銃口を向けたままだ。

「何……?」

加奈の声に、

「やばそうね。これは」

 アビエラが答えた。

 緊張した空気がみなぎっている。

レイとサーメルがそれぞれの車に戻った。レイが窓を開けて左手を差し出す。後方へ向けて大きく振っている。戻れと合図しているらしい。

次々にUターンしはじめた前の車にならって、加奈も車を動かせた。

「この辺まで危なくなっているなんて、信じられないわ」

アビエラが辟易した様につぶやく。

 しばらく走って、バックミラーから兵士たちの姿が消えたころに、前方の車たちがもう一度停止した。

一番先に車を降り立ったのは、レイとマークだった。他の者も二人に続く。やれやれ、といった調子でアビエラもドアのロックを解除して、そのドアを押し開けた。

加奈も車を降りたが、ドアを開けたまま、そこに立っていた。そして彼らの決断を待った。

クルーたちは少し離れたところに集まっていたが、その声は十分聞こえてくる。

「ここまで来て引返すことはできない」

マークがそう言っていた。

「でもあんな武装したところを抜けられると思う?」

ヴィヴィアンの感情的な声。

「暗くなるのを待てば」

「同じことさ。決められた時間だけ適当にやってる兵隊たちとはわけが違うんだ」

「じゃあどうする?」

「いったん引き上げるか」

「当局に連絡を取ってみれば」

「まさか」と、レイが言った。

「『効率』という言葉はここには存在しないんだ」

「いったい他に何ができるんだ?」

そこで、レイの声が一段低くなった。

「砂漠の中に入っていくんだ。内陸の道から行こう」

 全員が顔を見合わせた。

 しばらくの沈黙があった。

最初に口火を切ったのはアビエラだった。

「私はごめんだわ」

片手を腰に当て、もう一方の手を額に当てて、信じられないという様子を体ごと表現しながら首を振る。

「危険すぎるわ」

ヴィヴィアンが味方についてバックアップの声を入れる。

二人の若いアシスタントはどっちつかずの態度で、肩で浅い息をしながら、互いの顔を見合わせている。

「俺は一人でも行く」

レイが一人ひとりに視線を走らせながら言った。

「待てよ。俺も行く」

決心したようにマークが言った。

「あの銃をもった男たちを見た? 半端じゃない目をしてたわよ」

ヴィヴィアンが説き伏せるように言う。

それに続いて、アビエラがきっぱりと告げた。

「戻るわ。私は」

サーメルはそこから離れたまま彼らの様子を見ていた。

アビエラがサーメルに向き直った。

「あなたはこんな連中といっしょに行くことはないのよ」

すっかり呆れたという調子で両手を挙げながら、レイに背を向ける。

「あなたが雇われたのは、さっきの村までなんだから。雇われた以上のことをすることはないの。さあ行きましょう」

レイは黙ったまま、車に乗り込んだ。マークがそれに続く。そしてそのまま、車は方向を変え、砂埃をまき上げて去ってしまった。

加奈たち残りの一行が、もと来たロジディの村に着いたのは夕刻だった。同じテントに迎え入れられ、さっきと同じ場所に腰をおろした。手足が疲れて、頭がひどく痛んだ。ヴィヴィアンとアビエラもひどく疲れた様子で深いため息とともに、床に転がるように座り込んだ。三人とも、しばらく口がきけないほど疲れていた。

 それからどれくらい時間がたっただろう。日差しにようやく翳りが出てきたころ、さきほど飲み物を運んできたのと同じ女性が、テントの中へ入ってきた。手にはバケツに入った水と布をもっていて、それをおもむろに差し出した。これで手足を拭けということらしかった。ここでは水は命の次に貴重なものだ。それをこうして差し出すのは客に対する最大の歓迎の意であることがわかる。加奈は手を合わせて、その目で感謝の心を告げた。その女性も加奈の目を見てその気持ちを理解したようだった。

「ねえ、アビエラ」

ヴィヴィアンが手を拭いながら話しかけた。

「ここでは女性はほとんど外へ出ないって聞いたけど、この人たちは何の疑問も持たないのかしらね。男たちに虐げられて一生を送っているように思えるのだけど。聞いてみてくれない?」

アビエラはうなずいて、その女性に向き直ると、その言葉をアラビア語で伝えた。

その女性は時々ヴィヴィアンの方を見ながら、アビエラの問いかけに相槌をうつようにしていたが、顔をやや下に向けたまま、話しはじめた。

「ここでは自然が、私たちの生活の規律をつかさどるのです」

一言づつ、言葉を切るようにして、アビエラが通訳した。

「神は男性と女性を同じようには創りませんでした。それぞれ違った役割を果たすように創られたのです。けれども、その価値に上下はありません。ただ違うというだけです」

それから、女性は、ほんの少し口をつぐんだが、ためらいがちに言葉を続けた。

「砂漠から砂を一粒取り出すとその砂粒は力を失います。そこにあるのは、小さな砂粒だけです。それは神を知らない人間と同じです。とても無力な状態です。この砂粒をまた砂漠に戻します。するとそれはすべてのものを飲み込んでしまうほどのとてつもない大きな力を持った砂漠の一部となるのです」

そこでもう一度言葉を切った。

「これが神との一体感です」

そしてようやく顔をあげると、ややはにかんだような清楚な微笑を浮かべた。

「たった一つの砂粒の私が、神の手によってとてつもない砂漠の力を持つことができるのです」

思わず胸を衝かれるほど、無垢な表情だった。化粧っけのない顔が輝いて見える。ヴィヴィアンはそれ以上何もたずねなかった。静かな声で、「ショクラン(ありがとう)」とだけ告げた。

女性は一礼をしてゆっくりと立ち上がり、静かに出て行った。

アビエラはその後ろ姿を目で追っていたが、やがて独り言をつぶやくように、ぽつりと言った。

「あんな風に信じるものがあるなら、生きていくことはそれほどむずかしいことじゃないでしょうね」

 いつになくしんみりとした口調の彼女のこけた頬を見て、加奈は次の言葉を待った。アビエラが何かもっと言いたそうに口を動かしたからだ。けれど、彼女はそこで言葉を切って、バッグから取り出したタバコに火をつけただけだった。

そのとき表で何やら大きな騒ぎ声が聞こえた。

 三人は顔を思わず見合わせた。外へ出てみると、クルーの助手の男たちとチャーリーとに囲まれ、レイがマークの肩を抱えるようにしているのが見えた。マークの白いシャツが真っ赤な血にそまっている。その髪の毛にも、べっとりとした血がついている。加奈は思わず片手で口を押さえた。

「何があったの!」

ヴィヴィアンが声をあげた。

「撃たれた」

レイの服にも血が飛び散っている。

「ヘリコプターからライフルでやられた」

 村の男たちも数人集まってきて、マークを助け起こすように手を貸している。

「血を止めなければ」

そういって、レイが傷を負ったマークのシャツに手をかけ、引き裂くようにしたが思うようにいかない。

そばにいた助手の若い男が声を荒立てた。

「誰か、鋏と、それから縛るものをもってきてくれ!」

ヴィヴィアンはすっかり動揺してしまって、両手の指で自分の髪をかき乱すようにしながら泣き出した。

加奈はすぐにTシャツの上に羽織っていた長袖のコットンシャツを脱いだ。

そのシャツを受け取りながら、「ここを押さえていてくれ」そう言うと、レイはアビエラに向き直って、「車の中に道具箱がある。知ってるだろ。鋏をもってきてくれ」搾り出すような声でそう言った。

 アビエラはすぐに走っていって、車から道具箱を取り出した。そのふたを開けて、中を見たとたん、放り出すように道具箱を地面に落とすと、そこから二、三歩、たじろぐように後ずさりした。そしてそのまま、凍りついたように身動きしない。血を見たことがショックなのだろうか? それにしても様子が変だ。

「アビエラ、鋏を早く」

そう言ってから気がついた。彼女の顔から血色が消えている。そしてその体は震えている。

加奈は走っていって道具箱をつかむと、助けに来た村の男に手渡した。

 振り向くと、アビエラは血の気の引いた顔でまだそこに立ちつくしたままだった。

その両腕をつかんで名を呼ぶと、はじめて気がついたように、ゆっくりと表情のない顔を加奈の方へ向けた。

  

  8


静寂が戻ったのは、もうとっぷりと日が暮れてからだった。広大なサハラの砂漠の中の小さな点にも満たないほどの離村に、電話はない。無線もなければ携帯電話ももちろんつながらない。後はもと来たチタムの町に戻るだけだった。

夜が明けるのを待って町に戻り、米国大使館に救援を求めるのが一番だということに方向は決まった。米国大使館ならヘリコプターを送ってくれるぐらいのことはしてくれるだろうという算段だった。今の時点ではどこへも動けない。夜の砂漠の真ん中を長距離移動することは、そのまま死につながることだった。

クルーの男たちのいるテントは離れたところにあるから、加奈たちにはその様子はよくわからない。けれどもこれまで何人も行き来をしていた地元の男たちの足が絶えたところをみると、怪我の状態が落ち着いたのかもしれない。そうであって欲しいと、加奈は心の中で願った。

夜遅くに、簡単な夕食が用意された。米を鳥のスープで炊き上げたもので、そこに見慣れない濃い緑色の野菜が入っていた。素朴な味がして、おいしかった。ヴィヴィアンは疲れたと言って、食事にはろくに手もつけず、奥に入って眠ってしまった。

加奈たちのテントの前には焚き火をするように取り造られた場所があった。昼間とはまた違うベドウィンの女性がやってきて加奈たちのために火をくべてくれた。

アビエラはさっきの出来事の後、一言も話さない。うつろな表情で食事を口に運んではいたが、それも止めて、しばらく前にテントの外に出て行ってしまったきりだ。

食事を終えて、明朝ここを発つための簡単な荷物整理をすると、加奈もテントの外へ出てみた。

テントの前では、焚き火の炎が風のない空へ向けて勢いよく燃えていた。その炎を見つめながら、アビエラはそのそばに膝を抱えるようにして座っていた。

 隣に座ってもいいかたずねると、こちらを向かずに小さくうなずく。

 加奈はそばに腰をおろして、膝を曲げその上で両手を組み合わせた。

冷たかった手が少しずつあたたまっていくのを感じながら、両手をこすり合わせた。

 しばらく沈黙が続いた後だった。

「たった一つの出来事が、人生を変えてしまうことって、あるのよ」

 火を見つめたまま、アビエラがつぶやくように言った。

「出来事?」

「そう」

「何があったの?」

「忘れようとしても、それはもう体に刻み込められている。もちろん心にも」

加奈はアビエラのいつにない表情を見た。

「話してみて」

「あなたは日本人だから知らないかもしれないけれど、アフリカの中東部では昔ながらの風習があるの」

「風習?」

「大人になるための通過儀式だと、はじめは聞かされた。清めの儀式ともね」

「ええ」

「でも本当はね」

そこで彼女は言葉をいったん切った。

「女性器切除」

アビエラの言った、female genital mutilationという言葉を、加奈はもう一度繰り返しつぶやいた。どこかで聞いた、「女子割札」という言葉が浮かんだ。

「エリトリアでもそれは当たり前のこととして行われている。たいていは女の子の母親がお膳立てをするの。私のときも、そうだったわ」

抱えた膝に顔を半分埋めるようにして、彼女は続けた。

「親戚の家に連れて行かれたの。妹と二人で。その日は何か朝からお祭りの前といった雰囲気だった」

「いくつだったの?」

「私は九才で、妹はまだ七才だった」

「九才…….」

「近所の子らしい女の子が何人かいた。小部屋のような場所に、一人ひとり呼ばれていくの。そしてそこから、叫び声や泣き声が聞こえる。私は急に恐ろしくなって、そっと部屋の中を覗いてみた。そこには私と同じ年くらいの女の子がいたの。誰か知らない二人の女に押さえつけられるようにして横たわっていた。その太もものあたりが、真っ赤な血に濡れていたの」

加奈はアビエラの顔を見つめた。

「とてもこわかった。でもその次は私の番だった。泣いて逃げようとしたけど、無駄だった。大きな大人の女たち二人に無理やりはがいじめされているのだから。足を無理やり開かされて、そこにあった台の上に押さえつけられたの。頭に白髪の混ざった男が、私の足元に座ったと思うと、鋏か何かの道具を使って、私の性器を突っつくように、それからほじくるようにした。そして言ったの『ほうら、これだ。クリトリスだ』」

かすれるような、のどの奥から出るような声でアビエラは続けた。

「そして、ものすごい痛みが全身をかけ抜けた。気を失いそうなくらい。でも見たのよ。私の血で染まった、鋏を男が持っているのを」

胸のあたりからにぶい塊りが逆流してくるような感触。加奈は思わず目を閉じた。

「死んだほうがましだと思ったわ。でも実際に、大量出血で死んでしまう女の子もいる。そうでなくても施術中の激痛から舌を噛み切って死んでしまったり。ショック死する子も少なくない」

「ひどい…」

幼女たちの泣き叫びの声が耳に響いてくるような気がした。

「まるで悪夢のよう」

「そして実際に、悪夢は続くの。その日から後はずっと、何度も同じ夢を見て、泣き叫んで目をさました。体中汗でぐっしょり濡れて」

 言葉を失ったまま、加奈はアビエラを見た。そんな精神的なショックは、想像することはできても本当に理解することなどとてもできない。

「痛みは回復までの数週間、ずっと続くの。でもそれはうまくいけばの話し。私の妹は、感染症を引き起こした」

「消毒をしなかったということ?」

「さあどうだか」とアビエラは吐き捨てるように言った。

「どうせ大した消毒はしてなかったんじゃないの」

言葉が出てこなかった。消毒してもいないカミソリや鋏で肉体の一部をえぐり取られるということか。

「後しばらくは、とてもトイレになんて行けない。トイレに立つたびに、激痛でこのまま死んでしまうんじゃないかと思った。でも母は言うの。『我慢しなさい。これであなたも清い体になれたのよ』って」

「清い体?」

「クリトリスは悪魔のシンボルのように思われているの。女は二本の足の間に悪いものをつけて生まれてきたとも言われることもあるわ」

「信じられない」

「そうでしょうね。でも現実よ」

「クリトリスを切ってしまうことで、性感をなくさせるということ……?」

「男が女を支配するためよ」

「支配?」

「女に性欲をもたせないため」

加奈は言葉を呑んだ。

「そうやって性感を奪うことで女をコントロールすることができるからよ」

確かにそんな話しをどこかで読んだことがあるような気がした。

「表向きはもちろん、もっと他の名目よ。純潔の象徴。陰部を切除してしまえばその部分を清潔にしやすいから、なんていうこじつけもある。でも本当は違う」

アビエラはそこではじめて、加奈の顔をまっすぐに見ると、

「でも本当は、男の処女崇拝と、女性支配よ」

凛とした声で言った。

「女は力をもってはいけないということね」

加奈の声も乾いていた。

 そして、今聞いた信じられない出来事の内容を一つひとつ心の中で咀嚼するようにしながらたずねた。

「それはイスラムの風習なの?」

「イスラムとは関係ないわ。キリスト教徒でも行われる」

「エリトリアとその周りの国々で?」

「そんなもんじゃないわ。二十だか三十だかのたくさんの国で現に今も行われているのよ。毎日」

加奈にはとても信じられなかった。

「そんなことが世界で問題にならないのかしら。女性保護団体とか」

「もちろんヨーロッパの先進国での女性保護団体や人権擁護団体はこれらのばかばかしい風習をやめさせようとしている。でも何百年も続いてきたことは、急にかわったりはしない」

そう言われれば確かにそうかもしれない。

「もっとひどいのはね」とアビエラは続けた。

「陰部を切り取るだけではないのよ。切ってしまった後、両足を縛って切除部分を縫合するか、癒着させるの」

「癒着..........?」

うまく想像することができず、加奈はその言葉を繰り返した。

「もちろん、排尿できるように、それから生理の時に血が外へ流れ出られるように穴を開けておくの。そのために、小さな木切れを入れたりして小さな穴を開ける。そして後は、縫合するか、それとも癒着を待つの」

「なぜそんなことをするの?」

アビエラは何も言わなかった。両手でかかえた膝に顔を押しつけるようにしたままだった。

彼女の黒く波打つ髪に、炎の影が揺れていた。

加奈も黙ったまま焚き火の火を見つめた。

ぱちぱちと音をたてて、焚き火の火は勢いよく燃えていた。

空はしんとして、砂漠の向こうは果てしない闇に包まれている。

無言のまま、しばらく時間が流れると、アビエラはゆっくりと顔をあげるようにした。

「結婚の初夜の夜に、閉じられた陰部を、夫が切り開くため。自力で花嫁の陰部を開いて性交を果たせなければ面目を失うのよ」

 加奈は目を閉じて、首をふった。何も言えなかった。

「結婚の相手は親が決めたよく知らない男よ。私は泣いて、やめてくれと頼んだ。押さえつけられて、そして……クリトリスを切り取られたときと同じくらい、ううん、もっと痛かった」

 苦痛に唇がゆがんだ。声が涙に震えていた。

加奈の目にも涙があふれた。目の前の炎がかすんだ。

アビエラがその華奢な手を伸ばして、泣いている加奈の肩を抱いて引き寄せるようにした。抱き合うようにして、加奈は濡れた顔をアビエラの細い肩につけた。反対に、慰められているような気持ちだった。

私は、と加奈は思った。

この腕の中にいるアビエラのことを、ずっと男にだらしない女だと思ってきたのだ。そして半分は、見下げてきたのだ。彼女がどんな人生を歩いてきたか、考えることもなく。彼女の行動は、体と心の傷の反動であるかもしれないのに。ふしだらな、身体の軽い女だと、決めつけてかかっていた。よく知りもしないで、自分の浅薄な、狭い考えから、ラベルを貼りつけてしまっていたのだ。

加奈は自分の傲慢さを思った。

涙とともに、体にこびりついていた何かが流れ落ちていくようだった。

二人はそのまま抱き合うようにして座ったまま。もう何も言葉を交わさなかった。

夜が更けて、アビエラがもうテントにもどってしまってからも、加奈はまだ火のそばに座っていた。揺らめく炎を見ていると少しだけ心が落ち着いた。

今夜も、下弦の月が空に出ていた。無数の星が空を埋めつくしている。ガラスの破片を散りばめたようだ。地球から、こんなにたくさんの星が見えるということを、加奈はここに来るまで知らなかった。

足音がして、サーメルが歩いてきた。黙ったまま、そばに腰を下ろす。

「マークの傷は思ったほど深くないようです」

それを聞いて、加奈はほっと息をついた。

「よかった」思わず言葉がでた。

満点の星を見上げる。高く上っていく煙のはるか向こうで、星たちが震えるようにまたたいている。薪が燃えるにおいがする。まわりの空気はどこまでも澄んで、ひんやりと心地よい。

二人はしばらく無言のまま、風の音を聞いていた。

膝を抱いて座ったまま、サーメルの静かな横顔を見ていると、加奈は胸の内にあるものを吐き出してしまいたいような衝動に駆られた。

「アビエラのこと、誤解していたわ」

「アビエラ…?」

「ええ、誤解というよりはむしろ、彼女のことをよく知らないで、勝手に決めつけてかかっていたという方がいいかもしれない」

 サーメルは何も言わず、加奈を見た。その目には加奈の心にあることをそのまま受け止めて、つつみこむようなあたたかさがこもっていた。

「今まで考えたこともなかったけど、私はきっと、とても傲慢だったのだと思う」

加奈は搾り出すような声でそう言った。

何があったのか、彼はたずねるようなことはしなかった。静かな口調で、ただこう言っただけだ。

「人間は、自分以外の人間に対して、自分のものさしをあてたがるものです。国も、宗教も、みんな同じです」

加奈は黙ったままでいた。そしてパレスチナとイスラエルの戦いについて、そこに流されたたくさんの血と涙について思いをよせた。

「明日の朝、チタムまで戻って、そこで米国大使館に連絡を取って救援を求めれば、大使館は間違いなく動き出すでしょう。何しろ人が一人撃たれたのだから」

 サーメルが話題を変えた。

「ヘリコプターを、回してくれるかもしれないと、さっきレイが言っていたけれど…」

「それだけじゃない。アメリカ政府は、これでやっと権利を勝ち取ったとばかりに、この地に介入してくるでしょう」

「ここで、いったい何が起こっているの?」

何か表面に見えるだけではない、とてつもなく大きなことが起こっているような気がした。

「チタムで、シオニストのこと話していましたね」

加奈は黙ってうなずいた。

「アメリカやヨーロッパの有力者がシオニストであること、あるいは彼らに加担しているという見方は中東では深く根をおろしている」

「パーセプションがそのままリアリティね」

前に聞いたサーメルの言葉を繰り返してみせると、彼はちょっと笑った。

加奈も笑ったが、それから思い出したようにたずねた。

「レイはユーフラテス河の周辺の土地をシオニストと呼ばれる人たちが次々に買い上げているという言い方をしていたけど、でもそんなこと、サウジアラビアやアラブ首長国連邦のようなまわりの国が黙って見ているかしら」

 これらのアラブ諸国がいかに大きな経済力をもち、そしてその力で欧米の経済にいかに多大な影響力を及ぼしているかという新聞記事を、ここに来る少し前に読んだことがあった。

「もちろん黙って見てはいません」とサーメルは言った。

「彼らは、表向きは事を荒立てるような動きはもちろん見せません。中立な立場で中東の平和を願う平静な態度をとっていますが、それはもちろんうわべだけです。反シオニストを唱えるアラブの連合軍には中東各国から多額の資金が流れていますが、それはもちろん表には出ません」

 黙ったまま、加奈はサーメルを見た。

「アメリカのような強国はイスラエルに武器と莫大な援助を送っていると同時に、エジプトにも金を送っています。エジプトは中東でもっとも大きな軍隊をもっているから。エジプト政府はその代償としてイスラム急進派を抑制する動きを取ってきてはいます。けれども実際にはとても押さえきれない。イスラム同胞団から枝分かれしてきた急進派には実にさまざまなグループがあります。彼らは…….いや、それはここでは直接関係のない話しです。ただ ―」

彼は加奈の表情をうかがいながら、混乱させないようにと気遣っているように見えた。

「その中には、超常現象をあやつる者たちもいます」

「超常現象」

加奈はその言葉を繰り返した。

「異様に聞こえるかもしれませんが、何千年もの昔から、たびたび行われてきたことです。モーゼが持っていた杖を蛇に変えたり、ナイル河を血の色に変えたりしたことは知っているでしょう? その記述はバイブルにもあるしコーランにもあります。歴史的に見ても、同じような奇跡的な現象がいくつも起こっています。そして今話した急進派の中の一つの組織は、これらと同じようなことをする力、呪術力をもっているのです」

サーメルの声は静かに響いていた。

 この人は私をからかっているのだろうか、と加奈はサーメルの顔をのぞきこみながら思った。そのまじめな顔を今すぐにもくずして、大笑いするのではないかと思った。

けれどサーメルはそのまま言葉を続けた。

「彼らは、外界からの侵入者に対してとても敏感です。実際にシオニスト側の敵がこの地に入ってきてもいます」

風が強くなってきて、焚き火の炎が横揺れするようにゆらいだ。

空いっぱいに広がる星たちが風の向こうでゆれながら光っている。

「外界からの侵入者とは、私たちのことね」

「アメリカからのマスメディアは、彼らにとって間違いなく危険信号です。徹底的に排除しようとするでしょう」

「ひょっとして」と加奈は言った。

「みんなが探ろうとしている究極の幸せの秘密って、その組織と関係があるんじゃないの」

 有力な中東の国々からの多額のファンディング。神の名の元に打ち立てられたミッション。秘密の楽園。天国に一番近い場所。それぞれの破片を寄せ集めると、パズルがクリックする音がした。

 ゆっくりうなずくと、彼は言った。

「彼らは自然を思い通りにする力をもっています」

「それは超能力のようなものなの?」

「それを超能力と呼んでいいのかどうかわかりませんが、それが非常に凝縮された、パワフルなフォースであることは確かです」

そして加奈の目をまっすぐに見た。

「彼らは闇の中の悪しきものに通じています」

「悪しきもの…….?」

「地下に眠るさまざまな悪霊を呼び覚まし、思い通りに動かす力をもっているのです」

 悪霊という言葉は観念的に知っていても、それが具体的に一体何を指すのか即座に検討がつかず、加奈は言葉を呑んだ。サーメルに連れられていったイスラム寺院で聞いた話しを、加奈はもう一度思い浮かべた。火から創られたイブリースのことを。

「これから、いくつか不思議な出来事に逢うかもしれません」

サーメルの瞳が加奈の目をまっすぐにとらえた。

「幻想に惑わされてはいけません。すべては過ぎ去ってしまうということを信じてください。そして必ずよい結果がやってくることを。恐怖や不安に負けてしまうこと、そして悪い結果を心に描いてしまう、その弱い心が、これらの悪霊どもの最大の力となるのです。いいですか。忘れないでください。すべてはうまくいくと、心に念じ続けるのです」

 意味をよく呑み込むことができないまま、加奈はうなずいた。

その時、焚き火の炎の中で、何かがゆらぎうごめいた。そして緑色の塊がふわりと浮かび上がったかと思うと、瞬く間にそれは火の塊になった。ゴォーッというすさまじい爆音がして、地面から天高く火の柱が立ち上がる。燃え上がるその炎が、猛々しく吹き上がった。

サーメルが加奈の手を取った。

「立って!」

いったい何事が起こったのかわからなかった。火柱から吹き上げる激しい熱が顔の皮膚を焼けるほど熱くした。恐ろしさで膝が震えていた。抱き起こされるようにして立ち上がると、その腕を引っ張ってサーメルが走り出す。

 風圧とともにバサッと大きな音がした。とてつもなく大きな鳥の羽ばたく音だ。それが首筋のすぐ斜め後ろで聞こえて、加奈は思わず身をすくめた。黒い影が頭のすぐ上で風を切ってよぎる。轟くような咆哮。世界が傾く。加奈は夢中で走り続けた。それは追ってくる。心臓が早鐘のような音をたてている。目の前で何かが爆発した。轟音とともに、砂が吹き上がった。思わず目を閉じると、顔にいくつもの砂粒が当たった。

 風はすぐに止んだ。うっすらと目を開けると、目の前の地面に、岩でできた扉が見えた。

「中へ入って。今すぐ!」

 そう言うと同時にサーメルが岩の扉を押し開ける。何かの抜け道のような、あるいは防空壕のような穴だった。地下の底からヒュゥーウーと風が吹いた。中は暗くて見えない。入り口に近いところに階段が数段見えた。サーメルが加奈の体を抱きかかえるようにして下ろし、先に降りて行かせた。急な階段を数段降りたところで、その先はもう何も見えなかった。とどろく音とともに空に黒い何かが旋回している。不気味な音だ。上を見上げた途端、足がすべった。あっと声を上げながら、加奈は闇の中へ一直線にすべっていくのを感じた。

目が覚めた。そこはべドウィンのテントの中の、自分の寝床だった。あたりを見回す。隣でヴィヴィアンが寝息をたてている。眠っていてもまだ疲れが残っているのか、眉間に一本しわをよせたまま眠っている。

あれは夢だったのだろうか。片肘をつき、加奈は体を半分起こして目をこすった。頭がぼうっとしている。それに胃のあたりが重い。昨日はとにかくいろんな事が一度に起こりすぎた。疲れているのかもしれない。もう一度テントの中を見渡した。昨日と違っているものは一つもない。

もしもあれが夢だったのなら、いったいどこからが夢なのだろう、と加奈は考えた。そしてそっと手を見た。サーメルの手の感触が今も残っている。その手を、ぎゅっと握り締めて、立ち上がった。

テントの外に出てみる。空気はどこまでも澄んでいる。バッグの中から持参したシーグラムのジンジャーエールのボトルを取り出して飲んだ。淡く、甘い炭酸がのどもとを通過していく。テントの向こうに何頭かの山羊がつながれている。毛足の長い黒やぎが、のんきそうにこちらを見て、メーと鳴いた。

テントの入り口の幕が開いた。振り返ると、アビエラが出てきたところだった。加奈の姿を見て、その顔にゆっくりと微笑が広がった。加奈も朝日の中で微笑んだ。ジンジャーエールの緑のボトルを差し出す。それを受け取って、アビエラが一口飲んだ。緑のボトルが日差しを受けて光った。アビエラはそれから、ちょっとはにかんだ様子で、思い出したように「おはよう」と言った。

加奈はもう一度テントの中にもどって、身支度をした。昨日のベドウィンの女性が、豆とピタパンの簡素な朝ごはんを運んできてくれた。そして、アビエラに、レイから伝えてくれと言われた内容を告げた。三十分後には、全員が出かける体制でいるように、ということだった。

起きてきたヴィヴィアンと共に食事を済ませ、荷物を持って外に出た。マークはもう車の中に運び込まれた様子だった。容態は、夕べから落ち着いている、とアシスタントの青年がヴィヴィアンに話している声が聞こえた。

向こうから、レイが歩いて来て、「加奈、悪いんだけれどサーメルといっしょに行ってくれないか」と声をかける。

「車が一台ダメになったんだ。撮影用の荷物も手分けして持っていってくれると助かるんだけど」

 親指を上げてカジュアルな承諾のサインを送ると、加奈はサーメルの方へ向かって歩いていった。

「サーメル、夕べは…」

けれどその声を、彼はさえぎった。その代わりに、「昨日言ったことを覚えている?」と、一言。それは問いかけというよりはむしろ、確認の言葉と表情だった。

 混乱したまま、加奈は首を縦にふった。

「行きましょう」

 静かな、けれど力のこもった声でサーメルは言うと、車に乗り込んでエンジンをかけた。

雲ひとつない砂漠の空は、きょうは薄墨色をしていた。加奈がこれまで運転してきたレンジローバーのハンドルは、サーメルの手で握られているとひとまわり小さく見えた。彼は無言のまま運転を続けている。後ろに撫でつけた黒い髪が風で乱れて何本か、精悍な額にかかっている。彼がゆっくりまばたきをすると、濃い眉の下のまぶたの曲線に淡い光が反射した。

「そういえば昨日遅く、チタムからここへやってきた男に会いました。隊商の男です。あなたたちが泊まったホテルに滞在していたらしい。ここへ来ることを話したら、宿の主人に伝言を頼まれたと言っていました。あなたへの伝言です。あなたの友達のトシオという人から電話があったそうです」と、サーメルが言った。

「俊雄?」

彼がなぜ、あのホテルの電話番号を知っているのだろうかと、しばらく加奈は考えてみた。そうだ、俊雄が予約していてくれたホテルにキャンセルの電話を入れた時、代わりの滞在先を告げたのだ。

「こちらに向かうという伝言です。これから日本を発つから、と」

「えっ、ここへ来るって?」

驚いて、加奈はサーメルを見た。彼は特に意に介さぬ風で、

「それ以上は何も言ってなかったということです。チタムに着いたら電話してみれば?間に合わないかもしれないけれど」と言った。

 加奈の知っている俊雄からは、それは想像のつきにくい突飛な行動に思えた。平行線をたどるだけのような二人の関係に、それは何か新たなベクトルを感じさせる。自分がこれまでとは少し違う方向へ舵を取った途端、身の回り目に見えない波紋が広がっていくような、不思議な感覚を加奈は覚えた。これまでの人生にはなかった何かを求める強い希求は、心の中ではじまって、ゆっくりと体の中心から外界へ向けて放射状に広がっていく。それにつれて連なるいくつもの歯車の一つひとつが音を立てて動いて、互いに噛み合いながら、緻密な機械の様に最終的にはいくつもの異なる結果を生み出していくのだ。

 我にかえって、加奈は後ろに続く二台のジープを振り返った。そこには残りのクルーたちが分乗している。少し距離をおいて走ってくる車の運転席のチャーリーも、その横のヴィヴィアンも、疲れたような表情で押し黙ったままだった。冗談を言って騒いだり、歌ったりしていたこれまでの様子が嘘のようだった。

その背後の、ずっと遠くの空に、何やら黒い影が見えた。不思議に思って目を凝らすと、その黒い影が見るみる間に広がって背後から迫ってくるのが見える。

「サーメル、見て」

思わずその腕をつかんだ。

彼は振り向くと、すぐに前方を見てアクセルをいっぱいに踏み込んだ。

「何? あれは」

あわててシートベルト締める。

「ローカスだ」

 短く答えたまま、急ハンドルを切って太陽に向かって進路を取る。黒いインクをみるみる吸い取っていく和紙のような勢いで、不気味な黒い影が空に迫ってくる。狂ったようなイナゴの大群は、今や右後方のすぐそばまで来ている。何百万匹もいるそれぞれの虫は褐色で、体長が十センチ近くもある。それらは陽の光の中で気味の悪い紫色に光り、その透明な羽がおどろおどろしい音をたてる。

わーっという悲鳴とも叫びともつかない声がした。振り向いて後ろのジープを見る。それはまるで蟻の大群に包まれた角砂糖だ。加奈は思わず、目をそらして両手で口を押さえた。心臓が飛び出しそうだった。

サーメルが前を向いたまま、右手を伸ばしてその大きな手で加奈の腕をしっかりと握った。車は全速力で傾斜した砂丘を登っていく。登りつめたところまで来て急ブレーキを踏んだ。そこはまるで峻嶺のようで、目の前には、はるか下まで急な傾斜の砂丘が続く。それ以上は進めそうにない。息を呑んで、加奈はサーメルを見た。彼の顔には、躊躇も困惑もない。車の後ろに積んであった撮影の照明用パネルを取り上げて、砂の上に投げた。タタミ一枚分くらいありそうなパネルだ。「滑っていくんだ」そう言うなり、加奈の体をつかんで、パネルの上に身を投げ出した。

パネルはジェットコースターの勢いで砂の上を滑り出した。砂の粒が顔にピシビシと音をたててあたった。急な傾斜の雪山を直滑降フルスピードで滑るように、二人を乗せたパネルは滑っていく。とてつもない早さだった。砂丘の段差に来る度、パネルが地面から何十センチも浮き上がり、また叩き付けるように地面に戻った。加奈をかばうように、彼は自分の体でその体を覆うようにしている。その腕と体のぬくもりが今は唯一の救いに思えた。

その時、加奈は見た。左前方から、何かが一列になって近づいてくる。戦車と装甲車だ。その数は数十台にものぼる。それは昨日見た装甲車とは違う。車に乗っている兵士たちの制服も違う。同じ部隊のものではない。

やにわに、砂が動いた。そして地面がぐらぐらと揺れだしたかと思うと、とどろきの音とともに、何かが噴出すように砂の中から現れた。それはまるで何十メートルもある何かとてつもなく大きなもの―まるで映画に出てくる大ダコの触手のようだ。不気味な緑の触手がグググーグヮーンと天高く伸び上がる。メタリックな濃い緑が、太陽の光ににぶく光る。その触手の先は鞭のように空から降り立ち、目の前の軍用車をすくい上げ、はるか高方へ持ち上げた。

加奈はサーメルの言った言葉を思い起こした。「幻想に惑わされてはいけません。恐怖や不安に負けてしまうこと、そして悪い結果を心に描いてしまう、その弱い心が、これらの精霊どもの最大の力となるのです」そして目をかたく閉じた。

その時、体がぐるりと旋回するような感じがした。パネルがこれまでと違う方向に流されていくのがわかる。目を開けると、目の前の砂が、黒く壮大な、竜巻のようなトグロを巻いている。そのトグロの中心がぽっかりと口を開けた。中からどろどろとした火のようなマグマが見える。「奈落の底」という言葉がとっさに頭をかすめた。思わず目を硬く閉じた。サーメルの腕が加奈の頭をかかえるようにかばう。パネルの旋回が早まり、嵐の中の小船のように体が回って沈んでいく。

頬にあたる冷たいものを感じて目を開いた。一面の雪だった。前も後ろも、見渡す限りすべてのものが白い雪に埋もれている。

加奈は顔を上げて、その頬についたひとひらの雪片に、震える指先で触れた。冷たい感触とともに、雪が指先で露の玉に変わり、流れ落ちた。

地面に膝をついたまま、ゆっくりと体を起こして、体から雪を払い落とした。吐いた息が白かった。

まったく音のない、どこまでも白い世界は、冬山の景色というよりはむしろ、この世のものではない、とてつもなく大きなプラスチックのカプセルの中にいるような錯覚を起こさせた。

しんとした、雪のにおいがした。

雪を踏みしめる足音がすぐ背後で聞こえて、振り向くとそこにサーメルが立っていた。

助け起こすように加奈を立ち上がらせると、その手の甲で、頬に触れた。

「血が出ている」

もう一度、指先で頬に触れてみると、確かに薄赤い色に指が染まった。

「痛む?」

のぞきこむように言うサーメルに首を振って答えて、今度は手の平で頬をぬぐって見せた。彼が満足そうに笑ったとき、後方で爆音が響いた。

「急ごう」

サーメルは加奈の腕を取って前に歩き出した。

 雪の中を何度も転びそうになりながら、そしてその度にサーメルの体に支えられるようにしながら、加奈は歩き続けた。

しばらくすると目の前に氷で覆われた河が現れた。まるでたったさっきまで、ごうごうと音をたて、しぶきを上げて勢いよく流れていた河の水が、一瞬にしてフリーズ・ドライしたように、その波打つ表面がそのまま凍てついている。

黙ったまま、加奈はサーメルの顔を見た。その目を穏やかに受け止めると、彼は加奈の手を取ったまま、足を前に伸ばして氷の上に降り立った。一歩一歩、足場を確かめながら、二人は河の上の薄氷を渡っていった。

氷は透明で、まるで氷の彫刻を思わせるように美しかった。河の奥まで透き通って見えそうなのに、底は見えない。検討もつかない底知れぬ深さが、足の下に続いているように思えた。

河の中ほどまで来たときに、後方で声が聞こえた、

振り向くと、それはアビエラだった。

片手を高く上げながら、加奈の名を呼んでいるように聞こえた。

次の瞬間、氷の砕け割れる音とともに、水音が響いた。アビエラの姿が氷の下に消えた。

息を呑んで、サーメルの手をふりほどくようにしながら、加奈は向きを変えて走り出した。

「後ろへ戻ってはいけない!」

 その声に振り向くことなく、加奈は、彼女が沈んだ場所へ向けて進み続けた。

足の下で、薄氷がきしきしと気味の悪い音をたてた。

「加奈!」

後ろからを追ってきている彼の声を聞いたような気がした。思わずよろけて、手をついた。

そして、見た。氷の下に流れるアビエラの体を。

「アビエラ!」

氷に膝をつけたまま、叫ぶ声が自分の声ではないように聞こえた。立ち上がろうとしたが体が凍りついたように動かない。足ががくがくと震えていた。

アビエラは氷の下から手をついて加奈を見上げている。まるで、邪悪な魔女のせいで鏡の中に閉じ込められてしまった子供のようだ。

「アビエラ、どうしたらいいの?! 教えて、どうしたらいいの!」

泣き叫びながら、氷の上に両手をついたとき、目の前の氷の表面にジグザグ状の亀裂が走った。まるで蛇が敵をめがけて奇襲をかけるように、亀裂は膝のすぐ下まで走ってきた。氷の割れる音がして、ゆっくりと、加奈は自分の体が冷たい水の中に沈んでいくのを感じた。まるでスローモーションの映像を見ているようだった。体が深い河底に向けて沈んでいく。頭上からは淡い光が差し込んでいる。無我夢中でアビエラの体を探したが、氷の下の河は水が渦巻き、まるで巨大な高速洗濯機の中の一円玉のように体が翻弄された。水の力に引っ張られ、足が沈んでいく。サーメルの名を呼んだ声は泡に変わり、口元から離れていった。

気がついたときは、のぞき込んでいるサーメルの深い瞳が目のすぐ前にあった。

記憶が戻るまでに数秒かかった。

反射的にあたりを見回して、それから加奈は飛び起きるように体を起こした。

「アビエラは?」

彼は黙ったまま首を横に振った。

 手の平を額に押し付けて、加奈はきつく目を閉じた。こめかみが鈍く痛んだ。しばらくそのまま動けなかった。地面に手をつくと、ざらりとした砂に触れた。そこはもとの砂漠の真ん中だった。加奈は自分の体に手をあてた。服には水に濡れた形跡などない。

「まだ終わってはいない。日が暮れないうちに、ここを発たなければならない」

立ち上がったサーメルが手を伸ばしてきた。その手を握り返して、加奈はようやく体を起こして砂の上に立った。

めらめらと燃えるような太陽が砂漠を照らしている。ひさしを作るように額に手をあてて、空を見上げたとき、その太陽に影が差した。その黒い影は、右側からはじまって、見る見る間に太陽を侵食していく。しばらくするとその大半を食いつくし、コロナの光はまるで三日月の形のように見えた。そばには一番星が出ている。それはまるでイスラムのシンボルの月と星のようだ。

「皆既日食……..?」

思わずつぶやいたとき、ヒューン!という音がして、耳の横を何かがかすめ飛んだ。続いて、ダダダダッとマシンガンの響きがすぐ近くで響いた。「急ぐんだ!」サーメルが腕を引っ張る。車の軋む音がして、軍用車が目の前で止まった。中から銃をもった二人の男が降りてくる。二人とも濃い口ひげとあごひげに覆われたいかめしい顔の男たちで、一人は胸にダビデの星の模様が入ったバッチをつけている。その銃をこちらに向けたとき、太陽を覆う月の影がその光を埋め尽くした。

一瞬にして、闇が降りてくる。

「The sun’s died (太陽が、死んだ)」

男の一人が、つぶやいた。そして空を仰いだ。その次の瞬間、男はサーメルのパンチを真正面から顔に受けて倒れた。その男から取り上げたライフルで、彼はもう一人の男のあごにアッパーカットを食らわす。まるで映画の殴られ役のように、男は音をたてて仰向けに倒れた。

 サーメルが車に乗り込んだ。加奈も助手席に飛び乗った。背後から何台もの車が追ってくる。サーメルはまっすぐに前を見ている。砂埃を吹き上げ、二人の車はフルスピードで突き進んでいく。その時、とどろくような地響きの音がして、目の前の地面にいくつもの亀裂が入った。視界が揺れ動く。ゴォーッ!という豪快な音をたて、地面は見る見る間に引き裂かれていく。背後で何台もの車が転倒する。叫び声が聞こえる。

 そして加奈は見たのだ。

100メートル先の、つまり次の瞬間には奈落の外へ突き落とされるような目の前の深く赤黒い亀裂に、銀色の砂の橋が一瞬にしてかかったのを。

その次の瞬間、車がふわりっと中に浮いて、その橋を滑るのを。

「これは、一体…………」

気が遠くなるような気持ちで、けれど目を見張らざるを得なかった。

薄暗い闇の中で、きらめくように、光る橋。背後には、人々が亀裂に飲み込まれていく暗いとどろきが響く。

「神様」と思わず声を出した。

空からやにわに神の手が、降りてきたのだ、そう思った。

 サーメルの横顔を見た。彼は口を固く結び、しっかりと、その手でハンドルを握っていた。

 風の音を耳に感じながら、意識が遠くなっていくのを感じた。

どれくらい目を閉じていたのだろう。まるで長い夢から覚めたように加奈は目を開いた。

「加奈」

サーメルが名を呼んだ。

砂漠はもとの静けさを取り戻していた。もう何も見えない。空と、砂丘と、そして二人を乗せた車があるだけだ。

「加奈」ともう一度、彼は呼んだ。

 いく度かまばたきをして、体を起こした。

運転席から、彼が身を乗り出すようにして加奈の顔をのぞきこんだ。そして、「もう大丈夫だ」と、落ち着いた声で言った。

太陽の光が斜めに差して、落日が迫っていることを告げていた。

加奈たちの車の影が砂の上に長くのびている。

サーメルの顔をみながら、加奈はゆっくりと、言った。

「サーメル、これまでどうしても尋ねることができなかったのだけれど」

そして彼の方へ向き直った。

「あなたは ―」と、そこまで言ってから、言葉をどう組み立てていいのかわからずに、加奈は言葉を切った。

その代わりに、彼が言った。

「あの魔物たちに通じている一味の一人なのか。そう聞きたい?」

黙ったまま、加奈は彼を見た。そして彼がその静かな表情の裏に時おり見せる、野性の猛禽類の目の光を思い起こした。得体の知れない者たちの一人というよりはむしろ、そのリーダー格の一人ではないかと思えた。集団としてのミッションのもとに、彼らを統制するために動きながら、けれどどういうわけか、加奈には理解できない理由で、彼女のことを護ろうとしている。

「その答えはむずかしい」

彼は加奈をまっすぐに見て言った。

「けれどもし、行ってもいいと思うなら、ワヒの村へ連れて行くことはできる」

「ワヒの村は本当にあるの?」

彼はうなずいた。そしてしばらくの沈黙の後、額にかかった髪をかきあげた。

「いっしょに来てほしい」と、とても静かな口調で彼は言った。

そして手の甲で、加奈の髪をゆっくりとなでた。その手が耳の横に触れた時、加奈は思わず頬を寄せるようにその大きな手に顔をつけた。

頭を上げると、サーメルを見た。

「どうして私なの?」とその目は問いかけていた。

少し笑って、彼は下を向いた。

「はじめて君を見たとき、無色透明だと思った。めずらしいくらい」と、彼はそう言った。

「ずっと考えていたの。ロジディの村で、あの老婆が言ったことを」と、加奈はつぶやくように言った。

「個なる種を蒔け、というその意味は、あなたが教えてくれた通りのことじゃないかって」

 それから、しばらく言葉をつぐんだ。

「私の天命。私にだけにできることを」

彼は何も言わなかった。ただ、いつもの、静かな包容するようなまなざしを向けただけだった。そしてイグニションに差し込んだ鍵を回した。ブルルンッとというエンジンの音が、静かな砂丘に響きわたった。

 滑り出すように車が動き始めた。

そのまま二人は黙りこんだままでいた。

それでは、土壌を清く保てという意味は、どういうことなのだろうか、と加奈は心の中で考えた。心を清く保つということだろうか?

そしてもう一度、加奈はそばにいるサーメルの横顔を見た。

できることであれば、いつまでも、そばにいたい、そう思った。

 その時窓からはるかかなたに何か薄灰色の影がぼんやりと見えた。

「車を止めて」

加奈は車を降りると、紺碧の空と赤褐色の砂漠の間に見える雲のかたまりのような陰を見上げた。

  9

 それは蜃気楼のようにも見えた。

 近づいていくと、その影はゆっくりと姿を明晰にしていった。それは何かの遺跡のような建物だった。そびえ立つほどの大きな円柱の柱が何本も天に向けて空を突き刺すように建ち並んでいる。その向こうにはパルテノン神殿のような古代建築が建っている。神殿のようだが、それはあまりに完璧な姿で、人間の手で作られたというよりは、宇宙からきたスペースシップのようにも見えた。

加奈はゆっくりと、その方向へと砂漠を歩いていった。そして最初の柱のそばまで来ると、その柱に手をあてて、それが目の錯覚ではなくまぎれもない現実のものであることを確かめた。

柱は天に向かってまっすぐに伸びている。直径は数メートルもあるように思えた。高さは十階建てのビルほどもあろうか。白い石の素材で、そこには象形文字のような絵文字が掘り込まれている。その向こうに同じような柱が何本もつらなり、まるで遊園地にある鏡の館に来たような錯覚に加奈はつつまれた。

中に歩みを進めると風の音が聞こえた。それは美しく幻想的な音楽のように聞こえる。

奥に進んでいくと大きな扉の前に現れた。扉の左右や上方は石の壁に覆われている。扉はとてつもなく大きく、まるで自分が小人になったように思われた。ゆっくりと扉を押すと、もう何千年も開かれていなかったかのような重く軋んだ音を立て、ゆっくりと中へ開いた。

驚いたことに、中はまったくの別世界だった。広々とした舞踏会場のような空間に、ポストモダンを思わせる明るい色のモニュメントが左右に立ち並んでいる。大理石のような床は、白くつややかに光っている。天井はなく、見上げると四角く切り取られたような空からたそがれ時の淡いベールのような陽光が注いでいる。

空には早くも星が出はじめている。

空間の中に足を踏み入れ、加奈は中の方へ向かって歩いていった。

そのとき見上げた宙の中に何か光るものが動いた。目を凝らしてみるとそれはゆっくりとらせん状の輪を描きながら上昇している、いくつかの小さな魚だった。空から差し込む光にその銀色の尾と背びれが光っている。ターコイズブルーと鮮やかなレモンイエローの魚たちは群れをなして、ダンスをするように宙を泳いでいる。

信じられない気持ちで、加奈は光る魚たちを目で追った。

足音を感じてふり向けば、そこにサーメルが立っていた。いつもと同じように静かな表情で空を回遊する魚たちをながめ、それからゆっくりと、加奈に視線を移した。 

風の音楽は厚みを増し、いつのまにか神秘的な抑揚のある音階を奏ではじめている。歩き始めたサーメルにつられ、加奈も肩を並べるようにして歩き始めた。

そこに並ぶポスト・モダンのモニュメントたちは、よく見ると、それぞれにどこかで見たような気がするものだった。思い出そうとしたが、それは淡い陽炎のようにつかみどころがない。遠い記憶の宇宙に消えかけた断片を拾い集めようと試みたが、どこから取り掛かればいいのかわからず、加奈は途方にくれた気持ちになった。

前方に大きな広がりが見えた。そこは舞踏会場のような広く丸い空間だった。天井はドーム型になっていて、その中央は、屋根のないまま、ぽっかりと開いたままになっている。壁にはさまざまな絵文字が浮き彫りになっていた。床はこれまでのような白い大理石のものとか代わって、多様な彩りの、モザイクのようなタイルでできているように見えた。初めて来た場所にもかかわらず、なぜかとても懐かしいような気持ちになった。

大広間をぐるりと囲む石の壁にはいくつもの灯かりがともっている。それぞれの灯は、ゆらゆらと淡く揺れて見える。空間の中ほどまで来ると、その灯の一つひとつがゆっくりと浮かび上がるように壁から離れていくのが見えた。灯りに見えたそれらは、オレンジがかった半透明のクラゲだった。無数のクラゲは、傘を開いたり閉じたりしながらゆっくりと遊泳している。傘から美しく伸びた長い触手が宙を舞う。クラゲたちの動きに合わせて、その触手からきらきらと光る銀の粉がふりまかれて空間を埋めていくような気がした。

まるで光のボールのように宙を舞うクラゲの数々に目を見はり、身動きできないでいると、今度は低いシンセサイザーのような音がして、空からゆっくりと波打つように泳いでくるものがあった。それは二匹の白いクジラだった。その巨体をひねるようにしながら軽やかに回転する。ゆったりとした動きで頭上の空間を遊泳している。その体は真珠のような輝きを放っている。それぞれのクジラは、美しく、とても自由で、そして気持ちよさそうに見えた。

加奈とサーメルを囲むように、その頭上をゆるやかに旋回し、そしてそのまま空へ向けて泳いでいく。クラゲたちもその後を追うように浮上して、空高く昇っていった。  

何か言おうとして、けれど戸惑って、加奈は口をつぐんだ。心の中の壁を埋め尽くしていたウロコがはらはらと、音をたててはがれ落ちていくような感触を胸に覚えた。そしてそこには、透き通るように薄く、たよりなく、真っ白い、生まれたての心があらわれる。

「恐れないで」

そう言って、サーメルはとてもやさしい目をした。

幻想と現実のはざまにあって、そのまなざしは加奈の心を慰撫するように包み、とても安心した気持ちにさせた。

「ここに来たことがあるような気がする」と、加奈は言った。けれどそう口に出す前に、サーメルはすでに加奈の心を知っていたかのように見えた。

加奈は自分の頬が熱く濡れているのを感じて、はじめて自分が泣いていることに気づいた。

ずっと自由になりたかったのだ。

強い思いが胸に押し寄せてくる。

ずっと、ずっと解き放されたかったのだ。自分を縛るものから。自分を縛ってきた他ならぬ自分から。平凡で無難な毎日に自分を型取るように閉じ込めてきたもう一人の自分から。 

その時、モザイク上の床のタイルが音をたてて次々にはがれ、宙に向かって浮かび上がったかと思うと、まるで蝶の大群のように天へ向かって上昇し始めた。そのあまりの風圧と音に耐えかねて、加奈は思わず身をすくめた。

その体をかばうように、サーメルは彼女の肩を抱いた。そしてゆっくりと前方へ歩き始めた。

嵐の中を前に向かう人々のように、二人は歩いた。

幻想と現実のはざまの川を渡るように、加奈は体と心の重みをサーメルにあずけていた。肩を通じてサーメルの体のあたたかみが伝わってくる。それはこの世で唯一の本当のもののように思えた。

どれくらい歩いただろうか。外へ出ると、空はもう暗く、星が光っていた。空気は澄んで、ひんやりとしている。

振り向くと、そこにはもう何も見えなかった。どこまでも続く砂漠が月明かりに照らされて広がっている。そう遠くまで歩いたわけでもないのに、まるで何もかも、いっさい存在しなかったようにすべてが跡形なく消えていた。

加奈はその清浄な空気を胸の中に吸い込んだ。

「土壌を清く保てという意味は」と、彼女は言った。

「心から恐れと執着を取り除けという意味ね」

 彼は無言で、加奈の顔を見た。そして、ゆっくりとうなずいた。

 

一陣の風が吹いた。

 加奈は空を見上げた。

 生きるということ。

 生きているということ。

 そして、生かされているということ。

 私は、死なない、と加奈は思った。

それはあまりに唐突で、強い、腹のそこから湧き上がってくるような叫びの声だった。  

私はまだ、死なない。

 まるで生まれ変わったように、これから生きるのだ。

 私にはそれができる。

砂漠を吹き抜ける風が、頬を駆け抜けていく。目の前に見えるのは空低く輝く月とその下に果てしなく広がる黄金の海のような砂漠だけだった。止めた車の前まで、二人は歩いた。少し離れたところに、一列になっていくらくだの姿が見えた。その日の仕事を終えた交易商が、帰路に着くところのようだった。銀色の月の光が、ラクダたちの影を揺ら揺らと、その美しい砂の地模様の上に映し出す。それはまるで遠い記憶の絵本の中の挿絵のようだった。あれは何の絵本だったろう、と加奈は考える。童謡の本の挿絵だったかもしれない。月の砂漠をはるばると、旅のらくだがゆきました。金と銀とのくら置いて、二つ並んでいきました。広い砂漠をひとすじに二人はどこへ行くのでしょう。おぼろにけむる月の夜を黙って越えて行きました。

「ワヒの村はここから近い」

車に背をあずけるようにもたれかかったまま、サーメルが言った。そしてゆっくりと胸の前で腕を組んだ。

「道は二つだ。君がそうしたいなら、最初から行くはずだったアクラムへここから戻れる。道は後ろだ。空港へ向かって、日本へ帰るなら、それもいい。同じ方向だ。けれどもし、ワヒの村へ行くなら、ここから前に進む」

黙ったまま、加奈は彼の目を見た。

 いっしょに行けば、もう元の場所に帰れなくなるのか、そして、もし今いっしょに行かなければもう二度と会えないのか、やにわにそんな疑問が浮かんだが、それは吹き上げられた砂塵のようにすぐに風に吹き消えた。

自分の本当のジハードが何なのか、まだ答えはない。けれど、それは必ず見つかるだろう。なぜならそれは、この体の中にある宇宙が、もうすでに知っていることだから。後は耳を澄まして、その声を聞けばよい。加奈は、まっすぐに親指を立てたまま、ゆっくりと、その手を前に伸ばした。そして手首を回転させて、立てた親指で、これから進む方向を指した。

           


     了







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浅井さとこ | スクーンカップ代表 | Satoko Asai サポートは株式会社スクーンジャパンおよび米国スクーン社が乳がんのNPO団体(LBBC)に寄付する資金に利用させていただきます。