Hakka
帰宅してドアを開けたとき、異様な静けさと顔を覆う生温さですべてを察した。真っ暗な部屋で、玄関土間の隅に置いた冷蔵庫を開ける。その中は薄暗く、残されていた冷気が少しこぼれた。部屋奥のエアコンは切れている。
この1週間、私は爆弾を抱えて通勤していた。薄い紙製の、3,523円と書かれた爆弾。電気料金の督促状だった。ありがたいことに、電気料金の督促状というものは、回を重ねるごとに明瞭になっていく。7月17日までに入金しなければ電気供給を止めます、ということが分かりやすく書いてある。電気料金の督促を2度無視する者でも理解できるように、配慮されているんだろう。
7月17日という日付は、私の脳に刻まれていた。13日には「あと4日か」と思い、16日には「明日か」と思った。17日、眠りにつくとき、「まだだった」と思った。そして今日、18日「あぁ」と思った。
次いで、「殺してくれ」と思った。
財布には6千円入っている。払えるし、日本語も読めて、督促状を紛失もせず、自宅から駅までの間にあるコンビニに立ち寄れば、30秒かからず支払えた。それでも私は、爆弾を明日へ明日へと渡した。
エントランスで、問い合わせ先に電話をし、今から振り込む旨を伝えた。お手数ですが殺してください、とは伝えない。ぷん、と耳横を蚊が飛び、贅沢にも手ではらって、電話口の穏やかな声を聴きながらそっと苦笑した。
中学時代は、授業前の休み時間、必死で同級生のノートを写した。あの頃はまだ、そうしていた。大人になり、薄給ながらも食い扶持を得、職場では滞りなく請求書を処理できている。それでも私は、爆弾をカバンから取り出せなかった。コンビニのレジで払込票を差し出す羞恥、手持ちの現金が減る焦燥感。過るが、どれもが理由にならない。爆弾がある、と思いながら何もしなかった。
コンビニの店員が、ばんばんばん、と払込用紙にスタンプを押していく。やや厚めの紙をびっと切り離す音がする。その感じで、私の腹も裂いてくれ。払えるものを見過ごし続けたのは自分なのに、その結果を突き付けられると、無視した日々分の自己嫌悪がのしかかる。殺してくれ。改善シロを探す前に、どうかこのまま身体ごと葬ってくれ。コンビニの店員は、電気料金を滞納した客には相応しくない笑顔で「ありがとうございました」と言った。
店内は明るくて涼しい。自動車免許合宿のCMが騒がしく、思考をまとめさせてくれない。電気供給の再開までに40分ほど要する。そういう事実が、私に店内徘徊させた。
ふと、アイスクリームの冷凍庫の前で足を止めた。
「ひとり暮らしの女性は、コンビニでアイスを1個買ってはならない」と聞いたことがある。アイスを持ち歩いても溶けない距離に住んでいて、1個だけだから独り者だとばれてしまうから。折しも、電気料金を支払った女である。近隣に住む独り者のだらしない女、家は真っ暗。
殺されるかもしれない、と思い、チョコミントの大きめのカップアイスを手に取った。はなむけにと、酒コーナーのプレモルに手を伸ばし、「反省しろ」と金麦の方に指を滑らせた。
帰宅したら、まだ部屋は真っ暗だった。電気業者の来訪を待つばかりなのに、世界一意味のない動悸がしている。部屋を出る、と決めた。玄関ドアにカギはかけず、ベランダに出た。
隣のマンションの灯り。少し先の住宅地の、家々の灯り。そのひとつひとつに生活があるのなら、この部屋にいま生活はない。ただ私とチョコミントと、金麦だけがある。ストッキングを脱ぎ、窓枠の段差に腰掛けて足を投げ出す。木でできた小さなスプーンで、チョコミントを一口食べる。ミントと拮抗する、死んでいる木の味。金麦で流し込む。薄い苦さと、アイスの甘さと、全部の要素がバラバラなまま、冷たく喉を通過する。死んでもいい、と思った。
そのとき、バクッと玄関のドアが開く音がした。ぺち、シャッ、ぺち、シャッと、床と足裏の皮膚が付いて離れてを繰り返す音がする。来た。金麦をベランダの床に置き、ゆっくりと振り返った。寝巻にしている、高校のえんじのハーフパンツを着た、私がいた。窓から入る光のおかげで、腰から下だけが見える。
「大丈夫、許さないよ」と、ハーフパンツの私が言う。
「許さないでくれるの」
「許さないでいてあげるよ。誰が私を許しても、全部許さないでいてあげる」
「殺してはくれない?」
「殺さないよ。その代わり、許さない」
私――さっきチョコミント金麦を飲んだほうの私は、微笑みかける。パッと電気が点いた。フローリングの上にチョコミントのカップを置き、誰もいない部屋の中小走りで玄関に向かう。マンションの共用廊下にいた業者のお兄さんは、明瞭ながら隣室には聞こえない配慮の行き届いた声で、電気の再開を告げる。彼に殺してほしいとは思わなかった。私が、私を許さないから。
部屋に戻れば、開け放した窓から虫が入り、LED電球の周りを飛び交っている。殺虫剤を取りに、ふたたび玄関へと戻った。
(2,041文字)(ごめんなさい)
どーうしても、2,000字以内に収まらなかった!
発想元は、いつも何かしら短編のタネを探すようにはしていて、その中の「夏らしい不快」「コンビニで払込」「薄荷」を合体!(CV. トム・ブラウンみちおくん)しました。若い女性の緩やかな不幸が癖です。
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もっといい小説を書きます!