浅田彰超全史──「書かない天才」はいかにして生まれ、いかにして消えなかったか
序──ある座談会の告白
西部邁は「浅田さんがほとんど書かなくなったのは、世界や人類を軽んじてのことか」とあえて問いかけた。一九九八年、雑誌『批評空間』での座談会である。浅田彰の答えは徹底した自己批評であった。単純に怠惰ゆえだとしたうえで、自分は狭い範囲で物事が明晰に見えてしまう小利口で小器用な人間であり、大きな盲目も、どうしても書きたいという欲望も持てない──要するに本当の才能がない、と述べたのである。書くことに「選ばれる人間」と「選ばれない人間」がいて、自分は選ばれなかっただけだ、と。そして最後に、いま言ったことすべてが明晰な逃げ口上にすぎないことも自覚している、と付け加えて締めている。
この短い応答のうちに、浅田彰という知性の全構造が凝縮されている。自己を突き放す明晰さ、その明晰さ自体を疑う二重の明晰さ、そして「大きな盲目」──つまり自分の限界が見えないまま巨大な作品へと突進する狂気──への、羨望とも諦念ともつかぬまなざし。二十六歳にして戦後思想史上最大級のベストセラーを放った男が、なぜその後、単著らしい単著をほとんど書かなかったのか。この問いは日本の批評史における最大の謎のひとつとして、四十年以上にわたって反芻され続けてきた。
だが問いの立て方を変えてみるべきではないか。浅田彰は本当に「書かなくなった」のか。あるいは、書くことをやめたのではなく、書くことの様式そのものを変更したのではないか。本稿は、この稀代の批評家の軌跡を誕生から現在まで通覧し、「書かない天才」という神話の内実を検証する試みである。
第一章──神童の形成
浅田彰は一九五七年、神戸に生まれた。幼少期から圧倒的な読書量と記憶力で周囲を驚かせた早熟の少年は、関西の濃密な知的風土のなかで育ち、京都大学経済学部に進学する。卒業後は同大学院を経て、京都大学人文科学研究所の助手となった。専門は経済学、なかでも貨幣論と資本主義の理論的分析である。
重要なのは、浅田が最初から「批評家」として登場したのではないという点である。彼の出自はあくまでアカデミックな社会科学であり、マルクス、ケインズ、シュンペーター、そして当時日本ではまだ紹介の途上にあったフランス現代思想──ドゥルーズ=ガタリ、ラカン、バタイユ、クロソウスキー──を経済学の理論的刷新のために動員するという野心のなかにいた。人文研という、京都学派以来の学際的伝統をもつ研究所の空気も大きい。文学、歴史学、人類学の研究者たちと日常的に交わる環境が、後の浅田の異様なまでの守備範囲の広さ──経済学から現代音楽、映画、美術、建築、ダンスまで──の土壌となった。
同時代の証言が一致して伝えるのは、その処理速度である。難解で鳴るフランス語の理論書を原書で瞬時に読み、要点を数分で再構成してみせる。あらゆる本を読み、あらゆる映画を観て、あらゆる音楽を聴いているかのような遍在性。関西の演奏会場や美術館に行けば必ず最前線に浅田がいる、という伝説は、誇張を含みつつも本質を突いていた。この「速さ」こそが浅田彰の本質であり、後に彼自身が語る「矮小な範囲で物事が明晰に見えてしまう」という自己規定の裏面でもあった。明晰に見えてしまうから、格闘の痕跡が残らない。格闘の痕跡が残らないから、作品が厚みを持たない。天才の速度は、作家的な鈍重さと引き換えにしか手に入らない何かを、最初から彼に断念させていたのかもしれない。
もうひとつ、京都という場所の意味を強調しておきたい。東京の論壇ジャーナリズムから一定の距離を置き、しかし孤立はしない。この絶妙な位置取りは、生涯を通じて浅田のスタイルであり続ける。中心にいながら中心に属さないこと。それは後の「逃走」の理論の、伝記的な原型である。
第二章──『構造と力』の爆発
一九八三年、勁草書房から刊行された『構造と力──記号論を超えて』は、出版史に残る事件となった。構造主義とポスト構造主義の見取り図を、ラカンの理論とコジェーヴのヘーゲル読解を軸に再構成したこの理論書は、本来なら数千部売れれば上出来という種類の本である。それが数十万部を売り、二十六歳の京大助手を一夜にして時代の寵児に変えた。
なぜ売れたのか。第一に、圧倒的な整理能力である。当時、断片的にしか紹介されていなかった現代思想の全体像を、一冊で見晴らせる地図として提示した。クラインの壺のモデルで近代を図解し、コード化・超コード化・脱コード化の三段階で社会形態の変遷を整理するその手際は、チャート式とすら揶揄された。しかしその明快さは単なる入門書のそれではなく、「知の見取り図を描くこと自体がひとつの批評行為である」という新しいスタイルの発明だった。第二に、時代の気分との共振である。高度成長が終わり、消費社会が爛熟し始めた八〇年代初頭の日本で、「差異化のゲームとしての資本主義」を語る浅田の言葉は、広告代理店からキャンパスまでを貫く共通言語となった。西武セゾン文化が絶頂を迎え、パルコの広告が記号論を纏った時代である。知はダサいものから、最もスノッブでファッショナブルなものへと反転した。いわゆるニュー・アカデミズムの誕生である。
「浅田彰現象」はメディア現象でもあった。週刊誌が京大の研究室に押しかけ、テレビが「知の若きプリンス」を追い、当人の意図を超えて偶像化が進行する。中沢新一の『チベットのモーツァルト』と並び、ニューアカの二枚看板として消費される状況を、浅田自身は醒めた目で見ていた。『構造と力』は序文で自らを「千の否のあとの大いなる肯定」へ向かう助走と位置づけつつ、本文はあくまで教科書的な整理に徹している。つまりこの本は、来るべき本格的な仕事のための予備作業として書かれたのであり、それ自体が代表作になることは、著者の設計に反していたのである。代表作が最初に来てしまい、しかもそれが本人にとって習作であったという捻れ──浅田彰の生涯を貫く逆説は、ここに始まる。
第三章──逃走の哲学とスキゾ・キッズ
翌一九八四年の『逃走論──スキゾ・キッズの冒険』は、前作の理論を時代のマニフェストへと翻訳した。パラノ(偏執型)とスキゾ(分裂型)という対概念で、定住し蓄積し追いつめる近代的主体から、軽やかに逃げ、乗り換え、横滑りするポストモダン的主体への転換を説く。「逃げろや逃げろ」という挑発的な身振りは、管理社会化する日本への抵抗の身振りとして、また消費社会を泳ぐ若者たちの自己肯定の理論として、二重に消費された。「スキゾ」「パラノ」はその年の流行語となり、思想用語が茶の間に届くという、戦後日本でもきわめて稀な事態が現出した。
ここで見落とされがちなのは、「逃走」が浅田にとって単なる時代診断ではなく、自己記述でもあったことである。ひとつの場所に留まり、ひとつの大著を積み上げるパラノ的な知のあり方を、彼は最初から生理的に拒否していた。後年の「大きな盲目をもてず、したがってどうしても書きたいという欲望ももてない」という告白は、八四年の時点ですでに理論として先取りされていたのだ。逃走論とは、書かないことの哲学的正当化として読むことができる。人は自らの症状を理論化するとき、最も輝くのかもしれない。
この時期の浅田は、メディアの申し子でもあった。『朝日ジャーナル』の若者論、テレビ出演、坂本龍一や中沢新一、四方田犬彦らとの交遊。一九八五年のつくば科学万博では坂本龍一とともに「TV WAR」を仕掛け、ラディカルなテレビジョンの可能性を問うビデオアートと音楽の同時多発的パフォーマンスを実現した。同年には理論的続編というべき『ダブル・バインドを超えて』も出ている。知識人がポップであることの可能性と危険を、彼は誰よりも早く生き、誰よりも早く撤退した。八〇年代後半、ニューアカブームが沈静化し、揶揄と反動が始まったとき、最も傷が浅かったのは、最初から熱狂を信じていなかった浅田自身であった。
なお、この時期の浅田を「消費社会の肯定者」と見るのは、よくある誤読である。彼が肯定したのは、資本主義が旧来の共同体的な拘束を溶かしていく脱コード化の運動であって、その果てに現れる差異の消費ゲームそのものではない。逃げることを勧めたのは、逃げた先に楽園があるからではなく、留まる場所がすでに罠だからである。この微妙な、しかし決定的な留保は、ブームの喧噪のなかでほとんど聞き取られなかった。スキゾ・キッズという言葉だけが独り歩きし、軽やかな消費者の自己像として流通した。理論家が時代に読まれるとは、常に誤読されるということである。そして浅田は、自分が誤読される様子までも冷静に観察し、注釈を付け続けた。この距離感覚──自分が巻き起こした現象の内部にいながら、その現象を外から記述できる能力──こそ、彼を単なる流行思想家から区別するものであった。
間奏──ニューアカとは何だったのか
ここで一度立ち止まり、浅田彰が体現した「ニュー・アカデミズム」なる現象を、功罪の両面から総括しておきたい。というのも、浅田への評価は、この現象への評価と分かちがたく結びついているからである。
批判は当時から山ほどあった。曰く、輸入思想の器用な紹介にすぎない。曰く、資本主義批判を装いながら消費社会の広告塔と化している。曰く、難解な用語で若者を煙に巻く知的スノビズムである。九〇年代後半、海外で科学用語の濫用をめぐって現代思想への疑義が噴出すると、日本でもポストモダン思想全体への冷笑が広がり、ニューアカは「あの浮かれた時代の徒花」として回顧されるようになった。バブル経済とセットで葬られたのである。
しかし距離を置いて見れば、別の像が浮かぶ。第一に、ニューアカは日本の読書人の理論的リテラシーを一挙に引き上げた。ドゥルーズやフーコーの名が一般教養の一部となり、その後の人文書出版の裾野を作ったのは、間違いなくあのブームである。第二に、浅田自身は用語の濫用にもっとも厳しい監視者であった。流行のなかで理論が弛緩し俗流化することを、彼は誰よりも執拗に批判し続けた。ブームの火付け役が同時にブームの最も辛辣な批評家であるという構図は、浅田彰という存在の二重性をよく示している。第三に、そもそも彼は「アカデミズムの外で理論を語る」ことの制度的な危うさに自覚的であり、だからこそ後年、雑誌の編集や教育という制度の設計へ向かった。祝祭のあとに残る二日酔いまで含めて、彼はニューアカの全過程を引き受けた稀有な当事者である。
そしてもうひとつ。ニューアカの真の遺産は、個々の理論ではなく「速度と横断」というスタイルにある。専門分野の壁を軽々と越え、経済学の言葉で音楽を語り、精神分析の言葉で映画を語ること。学問の縦割りが強固な日本の知的風土において、この横断性こそが革命だった。その最良の実践者が浅田本人であったことは、以下の章で見るとおりである。
第四章──ジャーナリスティックな批評の美学
『構造と力』『逃走論』以後、浅田は確かに「その種の本」を書かなくなった。しかし書くこと自体をやめたわけではない。むしろ量だけ見れば、彼は書き続けた批評家である。一九八五年の『ヘルメスの音楽』を筆頭に、映画論集『映画の世紀末』、坂本龍一との対話、美術展評、コンサート評、オペラ評──比較的短い形式の批評文を、彼は膨大に書き残している。
そしてここが肝心なのだが、これらの短い批評こそ、浅田彰の最良の達成だという評価は、目利きたちのあいだで一貫して共有されてきた。グレン・グールドの遺した録音を論じ、武満徹やシェーンベルクを語る音楽論。ゴダールの画面の運動を追い、デレク・ジャーマンやヴィスコンティの官能を言語化する映画論。そこでは、あの処理速度の速さが、対象を裁く粗雑さにではなく、対象の核心へ最短距離で到達する優雅さに転化している。数枚の文章のなかに、作品の構造分析と歴史的位置づけと官能的な感受とが、一切の無駄なく織り込まれる。長大な論文が百頁かけて言うことを、彼は三頁で言い、しかも美しく言う。
これは「大作を書けなかった者の余技」なのだろうか。むしろ逆ではないか。ボードレールの美術批評、ベンヤミンの断章、あるいは小林秀雄の初期批評がそうであるように、批評という営みの精髄は、しばしば短く、時評的で、機会的な文章にこそ宿る。体系は古びるが、一瞬の明晰は古びない。事実、『ヘルメスの音楽』の諸篇は刊行から四十年を経てなお、日本語で書かれた音楽批評の頂点のひとつとして読み継がれている。浅田彰は大著の人ではなく断章の人であり、それは欠如ではなく様式の選択である──少なくとも結果としては、そう総括するのが公平だろう。
こうした散在する批評文の一部は、二〇〇〇年に『20世紀文化の臨界』としてまとめられた。世紀の変わり目に、二十世紀芸術の総決算を試みたこの論集は、単行本嫌いの著者が例外的に許した集成であり、モダニズムの臨界点に立つ芸術家たち──シェーンベルクからゴダール、デュシャンからケージまで──を貫く視座の一貫性を示している。大著は書かない、しかし視座は一貫している。この組み合わせが、浅田の仕事を単なる時評の集積以上のものにしている。
付け加えるなら、彼の批評にはもうひとつの様式がある。対話と司会である。坂本龍一との一連の対話、柄谷行人らとの討議、田中康夫との時評対談。他者の思考を引き出し、整理し、接続し、時に鋭く切り返すその技術において、浅田の右に出る者はいなかった。書物というモノローグの形式に馴染まなかった知性が、対話というポリフォニーの形式で全開になる。これもまた「書くこと」の一様態である。
第五章──『批評空間』の時代
一九九〇年代の浅田を語るうえで欠かせないのが、柄谷行人とともに編集を担った雑誌『批評空間』である。一九九一年に福武書店から創刊されたこの雑誌は、バブル崩壊後の思想的空白のなかで、日本におけるほとんど唯一の本格的批評誌として機能した。ポストモダニズムの祝祭が終わったあと、批評は何を語るべきか。柄谷の理論構築と浅田の編集的知性との組み合わせは、スラヴォイ・ジジェクやポール・ド・マンら海外の論者をいち早く紹介し、討議という形式を批評の中心に据え直した。
『批評空間』が果たしたもうひとつの決定的な仕事は、次世代の発掘である。その最大の成果が東浩紀であった。デリダ論「ソルジェニーツィン試論」でデビューした東を、浅田は早くから強力に支持し、後の『存在論的、郵便的』へ結実する仕事を誌面で育てた。自らが大著を書かないかわりに、大著を書く才能を見出し、場を与える。ニューアカの寵児が、ポストニューアカの制度設計者へと役割を移した瞬間である。
この系譜は、そのままゼロ年代以降の日本の批評シーンへと接続していく。東浩紀が牽引したゼロ年代の批評再興、その後の出版と言論の場をめぐる実験の数々は、良くも悪くも『批評空間』という母型の変奏であった。つまり現在の日本語批評の生態系を遡ると、その源流のひとつには必ず、京都で誌面を設計していた浅田の姿がある。書かれた著作の影響力ではなく、設計した場の影響力。批評史における浅田の位置は、この観点からこそ正しく測定できる。
『批評空間』における浅田の役割は、象徴的である。彼は主著を書く柄谷の伴走者であり、座談会の司会者であり、討議の交通整理役であり、若手の発掘者であった。つまり、自ら巨大なテクストを生産するのではなく、テクストが生産される場そのものを設計し維持する仕事。冒頭に引いた西部邁との座談会も、まさにこの『批評空間』の誌上で行われたものである。保守思想家の西部、批評の狂児というべき福田和也という、立場を大きく異にする論客を相手に、浅田は「書かなくなった理由」を問われた。その場が、彼が最も精力的に「書く場」を運営していた現場だったという事実は、皮肉というより、彼の活動様式の正確な表現である。
福田和也を交えたその座談会で、浅田は自己の限界を残酷なまでに言語化した。しかし注意すべきは、あの発言が敗北宣言ではなく、批評家としての職業倫理の表明でもあることだ。書きたい欲望がないのに書くこと、才能に選ばれていないのに大作を偽装すること──それこそが彼の美意識の許さぬことであった。九〇年代の日本では、思想書の量産と自己反復が出版界の常態と化しつつあった。書けないのではなく、書くべきでないものを書かない。この禁欲は、書きすぎる時代への最も鋭い批評だったのかもしれない。
また九〇年代の浅田は、時事的発言においても存在感を保った。天皇制と戦争責任をめぐる緊張感のある発言、湾岸戦争時の文学者たちの声明をめぐる論争、オウム真理教事件後の思想状況への診断、そして九〇年代末に論じた日本文化の内向き回帰への批判。ポップな装いの下で、彼は一貫して普遍主義の側に立ち、共同体への退行を撃ち続けた。スキゾ・キッズの理論家は、実のところ戦後日本で最も非妥協的な啓蒙主義者のひとりだったのである。
第六章──京都からの持続
二〇〇二年に『批評空間』が第Ⅲ期をもって終刊すると、浅田の活動の重心は京都へと定まっていく。長く籍を置いた京都大学経済研究所を経て、二〇〇八年からは京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)に移り、大学院長として若い芸術家たちの育成に注力した。アカデミズムの中枢でもなく、東京のメディアでもなく、芸術教育の現場という第三の場所。それは天才の都落ちではなく、彼の批評眼が最も直接に活きる場への移動であった。
さらに、京都発のウェブマガジン「REALKYOTO」とその後継を拠点に、関西の展覧会評、演奏会評、舞台評を書き続けている。田中康夫との対談連載「憂国呆談」は一九八〇年代末から今日まで、媒体を替えながら三十年以上続く驚異的な長寿企画であり、政局から芸術までを縦横に論じる定点観測として機能してきた。ダムタイプの活動への長年の伴走と、エイズ禍に斃れた古橋悌二の記憶の継承。坂本龍一とは最晩年まで交流が続き、その死に際しては最も本質的な追悼を書いた一人となった。関西と芸術の現場に根ざした浅田の仕事は、単行本という形式をとらないまま、確実に堆積し続けている。
特筆すべきは、その現場主義の徹底ぶりである。無名の若手演奏家のリサイタルにも、実験的な小劇場の公演にも、彼は足を運び、観て、聴いて、書く。大家の新作を無条件に持ち上げることもなければ、若手を若さゆえに甘やかすこともない。基準はただ一点、作品がモダニズムの臨界を更新しているか否か。この基準の非情なまでの一貫性が、褒められた側にとって最高の栄誉となり、関西の芸術シーンにおける事実上の審級として機能してきた。批評家の権威とは、メディアでの露出量ではなく、判断の一貫性からしか生まれない。その古典的な真理を、浅田は半世紀近くにわたって身をもって証明している。
つまりこうである。「浅田彰はほとんど書かなくなった」という命題は、「単行本を出さなくなった」という限定つきでのみ真である。展評、時評、対談、追悼文、講演、審査、教育。出版資本主義が認知する「作品」の形式をとらないだけで、批評行為そのものは一度も中断されていない。書物というパラノ的蓄積の形式から逃走し、機会的で消えやすい形式のなかに批評を分散させること。これは『逃走論』の著者にとって、これ以上ないほど一貫した実践ではないか。彼は転向したのでも枯渇したのでもなく、四十年前の宣言を文字どおり生きただけなのだ。
終章──明晰な逃げ口上の彼方に
改めて、あの座談会に戻ろう。自分には本当の才能がない、書くことに選ばれなかった、そしてこの説明自体が明晰な逃げ口上にすぎない──この三段の自己解体は、日本の知識人の発言として例外的に誠実である。多くの書き手が寡作の理由を構想の大きさや時代の不遇に求めるなかで、浅田は自らの欠如を欠如として、しかも欠如の言語化がもたらす快楽への疑いまで込めて、語ってみせた。自己弁護の可能性を先回りして潰していく、この過剰なまでの潔癖。それ自体がひとつの文体であり、倫理である。
だが、後世の目からこの告白を読み直すなら、そこには一種の錯認があるとも言える。浅田が「本当の才能」と呼ぶもの──盲目的な執着とともに大作を生む力──を規準にすれば、確かに彼は選ばれなかった。しかし批評の歴史は、もうひとつの才能の系譜を知っている。一瞬で構造を見抜き、最小の言葉で核心を刺し、自らの明晰ささえ疑いの対象にできる才能。時代の熱狂を組織しながらその熱狂に溺れず、次世代の場を設計し、老いてなお現場の第一報を書き続ける才能。それを才能と呼ばずして何と呼ぶのか。
『構造と力』は二〇二三年に中公文庫に入り、四十年ぶりに再び広く読まれている。折しも人文書の世界では現代思想の新書が異例の売れ行きを見せ、ドゥルーズやデリダが再び若い読者の手に取られる小さなブームが起きていた。その震源地に立つ書き手たちが、こぞって浅田からの影響を公言していることは示唆的である。刊行時に生まれていなかった読者たちが、あの「習作」を古典として発見しつつあるのだ。四十年前に消費の速度のなかで読み捨てられた本が、速度の外で読み直される。これほど著者の理論にふさわしい再来もない。スキゾとパラノの対概念は、プラットフォームが人々を絶えざる移動と接続に駆り立てる現在、むしろ切実さを増している。逃走はもはや解放の身振りではなく、資本のほうが先に逃走する時代が来た。この転倒を最も苦く理解しているのも、おそらく当人だろう。そして本人は、京都で今日も何かを観て、聴いて、短く的確な言葉を残しているはずである。
最後に、本稿が「超全史」と銘打った理由を記しておく。通常の全史は、著作の年表を背骨とする。処女作から主著へ、主著から晩年の集大成へ。しかし浅田彰にその方法は使えない。主著は最初に来て、しかもそれは習作であり、以後の仕事は書物の形をとらずに散っている。だから彼の歴史は、著作の歴史としてではなく、態度の歴史として書かれねばならない。明晰であること。速いこと。逃げること。場を作ること。若い才能を見出すこと。現場に居続けること。そして、自らの限界を自らの言葉で誰よりも先に言い切ってしまうこと。これらの態度の一貫性こそが、彼の「作品」の実質である。著作目録を超えたところにある歴史、ゆえに超全史なのである。
考えてみれば、二十世紀後半の思想は「作者の死」を語り、テクストの外部を語り、作品という単位の自明性を疑うことから始まった。その思想を日本に導入した当人が、作品という単位に回収されない知的生涯を送ったことは、偶然ではあるまい。理論を紹介することと、理論を生きることは別である。多くの紹介者が前者に留まるなか、浅田彰はおそらく日本で唯一、ポスト構造主義を伝記のレベルで実演してしまった人物なのだ。
大著を残さなかった批評家の全史は、逆説的に、批評とは何かという問いの全史である。書物の重さで測れば軽く、明晰の速度で測れば誰よりも重い。浅田彰とは、書かないことによって書くとは何かを問い続けた、戦後日本で最も雄弁な沈黙なのである。比較的短めの音楽論や映画論は本当に美しいものを残している、それで十分では──という同時代の評言に対する答えは、もはや明らかだろう。十分どころか、それこそが彼の作品なのだ。
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