「高市さんが戦争すると言ったら」というリベラル文化人の大いなる錯覚
報道番組『ABEMA Prime』にラサール石井氏が出演した際、現代の日本の世論やSNSの空気感について、極めて具体的な名前を挙げて「恐怖」を口にする場面がありました。
「今この空気だと、明日高市(早苗)さんが『戦争します!』って言ったら、『行け行けー!』ってなるように思うんですよ、今の日本の空気だと。それが怖いって言ってるの」
https://www.youtube.com/watch?v=EEVbxi_DsuQ
(動画の 30分22秒 付近でのラサール石井氏による発言)
この言葉は、リベラル派や反戦を訴える人々の間で非常によく共有される「典型的な危機感」の現れです。「右派の強い政治家が国民の危機感を煽り、ある日突然、狂気的な愛国心によって国全体が戦争に突き進んでしまうのではないか」という不安は、戦前の歴史を知る世代や、権力の暴走を警戒する立場からすれば、もっともらしい警鐘に見えるかもしれません。
しかし、感情を排し、現代の日本が置かれている法的な枠組みと地理的なファクトを直視したとき、浮かび上がるのはあまりにも皮肉な結論です。この「政治家が戦争を宣言し、国民が熱狂して突撃する」というシナリオは、現代の安全保障環境においては前提から根本的に間違っている「大きな事実誤認」であると言わざるを得ないと考えます。
1. 制度上のファクト:日本政府には「戦争を仕掛ける」ボタンが存在しない
まず、法的な大前提を整理しておきましょう。憲法9条とそれに縛られた国内法に基づき、現在の日本政府(内閣総理大臣)には、「自らの意思で『よし、戦争するぞ』と宣言し、他国へ攻め込んでいく」という選択肢は、法的な制度としても軍事的な能力としても、最初から1ミリも存在しません。
自衛隊が実力を行使できるのは、あくまで我が国に対する武力攻撃が発生した(あるいはその明白な危険がある)場合、つまり「専守防衛」の枠内に限定されています。
ラサール石井氏の頭の中にあるのは、「かつての大日本帝国やベトナム戦争時代のアメリカのように、時の指導者が自らの野心や政治的都合で『侵略戦争の引き金』を引き、若者を戦場へ送り出す」という古い構造の物語です。しかし現代の日本における有事とは、常に「他国からミサイルを撃ち込まれた」「領土を奇襲侵略された」という、選択の余地のない『100%被害者としての防衛戦』にしかなり得ないのではないかと考えます。
そもそも、動画内でMCの松陰寺太勇氏が「ならないですよ」と即座に反論しているように、ラサール石井氏が言う「この空気」は、少なくとも日本国民の大多数には存在していないと考えます。大多数の国民は、時の政治家が誰であれ、日本が自ら進んで他国を侵略することなど望んでおらず、そんな扇動に流されるほど愚かでもありません。リベラル派が恐れているのは、現実の世論ではなく、自分たちの脳内で肥大化させた「妄想の軍国主義」ではないかと思います。
2. 現代戦のリアリティ:総理が言葉を発する前に、すでに「前線」になっている
この事実誤認は、現代のハイブリッド戦争やミサイル戦のリアリティを前にすると、さらに深刻な「視点のずれ」として露呈します。
もし、周辺の覇権主義国が日本への攻撃を決断した場合、彼らが最初に狙うのはどこでしょうか。
それは、島々の最前線だけではありません。防衛の最高意思決定機関である首相官邸、防衛省、インフラの心臓部である大都市です。数分で弾道ミサイルが着弾し、サイバー攻撃によってインフラがマヒする現代戦において、特定の政治家が「よし、戦争するぞ」などとマイクの前で演説するような呑気な時間はありません。
政治家が何かを発言する前に、すでに私たちの頭上が「戦場(前線)」になっている。それが現代の安全保障のシビアな現実です。「一言でみんなが『行け行けー!』と流されてしまう空気」を恐れる牧歌的な発想は、戦場を「どこか遠くの、自分たちとは無関係な場所」と捉え、政治家が安全な部屋からボタンを押して始めるものだという、古いファンタジーにしがみついている表れではないでしょうか。
3. 国民が「行け行け」となる本当の理由:熱狂ではなく「生存本能」
ラサール石井氏が恐れる「高市さんが戦争と言ったら、みんなが『行け行けー!』と流されてしまう空気」の正体についても、リアリズムの視点から捉え直す必要があります。
もし有事の際、国民の多くが自衛隊の防衛出動を支持し、国を守る方向へと世論が動くとしたら、それは特定の政治家やSNSのプロパガンダに洗脳されて「熱狂」しているからではありません。「今まさに目の前で他国から主権を侵され、自分や家族の命が危険に晒されている」という、極めてまともな「生存本能(防衛本能)」によるものです。
自分の街にミサイルが飛んできているときに、「防衛のために戦え」と言う政府に同意することを「危うい空気」と呼ぶのは、主客転倒も甚だしいと言えます。他国からの具体的な暴力(侵略)という最大の危険から目を背け、「国を守ろうとする自国の世論の方が怖い」と怯える姿勢は、安全保障の脅威の所在を完全に見誤ってしまっているのではないかと考えます。
まとめ:敵を見ず、身内を疑う「内向きの反戦論」の限界
テレビの前で「政治家の一言で国が染まる恐怖」を語るリベラル文化人の姿は、一見すると平和を愛する知識人の良心に見えるかもしれません。
しかし、彼らの発言の致命的なバグは、常に「具体的な他国からの脅威(中国の軍拡や北朝鮮のミサイル)」を一切無視し、「日本政府が戦争を始めたがっている」という身内の陰謀論の物語に逃げ込んでいる点にあります。
変えられない地政学的な現実を前にしたとき、本当に必要なのは「身内の熱狂を恐れること」ではなく、「現実に迫る他国からの脅威に対して、いかに機能する防衛体制と指揮系統を維持し、国民の命を救うか」という、地に足のついた議論です。
情緒的なスローガンで現実から目を背けるのをやめ、何が本当の危機なのかを客観的に見極めることこそが、この国を戦場にさせないための、本物のリアリズムの本質ではないでしょうか。
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