子どもたちの「真っ直ぐさ」と、大人の「正義」の行き先
私はよく、登下校の時間に合わせて近所を散歩する。
ポストに郵便物を出しに行くのも、ちょうどその時間だ。
近所の小学生たちは、いつも元気よく挨拶をくれる。
「こんにちは!もうすぐ大きい道路に出ますよ!」
「やっほー!何してるの?」
私が歩いていくと、「おーい!道開けろー!」と周りに声をかけてくれる子もいる。
特に印象に残っているのは、ある5年生の女の子が肩を貸してくれた時のことだ。
私の家まであと少しというところで、彼女は「私、家こっちだから!じゃあね!」とあっさり帰っていった。
私は自分の頭の中の地図と現在地を照らし合わせながら歩いていたから、一人になっても問題はなかったのだけれど、その「引き際の良さ」が妙に腑に落ちた。
「ああ、この子は私を『可哀想な助けるべき対象』として見たわけじゃなく、ただ自然に声をかけてくれたんだな」
過剰に心配するでもなく、腫れ物のように扱うでもない。
そんな彼らの真っ直ぐで自然な接し方を、大人の都合で壊したくない。この心を守りたい。そう強く思った。
そんな想いもあって、先日、横浜市役所で行われた「教育委員会定例会議」の傍聴へ行ってきた。
傍聴席に漂う「不快なノイズ」
初めての傍聴。申込書は代筆をお願いし、席まで案内してもらった。
私のほかに、5人ほどの傍聴人がいた。
会議が始まる前から、部屋中に響くような声でずっと小言を言っている人たちがいた。
撮影・録音の許可が下りると、「はい、チーズ」と、明らかに人を馬鹿にしたような態度でシャッターを切る。
その場の空気は、とても不快なものだった。
「この人たちは、本当に子どものことを想ってここに来たのだろうか」
会議が始まり、最初は文部科学大臣賞を受賞した小学校の取り組みが紹介された。
「りんごの棚」や「手で読む絵本」など、多様な子どもたちの学びを支える素晴らしい活動。
「こんな素敵なことが行われているんだ」と、私は新しい発見に胸を打たれていた。
しかし、次の議題に移ると、傍聴席の空気はさらに険悪になった。
教科書採択についての議論が始まると、常連と思われる傍聴人たちが「またか」という雰囲気を出し始めたのだ。
議案書が音読されると、周囲に聞こえる声で野次が飛ぶ。
「毎年同じことしてる」
「毎回音読されて、暗記できちゃうよ」
「◯◯さんはいつも下を向いてるね。みんなそうだ」
正直、私も「全文を音読する必要はあるのかな?」とは思った。
けれど、私はあくまで傍聴人だ。会議を静かに見守るのがルールであり、マナーであるはずだ。
その「怒り」は、どこに向けられるべきか
公開議案が終わり、傍聴人が退席する際、ついに声が上がった。
「◯◯については話さないんですか!」
「音読で時間稼ぎですか!」
そもそも議案にないことは話しようがないし、傍聴は意見をぶつける場ではない。
その「治安の悪さ」に私は驚いた。
教育委員会に対して、あるいは社会に対して、是正してほしいことや怒りを感じることは誰にだってあるだろう。
けれど、その「怒り」を、全く関係のない場面や態度に乗せてぶつけていい理由にはならない。
人を馬鹿にするような物言いをする人の意見を、行政の担当者が「真摯に聞こう」と思えるだろうか。
「下を向いているのがけしからん」「音読は不要だ」…という伝えたいこととは無関係なところに対しても、ただ誰かを攻撃したいがために、トゲのある言葉を投げつける。
それでは、本当に変えたいと願う「本質的な想い」が伝わらなくなってしまう。それはあまりにも、もったいない。
帰り道、またあの子どもたちに会った。
彼らの真っ直ぐな瞳や、損得のない優しさに触れるたび、先ほどの会議室の光景が苦く思い出される。
社会を変えたいと願う大人の言葉が、子どもたちに誇れるようなものであってほしい。
まずは私自身が、彼らのような「自然な心」を忘れない大人でありたいと思った。
