フリクリ超考察「FLKS」
某所では不確かなことを書けないので、多少強引な解釈であったり暴論めいたフリクリの話を此処で書き殴ろうと思います。また私が最終的に書き上げているのは「ナオタは大人になった」という結論となっております。
と言うと「本作は子供は子供らしくあれというのがテーマだ」と思う方もいらっしゃるでしょう。そのような方はとてもフリクリが好きな方だ……私と一緒ですね、仲間です。ですので是非あなたのイチ仲間として私のタワゴトを鼻で笑いながら聞いていただければ幸いであります。それでは暴論を始めましょう。
==追記==
あまりにフリクリ初見の方には厳しい考察文だったなと今更思ったので書き足します。本作の主人公ナオタは、兄が野球で海外に行った事をきっかけに、自立心が出始め、大人になる事を意識し始めます。しかしその胸の内には、未だ少年のままの未成熟な心が様々な葛藤を抱えていました。決して立派でもなく目標にも出来ない大人たち、外への繋がりをまるで感じさせない田舎の町……例え難い自身の焦りを他者に知られないよう、ニヒルに気取ることで彼は自身の理想を模索します。
……さて、そんな早すぎる彼の鬱屈した心というか思春期、そもそも一体どこから湧いて出たのでしょうか。それともナオタくんが早熟だという単純な理由から始まったのでしょうか……実はこの思春期が生まれ出た出来事や心の動きを描いた【エピソード0】を、決して親切ではない本作はわざわざ映像として描いておりません。だから元々彼が何を求めているのか、その出発点及び目標、やがてフリクリという物語がどんな変遷を辿っていくのかという流れが分かりにくくなっていたんですね。
本文はそのフリクリエピソード0、ナオタくんに出来た心のシコリを可視化させた考察となっております。これできっとフリクリの理解度がグンと上がるでしょう。キーワードはズバリ「僕お母さんと結婚する」男の子の初恋相手は皆母親なんだという話です。
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まず最初に私が長年持っていた疑問についてですが「何故ナオタには母親がいないのか」本作は恐らくこの一つの疑問に全てが集約されています。フリクリという物語は一癖も二癖もある、故に母親の不在というファクターは非常に重要です。例えるなら数学におけるゼロといえば分かるでしょうか。居ないという情報が本作のキーになっていると私は考えました。
母親は一体どこに行ったのか、また何故に何処かへと行ってしまったのか……この謎を推理していくことで私は、ナオタの心の動きにより近付けました。そして先に答えを出しておきますが、私の結論だと母親は死んで無いどころかピンピンしています。そしてそれがナオタの悩みの始まりとなっているのです。勿論早めの思春期が訪れて悩みの坩堝に陥ったというのもあるのでしょうが、そもそもは兄が海外に行ってしまったことで母親という存在が恋しく感じてしまう……この物語は実はそこから始まっているんですよ。
「中身の成長してないバカ大人め」
ナオタの母について推理し始めるとナンダバ家での会話は途端に記号めいて聞こえます。そもそも何故死んでないと断言出来るのかといえば、仏壇に遺影が飾られているシーンが無いからです。そんなの暴論だと思うでしょうが、ここは逆の発想なんですね。つまり死んでいる描写が無いということは“彼女から家を去っていった”とも捉えられる……そして自ら出ていってしまったとあれば、死の様に綺麗な思い出として語れず、子供を置いて出ていった不徳な人物として口に出すことも憚られますね。だから作中では母親に言及する内容が一切出てこない訳です。ナオタの悩みの根源だと私が謳う理屈が朧気に見え始めはしたでしょうか。
余談ですが本作はこういった考察や推察を物語の中から掘り出す必要性を迫られ、そうでないと冒頭から異様なノリでギャグが飛び交う派手な画ばかりに注目を持っていかれがちです。なので自ら深堀りしない人には掴みどころのない、気持ちの悪い作品という印象になるのですよ。ということで今度は実際に母親の残り香を追っていきますね。フリクリ第一話から取り上げます。
ナンダバカモン「ナオタは僕に似てるからなぁ。きっとヤってる、絶対ヤってる」
この台詞には以下の要素が隠れています。
①お兄ちゃんは母親に似ている
②俺は女を引っ掛けるのがうまい(だからお前の母親をゲット出来た)
①番はそのままで、兄は歳が若干離れていて、尚且つ生活空間の中で近しい存在だったが故に、恐らく実際に母親の役目となってしまっていたのでしょう。だから“金髪ギャルゲットだぜ”なんて他所で作った新しい恋愛模様の写真がショックで、机にしまい込んでいるわけです。ナオタは表層で大人なんて頼り無いとしつつも、いざ危機が迫れば心の中で「兄ちゃんっ!」とつい頼りに縋る気持ちが出てしまいます。ですが普通の子供が縋る相手といえば「お母さん」の筈です。この台詞一つでもって兄がどのような役割だったかの証明、また母親はいつ頃から居ないのか、おおよそ検討がつくのでは無いでしょうか。それに彼女の年齢も何となく見え始めてきます。何より最も大事な事柄は、カモンが態々猥談を持ってきて、しかもその中で母親を下げ自分を持ち上げる含みを持たせているということです。ここは②番と絡めて詳しく説明します。
②番はカモンが如何にモテるかという自慢話ですが、往々にしてその様な武勇伝を語る男のモテ具合は容易に図り知れるでしょう。そして実際に彼の話はオタク的でとてもモテる話術を持ち合わせていない。そんな彼が射止められた女性です、一体どの様な人物だったか想像してみて下さい。もしそれが素敵な女性だったなら、或いは綺麗な思い出になっていたのなら、相手を褒める際の例えになっている筈です。「ナオタ、お前は母親の様に賢い」しかし実際にそう褒めてはいない……つまり褒められたことをしてなかった人物だということになります。
またカモンは“金髪ギャルゲットだぜ”の兄が母親に似ているとも匂わせています。つまりナオタの母親はそういった愛多き人物で、だからカモンは我が子に“お前は母親には似ていない、情愛の精神を持つ「俺に似ているんだ」”とつい、心の内を漏らしてしまう訳ですね。因みにカモンが自らを持ち上げる正当性は確実にあったりします。次の登場人物の台詞でもって説明しましょう。
ナンダバシゲクニ「ありゃいかん。サゲマン一号じゃ」
年上の少女マミミが孫のナオタを誘惑しているとして出た、おじいちゃんの台詞です。一応検索してみたのですが何かのミームとかパロディは確認できませんでした。ですからこの台詞単体で考えればつまり2号がいるという話ですよ。“同い年と付き合うわけでもなくまだ精通もしてないような子供に絡む異性なんて常識がないぞ、俺の娘のほうがまだマシだっ”とこう言っている様にも捉えられます。穿った捉え方だと思われるかもしれませんが、そもそもジゲクニは「サゲマン」なんて単語を孫に聞かせるクソジジイなんですよ。パン屋の店名を名字でなく自分の名前にする自己顕示欲の高さや、なのに体の不調を理由にしてパン屋を休みがちにするサボり癖も「じいちゃん体のほういいのかよ……って家政婦ぅ!?」というナオタの台詞から分かります。あのシーンを見ればシゲクニが年齢を起因とする体の不調など何一つ無いことは分かるでしょう、つまり孫を心配させるような嘘を平気でつける人間性なんですよ。
また2話でカンチに雑誌を買いに行かせてますが、彼は爺さんになってまだアイドルの追っかけをやっていて、スケベ心が消えてない。なかなか濃ゆい人物像ですね……この男が親父であるなら、きっと娘も海鳴り山鳴りでそれなりの育ち方をするでしょう。そしてカモンはこの義理の父親を娘の代わりに世話している訳です。ただ居候をしているだけだろうと思われる方もいるかとは思いますが、例え居候でもいるほうがずっと良い……彼が自分を持ち上げる正当性は分かったでしょうか。ナオタも家の事を手伝う素振りが表現されてない辺り、意外にそれまでの家事一切はカモンがやってきたのかもしれません。
なのでシゲクニの台詞のサゲマン“一号”にはきっとそれなりの意味があるのですよ。自分の娘を最低だといい切るのは同じ家の者なので自らの価値を損ねる……しかし根本的には歪んだ性格をしているので、つい意識の外から本音が漏れて出る。これがナオタの母親が死んではいない理由の裏打ちとなっています。この世に居ない人物なら自然と美化されていく筈が、本人の居ない家の中で微妙に腐される。私はこの温度感を感じ取ることが出来て、初めて何一つ言及されることのない母親の存在を捉えることが出来たのです。最初に私は“遺影のシーンが無いから死んでない”と書きましたが、これは必要ないから要らないシーンだと考えることは出来ません。何故ならこの世に居るか居ないかという事実は、ナオタにとって思春期を左右するとても重要な事柄だからです。
なので母の代わりの兄が居なくなり、心に空白が出来てしまって彼は思ったのですよ「大人はもっとちゃんとしてる筈なんだ」と。それは他所の家には両方の親が存在しているからとか、母に家に戻ってきて欲しい願望だったりするのかもしれません。現に彼はその二段ベットの上段である兄の寝床にそんな母への恋しさを置いています。普通なら男兄弟が同じ部屋同じベットの上下段で、日々喧嘩が起こっても不思議でない空間であった筈。しかし彼は一人部屋になったことを喜ぶ訳でもなく、兄の為に空間を残したままにしていた……一般的な兄弟関係とまた違った心理が見え隠れしていますね。
で、こんな彼の心の隙間とその寝床に図々しく腰掛けてくる人物が突如現れた……これが物語の冒頭なんです。
そして、今までの私の論を読まれたとてもフリクリ好きな方なら、最後のナオタの告白「好き」にどんな意味が込められているのか、分かるでしょう。少年の家に上がり込んできたメチャクチャな宇宙人はいつの間にか、彼の心の隙間を埋め母親の様な存在になっていました。しかしナオタにとってどこかへと行ってしまった母親という存在は“僕にちゃんとしてくれない”嫌悪の対象だった筈です。母への憎愛こそ、正に大人への不信感の根源な訳ですよ。しかし彼はハルコを通し、嫌悪の対象であった相手を「好き」と祝福を送ることで、他者という一人格として認識し直し、向き合ったんですね。そうすることによって自分の素直な気持ちや我儘、思春期の心に折り合いをつけたのでしょう。
だからこそナオタはハルコについて行かず、行くなとも言わなかった。フリクリという物語は、自我を形成する為に一度他者を否定し切り離した上で、再び周囲の環境も己自身なのだと意識を覚醒させた“祝福”という儀式……彼の多感な思春期を超えるお話です。ナオタは周囲の環境や母親を振り返り“自分の理想通りに周りは変化しない、だから自分も我儘で良い。それだけなんだ”と知りました。それで他者を縛るのではなく、只我がままに彼女へと一方的にキスを押し付けた……母に、ハルコに自分の気持ちが届かないことも知っていて、それでも彼女のように想いのまま振舞う事にしたんですね。それが彼なりの思春期との別れ、本アニメの区切りなんだろうなと感じます。
中身の成長してないバカ大人=FoolyCoolly
そんな背中を収めた写真には“Fooly Coolly”と名付けられていました。本タイトルはきっと、子供がやがて母の手から離れるに至る成長物語を示しているのだと思います。……この物語に母親が居ない謎は何となく埋まったでしょうか。つまり一番大人らしくない反面教師が母親であり、またその様な人物像がフリクリには必要だった。そしてそれがナオタの成長に繋がっている、というのが私の暴論でした。ここまで読んでいただき有難うございました。
