Ready or Not? 第3話

 次の日。未央は「急に仕事の連絡が入った」と言って帰り支度をはじめた。といっても、急遽の帰省でそれほど荷物は持ってきていなかったので、小さな肩掛けのボストンバッグに化粧品などを詰めるだけだった。着替えは持ってきていない。まだ、彼女の衣装箪笥が一棹残っていて、そこに畳まれた洋服がきれいに収められていた。
「なんなのぉ。もう少しのんびりしていけばいいのに」
 道子は残念そうに引き留めたが、未央は首を振って、
「無理して会社出てきちゃってるし。お母さん、元気だってわかったから。もし、万が一よ、何かあってもまたすぐ帰って来れるから。ね。ここにいてもさ、蘭がいろいろやってくれるし、わたしができることもそんなにないしね。東京で稼いで仕送り用意できるようにするのが、一番でしょ?」
 蘭はそこにおらず、台所に立っていた。廊下越しに道子の寝室で二人が話していることを彼女が聞いていたのかはわからなかった。ベッドの側に寄り、道子の手を握ると未央は、
「じゃあね。またね」
 と言った。道子は口の端にしわを寄せて、唇をへの字に曲げた。いつも彼女が無言で抗議するときの表情だった。
「また来るから」
 苦笑いしながら、未央がそう念を押すと、
「ほんとだよ?」
 と道子は強い訛りのアクセントで返事をした。未央は道子の髪を撫でながら、うんうんとうなずいた。

 部屋から廊下に出ると、蘭が着替えとタオルを持ってやってきたところだった。
「帰るの?」
「うん。急にさ、呼び戻されちゃって」
「そう」
 蘭とはあの後、必要以上に言葉を交わすことができていなかった。未央から、浩とのことを聞くのも問いただすようで嫌だったし、もし子どものことについても蘭が嘘を吐いていたとしたら――そう考えると、何を話したらよいものかわからなかったのだ。
「蘭にも迷惑かけちゃうね。でも、また何かあったら連絡してね。すぐ戻ってくるから」
「……迷惑。迷惑ね。いまさらって感じだけど。未央も未央なりに気にしてるのね。でも大丈夫。もうこれ以上、わたしが迷惑に思うことなんてなくなるから」
「そう。そうね。お母さんも元気になってきたし、自分であれこれできるようになると思うし」
 蘭はそれには答えず、道子の寝室に入っていった。
 未央が玄関に向かって、靴を履いていると蘭が戻ってきた。
「送っていくわ」
 駅までは歩けば二五分以上かかるので、送ってもらえるのはありがたかった。
「ありがとう。助かるわ。歩いたら駅に着くころ汗だくになっちゃうしね」

 蘭は地方でよく見かけるタイプの軽ワゴンのドアを開けると、先に乗り込んだ。助手席に乗るのが躊躇われたので、未央は後部ドアを開け、運転席の斜め後ろ側に腰を下ろした。
 駅までの車中は重い空気が流れていた。その重さを作り出していたのは、未央が抱えていた疑問とそれを口に出せないことだった。しかし、あまりの重さに耐えかねた未央は、蘭に声をかけた。
「蘭、兄さんのことだけど……」
「知らないわ。何も。未央、あなたは誰かに何かを聞いたのかもしれないけど、わたしの答えは変わらない。何も知らない」
 未央の問いかけに蘭が一瞬強張ったように感じられた。雰囲気を和らげるように未央は続けた。
「そう……。そうよね。兄さんが勝手をして、あちこちかき回してるんだもんね。蘭は被害者よね」
「被害者、か。ふふふ。そういうことになるのかもしれないわね」
 ハンドルを握って前を向いたまま、蘭は笑った。未央の位置からは蘭の表情までうかがうことはできなかった。車のフロントガラスには天まで抜ける青空に雲が散らばっており、道脇には収穫間際の重たくなった頭をゆっくり垂らした稲穂が整列している。
 そのまま車は駅に到着した。
「ありがと。それじゃあね。蘭も無理しないで。また」
「うん。気をつけて。お義母さんのこと、心配しないで。わたしに任せて」
「お願いね。離れているけどずっと気にかけてるから」
 蘭はうなずいて車のウィンドウを上げた。プレートの文字盤が見えなくなるまで見送ってから、未央は改札口に向かい、電車の時刻表を眺めた。
 しかし、東京へ戻る切符は購入しなかった。

「ふぅ」
 彼女は深いため息をついて、駅を背にした。
 線路沿いの一本道を、未央は自身の胸の内にくすぶった疑念を晴らすために歩いていく。これから起こることの結末がどうあれ、それを受け止めねばならない、そう感じていた。
 やがて、鎮守の森の脇道に出ると、間もなく彼女が長い時間を過ごした家が見えてきた。姿を隠すようにして水路脇の盛り土を進み、裏手に回ると、息を潜めて物陰に沈んだ。そこからはちょうど表玄関の様子がうかがえた。二〇分ほど経ったが何も起こらなかった。
 予想が外れたか、と未央は少し安心した。もうしばらく待ってみて変わりがなかったら、また歩いて駅に戻ろう。徒労ではあったが、考えていたことが実現しないのであれば、その方がよい結果と言えるだろう。そう自分に言い聞かせて、汗を拭った。九月も末に差し掛かっていたが、日陰にいてじっとしていても汗ばむ陽気だった。
 と、ガラガラと音がして、玄関が開いた。そこから出てきたのは車いすを押す蘭だった。彼女は振り返って、鍵を閉めたが、未央には気が付いていないようだった。車いすに乗せられているのは道子だろう。しかし、じっと動かないようだ。未央から見えるのは、斜めに傾げた首から上の姿だけだった。
 未央には彼女たちの行き先がわかっていた。
 鎮守の森へ。
 結局、悪い方の予想が当たってしまった。未央は「ふぅ」ともう一度大きく息を吐いて、意を決した。幸い誰かにつけられていると疑っている様子は蘭から感じられなかったので、小さく身を屈めながら、物陰を見つけてはそこに滑り込むようにして未央は二人の後をつけて行く。
 先に森の中に到着した蘭は、車いすを洞穴の前に設置し、自分はその場から離れた。道子はまだ動かない。もしかすると眠らされているのかもしれない、と未央は思った。

 蘭が祠の横まで歩き、洞穴のほうを振り返ったとき、
「蘭、あなた何をやっているの?」
 と声をかけた。突然のことに辺りを見回した蘭は、樹々の中から現れた未央を見つけると強張った表情のまま動けず固まっていた。その顔は「なぜ、未央がここにいる」と物語っていた。
 それに応えるように未央は、
「駅まで送ってもらったんだけど、次の電車まで二時間待ちだったのよ。それで、忘れ物があったの思い出しちゃって家に戻ってきたんだ。そしたらあなたが車いすを押して出かけたから、どこに行くのかなと思って。つけてきちゃった」
 と噓をついた。蘭はじっと黙っていた。
「ここで、何をしているの?」
 今度は未央が質問を投げかけた。未央には半分、もう答えがわかってはいたことだったが、それでも聞かざるを得なかった。
「何って……散歩よ。気分転換に。お義母さんもずっと家の中で寝ていたから。たまには日光に当たらないと、不健康でしょう」
「それなら母さん、なんで動かないのよ」
 未央は車いすに視線を投げかけたが、やはり道子からの反応はない。
「寝てるのよ。そう。深く眠っている。多少騒がしくても目が覚めないほどに」
「睡眠薬を飲ませたのね」 
「意識があったら、きっとパニックになってしまうもの。あの人のように」「あの人? 誰の話?」
 蘭は朱里くんが鬼だった時、一番近くにいた。近くですべてを見ていた。   
 すべて――そう、朱里くんがなぜ、どうやって、消えたのかを。
「蘭、あのさ……あなた、朱里くんがいなくなった隠れん坊のとき、どこにいたの?」
「あぁ? やっと思い出したの? あなたは最初、忘れてたみたいでびっくりした。あんなことがあって、どうやって忘れるのって。逆に知りたいくらい」
「あんなこと」
 未央は今一度、思い出せる限り、この場所で起こったことを振り返ってみた。
「蘭は、わたしのいたところから見えなかった。隠れていたのよね? 祠の裏に」
 ちょうどいま蘭が立っている、その祠の裏に彼女はきっと隠れていた。「そして、あなたが声をかけた。もういいよって」
 蘭が鬼に向かって――つまり洞穴に向かって――声をかけたのだ。
「そうよ」
「でも、あなたはそのことを黙っていた。それはなぜ?」
「なぜって、そんなことを言って皆が信じると思う? 洞穴から鬼が出てきて、朱里くんを攫っていった、なんて」
「……何を言ってるの、蘭?」
「ほらね。その場にいたあなただってそう言う。でも、見てたでしょう。あの穴から鬼が出てきて朱里くんを連れて行ったのを」
 蘭の言葉が頭の中で反響する。鬼が、朱里くんを、連れて行った。現実の広場が歪んで見え、視界の端々に炎が散り、眩暈んだ。鬼が、いた。
「覚えているはずよ。土煙の中に、はっきり見たもの。わたしは」
「鬼が、朱里くんを」
「そう」
「蘭はなぜ、そんな隠れん坊の鬼、つまり朱里くんの間近に隠れていたの? そんなところで、もういいよなんて言ったら、すぐに見つかっちゃうじゃない」

「早く見つかったら、手を繋いでいられるじゃない。ずっと」

 蘭はそう答えると天を見上げて微笑んだ。
「朱里くんのこと、好きだったんだ」
「そうね。初恋ってやつね。初恋は叶わないっていうけど、それどころか初恋の人を永遠に失った。自分の一言で」
「そんな……」

 鬼を呼び寄せてしまったのは蘭だった。

「しばらくは絶望していた。自分のせいだって皆に知られたら、わたしが犯人になってしまう。朱里くんの親からも恨まれるし、皆とももう一緒にいられないかもしれない。黙ってるしかない。起ったことも自分がやってしまったことも。だから隠れん坊のこと、忘れようとした。そうしたら、事件にもならなかったし、いつしか皆がこのことについて話さなくなった。皆も忘れようとしていたのかもしれない。でもあまりに不思議だったから、大人になってから調べてみたんだ。事件のこと、それからこの鎮守の森のこと」

 たしかに、蘭の言うとおりだった。半年も経たないうちに事件のことは話題にならなくなった。皆が話題にすることを避けたからなのかもしれない。そして、たしかにこれだけ事件性が高いものについて、新聞記事にもテレビの取材も来ていなかった。まるで、誰にも知られてはならないかのように。「大人たちが、隠蔽していた?」
「そうよ。さすが都会暮らし。察しが良いわね」
「都会にいることと、察しが良いことは関係ないわ」
「いいのよ、別になんでも。言いたかっただけだから」
 蘭はそう言って口の端を歪めると、話を続けた。
「この場所は……来迎の場でもあり、五月蠅[さばへ]なす神を迎える場でもあった」
「どういうこと? 五月蠅なすって……?」
「夏に沸く蠅のように煩わしくいとわしい悪しき神々のこと。ここで起こったことについて、誰も本当のことを言わないから、八郎兵衛[はちろうべぇ]の爺さんのところに足しげく通って、話を聞きだしたんだ」
 八郎兵衛というのは、この辺りの屋号で古くからある家の一つだった。ちょうど、この鎮守の森の祭を管理している一家でもある。

「爺さん、誰も聞き手がいないのでうずうずしてたのか、古文書まで出してきて話を始めた。こっちは古文書なんてまったく興味がなかったんだけど、爺さんの話はわたしにとって有益だった。つまり、今言ったように、この鎮守の森は神さまを呼び寄せるシステムになっているわけ。その洞穴の前に供え物を置いて、洞穴に呼びかけると神さまが出てくる。そして供え物の代わりに村の繫栄に寄与する出来事をもたらしてくれる。しかし、いつも幸運だけをもたらしてくれるわけでもない。鬼が来ることもある。鬼が来た場合は何ももたらされない。代わりに供物だけ持って行かれる」

「供物って……もしかして」
「そう。人身御供よ。当然じゃない。リスクを冒さないと、リターンは得られないのよ。昔話で学ばなかったの? まぁ、わたしの知識は八郎兵衛の爺さんからの受け売りだけど」
「朱里くんがいなくなったということは……」
「企図せず、彼が人身御供になったということ。結果どうなったか、覚えてない?」

 覚えている。彼がいなくなってから――村に駅ができたのだった。

「ね。ラッキーだったよね。わたしは初恋の人を失ったわけだけど。それで、爺さんから話を聞いて、すっきりしたの。胸のつかえが降りたっていうか……わたしのおかげでこの村も発展したんだって思えて。皆に感謝しなさいって言えないことが悔しいけど、そこは仕方ないわよね。あ、でもあなたは感謝しなさいよ、未央。わたしのおかげでこの土地から出られたんだから」
 なんだか少し吐き気がしてきた。蘭は何の話をしているんだろう。未央の頭では理解が追いついていなかった。しかし、身体の方はそのおぞましさにきちんと反応しているようだった。

「蘭……あなた、もしかして……」

 違和感にようやく未央の頭が追いついた。それは、彼女が抱えていた疑念に対する答え――最も邪悪なもの――でもあった。

「うん。他にも試してみたの」
「兄さんで?」
「そうよ。あいつ、ろくでもない奴だったから」

 浩は蘭が最初に言ったように出張に行ったのでも、真澄が推察していたようにこの街から離れたのでもなかった。蘭によって、どこか別の場所に連れ去られたのだった。
「ろくでもないって……仮にもわたしの兄さんだよ……どうして」
 浩とは歳も離れていたので、それほど交流があったわけではない。それでも兄妹として、互いに気遣える存在であったし、会えば話も弾む相手だった。
「兄さんに会ったら、ビールでも飲もうって話してたのに」
「あぁ? いいのいいの、あんな奴。役場の女とできてやがって。こっちはババアの面倒見て、畑仕事して、双子の世話して、もういっぱいいっぱいだったのに。あいつはこの現実から逃げて、自分だけの憩いの場を作った。わたしにはそれが許せなかった。隠せるわけないじゃん、こんな狭い村で」「たしかに、蘭の気持ち考えないで、兄さんも馬鹿なことしたと思う、それでも……」
「話があるって、その洞穴の前に呼んだら、ホイホイついてきたよ。それで、そこに立たせて、呼んだんだ。神さまを」

 何が来たのだろう。

「来たんだ。鬼が。来て、あいつを攫って消えていった」

 浩がもうこの世にはいないことを悟って、未央の頬を伝って一筋の涙が零れた。
「でも、その時は何も繁栄はもたらされなかった。村もわたしも何も得るものがなかった」
 涙を拭うと未央はもう一つ、聞きたくないことを問わねばならなかった。「甥っ子と姪っ子は、どこに行ったの?」
「あいつらね」
 そう言うと蘭は自分の尻をぱんぱんとはたいて、大きく首を回した。
「仕方なかったのよ、五月蠅いんだもの。二人で一緒にいると喧嘩ばっかり。こっちの話なんてちっとも聞きやしない。その上、わたしが必死になって作ったご飯もろくすっぽう食べないで、お菓子ばっかり。わかる、あなたに? 双子を育てるのがどれだけ大変か。わからないでしょう? 一人も産んでないんだから。どこに行くにも、何をするにも、負担が二倍なのよ」「それでも……自分の子どもでしょう?」
「自分の子どもだから腹が立つのよ。余計に。二人して小憎らしい。普段は喧嘩しているくせに、母親に対しては共同戦線を張るんだから。それが夫がいなくなってから顕著になった。まさかわたしがやったことを知っているはずはないんだけど、なんだかね。敵対的な態度を見せることが多くなってきた」

 双子というのは互いに口に出さずとも意思の疎通ができるという話を聞いたことがある。もしかすると、彼らの超感覚的な部分で、父親に異変があったことを感じ取っていたのかもしれない。そして、母親が何らかそれに関与していることも。
「だから、そんなムカつく奴らをわたしが育てる義理はないって思った。それで、散歩に行こうって誘い出して、ここに来た。今度は神さまがやってきて、わたしは繫栄を手に入れた。その年、村ではアブラムシとカメムシが大量発生して、茄子が全滅に近い状態だった。でもわたしが手入れしていた畑では虫がつかず、栽培した茄子を信じられないくらいの高値で収めることができた。一緒に栽培していたショウガやパセリも味がよく、豊富に取れたので収入が激増した」

 自分の子どもと引き換えに、収入を得た蘭が生き生きと喋る様子を見ていたら、虫酸が走った。未央もそこまでは予測できていなかった。

「何なの? その顔は。わたしが自分の家族をどうこうしようと、あんたには関係ないでしょう」
 開き直ったかのように蘭は胸を張って、未央を睨み返した。
「それで、今度は母さんを送ろうって考えたのね。母さんはわたしの家族よ! いまとなってはたった一人の!」
 未央は大きな声を上げたが、蘭は対照的に落ち着いた声で、
「そうね。あなたの家族よね。婆もそう言ってた。どんなにわたしが世話を焼いたって、結局は血のつながった娘が恋しいのよ。この女、倒れてからずっとあなたの名前を呼んでいたわ。わたしに感謝するときも、寝ぼけているのかしらないけど、未央、ありがとうって。それを聞いて、もう送ろうって決めたわけ。そうしないと、自分が何ために頑張ってるか、わからなくなっちゃうから。送っちゃえば、もう頑張る必要もないし、うまく行けば何かが手に入るし。少なくともこの家と土地、それから畑は手に入るでしょう。そこから先はうまくやれば。婆がいなくなれば、あなたも帰ってくる理由がなくなるだろうし。好きに生きられる」
 あまりにも身勝手な蘭の発言と行動に、未央には怒りが芽生えていた。わなわなと震える右手を押さえると、ギュッと拳を固めた。

「……蘭さん? ここはどこだい? なんだか眩しいね」

「母さん、母さん? 気がついたの? 大丈夫⁉」
「大丈夫っていうか、未央?あれ、お前はもう帰ったんじゃなかったのかい?」
「う、うん……あ、大事な忘れ物があったから取りに戻ってきて……」
「そうかい。ここは、ん、鎮守の森の広場じゃないかい?」
「なんだよ、気づいたのか。もういいや、呼んじゃおう」
 そう言うと蘭は車いすに近づき、しっかりとハンドルを握り、洞穴の方に向けた。そして、

「もう、いいよ」

 と声をかけた。
 ゴォーっという風の絡まる音が、封がしてある洞穴の奥から響いてきた。  
 その音が聞こえるや、未央は一目散に車いすに駆け寄り、その勢いのまま蘭を突き飛ばして、ハンドルを握った。そして後ろを見ずに祠の方に走った。
「いったぁい! 何するのよ!」
 蘭の文句を言う声だけが聞こえた。
「あんたも一緒に……」
 と、言いかけたところでふぉん、と風が切れる音がして、声が止まった。

 足を止めてはいけない、そう未央にはわかっていたのだが、それでも後ろを振り返ってしまった。

 首の下から斜めに袈裟切りにされたように、顔を含む左半身が消えた蘭がそこに転がっていた。血が流れている様子は見えない。じたばたと脚が動いているので、死んではいないのだろう。

 その横に、異形のものが顕れていた。

 バッファローと形容するのが相応しいほど膨れ上がった頭部。そこには黒い角のようなものが二本。古めかしい縞々のセーターと半ズボン、ズック姿の小学生のような胴体。そこから生えた腕は細かったが、しかし、その先に連なる手は肥大し、太い指と鋭い爪が光っている。
 魚のような白い膜に覆われた目はその奥に小さな黒い点が見られたが、左右に遠く離れて位置していた。柔らかいゴムのようにぶよぶよしている頭皮には髪の毛は生えておらず、目の脇に大きな耳がその先を尖らせていた。

 鬼だった。

 蘭はこの鬼に半身を割かれてしまったのだろうか。
 鬼から意識を離さないようにして蘭――だったものを見ると、この世界に残された右手を使って立ち上がり、広場の周りをぐるぐると駆け回り始めた。何かから逃げるように。
 この場から一刻も早く離れなくてはならない。
 頭ではそう思っていても、未央の身体は動かなかった。動かせなかった。

「あれ、みぃおちゃん? ひさしぶりぃ」

 鬼が、話した。口はこちらからはどこにあるのかがわからない。呂律が回っていないようなしゃべりかたから察するに、口は肉塊の奥の方にあって、声を出すときに肉のひだがぶるぶる震えてしまっているようだった。

「誰なの……あなた……言葉が喋れるの?」
「あぁ? しゃべれるよぅ。ほら、ぼくだょ、ぼくぅ。朱里だよぅ」
「あ、朱里くん……?」
「そうだよぉ。皆ずーっと隠れるばっかりで、いつになっても呼ばれないから。目を瞑って待っていたんだぁ。でも、あるとき浩兄やんが呼んでくれて、やっと動けるようになったんだぉ。あ、さっきの蘭ちゃんかなぁ? 蘭ちゃんもずいぶんおばさんになっちゃったんだねぇ。グフフフフフ」

 鬼が、いや朱里が笑った。

 気づかれないように車いすを遠くに押しやってから、朱里の方に数歩近づいた。
 蘭は相変わらず懸命に駆け回っていたが、何もないところで突然何かにぶつかったように空中で弾かれ、倒れこんだ。それからはじっと動かなくなった。

「あなた……これまで、どこにいたの?」
「んふぅ、どこなんだろぉ。ずっと……同じ場所に居たと思うんだけど。ちゃーんと目を瞑ってたから、よくわからないや」
「蘭もわたしも昔とずいぶん見た目が違うわよね。なんでわたしだってわかったの」
「んー。なんだろ、匂いかなぁ」

 朱里の目を見ると、地中で生活するようになり目が退化した生き物のそれに近い印象だった。ある感覚が閉ざされると、変わりに別の感覚が発達する。朱里の場合、鬼になったことで、嗅覚が発達したようだった。そして外形上の様子から判断するに、聴覚も。
 彼が話しているところを観察していると、こちらを直接見ることはせず、頭をくるくると回している。耳とそれからその付近に生えている角のようなものがソナーのような役割を果たしていて、収集した音とその反響からこちら――つまり獲物の居場所を同定しているのだ。

「隠れん坊、まだ終わってないよねぇ?」

 言い終わると、返答も聞かず、こちらに走って向かってくる。

「ひ、ヒィィィィ~」
 甲高い奇妙な声が後ろから上がった。見ると道子が泡を吹いて気絶していた。彼女も鬼を見てしまったようだ。急いで車いすに駆け戻り、ハンドルを掴んで、ぐっと押した。が、動かない。
 どうやら道子が車いすでこちらを振り返ったときに、泥と石がたまっていた溝にはまってしまったようだった。

 母さん、ごめん、と未央はそこに道子を置いて離れた。動かないものと動くものなら、動くものに朱里は優先して反応するはずと考えて、自分が囮になることにしたのだ。

 未央は一度朱里の方に向かって全速力で走った。朱里は未央の動きの変化に対応するために、一度歩みを止めた。その瞬間、未央は森の入口に向かって駆けた。遅れて朱里も未央を追いかける。しかし、小学生の駆け足より、陸上経験者の未央の方に分があった。未央は雑木林に入ると、そこに落ちていた自分の身長ほどの長さの樹の枝を担いで、再び朱里に向かって走った。 
 朱里の目の前で枝を突き立てると、その反動を利用して――高く跳んだ。   
 朱里は刺さった枝を手で薙ぎ払った。棒は折れたが、その頃には未央の身は祠の前に投げ出されていた。
 未央は時間が稼ぎたかった。森仙堂の祠の中には何かがあるはず。しかし、その付近まで直線的に向かって祠を開いていたら、すぐに朱里に追いつかれてしまう。そこで、一度祠からもっとも遠くに朱里を引き離して、彼女だけが祠にたどり着く必要があった。

 そして、その試みは成功した。

 幸い鍵などで扉が封じられていなかった祠の中にあるお堂を開くと、中には小さな手持ちの銅鑼と撥が納められていた。銅鑼には文様なのかお墓で見たことのある梵字のようなものが刻まれている。
 どういうことなのだろう。これを打ち鳴らすと神さまが助けてくれるのだろうか。
 朱里がもうすぐそこに迫ってきていた。迷うことなく未央は銅鑼を打ち鳴らした。

 ぐわんぉぅぐわんぉぅぐわんおう。

 小ぶりな見た目にそぐわぬ大音声が鳴り響き、同時にぐぎゃあ、おおお、という悲鳴が朱里の身体から漏れ出た。それを見て未央は何度も何度も銅鑼を叩いた。
 朱里は両手で耳を塞ぎ、身体を振るわせてうずくまった。しかし、銅鑼の音声に共鳴して角が響いている。その角もうずくようだった。しかし、耳から手を離し、角を押さえると今度は突き刺すような響きが耳の奥に到達する。音声が響いている間、耳を塞いだり、角を押さえたりを交互に繰り返し、そのうち、朱里は動かなくなった。
 死んだようには思えなかったが、先の折れた枝で何度か突いてみても、朱里はぴくりともしなかった。彼の脚を掴んで、洞穴の前まで運び、蘭の半身も同様にして朱里の横に並べた。 
 それから未央は車いすを溝から外して、まだ気絶している道子を連れて家に戻った。

 そして、しっかりと家の鍵をかけた。

      *

 朱里は向こうに戻れなかったようだ。
 いや、戻らなかったといった方が正確かもしれない。
 毎晩二時を過ぎると呼び鈴がピン、ポーンとなる。そして、

「もう、いいかぁい?」

 朱里からの呼びかけが玄関ドアの前で木霊する。
 未央は一人、じっとそれに耐えている。

 一度、玄関のドアスコープから向こう側を覗いてみたことがある。
 すると、朱里の左手と手をつなぐ、蘭の右手だけがそこにあった。もう、半身は宙に消えていた。

 道子は、鬼になった朱里の姿と半身になって動き回る、かつて蘭だった何かを見てしまったからか、恐怖で気絶して以来、急激に認知症が進み、まともな受け答えができなくなっていた。

 朱里は家の中に押し入っては来られないようだった。あくまで彼の中でまだ続いている隠れん坊を完結したいということなのだろうか。日中は普通に外にも出られるので、未央は道子の通院に付き添ったり、自宅での介護を行ったり、畑仕事をしたりして過ごしている。今のところ収入には困っていなかった。東京へは連絡を入れ、広報会社は退職した。

 蘭が残していった、いや、自ら置き去りにしていったすべてのもの――家、畑、それから道子に未央は呼び戻されて、縛り付けられている。

「もう、いいよ」

 未央が朱里にそう答え、玄関を開く日も近いように思われた。

#創作大賞2024

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