ビジョンは「書く」ものか、「決める」ものか
ビジョンとは何か
目標がはっきりしていれば、そこへ向かう手段は大胆でいい。
ゴールが見えていれば、多少遠回りしても修正できる。迷子にはならない。
でも、どこがゴールかわからない状態で規定コースを外れたら、不安になる。
だから人は、そして組織は、無難な道を選ぶ。
この違いは「勇気」ではなく、「ビジョンの明確さ」だと思っている。
大胆さは性格ではない
大胆に動ける人は、勇敢なのではない。
到達点が明確なのだ。
評価基準が一つだから強い。
それはゴールに近づいているか?
この問いで判断できるなら、方法は柔軟でいられる。
失敗は単なるルート修正になる。
逆に、ビジョンが曖昧だと、手段が安全網になる。
前例、ルール、慣習。
それらにしがみつくのは臆病だからではない。
目的地が定まっていないからだ。
組織がビジョンを嫌がる理由
多くの組織は、ビジョンを本気で決めることを避ける。
なぜなら、決めるということは、「何をやらないかを決めること」「優先順位を固定すること」「責任の所在を明確にすること」に繋がるからだ。
合意形成には痛みがある。
既存事業が揺らぎ、既得権が動き、誰かの役割が変わる。
そのコストを先に払うより、曖昧なまま進んだほうが楽だ。
けれど、そのツケは迷走や重複、責任の押し付け合いという形で後からくる。
増えているのは「言語化」だけ
最近、計画書や基本方針のような文書は増えている。
ビジョンを言語化する仕事も増えている。
しかし、それが本当に意思決定につながっているかは別問題だ。
「持続可能」「連携」「発展」「多様性」、どれも正しい言葉だ。
でも、そのビジョンに基づいて何をやめたのか。
何を削ったのか。誰が責任を負うのか。
ここまで踏み込んでいなければ、それは整った文章であっても、決断ではない。
何も削らないビジョンは、何も変えない。
本物のビジョンは、必ず何かをやめている
ビジョンとは理念ではなく、選択の軸だ。
その軸があるからこそ、大胆な手段が戦略になる。
軸がなければ、大胆さは無謀になる。
だから問われているのは、「どんな言葉を書くか」ではない。
このビジョンを本気でやるなら、何をやめるのか?
ここに答えられるかどうか。
ビジョンは、書くものではない。
決めるものだ。
そして、本当に決めたビジョンは、必ず何かを手放している。
