レールの上で、イエナプランを叫ぶ ——「導かなければ」という呪縛を解くために
イエナプランの哲学を知り、「自律」や「対話」の大切さに触れて2ヶ月。
今、最大の壁にぶつかっています。
それは、高校2年生の息子との向き合い方です。
「導けない」自分への苛立ち
進学校に通いながら、空いた時間はYouTubeに没頭する息子。
それを見て「今は休息の時ね」なんて、そんな仏のような心で、私は彼を見ることなんてできません。
その姿を見ていると、私の心には黒い感情が渦巻いてくるのです。
「そんなことにしか楽しみを見い出せないの?」
「中学受験までしてこのルートに乗ったのに、やりたいことも見つからないまま、ただ流されていくの?」
そう喉元まで出かかる言葉を飲み込むたび、苦しくなります。
かつて、彼の探究心よりも成績を優先させてしまった自分への後悔。そして、今さらこのレールから外れる覚悟も持てない自分。
私は、イエナプランの実践者として、彼を正解のない未来へ「導いて」やらなければいけないのに。
もっと広い心で、彼の自律を促すファシリテーターであるべきなのに。
私は、彼の「指導者」ではなく「ファシリテーター」でありたい。
でも現実は、彼の背中に向かって「やりたいことがないなら、せめて勉強くらい頑張りなさいよ」という言葉を飲み込むのが精一杯。
見守るどころか、自分の見栄や不安を彼に投影して、覚悟の決まらない自分に嫌気がさしていました。
でも、そんな私を救ってくれたのは、ある「言葉の捉え直し」でした。
【私が目指したい、新しい親のカタチ】
イエナプランでは、大人は「指導者」ではなく「ファシリテーター」であるべきだと言われます。この言葉を、私は自分なりにこう噛み砕いてみました。
「導く人」ではなく「耕す人」 「早く芽を出せ」←やりたいことを見つけろ)と引っ張るのではなく、芽が出やすいように土(家庭環境)を柔らかく整えて、その瞬間を信じて待つ役割。
「答えを教える人」ではなく「安全な港の管理人」 受験という荒波でボロボロになって帰ってきたとき←受験という選択をした時)に、「ここは安全だよ」と灯りを灯して待っている役割。
「評価する人」ではなく「一緒に立ち止まる伴走者」 「良い・悪い」を判定するのをやめて、「今、お母さんにはこう見えているよ」と鏡のように伝え、共に悩む役割。
この「ファシリテーター(伴走者)」という考え方に触れたとき、私はハッとしました。
「導かなければ」というプレッシャーは、結局、まだ私の中に「彼を私の思う正解へ戻したい」という強い支配欲が残っていた証拠だったのです……。
イエナプランの「指導者の透明化」とは、子どもをコントロールすることではなく、親自身の不安を自覚し、それを一旦脇に置くこと。 そして、親自身が「正解を持っていないこと」や「葛藤している姿」を、ありのままに見せること。
息子を暖かく見守れない自分を責めていたけれど、その「割り切れなさ」こそが、今の私の現在地なのだと気づかされました。
覚悟はなくていい。ただ、隣で揺れる。
息子のためと言いながら、自分の安心のために進学を望んでしまう私。
そんな未熟な自分を隠して「正しい親」を演じるのではなく、この葛藤を抱えたまま、息子と同じ空間にいること。
そして、今も私の目の前でYouTubeを見てる息子に、私は少し深呼吸してからゆっくりこう語りかけました。
「あなたがYouTubeを見てる時、実はママ、不安でいつも勉強しろって言ってしまってるのだと思う。
でも、それって、あなたのためじゃなくって、ママの安心のためじゃなかったかなって、今すごく葛藤してるの。
受験だけを目標にするのではなく、自分のやりたいことを見つけて欲しい。
そう思っている気持ちは紛れもなく本当。でもそれを見つけるために、あなたの人生をどう応援するのがいいか、まだ答えが出ないの。」
彼は、youtubeから目を離し、じっと私の言葉を聞いていました。
「ママの言いたいことは、よくわかったから」
いつになく、真剣な眼差し。
自分は、「成績を出す対象」ではなく、「一人の尊重された人間」として、私に認められている。
もしかしたら、それが少し伝わったのかもしれません。
それがまっすぐに伝わったのなら、それこそが、イエナプランが目指す「人間としての尊厳」の尊重であったのではないかと思うのです。
ここでかっこよく締めれれば良いのですが、正直、これからも、私は「指導者」と「ファシリテーター」との間を揺れ動くのだと思います。
「息子を導かなければ」と思った時、それは無意識に「指導者」に戻ろうとしている瞬間。
「導く」というのは、行き先を親が決めている状態だから。
息子をどこかへ連れて行こうとしなくていい、一緒に悩み、一緒に揺れていること。
そのように「伴走」できてこそ、私は息子の最高のファシリテーターにもなれるだと思います。
学校が、受験のテクニックを学ぶ場ではなく、迷いながらも自分を見つける場になってほしいと願うなら。
まずは私が、この「正解のない迷い」の中に、息子と一緒に立ち尽くしてみようと思います。
