美形がもつべき倫理観~有能かつ利己的な人が最も醜悪である~
時々思うことがある。美形の人には、人へ貢献するある種の徳があるのではないか、ということである。
私は美形だから善いと言いたいのではなく、美形であることによって新しい倫理的な問題が発生すると考えている。それも特に利他性と関わってくる。
例えば極端に単純化してみる。
美形で利他的な人がいる。
美形で利己的な人がいる。
醜形で利他的な人がいる。
醜形で利己的な人がいる。
細かい問題は一旦無視するとして、私には美形で利他的な人が最も善く見える。そして不思議なことに、美形で利己的な人はかなり悪く見える。少なくとも私の感覚ではそうである。
これはなぜだろうか。
考えてみると、私たちは能力や資源が大きい人ほど、倫理的な要求も大きくしているように思える。
例えば子供が乱暴なことをしても、「まだ子供だから」と許される場合がある。しかし大人が同じことをすると厳しく批判される。あるいは個人の悪より大企業の悪のほうが、より批判される。
それは大人の方が能力を持っていると考えられているからである。能力が増えれば責任も増える。私たちは案外そのような世界観を前提に生きている。
もしそうなら、美形も一種の資源なのかもしれない。
美形の人は他者から好意を得やすい。警戒されにくい。人間関係の形成において優位に立つことがある。もちろん例外はいくらでもあるだろう。しかし一般的な傾向として、そのような社会的利得は確かに存在しているように思う。
だから私は時々、美形で利己的な人に強い嫌悪感が向けられる理由もそこにあるのではないかと考える。
単に性格が悪いからではない。既に多くのものを与えられているように見える人が、さらに他者を踏み台にしようとする。そこに不公平感を覚えるのである。
同じことはお金についても言える。
裕福で利他的な人は尊敬されやすい。反対に裕福で利己的な人は強く批判されやすい。貧しい人が自分の生活を守るために利己的になることは、ある程度理解される。しかし十分な資源を持ちながら利己的に振る舞う人には厳しい目が向けられる。
私には、この感覚は平等への願望と関係しているように思える。
人間は完全な平等を実現できない。生まれも違う。能力も違う。容姿も違う。財産も違う。しかし、その不平等を認めながらも、どこかで均衡を求めている。だから多くを持つ者には、多くを還元してほしいと期待するのである。
この考え方をさらに広げると、有能さについても同じことが言える。
有能で利他的な人は善い。
有能で利己的な人は悪い。
少なくとも私にはそう見える。
無知による失敗は、まだ許せる。しかし知識を持ちながら他者を欺く人には強い反感を覚える。能力が高いほど、その悪意は大きく見えてしまうのである。
例えば飲食店で横柄な態度を取る客がいる。社会的地位が高い人もいるだろう。高収入の人もいるだろう。そうした人が店員へ過剰な要求を行う姿を見ると、私は奇妙な違和感を覚える。なぜなら、その人は既に多くの能力を持っているように見えるからである。その能力が他者への配慮ではなく、支配や威圧のために使われているように感じられてしまう。
もっとも、現実にはそうした態度も金銭によって部分的に隠蔽される。高額なサービスを購入する。高い賃金を支払う。その結果、店員は感情を抑えて対応する。社会はこのような感情労働によって成り立っている部分がある。しかし、だからといって横柄さが消えるわけではない。むしろ金銭によって見えなくなっているだけかもしれない。
もちろんここで注意しなければならないこともある。
美形であることも、裕福であることも、有能であることも、それ自体は罪ではない。だから私は特権を持つ人を非難したいわけではない。問題は、その特権をどう用いるかなのだと思う。
結局のところ、私が考えているのは美形の倫理ではなく、能力の倫理なのかもしれない。容姿も才能も財産も、一種の能力として考えることができる。そして人は、その能力が大きく見えるほど、高い倫理性を期待される。
だから美形で利他的な人は美しく見える。反対に美形で利己的な人は、単なる利己的人間以上に悪く見える。
それが正しいのかは分からない。しかし人を評価する時、私たちは行為そのものだけではなく、その人が何を持っていたのかまで含めて判断しているように思えるのである。
Fin.
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