新科目「歴史総合」を読む 2-3-5. 第二次世界大戦とアジア太平洋戦争の勃発
メイン・クエスチョン
ヨーロッパにおける戦争とアジア・太平洋における戦争は、どのように結びついていったのだろうか?
■第二次世界大戦の勃発
サブ・クエスチョン
第二次世界大戦は、どのように推移していったのだろうか?
1939年9月1日、ドイツがポーランド侵入し、その2日後に英仏がドイツに宣戦することで、第二次世界大戦が始まった。
1940年6月にはフランスがドイツに降伏し、1941年6月にはドイツが不可侵条約を破ってソ連攻撃を開始した。
当初、アメリカ合衆国は中立を守っていたが、1941年に武器貸与法を制定し、イギリスとの提携を始めた。
同年夏には大西洋憲章を発表し、ソ連も加わった。1942年1月には中国を含む26ヵ国による連合国共同宣言が発表され、連合国が形成された。
一方、ドイツおよび占領下の地域では、ユダヤ人やスラヴ人、シンティ・ロマに対する大量虐殺がおこなわれた。
資料 ドイツで出版された『毒キノコ』という絵本(1938年)
Q. 「Der Giftpilz」(毒キノコ)とは何を指しているのだろうか?
資料 軍需産業に動員される女性(イギリスのポスター)
■結びつく日中戦争と第二次世界大戦
サブ・クエスチョン
日本はなぜ対米海戦に突き進んでいったのだろうか?
日本(第二次近衛内閣(1940.7.22〜1941.7.18))は日中戦争が援蒋ルート(蒋介石政権に向けてフランス領インドシナ、香港、ビルマなどから武器・弾薬・ガソリンを輸送するルート)の存在によって長期化するなか、1940年3月の南京で汪兆銘が国民政府を樹立し、6月にフランスがドイツにより占領されたことをもって、9月にフランス両インドシナ北部(ヴィシー政権下にあった)への日本軍の進駐をすすめた。この目的は、重慶におかれた蒋介石の国民政府に対するイギリス・フランスによる支援ルート(援蒋ルート)の遮断と、資源の獲得にあった。
資料 世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱(1940年7月27日)
方針
帝国ハ世界情勢ノ変局ニ対処シ内外ノ情勢ヲ改善シ速二支那事変ノ解決ヲ促進スルト共二好機ヲ捕捉シ対南方問題ヲ解決ス
支那事変ノ処理未タ終ラサル場合ニ於テ対南方施策ヲ重点トスル態勢転換ニ関シテハ内外諸般ノ情勢ヲ考慮シ之ヲ定ム
右二項ニ対処スル各般ノ準備ハ極力之ヲ促進ス
要領
㐧一条 支那事変処理ニ関シテハ政戦両略ノ綜合力ヲ之ニ集中シ特ニ㐧三国ノ援蒋行為ヲ絶滅スル等凡ユル手段ヲ尽シテ速ニ重慶政権ノ屈服ヲ策ス
対南方施策ニ関シテハ情勢ノ変転ヲ利用シ好機ヲ捕捉シ之カ推進ニ努ム
㐧二条 対外施策二関シテハ支那事変処理ヲ推進スルト共ニ対南方問題ノ解決ヲ目途トシ概ネ左記ニ依ル
一、先ツ対独伊蘇施策ヲ重点トシ特ニ速ニ独伊トノ政治的結束ヲ强化シ対蘇国交ノ飛躍的調整ヲ図ル
二、米国ニ対シテハ公正ナル主張ト厳然タル態度ヲ持シ帝国ノ必要トスル施策遂行ニ伴フ已ムヲ得サル自然的悪化ハ敢テ之ヲ辞セサルモ常ニ其動向ニ留意シ我ヨリ求メテ摩擦ヲ多カラシムルハ之ヲ避クル如ク施策ス
三、佛印及香港等ニ対シテハ左記ニ依ル
(イ)佛印(広洲湾ヲ含ム)ニ対シテハ援蒋行為遮断ノ徹底ヲ期スルト共ニ速ニ我軍ノ補給担任、軍隊通過及飛行場使用等ヲ容認セシメ且帝国ノ必要ナル資源ノ獲得ニ努ム情況ニヨリ武力ヲ行使スルコトアリ
㐧三条 対南方武力行使ニ関シテハ左記ニ準拠ス
一、支那事変処理概ネ終了セル場合ニ於テハ対南方問題解決ノ為内外諸般ノ情勢之ヲ許ス限リ好機ヲ捕捉シ武力ヲ行使ス
二、支那事変ノ処理未タ終ラサル場合ニ於テハ㐧三国ト開戦ニ至ラサル限度ニ於テ施策スルモ内外諸般ノ情勢特ニ有利ニ進展スルニ至ラハ対南方問題解決ノ為武力ヲ行使スルコトアリ
三、前二項武力行使ノ時期、範囲、方法等ニ関シテハ情勢ニ応シ之ヲ決定ス
(中略)
四、武力行使ニ当リテハ戦争対手ヲ極力英国ノミニ局限スルニ努ム
但シ此ノ場合ニ於テモ対米開戦ハ之ヲ避ケ得サルコトアルヘキヲ以テ之カ準備ニ遺憾ナキヲ期ス
㐧四条 国内指導ニ関シテハ以上ノ諸施策ヲ実行スルニ必要ナル如ク諸般ノ態勢ヲ誘導整備シツツ新世界情勢ニ基ク国防国家ノ完成ヲ促進ス
之カ為特ニ左ノ諸件ノ実現ヲ期ス
一、强力政治ノ実行
二、総動員法ノ広汎ナル発動
三、戦時経済態勢ノ確立
四、戦争資材ノ集積及船腹ノ擴充
(繰上輸入及特別輸入最大限実施竝ニ消費規正)
五、生産擴充及軍備充実ノ調整
六、国民精神ノ昂揚及国内輿論ノ統一
北部仏印進駐の直後である1940年9月には、アメリカを仮想敵国とする日独伊三国同盟を締結し、1941年4月には日ソ中立条約を結んだ。
しかし、国力に圧倒的な差のあるアメリカを敵に回すことには、日本政府内にも慎重意見があり、ソ連との戦闘を継続する北進論と南進論が対立した(なお、松岡外相は、まず日独伊三国同盟を結び、その後にドイツのあっせんによって日独伊ソ四国協商を成立させ、その圧力でアメリカにアジアから手を引かせて日中戦争を解決し、同時に南進政策を有利にすすめる構想を抱いていた)。
結果的に、1941年に日ソ中立条約を締結して北方の安全の確保しようとした日本は、南進論に転じる。そして、南進論に反対するアメリカとの妥協をさぐるため、1941年4月から野村吉三郎・駐米大使とハル国務長官のあいだで日米交渉がはじまった。
しかし、その直後、ヨーロッパにおける情勢は急展開を迎える。ドイツが1941年6月に独ソ戦を開始したのだ。
資料 独ソ戦:ドイツにとっては「世界観戦争」(ヴェルトアンシャウウングスクリーク)であり絶滅戦争
ヒトラーのドイツ国防軍高級将校たちに対する演説(1941年3月30日)
「対立する2つの世界観のあいだの闘争。反社会的犯罪者に等しいボリシェヴィズムを撲滅するという判決である。共産主義は未来へのとほうもない脅威なのだ。われわれは軍人の戦友意識を捨てねばならない。共産主義者はこれまで戦友ではなかったし、これからも戦友ではない。みな殺しの闘争こそが問題となる。もし、われわれがそのように認識しないのであれば、なるほど敵をくじくことはできようが、30年以内に再び共産主義という敵と対峙することになろう。われわれは、敵を生かしておくことになる戦争などしない。」
資料 独ソ戦:ソ連にとっては「大祖国戦争」 イリア・エレンブルクの『赤い星』掲載文(1942年)
「ドイツ軍は人間ではない。いまや「ドイツの」という言葉は、もっとも恐ろしい罵りの言葉となった。〔中略〕もし、あなたがドイツ軍を殺さなければ、ドイツ軍はあなたを殺すだろう。ドイツ軍はあなたの家族を連れ去り、呪われたドイツで責めさいなむだろう。〔中略〕もし、あなたがドイツ人一人を殺したら、つぎの一人を殺せ。ドイツ人の死体にまさる楽しみはないのだ。」
松岡外相はドイツとの関係を重視し、7月に関東軍特種演習の名目で、対ソ連の軍事力を増強。日本はソ満国境に軍隊を動員した。
この動きを警戒した近衛は、松岡更迭のために内閣総辞職し、外相を豊田貞次郎に代えた第三次近衛内閣(1941.7.18〜1941.10.18)を組閣。7月28日にはフランス領インドシナ南部に日本軍を進駐させた。
アメリカ合衆国はこれに反発して、在米日本資産を凍結し石油の対日輸出を全面禁止し、イギリスも資産凍結をおこなった。こうした姿勢に対して陸軍では開戦論が高まったが、アメリカの石油輸入に依存していた当時の日本にとっては大きな打撃であった(このような動向のなか、アメリカのフランクリン・ローズヴェルトとイギリスのチャーチル首相は8月14日に大西洋憲章を発表し、すでに戦後秩序を構想している)。
第三次近衛内閣は、アメリカとの開戦回避を探ったが、1941年9月6日の御前会議で「帝国国策遂行要領」が決定された。
帝国は現下の急迫せる情勢特に米英蘭各国の執れる対日攻勢ソ連の情勢及帝国国力の弾撥性に鑑み「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」中南方に対する施策を左記に依り遂行す
1. 帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す
2. 帝国は右に並行して米英に対し外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最小限度の要求事項並に之に関連し帝国の約諾し得る限度は別紙の如し
3.前号外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す対南方以外の施策は既定国策に基き之を行い特に米ソの対日連合戦線を結成せしめざるに勉む
しかし、開戦論が高まるなか、同年10月18日に近衛内閣は総辞職し、重臣会議の推薦によって東條英機内閣が発足した(東條英機が陸相・内相も兼任)。明治憲法においては、統帥権が独立していたため、政府(軍政)が大本営(軍令)との調整をおこなうことがむずかしかった。そこで東條英機は大本営政府連絡会議を頻繁に開き、意思統一を図ろうと努めた。
11月5日の御前会議では、再検討されていた「帝国国策遂行要領」について、アメリカに対する2種類の要求案(甲案・乙案)が用意され、12月1日を交渉の期限と定めた。開戦が事実上決定されたわけです。
「甲案では、(1)日本は、通商の無差別原則が全世界に適用されるという前提の下に、太平洋全域及び中国における通商の無差別原則の適用を求めること、(2)日独伊三国同盟の解釈については、「自衛権」のみだりな拡大をしないことを明確化するとともに、従来通り日本政府独自の解釈に基づくこと、(3)撤兵問題については、中国からの撤退では華北及びモンゴルの一部と海南島に関しては日本・中国間の平和条約成立後およそ25年を目処として駐屯するが、それ以外の地では2年以内の完全撤退を目指し、仏領インドシナからは日中戦争が解決するか極東の平和が確立ししだい直ちに撤退すること、が示されました。
乙案では、(1)日本・アメリカ両国は仏領インドシナ以外の東南アジア及び南太平洋地域に武力的進出を行なわないこと、(2)両国は蘭領インドシナにおいて物資獲得が保障されるように相互協力すること、(3)両国は通商関係を在アメリカ日本資産凍結以前の状態に復帰させること、(4)アメリカは日本・中国の和平の努力に支障を与える行動をしないこと、の4点が成立すれば必要に応じて南部仏領インドシナに駐屯する日本軍は北部仏領インドシナに引き揚げることを示しています。」
しかし、11月26日にアメリカが提示した文書「ハル・ノート」は、日本の支配領域を満州事変以前に戻すという内容であり、ここにおいて日米交渉は決裂することとなった。12月1日の大本営政府連絡会議・午前会議で12月8日(アメリカ時間12月7日)のアメリカ・イギリスに対する開戦を決定。
1941年12月8日、日本陸軍はイギリスの植民地であったマレー半島コタバルに上陸し、その直後に海軍がアメリカ合衆国のハワイ真珠湾を奇襲した。
12月8日に宣戦の詔書が出され、アメリカ、イギリスとの戦争が始まった(オランダに対する言及はなかった)。国民がこれを知ったのは、12月8日朝のラジオの臨時ニュースであった。
戦争の名称は、12月10日の大本営政府連絡会議で、これまでの1937年7月7日以来の「支那事変」を包含するかたちで「大東亜戦争」とさた。
現在では、1931年9月18日の満洲事変を起点とし、太平洋戦争(連合国軍最高司令官総司令部により「大東亜戦争」という呼称が禁止されたことによる呼称)、アジア・太平洋戦争と呼ぶことが多い(かつては十五年戦争と呼ぶ向きもあった)。
翌年にかけての約半年の間に、香港、マレー半島、シンガポール、ビルマ、オランダ領東インド(現・インドネシア)、フィリピン諸島などを次々に占領した。
サブ・サブ・クエスチョン
人々は、「大東亜戦争」に対して、どのような意識を抱いたのだろうか?
資料 高村光太郎「十二月八日の記」
記憶せよ、十二月八日。
この日世界の歴史あらたまる。
アングロ・サクソンの主権。
この日東亜の陸と海とに否定さる。
眇たる東海の国にして
また神の国たる日本なり。
そを治しめたまふ明津御神
世界の富を壟断するもの、
強豪米英一族の力、
われらの国に於て否定さる。
われらの否定は義による。
東亜を東亜にかへせといふのみ。
彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。
われらまさに其の爪牙を摧かんとす。
われら自ら力を養ひて ひとたび起つ。
老若男女みな兵なり。
大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
世界の歴史を両断する
十二月八日を記憶せよ。
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