14.4.3 満州事変・日中戦争と中国の抵抗 世界史の教科書を最初から最後まで
第一次世界大戦後、とくに世界恐慌後の日本と中国の動きを見ていこう。
日本の動き
第一次世界大戦の“おかげ”で、日本は好景気を迎えた。
大陸向け物資の生産が盛んになったのだ。
しかし、関東大震災が起きた1923年(大正12年)頃から貿易が不調に。
そのまま昭和を迎えた日本は、改元早々の1927年(昭和2年)に「金融恐慌」が発生。
そこに世界恐慌が追い討ちをかけた。
経済は混乱し労働者のストライキが多発。
一方、個人の権利をコントロールして、天皇を中心に協力な国家体制をつくろうという思想家もあらわれた。
このままでは「日本で革命が起きるのでは」「日本でもイタリアのようなファシズム政権ができるのでは」という不安も広がった。
そんな中、政党は「あたらしい日本をつくる」ためのリーダーシップを発揮できず、政権争いを続けている。
国民にとってみれば、「選挙によってあたらしい日本をつくろう」という政党の主張よりも、「大陸で支配権を拡大することで経済危機を乗り越えよう」という軍部の主張のほうが、事実だろうがなかろうが、よっぽど現実的に聞こえるようになったのだ。
こうしたニュースは新聞だけでなく、当時普及していたラジオというマス・メディアを通して、多くの人に届けられていた。
そんな中、1931年(昭和6年)9月にビッグニュースが舞い降りた。
遼東半島から南満州鉄道の周りを担当する軍であった「関東軍」が、参謀長・参謀らによって、中国東北地方(満洲(まんしゅう))の柳条湖(りゅうじょうこ)の鉄道を爆破。
これを口実に「自衛のため」として軍事行動を起こし、東北地方(満洲)の大半を占領した。
資料 満洲行進曲(作詞:大江素天 作曲:堀内敬三)(1932年)
歌詞 6番
東洋平和のためならば
我等がいのち捨つるとも
なにか惜しまん日本の
生命線はここにあり
九千万のはらからと
ともに守らん満洲を
この軍事行動は1931年9月から1933年5月まで続き、その間、軍部は1932年(昭和8月)に上海事変も起こしている。国際社会の注意をそらすためだったが、日本の軍事行動は国際的な批判を受け、中華民国の提訴により国際連盟は「リットン調査団」を派遣した。

それに対抗して関東軍は、1932年3月に満洲国を建国。
五族共和をスローガンとし、その皇帝は、なんと清朝最後の皇帝であった溥儀(プーイー;ふぎ)だ。
漢人に滅ぼされた清の支配者であった満洲人に「故郷でもう一度 “王道楽土” をつくろう」と持ちかけたのだ。
資料 「満洲国皇帝陛下奉迎歌」
歌詞1番
国を挙り 迎へまつれ
燦たり 聖駕に桜花は明れり
麗らよ けふの日 期すべし、善隣
日満親和 いよよ厚し
歓び溢るる日本のこの歌
唱へまつれ 高らかに いざ
満洲国ができたことで、日本は中国よりも、朝鮮・台湾・満洲との貿易関係を深め、しだいに日本/朝鮮/台湾/満洲の貿易ネットワークが構築。「ブロック経済」化がすすんだ。
ようするに日本は、帝国内での分業を発展させ、日本人への「同化」をすすめるとともに、植民地を工業化させることで、世界恐慌を乗り切ろうとしたわけだ。
日本から多くの人が「よりよい暮らし」をもとめ、満洲にわたった。
しかし、日本が「自衛権を発動したのだ」という主張を、リットン調査団はしりぞけ、国際連盟はそれを支持。
これを受けて日本は1933年(昭和8年)に国際連盟を脱退することになる。
昭和恐慌が始まってから6年目のことだった。
それでも日本は軍事行動をやめず、北京にほど近い「熱河」(ねっか)地方にまでおよんだ。
一時は長城をこえて華北の支配も視野に入れたけれど、いったん停戦が合意された。
当時の日本の日常風景
ただし、停戦によって日本軍部の中国進出が静止したわけではない。
1935年(昭和10年)11月には、長城の南に設定された非武装地帯に、「冀東防共自治政府」(きとうぼうきょうじちせいふ)という政府をつくらせて、国民政府から切り離そうとした(華北分離工作という)。
また、1936年(昭和11年)8月には内閣(広田弘毅内閣)は、華北の5つの省を日本支配下に置く方針をハッキリさせている。

こうした日本軍の拡大にともなって、中国国内では抵抗運動が起き、それに対する日本軍との間の流血事件も増えていった(通州事件)。
日本国内でも一部の軍人や活動家がテロやクーデタ事件を起こすように。
“話し合い”による議会民主政による危機突破ではなく、北一輝(1883〜1937年)のような根本的な国家改造プランに期待があつまり、日本の未来を賭けようとする人たちの活動が活発化したのだ(飢饉が襲った悲惨な地方出身者に、軍部やメディアによって焦点が当てられた)。
1932年(昭和7年)のテロである五・一五事件、
上記の「昭和維新行進曲(陸軍の歌)」ように五・一五事件の青年将校をたたえる内容の歌謡曲は事実上発禁処分を受け、翌年の出版法改正により、レコードも内務省による検閲対象に加わった。
1936年(昭和11年)のクーデター未遂事件である二・二六事件が有名だ。二・二六事件では、実際に千人以上の軍隊が動員され、4日間にわたり首相官邸・警視庁など国の中枢がs
しだいに「誰かの批判をうかつに口にすると、暴力の対象になってしまう」という不安が広がっていった。
中国の動き
1928年に中国統一を成し遂げていた蒋介石率いる中華民国の国民政府。
国民政府は1928年から1930年にかけて、不平等な条約をついに改定。
関税の自主権を回復した。
これを機に、国内の政治的・軍事的な統一をはかろうと、蒋介石に絶大な権力を集め、中国共産党をやっつけることに力が注がれる。
「世界恐慌」という歴史的な危機にあって求められたのは、困難を乗り切る強力なリーダーシップであったのは、当時の世界的な現象だ。
そういうわけで、蒋介石は1931〜1933年の満州事変にあっても、「安内攘外」(あんないじょうがい。外の敵よりも、まずは内側の統一が先)の方策をとる。
1935年には、浙江財閥(せっこうざいばつ)が主導し、イギリスとアメリカ合衆国の援助を受ける形で通貨を統一。
ポンドに連動した四大銀行の発行する紙幣を、唯一のお金(法定通貨)として定めることに成功し、これ以降、国が金融をコントロール下に置けるようになった。
「銀」を通貨とする長い伝統は、ここで幕を閉じたわけだ。
瑞金(ずいきん)に臨時政府を立ち上げていた共産党軍も、国民政府の攻撃を受けて“引越し”を決意。
中国西部の雪山を越える大移動により、黄河上流の延安(えんあん)へと移動した(1934〜1936年の長征(ちょうせい))。
その過程で権力をにぎったのが毛沢東(もうたくとう)だ。
1949年に建国され今にいたる中華人民共和国では、「長征」は建国史の一つとして特別な意味を持つイベントとなっている(写真のいちばん右が毛沢東)。

国民党に包囲される窮地が続く中で、毛沢東は、日本軍が中国に進出している状況を見て、「これを機に、内戦を停止して、「民族統一戦線」をつくろうじゃないか」と考える。
その推進力となったのは、1935年にソ連の国際的な革命組織コミンテルン(第三インターナショナル)によって打ち出された「人民戦線決議」という方針転換。
「共産党」と方針が違うグループであっても、「ファシズムに対抗しよう」という意識さえあれば、「反ファシズム人民戦線」をつくり、今は一緒に戦うべきときだ。
ようするに、ファシズムに対抗するには、労働者階級と中産階級が同盟を組むべきだという戦略(「(ファシズムは)金融資本の最も反動的にして最も排外主義的で、最も帝国主義的な分子の公然たるテロリズム独裁」と規定された)。
これまでのような「世界中で革命を起こそう!」というプランを捨てたのだ。
ただし一方で、ソ連は満洲方面に対する進出を弱めようとしていたわけではなかった。
極東の重要な軍港として1932年に復活したウラジオストクを、シベリア鉄道と連結するため、第二シベリア鉄道ともよばれるバム鉄道(緑色のライン)の建設に1935年に着手。

人手不足や食料確保のしわ寄せが、同時期のウクライナ、カザフスタンなどで起きた数百万人の飢饉をもたらしたとも言われる。
コミンテルンの方針転換を利用した毛沢東は、1935年8月1日にいわゆる「八・一宣言」(はちいちせんげん)を発表。
内戦をやめて、一緒に日本と戦おうと蒋介石に呼びかけた。
史料 八・一宣言 (1935年)
わが国内外の労働者・農民・軍人・政治家・実業家・学者各方面の男女同胞よ!
日本帝国主義の我らに対する進撃はますますはげしい。……
5千年の歴史をもつわが国が完全に被征服地と変じ,4億の同胞は悉く亡国の奴隷と変わりはてるであろう。……
共産党とソヴィエト政府はあらためて全同胞に訴える。――各党・各派の間に過去現在を通じて政見や利害の上でいかなる違いがあるにせよ,……「兄弟は内輪もめをやっても,外の侮りは一緒にふせぐ」あの真剣な覚悟をもたなければならない。まずみんなが内戦をやめ,それによってすべての国力(人力・物力・財力など)を集中し,神聖な救国事業のために戦いを有利にしなければならない。[後略]
(『東洋史料集成』 平凡社)
しかし、あくまで共産党掃討を主張する蒋介石を、無理やり拉致・軟禁して説得したのは、同じ中国国民党の張学良(ちょうがくりょう)だった。
張学良の父は、満洲の軍閥のドンで、日本の関東軍の将校によって1928年に爆殺された張作霖(ちょうさくりん)だったよね。
蒋介石との取引で、父から受け継いだ満洲の独立状態を守るとともに、日本側ともパイプを持った。
しかし満州事変では日本に抵抗することができず、その後、ヨーロッパを外遊。
帰国後1936年4月に、中国共産党の中枢にいた周恩来と極秘会談し、「蒋介石をしりぞけて、日本を敵として一緒に戦おう」と考えるようになったのだ。
こうして張学良の強い説得を受けてしぶしぶ受け入れた蒋介石。
こうして国民党と共産党は、日本という “共通の敵” に向かって、再びコラボすることとなる(しかし、張学良はその後長い間、軟禁状態に置かれることになる。蒋介石の恨みは深かった)。
***
こうして、迎えた1937年(昭和12年)7月、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で日中両軍の軍事衝突事件(盧溝橋事件)が勃発。
停戦協定が破られ、日本軍は一気に中国本土に侵攻した。
中国では9月までの間に第二次国共合作(国民党と共産党のコラボ)が成立し、日本と中華民国は事実上の交戦状態に入る。
コラボといっても、中国を支配する政府は、蒋介石率いる国民党であったことには注意しよう(現在のように共産党が政権をとることになるのは1949年のこと)。
資料 1937年9月にコロムビアから発売された「露営の歌」
日中戦争に際し、東京日日新聞社と大阪毎日新聞社が公募した「進軍の歌」のレコードのB面に2等として吹き込まれた「露営の歌」(薮内喜一郎作詞、古関裕而作曲)のほうが、かえって大ヒットした。
1937年末までに日本は華北の重要拠点と南京を占領、南京占領の時には多数の中国人を殺害した(南京事件)。
一方、中華民国には後ろ盾があった。
アメリカ、イギリス、さらに途中から連合国に加わったソ連の援助を受けていたのだ(国民政府は大国に戦争の展開を委ね、結果的に抗戦に消極的になったことが、共産党の台頭の背景にある)。
蒋介石率いる国民政府は、南京から武漢(ぶかん)に政府を移し抗戦。
武漢を攻略すれば戦局を打開できるとみていた日本では、8月より作戦が続く中祝賀ムードを先取りするように9月に「大陸行進曲」が発売されている。
資料 軍歌「大陸行進曲」(作詞:鳥越強、作曲:中支派遣軍軍楽隊)
4番
さうだ情の 手を執つて
新たに興す 大亜細亜
友よ一緒に 防共の
固い砦を 築くのだ
しかし、蒋介石は、さらに奥地の重慶(じゅうけい)にうつして抗戦をつづけることになる。
日本は重要な都市と交通路を確保したものの、果てしなく広がる中国の農村エリアまで支配することはできなかった。
資料 軍歌「荒鷲の歌」
2番
誰が付けたか荒鷲の
名にも恥じないこの力
霧も嵐もなんのその
重い爆弾抱えこみ
南京ぐらいは一またぎ
ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ
海軍航空隊が、九州・台湾からおこなった長距離爆撃(渡洋爆撃)をテーマにした軍歌。
2番の歌詞「重慶」の部分は、1940(昭和15)年にビクターが波岡惣一郎の吹き込みで発売したとき、1938(昭和13)年に東京リーダーフェル・フェラインの吹き込み版の「南京」を書き換えたもの。
音源は下記で視聴可能(国立国会図書館 歴史的音源(れきおん))
1940年(昭和15)年、日本は戦争目的として「東亜新秩序の建設」を掲げ、重慶の国民政府に対抗する形で、南京に中国人の政府を設立させた。
リーダーは中国国民党の汪兆銘(おうちょうめい;汪精衛、1883〜1944年)。
蒋介石と対立した経歴を持つ、この中国国民党の大物政治家は、日本の「大東亜共栄圏」のコンセプトに心を打たれたのだ。
しかし中国民衆の支持は得られず、戦争は長期化の一途を辿ることとなる。
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