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文明は奴隷を解放する 13.2.1 アフリカ大陸の分割 世界史の教科書を最初から最後まで

2020年、ブラック・ライブズ・マター運動が世界各地にひろがるなか、ベルギーの国王レオポルド2世の像が各地で破損の被害に遭い撤去されたというニュースがあった。

アフリカ中部コンゴを1885~1908年に私領地とし、搾取したベルギー国王レオポルド2世の像の撤去を求める署名サイトの主催者は訴えた。ゴムや象牙の採取ノルマを果たせない現地住民へ罰として手足切断などの暴政が行われた。
ベルギーでは、旧植民地コンゴ(現コンゴ民主共和国)に対する圧政の象徴だとして、各地にある国王レオポルド2世の像が破壊行為の対象となっている。コンゴは1885年から20年余り、同国王の私的領地として支配され、1千万人が命を落としたとも指摘される。ブリュッセルにある騎馬像は、手や顔が赤く染められた。台座には抗議行動のスローガン「BLM」(黒人の命も大切だ)などの文字が書かれた。

このように物議を醸すレオポルド2世は、一体どのような人物だったのだろうか?

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「奴隷をなくすために、アフリカを保護する」


レオポルド2世は、1876年9月12日、ブリュッセル地理学会の催す国際会議の開会式に姿をあらわした。

以下は彼がおこなったスピーチの一部である。


「……文明のまだ浸透していない地球上の唯一の場所を文明に開放し、すべての人々を包み込んでいる暗闇を突き破ることは、この進歩の世紀の価値ある神の意思にかなう改革運動となる、と敢えて私は申し上げたい。

人々の感情がその成就に対して好意的であることを身をもって確認できるのは無常の幸福である。(後略)

「文明のまだ浸透していない地球上の唯一の場所」というのは、アフリカのことである。そこに「文明」の最先端であるヨーロッパ諸国が、恩恵をもたらすのは、「神の意思にかなう改革運動である」というわけである。


レオポルド2世は具体的には次のような提案をする。


基地設置に関する会議の宣言(1876年9月13日)
ブリュッセル国際会議の到達目標としては、次のようなものをあげることができる。すなわち、アフリカの未知の地域を科学的に調査し、アフリカ大陸内部において文明を浸透させる通路の開発を促進し、アフリカ黒人の売買を抑制する手段を探求することである。……
(北川勝彦・訳『世界史史料8』岩波書店、273頁)

つまり、アフリカに進出して基地を建設することは、「科学的な調査」のため、そして、アフリカに残された「黒人の売買を抑制する」ためであるという。

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「奴隷貿易の廃止」がうたわれたベルリン会議


レオポルド2世のアフリカ進出への意欲はその後も衰えることはなかったが、1880年代に入ると、イギリスとフランスがアフリカ大陸各地で支配領域を広げようとしのぎを削るようになる。

イギリスもフランスも、アフリカ進出の口実として掲げたのは、やはり「アフリカの人たちが、人間的な暮らしを送れるようにしてあげたい」「奴隷貿易を廃止したい」というスローガンだ。

そんな中、フランスの進出に対抗したイギリスは、レオポルド2世に接近。イギリスでは、18世紀後半から、福音主義者を中心とする奴隷制反対運動がもりあがり、すでに1807年に奴隷貿易を廃止し、1833年に奴隷制を廃止しており、「反奴隷制のリーダー国」を自任していた。フランスにお株を奪われまいというプライドも働いたのだ。

会議の結果決められたのは以下の文書だ。

ベルリン会議一般議定書(1885年2月26日)
第2章 奴隷貿易に関する宣言
第9条 奴隷に取引は締約国によって承認された国際法の原則に従って禁止されており、また、海陸を問わず取引のための奴隷を供給する活動も禁止されていることに鑑み、締約上の今後盆地において主権もしくは影響力を行使する国、もしくは行使しようとする国は、当該領域をいかなる人種の奴隷であれその取引の市場にも中継地にもさせないことを宣言する。締約国はいずれも、この取引を廃止し、それに従事する者を罰するためのあらゆる手段を講ずる義務を有する。
(富永智津子・訳『世界史史料8』岩波書店、275頁)

その後、奴隷貿易禁止に関するブリュッセル会議(1889~90年)の結果、ブリュッセル会議一般条約(1890年7月2日)が締結され、奴隷貿易や、アフリカの大部分の地域への銃器と弾薬の移転が原則禁止された。

当時のヨーロッパ諸国では、アフリカの人々は野蛮であり、ほうっておいたら奴隷制がはびこったままになるし、自分たちで国を運営する能力などない。人間的な文明を享受できるように、「保護」してやることが大切なのだと考えられていたのだ。

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アフリカは、資源と労働力が搾取の対象となった


ベルリン会議の結果、「保護」を名目にコンゴを国王個人の私有地(コンゴ自由国)として獲得したレオポルド2世であったが、その地では天然ゴムなどのプランテーションに現地住民たちが駆り出され、過酷な強制労働がおこなわれた。

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象牙やゴムがノルマに達しないと、手足を切り落とす刑罰も導入されていた(Image by CADTM

19世紀末から20世紀初めにかけて、レオポルド2世は国内外から強い批判にさらされることとなる。

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このように19世紀後半のアフリカでは、列強による植民地の分割が進行する中で、奴隷制廃止運動がもりあがるという、一見真逆に見えるベクトルの動きが同時におこっていく。たとえば19世紀終わり頃にかけて東アフリカ各地で奴隷市場が閉鎖され、アラブ人たちの勢力が排除されるのと同時に、イギリスやドイツは植民地を拡大させていった。「文明を与える」「奴隷から解放する」といったスローガンと、植民地支配とは、同じ箱の別の側面でもあったのだ。





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