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ニッポンの世界史#48 宮崎正勝の「ネットワーク」世界史(2)

「文化圏」学習への懐疑


 宮崎正勝は、東京都立三田高等学校、九段高等学校、筑波大学附属高等学校で世界史を教えたのち、筑波大学で常勤講師を務め、1994年には北海道教育大学教育学部教授に就任した。その後も筑波大学大学院教育研究科で非常勤講師を兼ね(1999~2003年)、教育と研究の両面に携わり続けた。同時に早い段階から高校教科書の執筆に携わり、現場教師としての経験を理論的成果へと接続しようともする。

 しかし、次第に既存の教科書記述に限界を感じ、その枠組みを打破したいという思いが膨らんでいったのであろう。文化圏を縦割りに叙述する従来の「国別通史」や「文化圏史」は、学習者に断片的知識を積み重ねさせるだけで、世界全体の動態をとらえる力を育まないのではないか。

 その問題意識の延長として、宮崎はいくつかの理論的論文を発表している。世界史の構成そのものを問い直すものもある。そこで彼は、従来の国家・民族単位の枠を越えるためにネットワーク論を援用し、都市や交易路を軸に歴史を組み立て直す可能性を探っている。ま
 た、環境と文明との関係を視野に入れた環境史的な論考もみられ、とくに安田喜憲の著作を引きながら、自然環境と文化の相互作用のなかで世界史を理解する道を模索していた。




「イスラム・ネットワーク」への着目

 そうした構想を具体化し、一般向けの執筆に踏み出したのが『イスラム・ネットワーク』(講談社、1994年)である。
 宮崎が目指したのは、「文明」「民族」「国家」「階級」といった概念によって世界史を語る従来の叙述をやめることだった。多様な文化をそれぞれ独立して描き出す「文化圏」的な学習(注1)――もちろん文化圏学習が必ずしもヨコの交流を否定するわけではないが――から離れ、むしろ諸文化の結びつきと広がりの過程として世界史を叙述しようとしたのである。
 言い換えれば、文化を静的で固定的な「担い手」に縛りつける桎梏から解き放ち、ヨコのつながりを意識させる叙述への転換を試みたのだ。
宮崎自身のことばを引いておこう。

 「固有の『文化』を持つ集団が、相互に結びつきを持つことで互いに自己を変化させ、さらに多様な結びつきを創造してきた過程として人類史をとらえ直してみる」――彼が目指したのはまさにこの視点であった(『イスラム・ネットワーク』1994年、9頁)。

 そのため宮崎が導入したのが「ネットワーク論」である。

 ネットワーク論そのもの、あるいはそれをいかに世界史の見方に応用しうるのかについて理論的に論じた先行研究は見当たらない。そこで彼はまず、アーノルド・トインビーの定義を参照した。トインビーは「社会とは人間存在の間にはりめぐらされた網目(ネットワーク)全体のことである」と述べている(『図説 歴史の研究』1975年、75頁)。
  宮崎はこの視点を引きつつ、「多種多様なネットワークが地球規模に広がり、緊密化していく過程」として人類史を描けると考えた。



(『文明ネットワークの世界史』(原書房、2003年、9頁)2003年の著作の図だが、基本的な考え方は同じものである。

 では、そのネットワークを担う主体は何か。国家でも民族でもなく、宮崎は「都市」を置いた。すなわち「都市と都市を結ぶネットワークを中心にして歴史過程を考える」と主張したのだ(『イスラム・ネットワーク』1994年、12頁)。

イブン・フルダーズベ『諸道路と諸国の書』などを元としたイスラム・ネットワークの模式図(『イスラム・ネットワーク』1994年、209頁)




 宮崎は「都市の支配層は、多様な方法を用いて、諸ネットワークを構造化(システム化)した」と述べる(『イスラム・ネットワーク』1994年、14頁)。
 ここでいう「システム」とは、「法律、行政機構、神殿と神官による宗教的機構、市場における交易など、諸々のネットワークを統合し、安定化させたもの」と定義される。そして、この統合を支えた背景には軍事力の存在があったと指摘する。



前近代のネットワークを重視する宮崎


 では歴史的に、どのような「システム」が存在したのか。

イマニュエル・ウォーラーステインはこれを(1)ミニ・システム、(2)世界帝国、(3)世界経済に区分し、とりわけ(3)の近代世界システムが普遍化していったと論じた。
 しかし宮崎は、この三類型に距離をとり、より細かな検討が必要だと考えた。彼の見立ては次のような筋立てである。

 まず、「世界帝国」が成立する。これがやがて「ネットワーク帝国」へと発展する。その最初の事例をアッバース朝(イスラーム帝国)と位置づけ、最大の事例をモンゴル帝国とみなす。イスラーム帝国とモンゴル帝国はともに西欧世界を強く刺激し、多大な影響を及ぼした。

 やがてモンゴル帝国は解体し、各地域に自立的な政権が生まれるが、なおイスラーム世界の交易ネットワークは存続すると宮崎は考える。


 そしてその中から、①ロシア・ネットワークと、②地中海ネットワークが自立したとする。ここに宮崎の世界史構成のオリジナリティがある。
 すなわち、ウォーラーステインが②に注目したのに対し、宮崎は①ロシアのシベリア進出をも、同列にネットワーク拡大の一環とみなしたのである。

 さらに19世紀になると、②の地中海ネットワークが「世界システム」へと発展し、世界資本主義が成立する。このときも宮崎は一貫して、ウォーラーステインの「近代世界システム」という用語を基本的に用いない姿勢をとっている。



「歴史の終わり」を前に


 宮崎が『イスラム・ネットワーク』を刊行した1994年は、すでに冷戦終結後であった。
 過去のイデオロギーが現実を規定していた時代は終わり、その意識の転換から宮崎はしばしば「歴史というのは、未来との対話である」という言葉を好んで引いた(同書11頁。のちに『早わかり世界史』〔日本実業出版社、1998年〕でも再引用される)。


私たちは未来を構想しながら現在を生き、現在を理解するために過去を振り返る。未来が異なる色彩で彩られているとき、私たちの分析視点は変わり、歴史を整序する座標軸にも変化が現れる。

『イスラム・ネットワーク』1994年、11頁。



 とくに1989年の東欧革命、1991年の冷戦「終結」のインパクトを受け、いかにして世界史を編み直すかという強い問題意識がそこにあった。

 『イスラム・ネットワーク』と同時期に宮崎鄭和を扱った新書とコロンブスを扱った新書を著している。前者では、中国人航海者を中心とした勢力が東アジアからインド洋に進出し、イスラーム勢力とともにインド洋を二分したネットワークを検討した。後者では、ユーラシアの陸海上ネットワークがアメリカ大陸にまで拡張していく過程を描こうとしたのである。
                                                                                                 


一般書による「ネットワーク」世界史の展開


 宮崎のネットワーク論を適用した世界史は、鳥の目を意識した世界史だ。
そこには19世紀に成立した西欧的な世界史は西欧の「自分史」(回顧史)に過ぎず、「鳥瞰史」(客観史)への転換が必要だという考えがある。

 そうした観点から宮崎はその後も旺盛に一般書を執筆していく。
環境や開発といった視点が交えながら、よりわかりやすく、整合的な表現が模索されていった。


『世界史の海へ』(1997年)


 『世界史の海へ』(1997年)では、農耕の開始を「生物圏のなかに立ち上げた人間圏による破壊と再生」ととらえ、エコロジーの観点から位置づけている(『早わかり世界史』〔1998年〕でも「開発の時代」の起点を農業の始まりにおいている)。


生物圏・人間圏・文明圏(『文明ネットワークの世界史』(原書房、2003年、9頁)
2003年の著作の図だが、基本的な考え方は同じものである。



 農業によってコア地域に都市が形成され、すなわち文明が誕生する。宮崎はここで四大文明史観を採用する。そして、西アジア・南アジア・東アジア、さらに地中海の東縁に「世界帝国」が成立する。


「世界帝国」ネットワーク(『イスラム・ネットワーク』、1998年、20頁)


 この世界帝国こそが「世界史教育でいう西アジア文化圏、南アジア文化圏、東アジア文化圏、ヨーロッパ文化圏の土台が形成された単位である」と説明している(『世界史の海へ』1997年、9頁)。


 とはいえ、文化圏概念そのものには批判的な宮崎は、文化圏そのものの叙述ではなく、多様な文化の結びつきの広がりの過程を描くべきだ(『イスラム・ネットワーク』1994年、9頁)とする立場を、ここでもとっている。そのために、むしろ「文化圏」と名指されてきた圏域のなかにある柔軟な構造、すなわち都市間ネットワークに注目するのだ。

 7~14世紀にはユーラシアを統一する「ネットワーク帝国」が登場するが、これを「道路や川を統治媒体とする」ととらえる。そして大航海時代以降の「海」を媒体とする「世界システム」の形成・拡大と区別している。この「世界システム」についても、宮崎は「近代世界システム」とは呼ばず、むしろ「前近代にも複数のシステムが存在した」とする立場を示す。


ネットワーク帝国(『イスラム・ネットワーク』、1998年、20-21頁)




 ここでは8世紀後半~9世紀にかけて、アッバース朝のアフロユーラシア規模の交易ネッとワークこそが「統一された世界史の起点」であるという見方も引き続きとられている。



 「世界システム」を通じてヨーロッパ諸国は莫大な富を集積したが、その過程で悲惨な宗教戦争も経験する。そしてその帰結として「民主主義システム」が成立したと宮崎はみる(『世界史の海へ』1997年、112–113頁)。

 さらに18世紀末から19世紀初頭にかけては、いわゆる「二重革命」が続く。これは当時ちょうど三部作の最後である『20世紀の歴史』の邦訳(1996年)が出てよく読まれていたエリック・ホブズボウム(1917〜2012)が提唱した見方で、産業革命と市民革命が同時進行したとする理解である。
 しかし宮崎は、政治的・経済的側面にとどまらず、この二重革命を通じて「高速輸送システム」と「ネーション=ステート(国民国家)」が地球規模の大システムへと成長していったとみる。
 要するに、モノや技術、そしてそれらが人々や都市をどのように結びつけていったか。そこにこそ宮崎の関心があるのである。


 こうした観点から見ると、従来「二つの大戦」「植民地の独立」「冷戦」といった政治的出来事で彩られる20世紀史も、宮崎の叙述においては異なる姿を示す。
 彼にとっての20世紀の一大メルクマールは「交通革命と情報革命」であり、1970年代以降の「ハイテク革命」の進展である。
 これによって世界システムの中心である都市に物資が集中し、経済の世界化、すなわち地球規模の一体化が進行した。その裏面として「南北問題」や「地球環境問題」が顕在化するというわけである。



 では、この「地球化時代」にあって、それは「地球化革命」を果たし得るのか。
 すなわち、世界システムの矛盾を克服し、「開発」から「共生」へと移行するような、まったく新しいかたちの広域システム=世界組織を創出できるのか――これこそが課題として提示される。

(『早わかり世界近現代史』2001年、303頁)

イデオロギー対立や政治対立を軸とするのではなく、その基盤にある「自然圏」と「文明圏」の矛盾をどう乗り越えるか
 宮崎はその問いを「未来との対話」と位置づけ、そこに至るまでの経緯として世界史を描いたわけである。



大胆な見開き型通史:『早わかり世界史』



 見開き一ページで世界史を平易に理解できるようにし、「世界史を概観するのに最低限必要な事項を精選・簡約化する」ことを目指した──その意味で、以後の一般向け通史のフォーマットの一つを提示したといっても過言ではないのが、この著作である。

 ここで強調されるのは、「国」の寄せ集めとしての世界史ではなく、「同時代的な見方」である。基本軸は従来と変わらないが、新しい提示がある。たとえば「ユーラシアにもあった大航海時代」として、アッバース朝期のネットワークを「第一次大航海時代」と位置づけ、さらに10世紀後半以降、中国商人の大型ジャンク船による進出によってインド洋をイスラムと中国が南インドを境に二分した時代を「第二次大航海時代」と呼び、「セラミックロード」とも称した(注2)。


(『早わかり世界史』日本実業出版社、1998年、91頁)



 また、続編にあたる『早わかり〈世界〉近現代史』(日本実業出版社、2001年)では、現代史のキーワードとして次の六つを掲げている。


 ①「資本主義」経済システム
 ②「国民国家」システム
 ③「都市」の膨張
 ④鉄道など多様な人工的「ネットワーク」の成長
 ⑤技術革新による「技術体系」の変化
 ⑥それと相互関係にある「社会システム」の変貌

 ①=経済的な面、②=政治的な面のみならず、③〜⑥にもクローズアップする点が特徴だ。



「ヨコ」を重視した学習指導要領の作成


 一般書の執筆が続くなか、宮崎は1998年版学習指導要領の作成にも参加した。もちろん最終的な構成は複数の執筆者による合議の産物であり、宮崎個人の意向だけが反映されたわけではない。
 しかし、その過程で提示された構成には、彼の問題意識が色濃く反映していた。すなわち、世界史Aでは地域ごとの特質と横の交流を大づかみにとらえさせ、世界史Bでは歴史の大きな構造的変化をとらえるという二分法である。
 この設計は、従来の国別通史・文化圏史から脱し、世界史を「ネットワークの拡大と再編」という視点で再構築しようとする宮崎の構想と響き合っていた。



世界史Aは、世界史Bに比べて範囲を絞り、諸地域世界の形成や交流、近代以降の世界の一体化、現代世界の特質を大づかみに理解させることを目指している。内容は三部構成である。まず「諸地域世界と交流圏」では、ユーラシアを中心に東アジア、南アジア、イスラーム、ヨーロッパの各世界の特質を学ばせ、海域・遊牧・地中海・東アジアの交流ネットワークを通じて地域間の結びつきを把握させる。次に「一体化する世界」では、大航海時代以降の世界商業や産業革命を軸に、ヨーロッパの主権国家体制や革命、アジア諸国の変容と日本の対応を取り上げ、世界の一体化の過程を理解させる。最後に「現代の世界と日本」では、輸送革命や大衆社会化、二度の世界大戦、冷戦と独立運動、地球規模課題や科学技術の進展などを扱い、日本の位置付けと人類の課題を考察させることを特色としている。
 第一に、指導は基本事項を精選して構成し、細部や高度な事象には深入りしない点である。第二に、諸地域世界や交流圏、国際関係を扱う際には比較文明的な視点を取り入れ、各時代の世界のなかに日本を位置付けるよう配慮している。第三に、風土・民族・人類の課題や歴史地図の活用は、地理条件との関連を重視している。さらに、諸地域世界は通史的に追うのではなく構造的に理解させ、日本を東アジア世界に明確に位置付けることが強調されている。交流については二つ程度の事例で具体像をとらえれば十分とされ、詳細な交流史は扱わない。歴史理解は客観的資料に基づき、多角的視点を育むことを重視し、加えて核兵器や戦争、平和的国際社会の実現といった現代的課題を考察させる点も特徴である。



世界史Bの目標は、世界の歴史の大きな枠組みと流れを、日本の歴史との関連において理解させることである。その際、文化の多様性や現代世界の特質を広い視野から考察させ、歴史的思考力を養い、国際社会に主体的に生きる自覚と資質を培うことを重視している。
内容は五つの柱から成り立つ。すなわち、①世界史への導入、②諸地域世界の形成、③その交流と再編、④結合と変容、⑤地球世界の形成である。この章立ては、世界史を大きな構造的変化の流れとして整理することを意図している。

 なお、宮崎正勝は『グローバル時代の世界史のよみ方』(吉川弘文館、2004年)において、この章立てが自身の提唱する「ネットワーク世界史」と対応していることを明かしている。




おわりに



 冷戦後は世界史の構成を抜本的に改める必要に迫られ、左派は対応に苦慮した。ソ連崩壊により社会主義や社会民主主義にどのような展望を描くかが不明瞭となり、従来現代史を牽引してきた社会主義的な運動も説得力を失った(注3)。
 そんななかで、宮崎の世界史構想は、自然環境・都市・モノと技術を基軸にすえた点に独自性をもっていた。しかしさらに重要なのは、世界の一体化を16世紀からとらえる視点の意義である。これまで文化圏学習では18世紀までを「地域史」として扱い、19世紀以降を「統合の時代」とするのが常だった。だがウォーラーステインが提示したように、16世紀に始まる資本主義的世界システムの拡大こそが、近代世界の枠組みを決定づけたとみるなら、19世紀起点よりもはるかに長いスパンで近代をとらえ直すことができる。

 そうすると20世紀はどう見えるか。これまで「二つの大戦」「冷戦」という政治イデオロギーの対立に振り回された時代とみられてきた。
だが16世紀を起点とする視座に立てば、20世紀はむしろ資本主義的拡大の一段階にすぎず、その延長としてイデオロギー対立さえ資本主義システムの内部運動として理解できる。冷戦はシステムの外部からの挑戦ではなく、システム内で生じた分岐であり、だからこそ終結は不可避だったという見方も成り立つ。

 宮崎自身はウォーラーステインを前面に掲げなかったが、彼のネットワーク史観を16世紀起点の資本主義的拡大と重ね合わせれば、これまで「近代」とされた19世紀以降の200年を、むしろシステムの成熟・膨張の段階として再定位できる。そのとき20世紀の「冷戦」は、世界システムの普遍的拡大がもたらした矛盾の噴出として再解釈されるわけだ。

 19世紀を起点とすれば20世紀は「革命と対立の世紀」となる。しかし16世紀を起点とすれば、20世紀は「資本主義的拡大の下での内部抗争と矛盾の顕在化」にすぎない。だが同時にその動きを人間を中心としてみるのではなく、自然圏との関係性の変化のなかに置いてみる

 宮崎はこのように世界史をみる視点をずらしたわけであるが、とはいえその後、21世紀初めに「対テロ戦争」が生起することになる。


 2000年代以降の宮崎の著作に目をうつすと、もちろん市場の要請という面もあるにせよ、その関心が、文明圏内部にも縮小しているようにも映る。




***

 さて、宮崎が世界史叙述を試みた頃、ようやく一般向けの書籍が出始めたのがウォーラーステインの近代世界システム論である。
 宮崎はウォーラーステインの所論を一部取り込みつつ、前近代のシステムを並列させることで、これを相対化し、むしろその「可塑性」(未来永劫つづく単一のシステムではない)という展望を描いた。

 これに対し、近代世界システム論をむしろ積極的に受容することで近現代世界史を再構成し、冷戦の終結という混沌とした世界の現在地をたしかめることができるのではないか。
 そう考え、1990年代を通して近現代世界通史を執筆した人物がいる。
 世界史教育者の大江一道(1928〜)である。


続く


注1)宮崎は、文化圏ではなく「文明圏」という術語を用いる。「生物圏」のなかに生まれた「人間圏」のうち、「複雑な文化」をシステムの安定のために備えるにいたった圏域を「文明圏」と命名したのだ。
 すなわち、「文明圏」=「都市」ということになるが、宮崎は同時に「地域世界」という意味で「文明圏」を用いることもあって(2003年、8頁)、この「地域世界」という語は、宮崎のかかわった1998年版学習指導要領で登場する「東アジア世界」「西アジア世界」など、従前の学習指導要領でいうところのいわゆる「文化圏」にあたる語でもあり、「文明圏(地域世界)」という表現の意図するところは正確にはわからない。
 なお、諸都市とその周辺の農村を含み持ちながら拡大していく「文明圏」がシステム化されていったのが「ネットワーク帝国」である(2003年、11頁)という説明もある。

注2)『世界史の海へ』(1997年)では、近代以降の「世界システム」が「海の統治」を軸として成立したのに対し、前近代は「陸と川」を基盤とするものとしていた。ここで海を強調したことは、前著の議論を修正する意図を含んでいたとも思われる。
 のちの2003年には『文明ネットワークの世界史』では、モンゴル帝国の海域支配についても強調されている(『文明ネットワークの世界史』118頁)。


注3)たとえば浜林正夫は世界史の再構成の必要性を痛感。のち民主主義を基盤に世界史の再構成を試みようとしている。


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