2-2-2.インダス文明 新科目「世界史探究」をよむ
インダス文明といえば、これ

モヘンジョ・ダーロの沐浴場
https://ja.wikipedia.org/wiki/モヘンジョダロ#/media/ファイル:Mohenjodaro_Sindh.jpeg
を思い浮かべる人が多いかもしれない。
わたしもそうだった。
でも、インダス文明の範囲は、インダス川流域に限らず、かなり広い範囲に広がっていたことがわかるようになった。
たとえばこの動画を見てみよう。
インド北西部のドーラーヴィーラーと呼ばれる都市遺跡だ。
この都市の遺跡のある現在のグジャラート州カッチ県周辺には現在カッチ湿原という湿原がひろがり、前2600年〜前1800年ごろまで栄えたインダス文明の時代には、海面は今より2メートル高かった。
カッチ湿原
インダス文明は大河の文明ではない
日本では、インダス文明は「四大文明」に数えあげられることが多く、「大河の灌漑によって王権が誕生したことでおこった」と説明されてきた。
でも、先ほどのドーラーヴィーラーはカッチ湿原の中に浮かぶ島だったから、大河流域にあったわけではない。
たしかにインダス川流域には、下流のモヘンジョ・ダーロやガンウェリワーラー、上流のハラッパーのように都市もあるけれど、王宮や神殿の跡はいずれの遺跡からも見つかっていない。
◆インダス文明の主要3地域
①北西部海岸地方:ドーラーヴィーラー
②インダス川流域:下流 モヘンジョ・ダーロ、ガンウェリワーラー
上流 ハラッパー
③ヒマラヤ山脈南麓
インダス文明の多様性
①〜③の地域には共通点もある。
土器、青銅製品、焼成レンガ、都市計画、素焼きの三角ケーキ、スタンプ印章、標準化された度量衡、そしてインダス文字である(長田2013:24)。
しかし、生業は各地域で大きく異なっていた(下図は長田2013:263)。

あまり馴染みがない作物も含むので、作物をまとめておこう。
冬作物
コムギ
オオムギ
レンズマメ
エンドウマメ
ヒヨコマメ
グラスピー
アマ
マスタード
夏作物
イネ
キビ
アワ
リョクトウ
ケツルアズキ
ホースグラム
ゴマ
ワタ


では先ほどの図からわかることは何か。
①のインド北西部(グジャラート州)では夏作物農耕が中心。
→夏のモンスーンによる雨を利用することができ、河川流域でも水位は安定している。ただし海水面の変動がリスク要因。
そこで、多様な夏作物の農耕ができ、アフリカから伝わったソルガムや、イネなどを積極的に栽培できた。
②のインダス川下流域(シンド州)では冬作物農耕が中心。
→天候不順の影響をもっとも受けやすい。夏のモンスーンを利用できないので、大河の灌漑を利用するしかないが、インダス川の水位変化が命取りとなる。
そこで、冬作物農耕の生産性を上げるしかないが、土壌侵食や塩害の発生を食い止める必要あり。それに失敗すれば、移住するほかなくなる(インダス文明の都市は、大都市といってもメソポタミア文明に比べるとスケールが小さい。都市というとずっと同じところに定住し続けるイメージがあるが、乾季に水資源が問題となると別の場所に移動し、雨季などには市が立って人が集まるというような流動性の高い都市のあり方が想定される)
②のインダス川上流域(パンジャーブ州)では冬作物と夏作物が混在。
→夏のモンスーンを利用できないが、天候不順の影響はシンド州よりも少ない。
上流の雨がサトルジ川に流れ込むので、冬作物のみならず夏作物の農耕も可能。
そこで、新しい品種導入や輪作などの農法の改良が進み、独立性が高まった。
以上は長田ほか2015:19を参照。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:India_annual_rainfall_map_en.svg
なお、インダス川流域では牛、水牛、象の牧畜がおこなわれていた(下図は『世界史アトラス』2001:21)。

「面白いことに、家畜化されているかいないかの定義の境目にある例が、たとえばアジアゾウであり、ウミウである。アジアゾウの場合、役用が主な用途だが、古典的な戦では戦車に化けた。近代動力の無い時代に、ゾウの力は大いに人間を助けることができただろう。しかしアジアの歴史において、アジアゾウの繁殖をコントロールし、家畜としてのアジアゾウ集団を作ったかといえば、それはほぼ起きなかったといえる。あくまでも野生動物を飼って利用したという範疇に止まるのである。」 遠藤秀紀「特別展示 家畜 ―愛で、育て、屠る―「魅せる命」」、https://www.um.u-tokyo.ac.jp/web_museum/ouroboros/v23n3/v23n3_endo.html
インダス文明は交易ネットワークの共同体だった
環境が異なり、生業が異なっているからこそ、地域を結ぶ交易が活発化した。
①のドーラーヴィーラーのような都市は、アラビア海を通じてメソポタミア文明の都市との交易が盛んだったし、②・③の諸都市は陸上交易の要となった。
考古学者・長田俊樹氏は、そのようなインダス文明のあり方を次のようにまとめている。
「インダス文明社会は多民族共生社会であった。また、多数の職能集団が独自の社会を形成し、それぞれがお互いを補完しながら社会を支えてきた。そこには、農民もいたし、牧畜民もいたし、狩猟採集民もいた。商人もいれば、職人もいた。かれらは流動性も高く、雨季や乾季にあわせて移動もした。その移動を円滑にするために、お互いインダス印章を保持し、言葉が通じないところでは、インダス印章が互いの出身や職業を認識しあいコミュニケーションをとるための一助となった。大都市はこうした移動民が一同に会する場所で、常時都市に住んでいる人よりも季節にあわせて移動する人々が多かった。」(長田2013:286)
このようなあり方は、長田氏も主張するように現在のインドという地域にも脈々と受け継がれているようにも思われる。

「15マイルごとに方言が変わり、25マイルごとにカレーの味が変わる。100マイル行けば言葉が変わる」といわれるように、現在のインドにおいても多種多様な言語が併存している
南アジア世界の「発展」を自然環境との関わりでとらえる
インドの自然環境は多様だ。

北西部はBW(赤色)の砂漠気候や、BS(オレンジ色)のステップ気候。
南部は南西海岸はAm(青)の熱帯モンスーン気候、内陸のデカン高原のBSを除くと、Aw(水色)のサバナ気候が多くを占める。
Awの景観はこのような感じだ。
北東部にはCw(温帯冬季少雨気候)が分布するが、これは熱帯と温帯の以降地域に属し、夏にモンスーンの影響を受けるが、冬に少雨となる気候。すなわち降水量の季節変動の大きな気候区分である。
Cwの景観は次のような感じ。
だが、そんな過酷な環境にもかかわらず、インド(南アジア)は歴史を通じて高い経済力を誇ってきた。

(図表は杉原2020:2)
自然環境が過酷であるというのは、いいかえれば水の確保が困難な時期があるということである。
少ない水資源をどのように確保し、多くの人口を養っていくか。その一つの答えとしてインドが発達させたのは分業と分配だった。
現在の南アジアはカースト社会です。カーストというと、上下関係ばかりが問題になって、人間は生れながらに平等であると言われてきた我々にとっては、それだけで許せないと思いがちです。しかしカーストというのは、本来、多民族、多言語の職能分離社会ということで、実はインダス文明の当時もこの職能分離体系というものがあって、砂漠の中に点在する遺跡もそういう人たちが家畜とともに暮らした跡ではないかと思われるのです。職能によっていろいろな階層に分かれた人たちがいると、お互いがお互いを必要とする。そうしたレシプロカルな状態、相互に依存し合う状態でないと成り立たない社会だというところに、私たちはもっと注目すべきではないか。(長田2015:24-25)
現在の南アジアでも、年に一度の祭り(メーラ)の際には市が立ち、さまざまな出自を持つ言語の違った人々が行き来する
「平等」というキーワードは、歴史総合でとりあげる重要な視点である。世界史探究のなかで、近代西欧的な意味における「平等」とは別のあり方についてとりあげていく際、インドが発達させていった発展スタイルは、格好の教材になるだろう。
なぜインダス文明は大河文明と考えられたのだろうか?
インダス文明の存在が世界に知られるようになったのは比較的新しく、1924年のことだ。

当時のインドは、「インド帝国」という名を与えられ、イギリスによって植民地支配されていた。
当時のインド考古局長ジョン・マーシャル(1876〜1958)は、それまでにしられていたオリエント文明の知見を、インダス文明にあてはめようとした。
「インダス文明が発見された当初は、メソポタミアのシュメール文明がインダス地域まで伝播してきたものと考えられていた。そのため、インド=シュメール文明という名称が使われていた。それをマーシャルがインダス文明という名称に変えて今日にいたる。しかし、発掘当初からインダス文字とイランから出土している原エラム文字との類似性が指摘され、シュメール語でインダス文字が読めると主張する研究者もいた。」(長田2013:267)
エジプト文明ではピラミッドなどの建築物に刻まれたヒエログリフが、古代文明解明の鍵となった。インダス文明においても、きっと同じように王墓や王宮があって、そこに刻まれた文字が文明解明の鍵となると考えられたのも無理はない。
古代オリエントは聖書の世界に登場する、ヨーロッパ人にとっていわば自分たちの”ルーツ”となった世界であり、”幼年期”の世界でもあった。
古代オリエントで生まれた精神は、その後紆余曲折を経て、一方ではヨーロッパという進歩のトップランナーを生み出し、他方ではインドを停滞した地域のままにとりのこした。
その後、1966年にウィーラーという考古学者が『インダス文明』という書物を出版し、インダス文明は中央集権的な国家であり、モヘンジョ・ダーロには穀物を貯える倉があったとする内容は大きな影響力を持った。
たとえば、手元にある採択率のもっとも高い山川出版社の『詳説世界史B』(最も新しい版)にも、「穀物倉」という表現が見える。

だが、『世界史探究』の教科書からは、のきなみ「穀物倉」という語句は消えている。
長田氏の指摘するように、浴場の横に穀物場なんかつくったら、湿気てしまってどうしようもないだろう。
今日ではウィーラーが穀物倉としたモヘンジョ・ダーロの構造物は、穀物倉ではないとされている(下図2015:21)。

当時のイギリス人は、植民地として支配していたインドを野蛮で遅れた社会とみなす一方で、自分たちの社会にはない何か特別なロマンを感じる対象ともみなしていた。
古代文明の解明には、その当時の人々の持っている常識や前提、夢やロマン、偏見や思い込みが少なからず反映されてしまうものなのだ。
インダス文明の滅亡
前1800年頃、ドーラーヴィーラーなど北西海岸部の諸都市や、インダス川流域の諸都市は放棄され、インダス文明は途絶えてしまった。
季節風のパターンが変わったことで洪水が頻発し、インダス川の流路が変わってしまったこと。
地殻変動によって海岸線が変化してしまったことが原因と考えられている。
でも、少ない雨を生かした農耕、さまざまな生業をまたぐ陸海の交易ネットワーク、牛への信仰を含むインド特有の文化など、インダス文明であらわれた要素は、その後の時代にも引き継がれていくことになった。
参考
世界史探究の教科書記述は、以下のような研究成果をふんだんに盛り込んでいる。
①長田俊樹(2013)『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会
上記は研究書で、内容も非常に面白い。が、下の長田(2013)は、必ずしもその下位互換版とはいえない。ちょっとエッセイっぽい感じだが、インダス文明をとらえ直そうとする研究が、どのような文脈に基づいているのかがよくわかる。コンゴ、①と②の中間に位置するような手軽な新書、一般書をお書きになってほしいところである。
②長田俊樹(2013)『インダス文明の謎』京都大学学術出版会
なお下記は3人の著者の文章を編んだもの。研究の意義や重要図表など簡便に情報を得るにはよい。
③長田俊樹ほか(2015)『文明の基層―古代文明から持続的な都市社会を考える』東京大学出版会
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