2-3-4-1. 中国の統一と遊牧国家 新科目「世界史探究」をよむ
遊牧国家の誕生
ユーラシア大陸の内陸地帯のことを「中央ユーラシア」という。スキタイ・匈奴研究者の林俊雄氏の説明を引いておこう。
「中央ユーラシアは現在の国名で言うと、東はモンゴルからカザフスタン、南ロシア、黒海北岸地域です。南の方ではウズベキスタン、トルクメニスタン。あと中国の一部になりますが新疆ウイグル自治区。そういった地域です。
この地域はシルクロードが通っている地域でもあり、北寄りと南寄りでは少し環境が異なって、南の方が当然熱く乾燥した砂漠とオアシスの世界が広がっています。そこを通るシルクロードは「オアシスルート」とか「砂漠ルート」という言い方があります。北方は寒いですが、その代わり水の環境も良く緑豊かな草原地帯が形成され、もっと北へ行くと亜寒帯に広がる森林地帯になります。草原地帯を通るシルクロードは「草原ルート」とか「ステップルート」と呼ばれます。
オアシス地帯の方はオアシスで農耕を行う定住民が中心です。オアシスには点々と都市もありました。北方の草原地帯は、農耕民に比べ人口が少ない遊牧民が主に住んでいました。現代では少し話が違ってきましたが、中世以前ですと遊牧民、とりわけ騎馬遊牧民が中心の世界でした。
どちらも東西の文化交流に大きな役割を果たしたわけです。北方の騎馬遊牧民と南方のオアシス定住民とがどういう関係にあったか。軍事的には北の騎馬遊牧民が強いです。南方の人達は襲撃され、やられてばかりいたかというとそうではなくて商人として活躍し、シルクロードを使って交易活動を行うなど日常的に協力し合う関係にあったと思われます。
治安とかは北方の遊牧民が担い、交易活動や定住活動は南方の定住民が担っていた。ですから中央ユーラシアは、北方の騎馬遊牧民と南方の定住民とが共存共栄のような、時には定住民は都市を破壊され支配されたりすることはありましたが、総じて“持ちつ持たれつの関係”にあったと言ってよいでしょう。こうした関係は匈奴の頃やスキタイの頃からあったと思います。」
要するに、「中央ユーラシア」イコール、遊牧民のうごきまわる乾燥地帯ではないということだ。
森林もあれば、オアシスもある。
多様なエリアなのである。
その指し示す範囲には、論者によって幅がある。

杉山清彦氏は、中央ユーラシアの範囲をつぎのように簡略化する。見事な概念図である。

また、その構造を模式化するとこうなる。

南方のオアシスの農民は農産品、商工民は手工業品・交易品を、そして北方の遊牧民は畜産品・移動手段・安全保障を提供する。
さらに、この模式図には表現されていないが、中央ユーラシアの北方には、畜産品(毛皮など)を提供する北方の狩猟採集民がいるツンドラ、森林地帯も帯状になっている。
中央ユーラシアには、異なる生態系が、水平方向に、縞模様のように並んでいる。
草原地帯
↓
砂漠・オアシス地帯
↓
半草原・半砂漠地域が三重になっているわけである。
さらに、この模式図で、中央ユーラシア世界が、東ヨーロッパ、イラン、西北インド、華北と重なっている部分に注目したい。
中央ユーラシアの周縁部にある半草原・半砂漠地域が、定住農耕地帯に隣接するエリアでは、農耕も遊牧も可能だ。
遊牧民と農耕民は、バランスが成立していれば、争うことなく、たがいの生産物を交易しあう。
だがひとたび均衡が崩れると、土地をめぐり争うこととなる。
資料 ヘロドトスのみた遊牧民スキタイ
まず[…]ギリシア系スキタイ人が住んでおり、その向うには[…]農耕スキタイ人が住むが、彼らが穀物を栽培するのは、自分たちの食用のためではなく、他に売却するのが目的なのである。[…]東に向い[…]そこは遊牧スキタイ人の世界で、彼らは種も蒔かねば耕す術も知らない。[…]町も城塞も築いておらず、その一人残らずが家を運んでは移動していく騎馬の弓使いで、生活は農耕によらず家畜に頼り、住む家は獣に曳かせる車である。
資料 司馬遷のみる遊牧民 匈奴 (『史記』)
彼らは家畜を放牧するために移動する。その家畜で多いものは馬・牛・羊であり、特殊な家畜としてらくだなどがいる。水と草とを求めて転々と移動し、城壁のある町や定住地をもたず、耕田の作業はない。[…]成人男性はみな力強く弓を引くことができ、すべて甲冑を着けて騎兵となる。その風俗は、平時には家畜に従って移動し、鳥や獣を射て生業としている。有事の際には、人々は戦になれているので、攻撃して略奪をおこなう。
たとえば、遊牧民が勢力を及ぼすオアシス民の都市国家の富を求め、中国の王朝が進出すると、この共生関係は崩壊してしまう。個々に共生関係を結んでいた遊牧民の諸グループは、安全保障のため、そして生存のため、一致団結して中国の王朝に立ち向かう必要が生まれるからだ。
以前ふれたように、国家とは、農耕を基盤にすることによってのみ成立するわけではない。生活基盤が不安定である遊牧民は、オアシス民の都市国家と共生関係に入ることによって、遊牧国家が成立することになる。
前3世紀頃、中国で秦が統一するのに合わせ、モンゴル高原の匈奴(きょうど)が冒頓単于(ぼくとつぜんう、?〜前174)をもとに、遊牧民の諸集団をまとめたのも、そのような事情によるものである。
匈奴の建設した遊牧国家の内部には、遊牧民からオアシス民にいたるまでさまざまな民族が包み込まれ、まさに「遊牧帝国」と呼ぶにふさわしいものであった。
資料 中央ユーラシアに広がる騎馬遊牧文化

なお、半草原・半砂漠地帯と定住農耕地帯の交わる帯状のエリアは、「農業=遊牧境界地帯」と呼ばれる(妹尾達彦2001など)。今後の見通しを示しておけば、この地域に立脚し、遊牧エリアと定住農耕エリアの両者を安定的に支配する国家が現れるのは、10世紀以降のことだ。
秦による中国統一
複数の諸侯が、みずから「王」を称し合い争っていた中国を統一し、戦国時代を終わらせたのは、秦王政(前259〜前210)である。
これ以降、天下に現存する国は秦のみとなる。
もともと周は、人間の側に徳のある人物があらわれ、天を崇拝していれば、宇宙の支配者・最高神である帝(上帝)の命令をも左右できるとみなしていた。殷が滅んだのは、殷の王が不徳となったために天命が革(あらたま)ったというわけである。
周王は天命を受け、地上世界を統べる天の子(天子)と称し、君臨していたが、春秋戦国時代には、天を人間界・自然界の最高原理と理解するようになり、戦国時代には天をドーム状の天蓋(てんがい)とみなす世界観が生まれ、「天下」という概念も生まれた。
しかし、秦王の政は天子の称号はいったん捨てられ、これを超えるものとして前221年に光り輝く帝という意味の「皇帝」の称号を用いたのである。
始皇帝は、天下を郡という区画にわけ、郡とその下に設けられた県に、中央から長官を直接派遣する郡県制を施行した。また、各国で異なっていた文字、度量衡、車軌を統一し、法家以外の思想・書物を禁じた。たとえば司馬遷の編纂した『史記』によれば、儒学者が激しい弾圧の対象となったという(焚書坑儒)。
資料 焚書について(『史記』)
丞相の李斯が申し上げた。「臣である斯は死を恐れず申し上げます。古(いにしえ)は天下が乱れ、諸侯が並び立ち、古を美化して今を誹(そし)り、勝手に学問を立て、上が定めた法律を非難しました。今は皇帝が天下を併(あわ)せ、白黒を定めて一尊に定まりました。もはやかつてのようなことがあってはなりません。臣は要請します。秦の歴史書以外はみな焼き、博士以外で『詩経』や『書経』、百家の書を所有するものはみな郡の役所に提出させてこれを焼いて下さい。所有して良いのは医薬、卜占(ぼくせん)、農学の書のみとして下さい。法律を学びたい者あれば、官吏を教師として学ぶことのみを許して下さい。」始皇帝はこれを裁可した。
一方、秦にとってもっとも手強い相手は、北方の匈奴であった。戦国時代に各国の築城していた長城を修築するとともに、

なお、始皇帝がなぜ巡幸したのか、その目的は明らかではない。目的として考えられるのは、先端を開く前の軍事拠点の視察、あるいは山岳信仰の対象となる山で、天と地をまつる儀式(封禅(ほうぜん))をおこない、その事実を石碑に記して伝えるプロパガンダとしての目的。あるいは始皇帝の現身(うつしみ)を人々に見せて印象づける、やはりプロパガンダとしての目的があろう(出典:南川高志編『B.C. 220年―帝国と世界史の誕生』(歴史の転換期1)山川出版社、2018年、227頁)
※動画は前漢の武帝の封禅の儀に関するもの。
漢による中国統一と西域をめぐる匈奴帝国との抗争
ところが秦の急激な統一政策や対外戦争、大規模な土木工事は人心を倦ませ、始皇帝の死後おきた農民反乱が引き金となり、各地で梟雄が兵を挙げた。
資料 陳勝・呉広の乱
陳勝というのは陽城の人であり、字は渉という。呉広というのは陽夏の人であり、字は叔という。陳渉は若い時、人に雇われて小作をしていたことがあった。[ある時]農耕の手を止めて畦のわきに行き、しばらく嘆いたその後で、「たとえ富貴になっても、お互い忘れないようにしようぜ」と[仲間に]いった。[仲間の]小作人は笑いながら答えた、「お前は小作人じゃないか。富貴になんかなれるものか」。陳渉は大きく溜め息をついていった、「ああ、燕や雀のような小鳥などに、どうして大鳥の志がわかるものか」。
[…]
二世皇帝の元年(前二○九年)七月、貧民を徴発して漁陽の守備に当てることになり、九百人が大沢郷で宿営した。陳勝と呉広はいずれもこの行役に従う順番に当たり、班長となっていた。おりしも大雨が降って道路が不通になり、数えてみるとすでに[到着の]期日に間に合わなくなっていた。期日に間に合わねば、法律で全員が斬罪に処せられる。そこで陳勝と呉広は相談した、「今、逃亡しても殺されるだろうし、ひと旗あげても殺されるだろう。どうせ死ぬなら、国のために死ぬのがいいんじゃないか」。
最終的に火花を散らしたのは、農民出身の劉邦(皇帝としては高祖、在位前202〜前195)と、楚の名門出身の項羽(前232〜前202)である。
かつて、劉邦は労役のために秦の都咸陽で、始皇帝のパレードを目にした。
劉邦は深く溜め息をついて、次のように言った。
「ああ、一人前の男としては、あのようにならなくてはな」
これは、かつて項羽が始皇帝の巡行を見た際に放った言葉と対照的だ、とよく解説される。
項羽は「あいつに取って代わってやる」と言い放ち、あわてて叔父の項梁が口をふさいだ。
古典の授業で「鴻門の会」を学ぶ高校生は多い。
両者の違いを考えてみるのもおもしろいだろう。
両者の抗争の結果、劉邦が項羽を破って前202年に漢(前漢)を建国し、皇帝の座についた。ふたたび中国は秦の領域を基本として統一されることとなる。武帝(ぶてい、前141〜前87)には、今日も日本で用いられているような元号が制定され、諸国でバラバラであった紀年が統一された。
前漢は西域のオアシス都市への拡大をねらい、武帝(ぶてい、前141〜前87)のときに西域の情報をさぐり匈奴を挟み撃ちにするために張騫(ちょうけん、?〜前114)がおくられた。
これがきっかけとなり、漢は西域のオアシス地域へ進出し、匈奴がしりぞけられると、匈奴はいったん前漢と和睦を結び、共存がさぐられることになった。
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