見出し画像

4.2.1 東方イスラーム世界 世界史の教科書を最初から最後まで

トルコ人がイスラーム世界に現れる

10世紀頃になると、イスラーム世界に「トルコ人」という“新メンバー”が現れる。


「トルコ」という国は現在黒海(こっかい)の南側、地中海の東部にあるけど、彼らの故郷はもともと中央アジアにあった。
歴史的には、鉄勒(てつろく)とか突厥(とっけつ)、回鶻(ウイグル)の名で中国の歴史書に現れる国を建てた人々は、みなトルコ系の言葉を話していたんだよ。


しかし、9世紀中頃にトルコ系のウイグル人の国が滅ぶと、彼らはタリム盆地方面へと移住を開始。
だから今でもタリム盆地にはウイグル人たちがたくさん分布しているんだ。



中にはイスラーム教徒たちにより「奴隷」として購入され、イスラーム教徒として育てられる者もいた。
彼らのことを「マムルーク」という。



騎馬遊牧民の軍事力は、農耕民を治める国の軍事力とは比べ物にならないほど強力だ。
次第にイラクのバグダードに都を置くアッバース朝のカリフ(イスラーム教を束ねる指導者)でさえも、マムルークをSPとして雇うようになっていくよ。



中央アジアは「トルコの地」になった

トルコ人の住む領域が拡大すると、
しだいにタリム盆地周辺のことを「トルキスタン」、パミール高原よりも西のアム川・シル川周辺のことは「西トルキスタン」と呼ばれるようになる。


地名まで「トルキスタン(トルコ人の地)」と呼ばれるようになるほど大きな民族移動だったんだね。

これら「トルキスタン」の東西地域の両方を初めてまとめて支配したトルコ人の国は、10世紀半ばに建国されたカラハン朝(10世紀半ば〜12世紀半ば頃)だ。住民の多くはウイグル人で、イスラーム教が増えていった。

また、パミール高原を越えてアフガニスタンに移動したトルコ人は、10世紀になると、さらに富をゲットしようと北インドに移動するようになっていった。

その代表が、現アフガニスタンのガズナ(現ガズニ)に都を置いたガズナ朝だ。


セルジューク朝が領土を広げた

その後、11世紀前半(今から950年ほど前)になると、マムルークを効率的に組織したトルコ人の軍事政権が、あっという間に勢力を広げていく。
これがセルジューク朝、建国者はトゥグリル=ベク(在位1038〜63)だ。

画像1


アラル海の周辺から、イラン高原のニーシャープール

を経て、バグダードにも入城。カリフに迫って「お前はスルタン(支配者)だ」という称号名乗ることを認めさせたよ。

セルジューク朝はさらにシリア、聖地イェルサレムのあるパレスチナや、聖地であるメッカとメディナのあるヒジャーズ地方にまで進出。



スンナ派の信仰を保護することを宣言した(下の建築物は、イランのテヘラにあるトゥグリル=ベグの墓塔)。
これには、エジプトを治めていたシーア派ファーティマ朝も大弱りだ。

画像3


***

セルジューク朝の拡大が「十字軍」のきっかけに

セルジューク朝がシリアの海岸地帯やアナトリア半島にも進出したことは、キリスト教のビザンツ(東ローマ)帝国を圧迫することになる。




ビザンツ帝国の皇帝は、ローマ教皇ウルバヌス2世に対して「セルジューク朝がキリスト教徒の、イェルサレム参りを妨害している」と報告。

画像5


ローマ教皇は1095年にクレルモンで宗教会議を催し、「セルジューク朝から聖地イェルサレムを取り戻す戦いを起こそう」と宣言した。

教皇の”お墨付き”を得た軍隊を十字軍(英語:クルセイド)という。
詳しくは、ヨーロッパのところで後ほど見ていこう。


アッバース朝は「モンゴル人」に征服された

以上のようにイスラーム世界の中心エリアには、東からやって来た「トルコ人」が新規参入し、あっという間に広がった。
しかし、セルジューク朝は騎馬遊牧民の建てた国家。農耕民たちを支配するノウハウには乏しく、領土にこだわりがないので分裂もしやすかった。


そんな中、イラン高原の住民のイラン人の諸勢力から、セルジューク朝の支配に異を唱える者も出現。
それがホラズムシャー朝だ。


イラン高原だけでなく、タリム盆地方面にまで拡大し、ユーラシア大陸の東西貿易ルートを確保したホラズムシャー朝も、13世紀に入ると今度は東からやってきたモンゴル人のチンギス・ハンの大遠征によって滅亡。


チンギス=ハンはその後引き返したけれど、その後モンケ=ハーンの命令で派遣されたフラグという将軍の軍が、1258年にアッバース朝のバグダードを占領。
徹底的に破壊され、アッバース朝は100万人とも言われる市民を巻き添えに滅んでしまった。



アッバース朝はモンゴル人によって滅亡」―予想の斜め上を行く展開だよね。モンゴル人による攻撃を受けたのは、鎌倉時代の日本だけじゃないのだ。


モンゴル人のフラグはエジプトも手に入れようとしたんだけれど、エジプトのマムルーク朝の君主によって撃破され、撤退。


結局タブリーズを首都にイル=ハン国を建て、イランとイラン周辺の農耕民と遊牧民を支配することにした。


しかし、その後1295年に即位したガザン=ハン(在位1295〜1304)という君主は、「ここはイランなんだから、イスラーム教を国の宗教にしちゃおうぜ」という大きく方針を転換。

画像8

自らを「イスラームの帝王」と名乗ったよ。

特に名宰相との呼び声高いイラン人 ラシード=アッディーン(1247頃〜1318年)は、ユダヤ教徒・キリスト教徒の『聖書』だけでなく、モンゴル人とイスラーム教徒とイラン人の視点をたくさん盛り込む「世界史」を執筆。

なんとアダムとイブ、イエス、ムハンマド(下の挿絵はムハンマドのもとに天使が訪れている場面)、それにチンギス=ハン、フランク王国のカール大帝やインドの王様まで(!)登場する、とんでもなく広い視野の持ち主だ。

何一つ自分の目で見ずに出来事や物語を記述し、口頭で述べる歴史家がいる一方、出来事や事件の参加者(や目撃者)である(歴史家)もいることが立証されているので、彼らにあっては事件の経過は、噂でなく個人的観測に基づいて語られているのであろう。これから除外されるのは、歴史家が語り手の伝えるところに従って書いたり話したりする場合である。(この)伝聞には二種類ある。一つは、情報が口から口へと伝えられる場合で、それ[伝聞]が科学の根拠となる。このような伝聞の情報にはいかなる疑問もなく、我々の許で一般的に聞かれるように、(疑問が存在しない)過去百年に存命していた預言者や皇帝、著名な人士の存在や、メッカやカイロ、その他個々の名所のような遠方の諸都市の存在のようなものである。我々は(そういった人々や場所を)見ていないにもかかわらず、これについて何も疑問もないくらい(それらは)我々よく知られている。
[筆者注:その後も歴史叙述の情報源にかんする検討が続く]
ゆえに、歴史家の義務は、既に述べたようにおそらく、権威ある著名な人々の言葉から採られ、理想的で有用な書物から(引かれた全てを)書く事(だけ)なのである。もしも彼が、自分の妄想に従ってこの(叙述)に何らかの変更を行うなら、(そのテキストは)議論の余地なく浅はかで誤ったものであると判明するであろう。

金山あゆみ訳『ラシード=アッディーン『集史』「モンゴル史」部族篇 訳注』風間書房、2022年、28-29頁。

この記念すべき「世界史のまとめ」のことを『集史』(しゅうし)というよ。

画像8

目次
『集史』と名付けられるこの幸多き書物は、三つの巻に叙述される。
第Ⅰ巻は、現在イスラムの皇帝の中の皇帝であるオルジェイトゥ=スルターン…アッラーがその治世を長からしめん事を!……が、その兄弟、幸いなる君主ガザン=ハン……アッラーよ、彼の御陵を照らしたまえ!……の名によって完成させることを決定したものである。この巻は二篇からなる。
 第一篇は、(歴史舞台への)テュルク諸部族の登場について、彼らの様々な部族への分岐、各民族の祖先の生活の詳細がどのようであるか、(彼らの)一般的な方法で叙述することに費やされている。[中略]
 第一章は、預言者ノアの息子で名をヤーフェズ(とも言う)アブルジャ=ハンの孫オグズ(から生じた)民族と、彼の父方の叔父から(生じて)、彼(の民)と一体になった民族について述べ、後者の部族ごとの分岐にも言及する。
 第二章は、現在はモンゴルと呼ばれているが、古代には(彼らの)それぞれに独自の名と称号があったテュルク系諸部族について。彼らは支配的な地位も隷属状態も有していた。[後略]

金山あゆみ訳『ラシード=アッディーン『集史』「モンゴル史」部族篇 訳注』風間書房、2022年、33頁。


いいなと思ったら応援しよう!

みんなの世界史 このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊