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2-3-1-3. ローマの拡大と分裂 新科目「世界史探究」をよむ 

なぜ欧米人は、ローマの歴史を注目するのか?

 『ベン=ハー』『スパルタクス』『クレオパトラ』『グラディエイター』……
 ハリウッド映画のみならず、ローマの歴史は、欧米人の描く世界史において、なくてはならない存在だ。

 ローマがこれほどまでに注目されるのは、数々の史料が残されていること、その版図の広さだけでなく、キリスト教の聖書に大々的にとりあげられていることが大きい。

 聖書は人類の歴史を大きく3つの時期に分けて叙述している。
 1)アダムからノアの大洪水まで
 2)人類の再出発からユダ王国の滅亡まで
 3)新バビロニア(カルデア)によるバビロン捕囚から「第四の帝国」まで
 4)「第四の帝国」から終末まで

(出典:岡崎勝世『聖書vs.世界史—キリスト教的世界観とは何か』講談社、1996年、18頁)

 つまり、聖書の世界観では、第一の世界帝国はカルデア。
 第二の世界帝国はメディア。
 第三の世界帝国はペルシア。
 第四の世界帝国はギリシア人の帝国、すなわちセレウコス朝などヘレニズム諸国のこと。
 そして、その後ローマが成立。
 ヨハネの黙示録によればローマ滅亡とともに千年王国が実現する。その後、最後の審判がおこなわれ、神の国が実現するという流れになる。

 こうしたキリスト教による歴史の叙述を、普遍史という。
 ローマ時代に、聖書の年代を特定し、ローマ人の歴史も旧約聖書で説明でいるという研究が進められた。その集大成ともいえるのが、教父ヒエロニムスによる『年代記』だ。
 その後アウグスティヌス(354〜430)は、人類史全体を「救済という目的に向かう発展の段階づけ」によって8つの時期に区分し、地上を支配した4つの帝国としてアッシリア、ペルシア、マケドニア、ローマをあげる。


「ローマ人のもとでは国家の体制に変化がおこって皇帝の統治が世界的な平和を確立したとき、あらかじめ告げられた予言に従って、キリストがユダヤのベツレヘムに生まれたのであった。」

(出典:アウグストゥス『神の国』)

 イエスが生誕したのと時を同じくして、ローマも帝国としての産声をあげる。
 なんともタイミングのよい話であることだ。

 かくしてローマは、キリスト教にとってなくてはならない帝国となった。ローマ帝国の皇帝権が、ヨーロッパの歴史を通して、東ローマ帝国、カール大帝のフランク王国、神聖ローマ帝国へと受け継がれていったのには、第四の帝国=ローマの存続が必要とされたからにほかならない。

(出典:岡崎、上掲、46頁)


 キリスト教の信仰されたヨーロッパ世界では、「ローマ帝国」「ローマ皇帝」という名がある種の“ブランド”として千年以上にわたり生き続けることになった。
 たとえば西ローマ帝国亡き後、帝冠をいただいたフランク王国のカール大帝。さらに神聖ローマ帝国。
 また、東ローマ帝国亡き後、“第3のローマ”を称したモスクワ大公国(のちのロシア帝国)。
 “ローマ”は、ヨーロッパの歴史に、亡霊のように姿をあらわしつづけていくことになるのだ。
  

***


ローマはなぜ共和政から帝政となったのか?

 ローマの政治制度は、現代の世界各地に有形無形の影響をのこしている。
 たとえば政治論を展開する際には、ギリシアのプラトン『国家論』やアリストテレス『アテナイ人の国制』とともに、ローマの政治家・歴史家の著述が欠かせない。アメリカ合衆国の上院の名にも、ローマの統治機関の一つである「元老院」(senatus)が残されている。
 
ローマの政治制度には、どのような特徴があったのだろうか?

 そのために、まずローマがどのようなルーツをたどってきたのか、簡単に振り返っておこう。

 前1000年頃、古代イタリア人がイタリア半島に南下し、各地に散らばり、いくつかの民族に分かれた。 
 このうち、ティベル川流域のローマ人をおびやかしたのは、山岳民族のサムニウム人や、イタリア半島北部のエトルリア人、イタリア半島南部のギリシア人だ。
 
 数々の戦いを経て、ローマは軍隊の編成の単位が、そのまま民会の単位となる政治体制を発達させていった。

 そんなローマの国政を、前2世紀のギリシア人政治家ポリュビオスは次のように記している。

「ローマの国政を牛耳っていたのは三つの要素である。すべてのことがこれら3つの要素で公正かつ適切に編成されている。だから、国制は全体としてみれば、貴族政なのか、民主政なのか、あるいは君主政なのか、そこに住む人でさえ誰も確信をもって言うことができなかっただろう。そして、こうした体験は当然なのであった。もしコンスルの権限に着目すれば、完全に君主政で王政のように見えた。しかし、もし元老院の権限に目をやれば、今度は貴族政のように見える。さらに、もし民衆の権限に目を向ける者がいたなら、明らかに民主政のように思たのである。これら三つの要素がそれぞれ形をとってローマの国政に幅をきかしていたのである。」

(注:コンスルというのは、古代ローマの最高官職で、執政官とか統領と訳される。紀元前509年に、共和政樹立とともに設置され、騎士や重装歩兵を中心とする軍隊編成を単位とするケントゥリア民会で選挙され、定員2名、任期1年、戦時には軍司令官となった。前367年の法で2人のうち1人は平民が就任することが定められた。 
 元老院は国内政治と外交、立法など国政全般に影響力を及ぼした統治機関で、議員は終身だった。)

 

 ポリュビオスはローマの政体を、バランスのとれた混合政体とみなしたが、自由な民主政に歯止めがかかるこのような仕組みは、とりもなおせばローマの社会が、有力な家柄の影響力を強く受けていたことに起因する。

 高位の公職に就任するには騎士としての従軍経験がなければならず、それにはかなりの財産をもっていなければならなかった。とどのつまり富裕者しか高位の公職の経験にあずかれず、元老院議員になることもできないのである。さらに元老院身分であるからといって誰でもコンスルになれるわけではない。毎年2名しかなれない狭き門をくぐるのは、とくに貴顕(ノビレス)な家系の出身者にかぎられてくる。この貴顕な家系とはコンスルあるいは法務官のような最高公職の就任者を祖先にもつ人びとを指す。そこで、これからはパトリキを旧貴族と呼び、ノビレスを貴顕貴族と呼ぶことにしよう。

(出典:桜井万里子・本村凌二『ギリシアとローマ』(世界の歴史5)中央公論新社、、1997年、261頁)


地中海への拡大と帝政ローマ

 ローマは前3世紀後半から前2世紀後半にかけ、強勢を誇ったフェニキア人の植民市と戦い、これを征服。シチリア島を皮切りに、海外領土である属州を拡大させていった。

 相次ぐ戦乱は無数の奴隷供給を可能にしたが、奴隷を用いた大所領農場経営(ラティフンデイウム)は、ローマの元老院議員など有力者の私腹を肥やすとともに、安価な穀物の流入によって重装歩兵の主力であった中小農民の経営がままならなくなり離農。大都市に流れ込み「パンと見世物」を要求する無産市民となった。

無産市民への小麦の無料配給を描いたモザイク(共和政末期)

 無産市民を傭兵として採用し、内外の危機を解決しようとした有力者同士の抗争(注)が激化し、属州での反乱や奴隷の反乱も起こった。
 そんな中、元老院貴族の出で、オプティマス(閥族派)のスラの武将としてポンペイウスが若くして強大な権限を手に入れ、個人の出過ぎた功績を傾向する元老院と対立。ポンペイウスは民会と結んで地中海の海賊討伐や、東方の戦乱(ミトリダテス戦争)をおこなう大権を手に入れ、セレウコス朝シリアも滅ぼした。
 しかしそれでも元老院はポンペイウスの個人的な活躍を認めない。

(注)属州を獲得し帝国となったローマでは、国家運営にあたり、元老院が中心となって集団で指導していこうとするオプティマス(日本では閥族派と訳す習わしである)と、民会での立法によって政策を実現しようとするポプラレス(民衆派と訳す)の間で対立が起きていた。ポプラレスの政治家であっても、元老院に所属する支配層に変わりはなかったから、訳語は混乱を招くことに注意したい。


 そこでポンペイウスは、ポプラレスの政治家カエサルを頼り、執政官クラッススとともに元老院を無視する私的な同盟を結んだ(第1回三頭政治)。

 しかし、カエサルは大権を得て現在のフランスであるガリアを征服し、ポンペイウスとも元老院とも対立。
 カエサルはポンペイウスを破り、連続して執政官に就任することが認められ、誕生日がローマの祭日とされるなど、強大な権力を手に入れることになった。
 とはいえローマには、建国以来王の出現を忌避する伝統がある。カエサルの個人的な突出は、ローマの伝統をおびやかすものとして批判の的となり、暗殺されてしまう。


属州の人々はローマの支配にどのように対応したのか?

 カエサルの支配したガリアにはローマ風の都市が建てられ、都市の有力者は農村にウィッラという邸宅を構え、盛んに小麦などの農業が営まれた。

資料 ローマはガリアをどう支配しようとしたか
ガリアの人々は、かつてのゆったりとしたズボンを着用することをやめてローマ人の服装を取り入れ、ローマ風の公共浴場や娯楽を楽しむようになったが、信仰や文化の目んでは固有のものを維持し続けた。人々はローマの神々を受容しながら、ガリアの神々と同一視して崇拝した。例えば、ローマの神アポロは、ガリアの水の神と同一視されて、アポロ・ボルウォとして信仰されたのである。ローマ征服以前に勢力をもっていたドルイド神官たちは、ローマ皇帝によって「野蛮」を理由に殲滅されたが、ローマ帝国はドルイド神官たちが先住者の反抗となることを恐れてこれを除いたのであって、先住者の信仰を禁圧したわけではなかった。

(出典:南川高志編『B.C.220年—帝国と世界史の誕生』山川出版社、2018年、183頁)



参考 フランスのオータンにあるローマの都市遺跡

南川高志「コラム: 西洋古代史の泉(3) オータンのローマ遺跡」、『西洋古代史研究』2010年、https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/134853/1/aak_10_131.pdf


参考 ローマ人の娯楽


参考 ローマ人の食事


 ローマが属州を支配する際、住民全体にローマ文明を押し付けたわけではなかった。
 先述の通り、そもそも属州に派遣できる官僚の数は限られている。
 支配にあたっては、その土地の有力者の協力をあおぐほかない
 帝国支配において、この先もしばしば現れる「協力者(コラボレーター)」の存在、要するに支配層であるローマと“ぐる”になることで地歩を固め、土地を支配しようとする有力者の存在である。

「〔…〕属州でローマ風の生活様式や宗教、文化を取り入れるか否かは、在地の指導者である有力者の選択に任された。属州エリート自身にとっては、ローマ風の生活様式導入し「ローマ人」として振る舞うことは、彼らのステイタスを周囲の民に認知させ、さらなる社会的上昇遂げるために必要な条件であった。彼らは、支配されつつ、支配していたのである。」

(出典:南川高志編『B.C.220年—帝国と世界史の誕生』山川出版社、2018年、183頁)





ローマ帝国はどのように運営されたのか


 カエサルの後継をめぐる争いを勝ち抜いたのは、養子であったオクタウィアヌスだ。彼は元老院を尊重する元首政とよばれる手法の政治をおこなった。事実上全権力が、たった一人の皇帝にあつまる仕組みとなったことから、オクタウィアヌスが元老院からアウグストゥスという称号を贈られた前27年以降、帝政ローマという。

前31年、政敵アントニウスとの戦いに勝利してローマ国家唯一の実力者となったオクタウィアヌスは、内乱中に保持した軍指揮権をいったん国家に変換したものの、元老院から多数の属州の統治を委ねられて軍指揮権を再び確保した。そして、管轄する諸属州に自身の代理人を総督や軍団司令官として送り込み、ほどかう元老院が管轄する属州の人事権も手に入れて、帝国領全体の統治権を手にしたのである。国家最高の公職である執政官や神聖不可侵の護民官など要職の権限を、その職に就かずとも保持するようにもなった。さらに国家宗教の最高神官職にも就いた。こうして、ローマは前1世紀後半に、前6世紀末の共和政創始以来忌避してきたはずの王政と実質的に変わりない一人支配に行き着いたのである。

(参考:南川高志編『378年—失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、20頁)


 96〜180年の間は安定的な治世が続き、最大領土を実現した。この時代をパクス=ロマーナ(ローマの平和)という。

ラヤヌス帝のとき、ローマ帝国は総面積500万平方キロ、推定人口6000万に達した。
日本大百科全書(ニッポニカ)「ローマ史」より、https://kotobank.jp/word/ローマ史-153356

 これだけの帝国を切り盛りするのだから、よほど多くの官僚がいたと思われるだろうが、パクス・ローマ期においても、帝国官僚は270人ほどしかいなかった。ローマ帝国が「官僚なき帝国」といわれるゆえんである。

(出典:新保良明「ローマ帝政前期における帝国官僚制─巨大帝国の「小さな政府」」(春期大会シンポジウム特集「帝国統治と官僚制度──ローマ帝国と唐の比較史的考察」)、『多元文化』2017年、236-250頁、https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=41540&item_no=1&attribute_id=162&file_no=1)。「先ず、巨大帝国でありながら、それを270名程度の官僚で統治できたのはなぜか。 2世紀のローマ帝国と同規模の人口を有した12世紀の南宋は4,000名の官僚を抱 えていたと言われるが、この中には、下級官僚たる胥吏は含められていない。 ならば、ローマ帝国が南宋に比して圧倒的に少ない官僚数で広大な帝国を統治で きた原因を考察してみるのは至極当然な課題になろう。」(同論文より)。



 しかし、領域が拡大するほど、帝国の担い手である「ローマ人」の意味も変わっていく。つまり以前のようにローマ市の住民のみならず、ほかの都市住民にもローマ市民の称号が与えられるようになったのである。すでに属州の都市の有力者までもが皇帝につくようになっていた(たとえばトラヤヌス帝以降の4人は属州系である)。

 ローマの出身者でなくても、ローマ人としての振る舞いさえ身につければ、支配層になれるし、皇帝にだってのぼりつめることができる。
 民族にとらわれぬ普遍性
。これはローマのみならず、「帝国」にありがちな特徴である。


ローマ帝国はなぜキリスト教を受け入れたのだろうか?

 ローマ帝国は、人々がどんな宗教を信仰しようが、積極的に干渉しようとしなかった。比較的寛容な国家だった。
 しかし、ローマの神々と交信するた犠牲獣を捧げるなどローマの公共の祭祀への参加を拒否するキリスト教には、いわば反社会的集団的な視線が注がれた。



 
 地中海周辺では、キリスト教のみならず、エジプトのイシス女神や、東方のミトラス教といった密儀宗教が信仰されていた。 

 だが、212年に皇帝によりローマの全自由人に市民権が与えられると政治は混乱すると、状況も変わってくる。
 284年にディオクレティアヌス帝は帝国を一つの皇帝権のもとに統一させ、財政を再建。専制君主政に舵を切り、皇帝を神として崇拝させる方針をとって、キリスト教を迫害した。

 コンスタンティヌス大帝の代には都をコンスタンティノープルにうつし、キリスト教の信仰を認めて教会を保護するとともに、3人の息子をキリスト教徒として育てた。また、官僚制を整備し、きわめて少ない人数であったローマの官僚は、一気に26000人に増員された(出典:新保良明、上掲、240頁)。

ローマ帝国はなぜ滅んだか?


ローマ帝国の衰亡は、キリスト教の聖書における重要性もあって、古来論じられてきたようにも思える。
だが、実際にローマ帝国の衰亡がさかんに論じられるようになったのは、18世紀前半のモンテスキュー以来のこと。
とくに18世紀後半のイギリスの歴史学者ギボンによる『ローマ帝国衰亡史』が、衰亡の原因をゲルマン人とキリスト教としたことは、大きな影響を与えた。

つまり、

野蛮なゲルマン人のせいで、ローマ人の文明は滅んだ

というわけである。

だが、まず第一次世界大戦後には、オーストリアの歴史学者ドプシュが、ローマ帝国の影響下に、ゲルマン人がすでに文明化されていたことを明らかにしている。この説には、第一次世界大戦の敗戦が影響を与えている。19世紀以降、ドイツはフランスとの対抗上、古代ゲルマン人をドイツの祖先と重ね合わせて歴史を描こうとしてきた。ゲルマン人=ドイツ人は決して野蛮ではなかったし、今もそうではない。そうやってドイツ民族の汚名をすすごうとする歴史家の解釈があった。

また第二次世界大戦後の1947年には、フランスのピガニヨルが、やはりゲルマン人の侵攻が大きな原因だったとした。こちらの場合、ドイツの占領を受けたフランスが、ゲルマン=ドイツ民族に対して向ける視線が背景にある。
また、ロシアのロストツェフによる都市ブルジョワジーの没落説の背景には、ロシア革命で国を追われた彼の境遇があった。

また、古代ギリシア・ローマの文化が、ローマ帝国末期に衰退し、古代に代わって中世が到来するとする伝統的な見方に対し、歴史学者ピーター・ブラウンは、ローマ帝国に移動してきたゲルマン人やキリスト教の影響を受けつつ、古代でもなく中世でもない独特な「心のありよう」が見られる時代(2世紀〜8世紀くらいまでの「古代末期」)があったと見た。1980年代以降注目されるようになったこの解釈の裏には、どんな問題意識が隠されているといえるだろうか?(参考:南川高志編『378年—失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、89-12頁に、これらの学説の変遷の概説がある)。

歴史の解釈には、歴史家の経験した同時代の問題意識が反映するものだ。
ローマ史もその例外ではない。

近代に国民によって構成される国がつくられていく中で、しばしばヨーロッパ人の民族の誇りとされたのは、ローマだった。
だからこそ19世紀のパリにはローマ風の凱旋門が建てられ、18世紀後半以降、各地でローマ風の新古典様式が流行した。

パリのパンテオン(1792年完成)
https://ja.wikipedia.org/wiki/新古典主義建築#/media/ファイル:Pantéon_(Francia).jpg




近代国家は、先行する中世や近世の原理を否定することで成立した。
日本でいえば、徳川幕府の江戸時代は、泰平の世といえども鎖国によって停滞を見た“暗黒時代”と語られるようになった。天皇がみずから政治を指揮しない中世は、皇統をないがしろにするものとされ、やはり“暗黒時代”となる。
したがって、近代国家は、かつて天皇の親政していた古代にモデルをとらざるをえなくなる。

事情は欧米諸国においても同様である。

だが、「ローマ人」なる民族は、近代国家建設時には存在しない。
あるのはただ、新たに国家統合の進んだドイツ人やイタリア人、先んじて統合を進めていったイギリス人やフランス人のみである。

それでもローマの亡霊は、変幻自在にさまざまな民族のルーツの顔をまとい、何度も甦る。
古代の歴史に関する近代の著述を検討する際には、過去には存在しなかった価値観を過去の世界に当て嵌めて解釈しようとする時代錯誤(アナクロニズム)を見抜かなければならないのだ。

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