見出し画像

新科目「歴史総合」をよむ 3-1-8. ベトナム戦争と冷戦構造の変容

メイン・クエスチョン
1960年代〜1970年代に、東西両陣営の米ソの威信が失われていったのは、なぜだろうか?


■ベトナム戦争とアメリカ合衆国の覇権の動揺

サブ・クエスチョン
なぜアメリカ合衆国は、なぜベトナム戦争によって国際的な覇権を失うことになったのだろうか?

 1960年代末、アメリカ合衆国の覇権が動揺するきっかけとなったのは、ベトナム戦争である。

 ベトナム戦争は、東側諸国の中国・ソ連がたがいに対立しつつ北ベトナムを支援し、アメリカが南ベトナムを支援する「代理戦争」であった。

 しかし、中国とソ連は1960年代以降「中ソ対立」の真っ只中にあり、その足並みがそろっていたわけではなかった。

 1968年1月末には、南ベトナム解放戦線(北ベトナムが支援する軍事組織)がテト攻勢という大規模な奇襲をしかけた。これがテレビ中継され、アメリカの大衆の目にふれると、反戦の世論が噴出した。

資料 アメリカの反戦運動学生団体によるベトナム戦争の見方 アメリカのヴェトナム反戦運動 (学生非暴力調整委員会(SNCC)が 1966 年に発表した声明)
「......アメリカ政府はベトナム人民の自由に関心を払っているのだと主張するが、それは嘘だとわ れわれは断じる。同じ嘘のやり方で、この政府は、世界のさまざまな国におけるカラード・ピープル (有色人種)の自由に関心を払っていると主張する。......われわれの経験は、ことに南部におい て、アメリカ政府がいまだかつて、抑圧された市民の自由を護ったことがなく、その国土のなかにおいてすら、抑圧と恐怖にみちた統治に終止符を打とうとしていないことを示している。......ベトナム人は、アメリカ合衆国が国際法を侵犯する侵略政策をとることによって殺された。......」(小田実 『義務としての旅』岩波新書)

Q. 彼らは「抑圧された市民」とはどのような人を指すととらえているのだろうか?



資料 ボブ・ディラン「風に吹かれて」
How many roads must a man walk down(男はどれほどの道筋を歩いていかなければならないの か)
Before you call him a man?(人ととして認めてもらうまでに)
How many seas must a white dove sail(白い鳩はいくつの海を渡らなければいけないのか) Before she sleeps in the sand?(砂浜で眠るまでに)
Yes, and how many times must the cannonballs fly(砲弾はどれほど飛ばし合わなくてはいけない のか)
Before they’re forever banned?(永遠になくなるまでに)
The answer, my friend, is blowing in the wind(友よ、その答えは風に吹かれているのだ)
The answer is blowing in the wind(そう、答えは風に吹かれている)


資料 アメリカの知識人の学生運動に対する見方
チョムスキー「抵抗について」(1967 年 12 月)「徴兵拒否は適切におこなわれるならば......広い支持をえて政治的にも有効な行動であると思われる。」(『資料が語るアメリカ』有斐閣、226 頁)



資料 ケネディによるベトナム情勢に対する見方(※開戦前。上院における発言、1957年7月2 日)
「こんにちの世界においてただ一つ、最も強い力を発揮するものは、共産主義でも資本主義でも なく、また水爆でもミサイルでもなく、自由になりたい、独立がほしいという欲求ではないだろうか。 自由をという恐るべき力に対する強大な敵は、より性格に名づければ、とりもなおさず帝国主義で ある。こんにちそれはソ連の帝国主義を意味しており、さらに、われわれが好むと好まざるとにかか わらず、また同じ洋に比較すべてきではないが、それは西側の帝国主義なのである。したがって、 米国の外交政策が現在直面している最大の試練は、帝国主義の挑戦にたいしていかにわれわれ がとりくむかということであり、自由を求める人類の熱望にどう対処するかということである。他の何 よりも、この試練について、米国はアジア、アフリカ地域内で、まだどの陣営にも与していない何百 万という人びとからきびしい批判を下されるだろうし、さらに鉄のカーテンの向こう側にいまも生きて いて自由を求める人びとは、米国を心もとなげに見守っているだろう。」


資料 北爆直前の北ベトナム指導者の見方
※今日のベトナムではベトナム戦争を「抗米救国戦争」という
レ・ズアン労働党第一書記の書簡(1965 年)―アメリカは介入しないだろう

「傀儡軍〔南ベトナム政府軍のこと〕を徹底して崩壊させれば「局地戦争」になる可能性も最小限に 食い止められる。なぜか。なぜならば、傀儡軍では勝てないとなれば、傀儡軍がなくなってしまっ た時には、アメリカが自らの遠征軍でわれわれに勝とうとしても、それは 不確かであり、アメリカを泥沼に落ち入れる可能性があるからである。またわれわれが以前に議論 したように、アメリカのような世界一の帝国主義国は、一箇所で長期に泥沼にはまることを極めて 懸念している。第二に、「特殊戦争」に自己抑制していれば、戦争を終結しなければならなくなっ ても、「局地戦争」の泥沼にはまった時よりも、体面失うことなく撤退ができる。したがって、もしわれわれが傀儡軍を打ち破るのと同時に、傀儡政権を打倒して中立政権を樹立し、アメリカに撤退を 要求して、政治的にアメリカをきわめて受動的な立場においこみ、世界でもアメリカをいっそう孤立 させれば、アメリカが「局地戦争」に転換できる可能性はより少なくなる。まとめると、以上のような要 求での勝利を望むならば、われわれは傀儡軍を徹底して崩壊させ、アメリカにつける隙を与えず、 アメリカを政治的に追い詰めるとともに、巧妙な戦術をもってアメリカに敗北を認めさせ、かつ体面 を失うことなく撤退できるようにさせる必要があるのである。」 (古田元夫「インドシナ戦争ー救国戦争と「貧しさを分かち合う社会主義」池端雪浦 〔ほか〕編『岩 波講座東南アジア史 第 7 巻』岩波書店、2002 年、184−185 頁」Le Duran, Thu Val Nam, Nha Surat ban Su that, 1985 年、172−73 頁より。




 これによりジョンソンは大統領選挙への出馬を断念。1968年の選挙で勝利したニクソン大統領は、「名誉ある撤退」をかかげたものの、空爆はこれまで以上に強化した。

 1973年にパリ和平協定が締結されると、2年後には北ベトナムが南ベトナム解放民族戦線とともに、南ベトナムの首都サイゴンを陥落させた。こうして1976年に南北ベトナムが統一され、ベトナム社会主義共和国が誕生した。
 アメリカは、ベトナム戦争に敗北したのである。


資料 ニクソンの「サイレント・マジョリティー」演説
In San Francisco a few weeks ago, I saw demonstrators carrying signs reading: “Lose in Vietnam, bring the boys home.”
Well, one of the strengths of our free society is that any American has a right to reach that conclusion and to advocate that point of view. But as President of the United States, I would be untrue to my oath of office if I allowed the policy of this Nation to be dictated by the minority who hold that point of view and who try to impose it on the Nation by mounting demonstrations in the street.
For almost 200 years, the policy of this Nation has been made under our Constitution by those leaders in the Congress and the White House elected by all of the people. If a vocal minority, however fervent its cause, prevails over reason and the will of the majority, this Nation has no future as a free society.
And now I would like to address a word, if I may, to the young people of this Nation who are particularly concerned, and I understand why they are concerned, about this war.
I respect your idealism.
I share your concern for peace.
I want peace as much as you do.
There are powerful personal reasons I want to end this war. This week I will have to sign 83 letters to mothers, fathers, wives, and loved ones of men who have given their lives for America in Vietnam. It is very little satisfaction to me that this is only one-third as many letters as I signed the first week in office. There is nothing I want more than to see the day come when I do not have to write any of those letters.

第一学習社『高等学校 新歴史総合 過去との対話、つなぐ未来』には、欅坂46の「サイレントマジョリティー」の歌詞が「物言わぬ大衆」であることに疑問を投げかける例として、EU残留を訴えるイギリスの若者や、政府の雇用政策に反対するフランスの若者と対比する形で紹介されている。


 


■中ソ対立と東側陣営の動揺

サブ・クエスチョン
1960年代以降、東側諸国を率いるソ連の威信が揺らいでいったのはなぜだろうか?


 1960年代の東側諸国内部も、西側諸国と同じように動揺が生まれていた。

 第一に、中国国内で資本主義的な要素を部分的に取り入れる改革派(劉少奇や鄧小平)が台頭したのに対し、文化大革命という毛沢東による権力闘争が始まり、中国社会は大混乱に陥った。

 第二に、ソ連の影響化にあった東欧のチェコスロヴァキアで、1968年に「プラハの春」とよばれる民主化運動がおきた。すでに1964年には、失脚したフルシチョフを継ぎ、ブレジネフが権力を掌握していた。ブレジネフは1968年11月にポーランドのワルシャワで「社会主義共同体」(東欧の衛星諸国)の主権が制限されうると演説した。これを西側諸国ではブレジネフ・ドクトリン(制限主権論)とよび、中国は社会帝国主義とよんで批判した。

 第三に、1960年代以降「中ソ対立」が激しくなり、1964年には中国は核実験を実施した。後述する「プラハの春」などにおけるソ連の帝国主義的な態度に対する警戒から、1969年には国境での武力衝突にも発展している(中ソ国境紛争)。


 このような東側陣営の動揺を背景に、アメリカ大統領ニクソンは、ソ連と対抗する中国への接近を決定。その政策は、大統領補佐官であったキッシンジャーによるところが大きかった。キッシンジャーは1971年に中国を訪問、従来は台湾の中華民国政権に与えられていた国連代表権を中華人民共和国に変更させた。

 1972年にはニクソン大統領が中華人民共和国に訪問し、米中和解を演出した。
 これを受け、1972年に日本の田中角栄首相も訪中して、日中共同声明を発表した。日本は台湾と断交したものの、台湾政府との関係は維持された。


史料 「漢賊並び立たず」(台湾の歴史教科書の記述より)

中華人民共和国政府が中国を統治し続けている現実を踏まえ、国際社会もその存在を重視するようになり、英、仏などがそれと国交を結んだ。一方我が国は1960年代に「漢賊並び立たず」との外交政策を採ったため、国際情勢は不利に傾いていった。

(薛化元編(永山英樹・訳)『詳説台湾の歴史 台湾高校歴史教科書』雄山閣、2020年、176頁)


いいなと思ったら応援しよう!

みんなの世界史 このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊