新科目「歴史総合」を読む 2-2-4. ソヴィエト連邦の成立と社会主義
メイン・クエスチョン
ロシア革命とソ連の成立は、世界にどのような影響を与えたのだろうか?
■ロシア革命
サブ・クエスチョン
ロシア革命は、それまでの革命と比べ、どのような点が新しかったのだろうか?
第一次世界大戦の戦況が悪化し、ロシアの首都ペトログラードでは、1917年に労働者のストライキや兵士の反乱がおきた。
彼らはソヴィエトを各地で結成し、政府に対して放棄した。これを二月革命という。
その結果、ロマノフ王朝は倒されたが、労働者や兵士を中心とするソヴィエトは除かれた臨時政府が組織されることになった。臨時政府は戦争を継続した。
これに対し、スイスに亡命していたボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党の左派)レーニンは、1917年4月に臨時政府の政策を批判し、ソヴィエトに全権力を集めるべきであると主張した。
そして1917年10月、ボリシェヴィキにより武装蜂起がおこされ、臨時政府は妥当された。これを十月革命という。
この革命は、史上初めての、社会主義を掲げた革命である。
レーニン率いる新政府は「土地に関する布告」のなかで、大地主の土地を農民に分配し、重要産業を国有化することを表明した。
また、「平和に関する布告」のなかで、第一次世界大戦の和平原則をうたった。
資料 「平和に関する布告」(1917年11月)
「すべての交戦諸民族とその政府に対して、公正で民主的な講和についての交渉を即時に開始することを提議する。……政府がこのような講和とみなしているのは、無併合、無償金の即時の講和である。
政府が併合または他国の土地の略奪と理解しているのは、民主主義一般、とくに勤労者階級の法意識に従って、弱小民族が同意または希望を正確に、明白に、自由意志で表明していないのに、強大な国家が弱小民族を統合することである。その際、その強制的な統合がいつおこなわれたか、また強制的に統合される、あるいは強国の領域内に強制的にひきとめられる民族がどれだけ発展しているか遅れているかには関わりない。さらに、その民族がヨーロッパに住んでいるか、遠い海外諸国に住んでいるかにも関わりない。……
政府は秘密外交を廃止し、みずからすべての交渉を全人民の前で、完全に公然とおこなう確固たる意向を表明し、1917年2月から10月25日までに地主と資本家の政府によって確認または締結された秘密条約の、完全な公開にただちに着手する。」(『世界史史料10』岩波書店)
Q. 「平和に関する布告」では、何の、どのようなことが批判されているだろうか?
資料 レーニン『帝国主義論』
「本書において証明の対象としたのは、以下のことである。すなわち、一九一四~一九一八年の戦争は、同盟国側と連合国側のいずれから見ても帝国主義的な(すなわち、侵略的で略奪的な)戦争であったということである。つまりこの戦争は、世界の分割に端を発するものであった。もっと言うと、植民地や金融資本支配下の「勢力圏」の分割および再分割をめぐる戦争であった。」
「資本主義とは、商品生産が最高度に発達した段階である。この段階に至ると、労働力も商品となる。国内の交易もさることながら、特に国際貿易が増大する。それは、資本主義に固有の現象である。資本主義の下では、個々の企業、個々の産業部門、個々の国が発展する際、不均等の発生は避けがたい。最初、イギリスがいち早く資本主義国となった。イギリスは一九世紀半ばまでに自由貿易を導入し、世界の工場(すなわち、世界中の国々に工業製品を供給する国)の役割を自任するようになった。その代わりに、イギリスの工業製品を輸入する国々では、イギリスに対して原材料を供給しなければならなかった。しかし、イギリスのこのような独占状態は、一九世紀最後の四半世紀頃にはすでにくつがえされた。というのも、ほかの諸国が保護関税によって身を守り、自立的な資本主義国へと発達を遂げたからである。二〇世紀が間近になると、別種の独占の発生が見られる。第一に、発達した資本主義の国では、どこの国でも、資本家が独占体同士の同盟を結ぶ。第二に、いくつかの富める国が独占的立場を確保する。それらの国では、資本の蓄積が途方もない水準に達する。先進諸国において、莫大な「過剰資本」が発生するというわけである。(中略)過剰資本は、利益を拡大する方向に振り向けられる。それは、後進国に対する資本輸出を通じておこなわれる。これらの後進国では通常、利益率が高い。なぜなら、資本が少なく、土地が値ごろで、賃金が低く、原材料価格が安いからである。資本輸出が可能になった要因としては、次のようなものがある。一連の後進国がすでに世界資本主義の歯車の中に組み込まれた。また、それら後進国では鉄道の主要路線がすでに開通済みか、あるいは敷設が始まった。そして、工業の基本的発展条件も整った。一方、資本輸出を余儀なくする要因もある。一部の国では、資本主義が「過度の成熟」に達し、そのため、(農業が発達を遂げておらず、また一般大衆が貧困にあえいでいるだけに)資本にとって、「利回りの良い」運用先が不足する。」
Q. レーニンは、何が第一次世界大戦を引き起こしたとみているのだろうか?


日本人のみたロシア革命
(出典:宮永孝「日本人のみたロシア革命」『社会志林』66-1、2019年7月、1-77頁)
外交官補 芦田均 のロシア革命目撃談
芦田は、最初の赴任先の露都において、はからずも歴史的なロシア革命と出会うことになった。
三月八日(ロシア暦2・23)―朝かれはフランス河岸三〇番地の下宿を出ると、日本大使館にむかった。この日の朝はめずらしく、すきとおるような青空から、太陽の光がさんさんと降りそそぎ、それが凍ったネバ川のうえで反射していた。大使館の建物から二、三百メーターほど行くと、アレクサンドル二世橋(別名・リティヌイ橋)があって、それが都心地区と対岸のウィボルグ Vuiborg という工場地区とをつないでいる。
この橋の上をストライキ参加者の群集が、リティヌイ Liteini Prospekt 通りにむかっていた。人々の表情に不安の色がただよっている。デモに加わる人の数がだんだんふえ、リティヌイ通りからネフスキー大通り河岸の大通りを、コサック騎兵が速足で通りすぎてゆく。ウィボルグ区では、パン屋が襲われたと通行人が話している。 Nevski Prospekt にあふれているという。大使館にやってくる日本商会の人たちの語る街の様子によると、一、二ヵ所でピストルの音がきこえた。が、夕方には人影がうすれ、静かな一日がくれたという。ハバロフ司令官は布告をだし、 「小麦粉は予定どおり到着、それぞれパン屋へ配給されている」と告げた。しかし、パン屋の中には、店をとじて、仕事を休んでいるものも出てきたようである。夕食の約束があって、この街で有名な「ドノン」Donon(pyévtcheski 橋にちかいモイカ二四番地)というレストランに行った。が、店はふだんどおり、客でいっぱいだった。晩さんをおえてから、代議士スヂェンコ宅を訪れた。家族が応接間にあつまり、昼間の出来事について話しあっていた。
―いったいどうするのか。と、主人に尋ねると、問題は政府の手にまかせておけないから、議会(ドゥーマ)で食糧委員会をつくり、しごとを引きとろうというのだが、こうなってから果たしてうまくいくだろうか。スヂェンコ氏は、いっこうに平気なようすだった。そしてつぎのようにつけ加えた。―政府もいよいよ事態の急迫していることをみとめ、明日は議会とゼムストウォと、その他の団体を召集して、食糧補給案を講ずることにした。それも一策だろう。(…以下続く)
『時事新報』の特派員播磨楢吉の報告
当時、ペトログラードに駐在していた播磨の報告は、危険を犯しじっさい市街に出、じぶんの目でみた実歴談であり、微に入り細にわたっている。露都の工場労働者は、三月八日をもってストライキをおこし、ついでそれは示威運動(デモ)に発展し、 「赤旗」をひるがえすことになった。
そして数日後の十二日にいたり、軍隊はみな反旗をかかげ労働者といっしょになり、露都を占領するにいたったという。ロシア人にとって飯(めし)といえばパンである。人間のからだをうごかし、生命をつなぐものは飯(パン)である。露都ではパンは不足気味であったが、それを手に入れるのにそれほど苦労はなかった。麦粉が少ないため、パンをたくさん焼くことができず、生産高がいちじるしく減少し、店にならべてもすぐ売り切れた。
しかし、一月以来、パン不足は深刻になった。多くのパン屋は戸をしめ、張り紙をだした。いわく―いま露都でパンを店先で売っているところは数軒という。そのパンをうるために民衆は、難儀をしのばねばならなかった。
(…中略)
三月十二日
―軍隊がデモ隊に呼応し、反旗をひるがえした(謀反をおこした) 。
この日の朝、特派員の播磨は、下宿の周辺でただごとならぬ銃声と騒音を聞いたので、とりあえず外に出た。かれの宿のすぐまえは、兵営である。街路に出てみると、大勢の軍隊がときの声をあげ、(…後略)
公卿正親町季董(おおぎまちすえただ)の報告
公卿出身の商社員・正親町季董(一八七二~一九四五、東京帝大法学部卒、男爵)は、久原鉱業会社の駐在員(支配人)として、大正五年(一九一六)から同六年(一九一七)の夏ごろまでペテログラードですごした。
ネフスキー大通りは、警戒の警官・憲兵・コサック騎兵の数が、前日の数倍にふくれていた。ニコラエフ駅に近づくにつれて群集の数は、人道・車道をうめ、歩行がむずかしくなり、商店の窓ぎわを人波に押し流されながら進んだ。ときどきコサック騎兵の一隊が群集のなかに入ってくると、群集は帽子をふり、 「ウラー」とさけんで道をひらいた。
ニコラエフ駅前の広場に通じる三方の通りには、警官・憲兵・軍隊などが、抜剣と銃剣の壁をつくって、群集を広場に入れまいとしている。
ひげむじゃなコサック兵は、笑顔でかれらに敬礼し、諸君解散してくれないか、とおだやかにさとした。
その警戒線(ピケ)を群集は、ときどきときの声をあげ、なだれを打って突破しようとする。守る側の警官や憲兵は、ピストルやサーベルをふりまわし、群集を押しかえそうとする。
群集はコサック兵をのぞき、警官や憲兵に悪感情をもっている。腕に「赤布」をまいた大学生、革命家らしい青年が熱弁をふるい、群集の意気を鼓舞している。
われらの同胞は無益の戦争のために、しかばねを戦場にさらしている。留守をまもるわれわれは、一塊の黒パンもえられないで、飢え死にひんしている。われわれは同胞のために身命を賭して、にくむべき政府をたおさねばならない。
扇動家や群集は、 「革命!」 「革命!」 「ロシア万歳!」 「ウラー!ウラー!」とさけんだ。
(…中略)
夕方、帰宅するとき、かれはネフスキー大通りの危険をさけ、裏通りを迂回して進み、ネバ川畔の日本大使館に立ち寄って、午後七時ごろ帰宅した。大使館員の観測では、民間在留者の悲観的な見方とことなり、ひじょうに楽観的であり、 “革命”ということを念頭においていないようだった。この日、群集にたいして機関銃が撃たれ、死者が二、三百人でたと伝えられた。(…後略)
■対ソ干渉戦争
サブ・クエスチョン
日本は、列強諸国とともに、なぜロシア革命に干渉したのだろうか?
ソ連で成立したソヴィエト・ロシア政権に対しては、反革命側(白軍)との内戦が勃発した。
これに対し、反革命側の白軍側でたたかっていたチェコ兵を救出することを名目に、イギリスやフランスが支援し軍事介入。日本政府も、イギリス・フランスからの出兵要請を受けた。
Q. 上記資料「平和に関する布告」のどの部分が、資本主義諸国の政府によって警戒されたのだろうか?
欧米諸国や日本が、ロシア革命を警戒したのは、社会主義革命が自国に波及するおそれがあったことが一因だ。
たとえばレーニンは1919年に、新首都モスクワに各国の共産主義勢力をあつめ、コミンテルンを設立した。これは他国での革命なしにはロシア革命は永続できないとする「世界革命論」にもとづく組織であり、各国内の労働運動が、ロシアの新政府の干渉を受けて社会主義革命に向かうことをおそれたのである。
資料 コミンテルンのポスター

Q. このポスターには、何か国語で、どのようなことが書かれているのだろうか?
当時の寺内正毅内閣では、1917年6月6日に臨時外交調査委員会が設けられ、本野一郎外相は、早くから自主的な出兵を主張した。ドイツとの戦争に集中したかったイギリス、フランスも、日本に出兵要請を出していた。
しかし、アメリカは1918年3月に干渉に反対し、原敬や牧野伸顕らも、日本単独の出兵に対して反対した。
そんな中、1918年6月にチェコスロバキア軍兵士の救出問題が取り沙汰されると、1918年6月にアメリカが出兵を検討し、日本にも出兵を要請した。政府内の意見は最後まで一枚岩ではなかったが、結果的に1918年8月に、八カ国(このうちインドはイギリスの植民地であったので、実際には七カ国)共同出兵の形をとり、日本はウラジオストクへ限定的な出兵を開始した。
しかし、実際には協定兵力(1万2000人以下)を大きく上回る、7万3000人を派兵することとなった。尼港事件以降は、北樺太にも出兵している。結果として、シベリア出兵の戦病死者は3300人にものぼった。
シベリア出兵が失敗に終わり各国軍が撤兵したのちも、日本は政府と参謀本部との対立などにより、1922年10月まで撤退をしなかった。北樺太からの撤兵はもっと遅く、1925年5月のこととなる。
資料 黒島伝治『橇』(1927年)
将校の銃のさきから、パッと煙が出た。すると、色の浅黒い男は、丸太を倒すようにパタリと雪の上に倒れた。それと同時に、豆をはぜらすような音がイワンの耳にはいって来た。
再び、将校の銃先つつさきから、煙が出た。今度は弱々しそうな頬骨の尖とがっている、血痰を咯いている男が倒れた。
それまでおとなしく立っていた、物事に敏感な顔つきをしている兵卒が、突然、何か叫びながら、帽子をぬぎ棄てて前の方へ馳せだした。その男もたしか将校と云いあっていた一人だった。
イワンは、恐ろしく、肌が慄ふるえるのを感じた。そして、馬の方へ向き直り、鞭をあてて早くその近くから逃げ去ってしまおうとした。馳せだした男が――その男は色が白かった――どうなるか、彼は、それを振りかえって見るに堪えなかった。彼はつづけて馬に鞭をあてた。
どうして、あんなに易々やすやすと人間を殺し得るのだろう! どうして、あの男が殺されなければならないのだろう! そんなにまでしてロシア人と戦争をしなければならないのか!
彼は、一方では、色白の男がどうなったか、それが気にかかっていた。――やられたか、どうなったか……。でも殺される場景を目撃するのはたまらなかった。
暫らく馳せて、イワンは、もうどっちにか片がついただろうと思いながら、振りかえった。さきの男は、なお雪の上を馳せていた。雪は深かった。膝頭ひざがしらまで脚がずりこんでいた。それを無理やりに、両手であがきながら、足をかわしていた。
その男は、悲鳴をあげ、罵ののしった。
イワンは、それ以上見ていられなかった。やりきれないことだ。だが無情に殺してしまうだろう。彼は馬の方へむき直った。と、その時、後方で、豆がはぜるような発射の音がした。しかし、彼は、あとへ振りかえらなかった。それに堪えなかったのだ。
「日本人って奴は、まるで狂犬だ。馬鹿な奴だ!」
■ソ連の成立
サブ・クエスチョン
ソ連では、どのような体制がとられたのだろうか?
ソヴィエト・ロシア政権は、中央が強力な経済的統制をおこなう戦時共産主義や、反革命の強力な取り締まりによって戦争を切り抜け、最終的にソヴィエト・ロシア政権側(赤軍)が勝利した。
戦後の1922年にソヴィエト・ロシアは、かつてロシア帝国の支配下にあったウクライナ、ベラルーシ、さらにはコーカサス山脈以南のグルジア・アルメニア・アゼルバイジャンのソヴィエト政権(ソヴィエト・ロシアの支援・指導により成立していた)とともに、ソヴィエト社会主義共和国(ソ連)を成立させた。
これは4つのソヴィエト社会主義共和国から成る連邦国家だが、実質的にはロシアの共産党の権限が強かった。共産党による一党独裁体制により、その他の政党は禁止され、社会主義を実現させるために計画経済がとられた。
■社会主義運動の拡大
サブ・クエスチョン
社会主義運動は、世界各地でなぜ支持を集めるようになったのだろうか?
ソ連の成立は、世界各国に衝撃をあたえた。
第一次世界大戦によりヨーロッパが廃墟と化したことは、社会主義や共産主義という新たな政治原理に説得力を与えた。
(注)社会主義と共産主義って、なにが違うの?
社会主義とは、資本主義のもとで行きすぎた分配の不公正を是正し、社会の調和をとりもどし、労働者を解放しようとする思想・運動だ。 共産主義は、生産手段を共有し、生産物の平等な分配をとおして平等な社会をめざす方法だ。
前者については、資本主義をどれだけ許容するか、後者については、どのように分配すべきかをめぐり、それぞれさまざまな考えを含んでいる。社会主義のなかに、共産主義を含むという言葉の使い方、考え方もある。 ロシア革命以後には、一般に、資本主義の枠内での変革をめざす社会主義は、社会民主主義とよばれ、資本主義の体制そのものを変えようとする共産主義とは区別されるようになった。
たとえば、民族自決の原則は、ロシアのレーニンによっても説かれ、自治・独立をめざす植民地の人々の光となった。
Q. 上記の資料「平和に関する布告」の、どの部分が、世界各地の植民地の人々の期待を集めたと考えられるだろうか?
対ソ干渉戦争中には、ロシア共産党が世界中の革命運動を支援することで、世界的な資本主義勢力を打倒しようとする「世界革命」実現のための組織(=共産主義インターナショナル(コミンテルン))が結成され、アジア諸国を含めた世界各地に共産党が設立されていった。
中国では第一次世界大戦中に、欧米文化の影響から伝統文化を刷新しようとする新文化運動が盛んとなったが、戦後には右派(自由主義)と左派(社会主義)に分化し、後者が中国共産党の結党につながった。
東南アジアでも、フランスに留学経験をもつエリートであるホー・チ・ミンがベトナム共産党(のちにインドシナ共産党に改称)を結成し、農村での蜂起を試みた。
しかし、1924年にレーニンが死去し、スターリンが権力を引き継ぐと、世界革命をめざす路線は異端とされ、まずはロシアが単独で社会主義建設をめざすべきとする一国社会主義が公式の路線とされた。これには、スターリンの敵対するトロツキーが、世界革命論の有力な論者であったことが関係している(トロツキーはスターリンによって国外に追われることとなった)。
総力戦によって国民の協力を推進するため、ヨーロッパ各国では戦中・戦後に参政権を拡大していった。そのため、国民の大多数を占める労働者の支持する労働者政党の支持が広がり、労働運動の影響力も無視できないものとなっていった。
■ロシア革命の日本への影響
サブ・クエスチョン
ロシア革命とソ連の登場は、日本にどのような影響を与えたのだろうか?
1917年11月のロシア革命(十月革命)の知らせは、すぐさま日本でも伝えられた。
資料 労働者たちのロシア革命に対する反応(1918年)
私は今まで口癖のように子供等にこう言ってきかせていた。お前等は俺のような貧乏職工の家に生れたのが取り返しのつかぬ不運だと断念てくれ。お前達は一生俺のような貧乏で無学な者として暮さねばならぬ。〔ところがロシア革命が起こったので〕私は躍り上がった。そして家に駆け込んで小供等を抱きしめてこう叫んだ。「オイ小僧供、心配するな、お前達でも天下は取れるんだ! 総理大臣にでもなれるのだ!」謂わば露西亜の革命は吾々に生きる希望を与えてくれたのだ。 仙台 原田忠一
Q. この労働者は、ロシア革命を通して、どのような意識を高めたと考えられるだろうか?
1918年8月にシベリア出兵が始まる直前の7月22日、富山県などの日本海側の地方都市で、漁民の主婦がおこした直接行動にあった。
勃発当時は米の端境期にあたり、さらにシベリア出兵を見越した米の買い占めや売り惜しみがあったため、米の価格が暴騰していた。日本海側の港では、米が大陸の戦地へと輸出されていたため、人々はその様子を直接うかがいい知ることができたのだ。
資料 当時の新聞記事(『高岡新報』1918(大正7)年8月7日)

Q. 米騒動は、当時どのような事件として報じられていたのだろうか?
こうした報道をした新聞は政府によって発売禁止にされたが、米価の高騰に反対する直接行動は、全国的に広まっていった。
資料 選挙権の人口に占める比率の割合

Q. なぜ人びとは、各地で暴力行使に発展するような運動に参加したのだろうか?
1918年夏以降の騒擾は、「米騒動」と一括りにすることができない多様性を持っている。
たとえば、全国各地の炭鉱や製鉄所、造船所や港湾労働者の間で、労働争議が引き起こされた。
資料 産業構造の変化(1900年→1920年の変化に注目してみよう)


資料 物価指数・賃金指数

Q. なぜ第一次世界大戦後に労働運動が活発化したのだろうか?
結果的に寺内正毅内閣は9月21日に総辞職し、後継の内閣は立憲政友会総裁の原敬が同年9月29日に組織した。彼は岩手県盛岡市の出身で、藩閥出身でも爵位保持者でもなく、「平民宰相」と呼ばれた。これは初の本格的な政党内閣であった。
「米騒動」を境に、人々の政治的な要求は、暴力的な方法ではなく、政治的な結社を組織して展開されるようになった。
そのような中、コミンテルンによる世界革命路線を受け、1922年に堺利彦、山川均によって日本共産党も非合法のうちに結党されている。
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