新科目「歴史総合」をよむ 1-3-2. 自由主義とナショナリズム
メイン・クエスチョン
「国民」としてのアイデンティティは、どのように形成されていったのだろうか?
■市民と国民
サブ・クエスチョン
市民革命の後、西ヨーロッパ諸国の内部で対立が起きたのは、なぜだろうか?
18世紀末に西ヨーロッパでおきた市民革命により、市民社会が形成されるようになると、今度は国家を構成する市民に「誰が含まれ、誰が含まれないのか」という問題が生じることとなった。
従来、人々を結びつけていたのは身分や職業別の組合、地域社会などであった。
しかし、そういった複数のアイデンティティはしだいに解体され、国家(state)と結びついた国民(nation)として統合されていくことになったのだ。
ここでいう国民(nation)とは、従来のような身分制国家(貴族、平民、奴隷など、身分別にバラバラになっているような国家)や、国家の領域を超える権力を行使する超国家的な組織やつながりを否定し、共通のアイデンティティで結びつけられ、一つの国家を構成するメンバーとして均質化された状態にある集団をさす。
こうした新しい原理に基づく国家を国民国家(nation-state)といい、国家に対して国民が持つ強い愛着のことを「ナショナリズム」と呼ぶ(注)。
(注)ナショナリズムは多義語なので、文脈に応じて使い分ける必要がある。また、人間はつねにひとつのアイデンティティ(みずからをほかの個人や集団と区別する根拠のこと)を持つとは限らない。
市民革命を主導した富裕な市民層は、憲法によって国家権力を制約する立憲主義体制を打ち出し、参政権を市民に拡大することで、議会制による政治の運営をめざした。こうした政治制度を求める思想を、自由主義という(注)。
(注)自由主義という言葉は、文脈によっても論者によっても、そして時代によっても意味に幅のある言葉なので、資料の文脈に応じ、どのような使われ方をしているのか注意しよう。
しかし、当初、国民国家の政治に参加する権利を持っていたのは、以前から特権を持っていた貴族層や地主、さらに富裕な市民層に限られた。
だれが国民を構成するのかという問題は、誰が政治に参加することができるかという問題と交差し、19世紀のヨーロッパ史の展開に大きな役割を果たすことになる。
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■ウィーン体制とその崩壊
サブ・クエスチョン
ウィーン体制はなぜ成立し、どのような勢力が、どういった新しい思想・運動を起こして抵抗したのだろうか?
ナポレオン戦争終結後、ヨーロッパでは、政治に参加する権利を再び旧来の特権身分に限ろうとする動きが強まった。
イギリスで生じた産業革命やアメリカ、フランスの市民革命にどのように対応するべきかが課題となったのだ。
ウィーン会議(1814〜1815年)では、各国の君主や貴族が集い、フランス革命・ナポレオン戦争でぐちゃぐちゃになった国家体制や国境線を革命以前の状態へと再調整するとともに、自由主義やナショナリズムの動きをおさえこみ、君主中心の伝統的な支配体制を維持することが確認された。
しかし、労働者、農民、さらに市民層は、こうした抑圧的な政治体制に対し強い不満を持った。
そこで1830年にはフランス自由主義的な変革を求める市民層が、七月革命を起こすと、他国でも自由主義、ナショナリズムの運動が波及した。
七月革命により成立した七月王政は、一部の富裕な市民層の利権を追求する不平等な体制であったため、1848年にふたたび革命が勃発した。これを二月革命という。
二月革命は、ドイツとオーストリアの三月革命を誘発し、ヨーロッパの諸地域では「諸国民の春」とよばれる民族運動が激化。国民国家をつくろうとする運動が盛り上がった。

ドイツではフランクフルト国民議会が開催され、ドイツ統一のための憲法が制定されたが、失敗した。イタリアでも革命が起きたが、国民国家建設には失敗している。ハンガリーでの革命も、オーストリアとロシアにより鎮圧された。
フランスでは、共和政の樹立の試みは挫折し、混乱のなかから第二帝政が成立した。
その結果は地域によって差はあるが、二月革命の結果、君主中心の国家体制にくさびが打たれたことは確かであり、その後のヨーロッパは、国家ごとに工業化や植民地進出を進め、憲法を制定して議会中心の政治をおこなう近代国家の建設がめざされるようになった。
イタリアでは1861年にサルデーニャ王国が主導し統一国家を樹立した。また、ドイツでは1871年にプロイセン王国が主導し、統一国家を樹立する。
資料 マッシモ・ダゼリオ『わが回想』(1867年刊)
この半世紀、イタリアは単一のpopoloとなり、nazioneとなるために動揺し苦しんできた。イタリアはその領土を大部分、再征服した。外国勢力との闘いは首尾よくいったが、それが最大の困難ではなかった。すべてを不確実なものにしている最大の、そして真の困難は国内の闘いである。イタリアのもっとも危険な敵はドイツ人ではなく、イタリア人自身なのである。
それはなぜか。
それはイタリア人が新しいイタリアを作りたいと望みながら、彼らはいまだに衰退の原因となった無能と道徳的貧困に満ちたかつての古いイタリア人のままだからである。
……イタリアはほかのpopoloのようにnazioneになることができず、うまく秩序づけられたり統治されたりせず、外国勢力のみならず内部のセクト主義者に対しても強力ではなく、自由ではなくきちんとしたどうりを持つkとおができない。それは社会階層の上下にかかわらず、各人が自らの領域で義務を果たしていないか、あるいは少なくとも義務を果たすために最善を尽くしていないからである。……
(出典:『世界史史料6』197-198頁)
※ダゼリオは、イタリア統一期の政治家・作家。 popoloとは人民、nazioneは国民と訳すことができる。
Q. 彼は、イタリア人がpopoloとなったものの、いまだnazioneにはなれていないと述べている。なぜそのように考えるのだろうか? 彼の理想とするnazioneとはどのような人々なのだろうか?
スペインやポルトガルでは、自由主義勢力(憲法の制定、土地制度改革を求めるグループ)が台頭して保守派と対抗し、国内政治は混乱しがちであった。
多民族国家であったオーストリアは、1866〜1867年にプロイセンとの戦争で敗れると、ハンガリーに自治権を与え、オーストリア=ハンガリー帝国を成立させた。
ロシアでは、産業の中心であった農業の生産性を高めようと、1861年に農奴解放などの改革がすすめられた。
一方、イギリスでは、大陸諸国で起こったような大規模な革命は、チャーティスト運動を除いては起きなかった。しかし1832年の選挙法の改革(第一回選挙法改正)以降、議会選挙に資本家が参入するようになると、中産階級の参加が保障された。これがきっかけとなり議会制が確立されるようになっていった。
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■中南米諸国とアメリカ合衆国
サブ・クエスチョン
南北アメリカ大陸における国民形成は、どのように進んでいったのだろうか? 課題があったとすれば、それはどのような点だったのだろうか?
19世紀前半には中南米でナショナリズムを背景に、スペイン系の白人(クリオーリョ)を指導者として、植民地の独立があいついだ。共和制や立憲君主制をとる国家が多かったが、ヨーロッパ諸国への経済的従属や工業化を背景として、国家体制は不安定となることが多かった。
アメリカ合衆国では19世紀半ばまでに白人男性の普通選挙権が確立された。
しかし黒人や先住民には参政権が与えられなかった。
ヨーロッパ系の白人たちは、西部の先住民であるインディアンの土地を奪い、アメリカ合衆国の領土を拡張していった。
下の図は、アメリカ合衆国拡大の理念を象徴的に表したものである。
資料 「アメリカの運命、明白な天明」

Q. 女神は何を表しているのだろうか?
資料 ジョン・L・オサリヴァン「併合論」
「今やテキサスはわれわれのものである。……(中略)
テキサスは、わが国の住民を西へと押し動かしていく一般的法則の不可避的な実現の過程で、連邦へと吸収されたのである。そしてこの一般法則と、100年以内に2億5000万人(それ以上でないとしても)という巨大な人口にまでわが国の人口数を増大させることを運命づけられている人口増加率との関係はあまりにも明らかであって、この大陸の占有に関する明白な神意について、われわれになんの疑いも残さない。……」
(出典:大下尚一ほか編『史料が語るアメリカ』88-89頁)
奴隷制に立脚する綿花プランテーションが産業の中心であった南部諸州が、1860年の大統領選挙の結果に異議を申し立て、南部連合(アメリカ連合国)として独立したことに端を発し、1861年〜65年には、北部諸州と南部諸州との間で内戦が起きた。
【資料】ジェームズ・H・ハモンド上院議員の議会発言(1858年)
問い. 当時の南部諸州の人々は、奴隷制をどのような理由から擁護していたのだろうか?
(前略)手短にいえば、あなた方〔北部の工場経営者〕が肉体労働者や機械工などと呼んでいる人々だって、奴隷ではありませんか。両者の違いといえば、われわれの奴隷は生涯にわたる身分であり、労働に対する補償が充分な点です。また、南部社会では、奴隷ではない人々は飢えることなく、物乞いの必要もなく、雇用の機会も過不足なく存在します。北部の労働者は日雇いで、保護や補償もほとんどなく、どの大都市の街角に行こうとも、いつでもその惨めな状況を証明できるではありませんか。…南部の奴隷は黒人という異なる劣等人種です。われわれが与えた身分は、彼らにとってみれば改善です。彼らは奴隷とされることによって、神が彼らを創造した状態よりも改善を遂げたのです。
(The Congressional Globe; Containing the Debates and Proceedings of the First Session of the Thirty-fifth Congress: Also of the Special Session of the Senate, No.61 (Washington, D. C., 1858), pp. 961-962. 中條献・訳、『世界史史料』岩波書店、2008年、238-240頁)
結果としてリンカン大統領率いる北部側が勝利した(南北戦争)。アメリカ史上最多の死者数を出したこの戦争後には、憲法修正により黒人に対する市民権が与えられた。
しかし、まもなく南部諸州では黒人の市民権を否定する州法が独自に制定され、黒人に対する差別はすすんだ。
また、スペインから独立したラテンアメリカ諸国では、先住民(インディアン)や、アフリカから強制的に連行された黒人奴隷によるプランテーション農業と、貴金属を採取・加工する産業が続けられ、独立を主導した植民地生まれのヨーロッパ系白人(クリオーリョ)を頂点とする階級社会が温存された。誰が独立国の政治に参加できるかという基準が、人種によって左右される状況が続いたわけである。
資料 ラテンアメリカの社会

18世紀メキシコの16の「血統」を表した図表
Las castas. Casta painting showing 16 racial groupings. Anonymous, 18th century, oil on canvas, 148×104 cm, Museo Nacional del Virreinato, Tepotzotlán, Mexico.(パブリックドメイン、https://en.wikipedia.org/wiki/Casta#/media/File:Casta_painting_all.jpg)
■市民権とジェンダー
サブ・クエスチョン
国民国家形成は、ジェンダーにどのような影響を与えたのだろうか?
これら近代国家において、女性には参政権が与えられず、労働者の参政権も当初はみとめられないことが多かった。
誰が国民としてふさわしいかという議論は、しばしば国民から排除される人々を生み出すとともに、国民に組み込まれた人々の生き方を、ある一定の価値観のもとに押し込める役割も果たした。
たとえば、国民に求められる役割や理想像は、社会的な性別(ジェンダー)によっても異なるものとなった。
資料 ナポレオン法典
第6章 配偶者それぞれの権利および義務(Des Droits et des Devoirs respectif des Époux)
第212条 夫婦は互いに貞節,救護,援助の義務がある。
第213条 夫は妻を保護しなければならず,妻は夫に従順でなければならない。 第214条 妻は夫と同居しかつ夫が居住すると判断した場所にはどこにでも夫につ
いて行かなければならない。夫は妻を受け入れかつその能力と身分に応じて生
計にとって必要なすべての物を妻に提供しなければならない。
第2編 所有権(De la Propriété)
第544条 所有権とは,最も完全に物を使用し処分する権利である。但し,法律ま たは規則が禁じる使用を行うことはできない。
第545条 なんぴとも,公益のためでなければ且つ事前の正当な補償と引き換えで なければ,その所有権の譲渡を強制されることはない。
第546条 動産であれ不動産であれ物の所有権は,その物が生み出すすべての物お よび自然にまたは人工的にその物に付随的に結合された物についても権利を有 する。
出典:中村義好訳、http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/17-2/012nakamura.pdf
「明治政府は、不平等条約の改正(治外法権の撤廃・関税自主権の回復)を目指したが、近代的な法制を欠くことが諸外国から問題視されたため、法典編纂が急務となった。政府は、ヨーロッパ各国において法制の模範とされてきたフランス法を参考にすることとした。まず箕作麟祥にフランスの法律を翻訳させ、独力で民法典の編纂を試みたが、それでは間に合わず、フランスからジョルジュ・ブスケ(1846-1937)、ギュスターヴ・ボアソナード(1825-1910)を相次いで招へいし、法典の起草に当たらせた。ボアソナードが中心となって起草された旧民法典には、フランス民法典(ナポレオン法典)の影響が強かったが、民法典論争が生じた結果、結局施行されずに終わった。その後制定された現行民法典には、ドイツ民法典第一草案の影響が指摘されるものの、起草者3名のうち2名がフランス留学経験者であった。」
(出典:国立国会図書館「近代日本とフランス」)
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国民統合のシンボル
サブ・クエスチョン
国民統合のシンボルにはどのようなものがあり、それぞれどのような意味が込められていたのだろうか?
国民としてのまとまりを人々イメージさせ、統合していく上で、さまざまな儀礼や象徴(シンボル)が用いられた。
たとえば各国の旗(国旗)が、どのように変遷していったのかをたどってみよう。
フランスの国旗
フランスでは、革命期にトリコロール(三色旗)が革命のシンボルとして発案された。もともとパリ市の旗、パリ市民軍の帽子の標章であった赤・青に、ブルボン家を表す白を加え、国民のシンボルとしたものだ。
パリ市旗(https://en.wikipedia.org/wiki/Flag_of_France#/media/File:Flag_of_Paris.svg)

フランス革命期の国家憲兵隊。帽子にトリコロールの標章が付けられている。(https://en.wikipedia.org/wiki/Cockade_of_France#/media/File:Officier_de_gendarmerie_sous_la_révolution.jpg)
しかしブルボン朝が1814年に復活すると、三色旗は革命のシンボルであるために排除されてしまう。1830年に七月革命が起きると再び採用され、現在にいたる。

ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》(https://ja.wikipedia.org/wiki/民衆を導く自由の女神#/media/ファイル:Eugène_Delacroix_-_La_liberté_guidant_le_peuple.jpg)
ドイツの国旗
さらに複雑な経緯をたどったのが、ドイツの三色旗だ。
ドイツを1806年まで支配していた神聖ローマ帝国の国旗は、双頭の鷲をあしらった黒・黄のデザインであった。
ドイツでは、ナポレオン戦争でたたかう中で、黒・赤・金(黄)の旗が用いられ、これがドイツ統一や自由のシンボルとなっていった。1848年革命のときに国旗として採用され、フランクフルト国民議会の議場にも掲げられたものの、ドイツ統一は流産した。
1848年革命時に考案されたドイツ国旗
(https://ja.wikipedia.org/wiki/ドイツの国旗#/media/ファイル:Flag_of_Germany_(3-2_aspect_ratio).svg)

フランクフルト国民議会の議場を描いた絵。黒、赤、黄の三色旗が随所に掲げられている。(https://ja.wikipedia.org/wiki/フランクフルト国民議会#/media/ファイル:Zeitgenössige_Lithografie_der_Nationalversammlung_in_der_Paulskirche.jpg)
しかし1867年に成立した北ドイツ連邦の旗は、統一を主導したプロイセン王国の国旗の黒と白がとりいれられ、黒・白・赤の三色旗となり、1871年のドイツ帝国建国後も使用された。
北ドイツ連邦の国旗
(https://ja.wikipedia.org/wiki/ドイツの国旗#/media/ファイル:Flag_of_Germany_(1867–1918).svg)
しかし第一次世界大戦に敗北後に建国されたヴァイマル共和国は、北ドイツ連邦・ドイツ帝国の「黒・白・赤」の国旗に代わり、再び自由主義的な「黒・赤・金」の旗を復活させた。
ところが1933年のナチ党の政権獲得により、再び黒・白・赤の国旗が、ナチス党旗であるハーケンクロイツ旗とともに国旗としての掲げることが義務づけられた。しかし1935年の国旗法で、ハーケンクロイツ旗のみがドイツの国旗とされ、三色旗の掲揚は禁止された。
戦後、ドイツは自由主義圏の西ドイツと社会主義圏の東ドイツに分断された。ともに黒・赤・黄の三色旗がもちいられたが、1959年に東ドイツ側が社会主義国として「労働者・農民・知識人の団結」を示す国章を国旗に加え、1990年に消滅するまで使われた(下図)。

現在のドイツは、黒・赤・黄の三色旗が用いられている。
以上に挙げた国以外の国旗についても、どのような変遷をたどっていったのか調べてみよう。
また、国民統合の象徴にはほかにどのようなものがあるだろうか?
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