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3-3-4. 大西洋三角貿易とキャンセルカルチャー 新科目「世界史探究」をよむ

イギリス(2020年)


2020年、イギリスのブリストルという都市で、1世紀以上にわたり街の中心部に鎮座していた像が引き倒された。


その銅像は、奴隷商人エドワード・コルストン、奴隷貿易に関わった王立アフリカ役員の役員だ。
手にした収益は慈善活動に向けられ、ブリストルの町を潤した。
ブリストルにとっての彼は、繁栄のシンボルであるとともに、不都合な史実の証人でもある。

プリティ・パテル内相は、銅像の破壊は「非常に恥ずべき」行いだと批判。「人々が抗議している目的から離れた、治安を乱す行為だ」と述べた。
「警察にはこの無秩序な違法行為に責任のある個人が、法の下に裁かれるようにする権利がある」
地元エイヴォン・アンド・サマセット警察は、「器物損壊行為」について事件として捜査すると声明を出した。
一方、マンチェスター大学のデイヴィッド・オルソガ教授(大衆史)はBBCの取材に対し、この銅像はもっと前に撤去されているべきだったと指摘した。
「こうした像は、『これは素晴らしいことをした素晴らしい人物だ』と知らしめるものだ。しかし、実際には違う。コルストンは奴隷商人で人殺しだった」ブリストルのマーヴィン・リース市長は声明で、銅像の撤去について賛否が分かれるのは承知しているとした上で、「この銅像は人道への侮辱を表すものだと、そう感じた人たちの声を聞くのは大事なことだ」と述べた。

イギリスで人種差別に抗議続く、奴隷商人の銅像を引きずり下ろし、2020年6月8日、BBC NEWS JAPAN、https://www.bbc.com/japanese/52960399


この事件は周知のように、アメリカのミネソタ州で起きた警察によるジョージ・フロイド氏殺害事件を受けたものだ。
倒された像は、その翌年からブリストルのエム・シェッドの企画展で、落書きされたままの状態で博物館に展示されることになった。



ガーナ(2020年)


ブリストルで銅像が引き倒されていた頃、ガーナでは、奴隷にまつわる一つの節目を迎えていた。

ガーナに最初の奴隷船が到着したのは、記録の上では1619年。そこから400年が経過した2019年には「イヤー・オブ・リターン」(帰還の年)とされ、2020年のガーナもその清新な熱気のなかにあった。

<奴隷貿易の拠点だったガーナは黒人のふるさと。「今の場所で必要とされていないならとどまることはない、アフリカは皆さんを待っている」>

黒人男性ジョージ・フロイドの拘束死事件を受けて巻き起こった人種差別をめぐる議論は、海を越えて世界中に広まっている。西アフリカのガーナの観光相は、アメリカをはじめ世界各地のアフリカ系市民に「今いる場所に自分が必要とされていないと感じたら」戻ってきなさい、と呼びかけた。

6月5日、ガーナの首都アクラにあるW.E.B.デュボワセンターでは、フロイドの追悼式が開かれた。式に出席したバーバラ・オテンギャシ観光相は、ガーナは人種差別から逃れてきた人々を受け入れると述べた。

[中略]

奴隷船から400年
ガーナはかつて奴隷貿易の主要拠点で、ここから大勢の奴隷が船に乗せられて北米に渡った。2019年には記録に残る最初の奴隷船が北米に到着してから400年の節目を迎え、「ガーナ帰還年(イヤー・オブ・リターン)」として音楽祭などさまざまな文化イベントが開催された。
一連のイベントによって大きな経済効果がもたらされたことを受けて、ガーナ政府はさらに、同国への投資を促進するための「帰還を超えて(ビヨンド・ザ・リターン)」と称する戦略を展開している。
ガーナ観光局のアクワシ・アジエマンCEOは6日、米NBCにこう語った。「アフリカ系アメリカ人、そしてアメリカの黒人は大きな購買力と移動の予算を持っている。そろそろ、あなた方の起源であるアフリカに戻ってきてはどうか」

ガーナ、人種差別に苦しむアメリカ黒人に「帰還」を呼びかけ、2020年6月11日、NEWSWEEK JAPAN、https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/06/post-93652.php



ガーナ(1619年)

 1619年当時のガーナ沿岸には、15世紀後半以来ポルトガルの建設した要塞エルミナ城が聳え立っていた。
 そこからポルトガル領ブラジルなどへ、奴隷が積み出され、大西洋の島々やブラジルでサトウキビのプランテーションに駆り出された。

エルミナ城https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Elmina_slave_castle.jpg、Photo by Dave Ley, 表示-継承 3.0

 

ガーナ沿岸はその後1642年にオランダ領となり、1871年にはイギリス領へとうつりかわる。
 ヨーロッパ諸国の奴隷貿易の拠点は、同じくギニア湾沿岸各地にあって、その総数は17世紀に入り増加していった。

 こうした奴隷貿易の実態は、大西洋奴隷貿易データベースのウェブサイトで自由に閲覧することができる(このデータベースについては、布留川正博「大西洋奴隷貿易の新データベースの歴史的意義」『同志社商学』66(6)、2015年に詳しい)。

https://www.slavevoyages.org/voyage/database#timeline
https://www.slavevoyages.org/voyage/database#maps


イギリス(1619年)

 17世紀初頭、イギリスが東インド会社を設立したのを皮切りに、オランダやフランスも東インド会社を設立した。
 
 17〜18世紀は、砂糖がヨーロッパの上流階級の間でブームとなった時代だ。
 砂糖は当時はサトウキビからしかつくることができなかったから、熱帯の炎天下のなかでの働き手として、必然的に奴隷が求められたのだ。

 ヨーロッパ諸国は日用品や火器を、アフリカ沿岸の支配者に販売し、その地でアフリカ系の奴隷を獲得した。
 ヨーロッパ諸国の持ち込んだ商品の中には、インド産の綿織物も含まれていた(奴隷貿易の展開に、西アフリカの人々の購買力が果たした役割に注目する研究については、こちら小林和夫『奴隷貿易をこえて―西アフリカ・インド綿布・世界経済』名古屋大学出版会、2020年を参照)。

 アフリカ大陸から各地に積み込まれた奴隷は、1200万人を超えると推定されている。
 だが、すべての人々が、長い航海を生きながらえ、ふたたび陸地をふみしめることができたとは限らない。
 特にアメリカ大陸に向かうルート(「中間航路」と呼ばれた)の死亡率は低く、奴隷を獲得するために西アフリカ沿岸のダホメー王国ベニン王国の間でひきおこされた紛争の死者もあわせれば、犠牲者数は数千万人にのぼる。
 
 これではアフリカが経済的に発展できるわけがない。

 かたやイギリスは、フランスとの戦争を勝ち抜き、18世紀後半には北アメリカ大陸のフランス植民地を獲得し、植民地帝国を築き上げた。

 イギリスがフランスに対して優れていたのは、軍事力と資金力だ。
 政府の借用証書を、中央銀行(イングランド銀行)が引き受ける制度が確立したおかげで、「イギリスの国債は信用できるぞ」との評判が生まれ、安全な投資先として国内外から資金が集まったのだ。

 しかも商業が盛んになればなるほど、消費税を中心とした税収も確保できる。
 盤石な財政基盤が、強力な海軍力を支え、それが物流の安全性を高めたわけだ。
 イギリスの実現した、こうした国家のあり方を「財政軍事国家」と呼ぶ。



イギリス(2020年)

 ロンドンのシティには、イングランド銀行や王立取引所が置かれ、ヨーロッパ内外から投資が集まった。

 その資本がさらに奴隷貿易に注ぎ込まれ、イギリスは資本を蓄積させていくこととなる。

 奴隷船が建造され、ロイズ保険組合によって保険をかけられた。当時の保険において、甲板の下に保管された奴隷は家畜と同じく「生鮮品」のカテゴリーに分類されていた。


 こうした負の歴史を抱えるシティにおいても、銅像の撤去をめぐる議論はなかなか収束していない。
 2021年にはシティの市長も務めた17世紀の商人像などが撤去された。


 大西洋奴隷貿易を経済史の一側面としてとらえるだけでなく、記憶の変遷や記念建造物を通してとらえてみると、どのようなことが見えてくるだろうか?

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