先住民とは、何者か? 史料でよむ世界史 8.1.2 アメリカ大陸の征服
「言葉」を統一するということの意味
ポルトガル王国がアジアとの直接貿易に成功する直前、1492年1月2日にイベリア半島最後のイスラーム政権であるナスル朝を滅ぼしたスペイン王国。
その女王イサベル(在位1474〜1504年)が主導して、スペインの統一を強化していった。
統一のために重視されたのは、言語の統一。
国をまとめるために「スペイン語」の統一が急がれ、1492年の8月には、イサベル女王の要請によりスペイン語文法が完成し、国家語としてのスペイン語が成立した。
文法書の著者であるアントニオ・デ・ネブリーハがイサベル女王に宛てた言葉の一節を読んでみよう。
陛下が、珍奇なる言葉を用いる多くの野蛮なる民や国々を征服され、支配下におかれた暁(あかつき)には、征服された者たちは、征服者の課す法とともに、その言語を学ぶこととなりましょう。[★1]
スペイン語をなんのために統一したのか、その意図が象徴的に透けて見える言葉だ。スペイン王国の領内には、バスク人やカタルーニャ人など、統一された「スペイン語」ではない言語を話す人々が多くいた。彼らは「スペイン人ではない存在」として差別の対象となっていくよ。
さらに同じ1492年に、スペイン王国ではユダヤ人追放令が発布された。イスラム教徒だけでなく、ユダヤ人の多くがこのときに北アフリカなどに逃れることになったけれど、キリスト教徒に改宗することでそのままイベリア半島にとどまる選択をとる者もいた。
その後も「ほんとうにカトリックの教えを守っているのか?」ということをチェックするために、「異端審問」(いたんしんもん)という形で、都合の悪い勢力を排除する政策も強まっていく。
宗教や言語を「国が統一する」ということの持つ意味について、ほかの地域と比較しながら、これを題材に考えてみるといいだろう。
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「インド」にむかったコロンブス
統一をすすめるスペインは、それ同時にアジアとの直接貿易プロジェクトも進めていった。スペイン王国の外部にある「スペイン人ではない人々」のエリアへの拡大を目指していったのだ。
そこに「資金を提供してくれるなら...」と歩みよったのが、イタリアのジェノヴァ商人コロンブス(1451〜1506年、スペイン語では「コロン」)。彼の出身であるジェノヴァは、1453年にコンスタンティノープルをオスマン帝国に奪われてからというもの、治安悪化で不振となり、新たな投資先を求めていた事情がある。
(注)「大航海時代はスペインやポルトガルが主導した」と説明されることが多い。たしかに領土的な進出はスペインやポルトガルの政権が主導した。けれどもその資本の主な出どころはイタリアのジェノヴァだ。その意味で大航海時代は、ジェノヴァの資本とイベリア半島の政権が結合することで展開されのだと見ることもできる[★2]。
なお、コロンブスは、ユダヤ人だったのではないかという説もある。
イスラム教徒の政権を打倒し、「スペイン語」を使う「カトリック」の国としての統一が進んだスペインは、先ほど述べたように1492年にユダヤ人追放令を出していた。
このこととコロンブスの「ユダヤ人」としての出自を結びつけ、コロンブスはイベリア半島から “追放” されたユダヤ人の新天地を探すため、「インド」を目指したのではないかというわけだ。
動機はともあれ、地中海東部の貿易の不振になやむコロンブスは、当時最新の知見である「地球はボールのようにまあるい形をしているから、大西洋を西に進めば、ポルトガルを避けて一気にヒョイっとアジアに到達できる」という説に飛びついた(この地球球体説はフィレンツェの天文学者トスカネリ(1397〜1482年)の計算したものだった)。
イサベルに猛アピールの末、スペインから「インド航路」開拓の受注を受けたコロンブス。「インド」(スペイン語ではインディアス)というのは、当時のヨーロッパ人が「南アジア・東南アジア・東アジア」をざっくり指すときの呼び名だ。もし「インド」に到達できれば、彼はその総督に就任し、富の一部を得ることができるという契約だった。
「8月3日、金曜日
1492年8月3日、金曜日の8時にサルテスの川口から出帆した。陸からの強風を受けて、日没までに南へ60ミリャ〔1ミリャは約1・5キロメートル〕、すなわち15レグア〔1レグアは約6キロメートル〕を進み、その後カナリア諸島への針路をとって、南西および南微西へ向った。」[★3]
コロンブスはカリブ海の小島に到達し、サンサルバドル島と命名した(実は現在のカリブ海に浮かぶバハマという国の小島)。
現地の人々(タイノ人)は彼から見れば、どうみても ”野蛮人“だった。
発見した当日の記録の一部を読んでみよう。
「上陸してみると、青々とした樹木が見え、水もふんだんで、いろんな種類の果物が実っていた。提督〔筆者注:コロンブス〕は、二人の船長をはじめ、上陸した者達......を呼んで、彼が、いかにしてこの島をその主君である国王ならびに女王〔スペイン王国の2人の王〕のために、並居る者の面前で占有せんとし、また事実、この地において作成された証書に委細記されるように、必要な宣言を行ってこれを占有したかを立証し、証言するようにとのべた。」
上陸してすぐにコロンブスおこなったのは、占有〔土地などを現実に自分のものにすること〕をするための手続きだったことがわかるね。
正確な場所はよくわかっていない。
おそらくバハマ諸島のどこかではないかといわれている。
身振り手振りで情報を探るなかで、ここが前人未到の「インド」近くの島々ではないかと確信する。
島の「インド人」(スペイン語でインディオ)を武力で制圧したコロンブスは、彼らの一部を奴隷としてスペイン王に献上した。
コロンブスらが最初にサンサルバドル島に上陸した10月12日は、現在でも南北アメリカ大陸で「コロンブス・デー」として記念されている。
***
コロンブスは本当は何を発見したのか?
コロンブスの「インド」発見の報告を受けた王室は、コロンブスに支配の権限を渡したけれど、利権をめぐる争いが勃発した。
その後もコロンブスは合計4回航海し、「インド」と思われる広大な大陸にも上陸した。
カリブ海の島々で大農園の経営も始めているよ。
もちろん、現在のわれわれなら「そこはインドじゃないよ。アメリカ大陸だよ」ってツッコミを入れたくなるよね(笑)
でも、コロンブスが信じていたトスカネリの地図には、「アメリカ大陸」の表示なんてない。

右端にヨーロッパとアフリカ、左の方に「CIPPANGU」(ジパング。日本?)や「CATHAY」(中国)が見える。
かつて、北欧のヴァイキングの一派が現在のカナダに到達していたことがわかっているけど、それは過去の話。そんな大陸があるなんて、当時のヨーロッパ人にとってはまったくの想定外の話だったのだ。
コロンブスの“発見”した土地について、翌年1493年に、ローマ教皇が領有関係をはっきりさせた。
教皇アレクサンドル 6 世の「インテル・カエテラ」(1493 年) カスティーリャ、レオン、アラゴン、シシリー、グラナダ国王フェルディナンドおよび女王イサベラに対して
(コロンブスは)「非常に遠隔の、およびこれまでだれにも発見されなかった大地を発見した」。この 大地において、金やその他の財宝が発見された。カトリックの王侯・君主はかの地の人々をカトリックの信仰に向ける使命を有する。この使命を実現するために、神の権威によって、「イエス・キリストの代理人」ローマ教皇は、「あなたたちの使者と船長たちによって発見されたすべての島と土地を あなたたち、およびあなたたちの後継者たち、カスティーリャとレオンの国王に対して、それらの支 配地、都市、要塞、村落、諸々の権利、裁判権および付随する一切のもの、ならびに北極つまり 北から南極つまり南に......線をアゾレス島およびヴェルデ岬諸島として一般に知られている島々 から西と南に向かって 100 リーグ(約 550 キロメートル)の地点に引き、その西と南に発見され、またされるであろう島々と大地とともに、贈与し、許可し、確認する。」
ローマ教皇が、新たに発見された土地に「線」を引き、分割しようとしたことが読み取れるね。
このとき引かれた線を、「教皇子午線」というよ。
しかしさらにその翌年の1494年、これに異議を唱えたポルトガル国王ジョアン2世によってこの線は西に約1350km移動させることになった。
これによってブラジルはポルトガル領として認められることとなった。
その後、コロンブスの存命中に、ポルトガル人のカブラル(1460年頃〜1526年)がアクシデントに見舞われ、1500年に現在のブラジルに漂着している。
その後、そのまま航海を続け、インドのカリカットに向かい、香辛料を大量に買い付け、リスボンに富をもたらした。ブラジルとインドの両方をその目で見たカブラルにとって、ブラジルの景色も人も様子は「インド」とは似ても似つかないものだった。
「ほんとうにコロンブスは、「インド」に到達したのだろうか?」
謎が深まる中、イタリア出身のアメリゴ=ヴェスプッチ(1454〜1512年)という人物が調査した結果、「コロンブスが「インド」だと言っていた場所は、アジアのインドじゃない。まったくあたらしい世界(新世界)なんじゃないか」という報告書を発表した。
つまりヨーロッパ人”にとっての“新大陸の存在を匂わせたのだ。新大陸が「アメリカ」と呼ばれるのは、このアメリゴの名がルーツなんだよ。
そうなると、これまでの常識を根本的にくつがえす必要がでてくる。
これまでのヨーロッパ人の常識では、《アジア+アフリカ+ヨーロッパ=世界》だ。
アジア(インド)とヨーロッパの間にアメリカがあるんならば、じゃあ「アジア(インド)とアメリカの間には、何があるんだ」ということになるよね。
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初めて世界一周をした人物
情報の錯綜するなか、スペイン王室はポルトガル出身のマゼラン(1480年頃〜1521年、ポルトガル語名はマガリャンイス)に、西回りでアメリカ南端を突破するよう命じた。
ポルトガル人を起用しているのは「変だな」と思うかもしれないけど、もうかる出世話があれば飛びつくのは当たり前の話。
マゼランが通った南アメリカ南端近くの海峡のことは、現在ではマゼラン海峡という。
彼が目指したのは、アジアの香料諸島(モルッカ諸島)。
コロンブスも到達できなかったこのスパイスの大産地に到達するまで、大陸のない海洋を数ヶ月にわたって航海し続けたその強靭なメンタルには、驚かされるね。
彼はこの巨大な海域は「おだやかな海」(オセアノ=パシフィコ)と命名。
日本名は「太平洋」だ。
彼の業績について、のちの時代の作家が記した文章を読んでみよう。
「これまではまだ名前のなかった大洋——「人間の精神ではほとんどつかむことのできないほど広い海」と、マクシミリアン=トランスシルヴァヌスの報告には述べられている—— のこの最初の横断のれきしは、人類の不滅の英雄的業績の一つである。空間的に無限の世界へ向ってこころみられたコロンブスの公開でもすでに、その当時と以後のあらゆる時代に比類なき果敢な行為と感じられたのだった。しかしこの行為ですら、献身という意味では、マゼランが言語に絶する欠乏をなめつつ自然の諸力から奪い取った勝利には比すべくもない。」[★5]
まさにベタ褒めだね。
でも、「人類の不滅の英雄的業績」という評価は、果たして当たっているのだろうか?
「太平洋の横断」をしたのは、人類にとってマゼランが最初の人だったのだろうか?
当たっているとしたら、それは誰(どの地域に住む人々)にとっての「英雄的業績」なのだろうか?
以下も参考にしてみよう。
オーストロネシア人[注]はサモアからさらに東へと移動を続け、ポリネシア東部、イースター島へとたどりつきます。いつごろどこまで到達したのでしょうか。
[中略]マルケサス、ハワイ、イースター島などの主要な島々へは西暦800〜1000年前後に移動し、ニュージーランドへの移動はさらに遅くて1250年ごろです。1000年ごろは、小さな寒冷期に続く温暖化期のピークにあたり、海面が再び上昇していた時期です。[中略]
他方、ニュージーランドに移動する前には、南米大陸への往復航海も行われていたと考えられます。南米原産のサツマイモやヒョウタンが、ハワイやニュージーランドで栽培されていたことからわかるわけですが、特に、温帯に位置するニュージーランドでは、寒さに強いサツマイモは重要な主食となりました。ニワトリの遺伝的研究からも、ポリネシア人がアメリカ大陸に移動していた証拠が示されています。[★6]
[注]オーストロネシア人は、西はマダガスカル島から東はイースター島、北は台湾から南はニュージーランドに及ぶ語族。世界でもっとも広い範囲に広がった語族の一つです。

***
さて、「太平洋」を発見したマゼランだったのだが、その後航海の途上で命を落とすことになる。
ようやく到達したフィリピンの小島で、島民の抵抗に合い、周辺の島々の争いの中でラプラプという首長に殺された。
この出来事は、当時のマクタン島周辺の支配者同士の抗争の一幕に過ぎなかったわけだけれども、19世紀後半以降、フィリピンで「フィリピンという国をつくろう」という運動が盛り上がる中で、「外からやってきた “侵略者” から「フィリピン」を守るために戦ったのだ」という文脈が加わっていった。
現在のフィリピン国家の歴史の中では、船を率いて乗り込んだマゼランは、外部からの”侵略者“ とみなされ、マクタン島ではマゼランの来航と戦死をモチーフにした記念式典が毎年ひらかれているよ。
「ラプラプ。この地で、1521 年 4 月 27 日に、ラプラプと彼の部下たちはス ペイン人の侵略者を撃退し、彼らの指導者、フェルジナンド=マゼランを 殺害した。こうして、ラプラプはヨーロッパの侵略を撃退した最初のフィリピ ン人となった。」(マクタン島にあるラプラプを讃える碑文)

(Cited from https://www.vigattintourism.com/tourism/articles/Mactan-Shrine-Depicting-the-History-of-Filipinos-Bravery)
***
さて、マゼランを失った一行は、アジア海域にうようよしていたポルトガル船を避けるようにしてインド洋を西に進み、アフリカ南端の喜望峰周りで、スペインに帰還。航海日誌の日付のズレから、本当に世界を一周したのだということが証明された。
さて、アメリカ大陸の人々にとって、こうしたスペイン人の海上進出はどのように見えるだろうか?
1521年にスペイン王室が送った征服者(コンキスタドール)のコルテス(1485〜1547年)は、メキシコ一帯を支配していたアステカ王国を滅ぼし、征服。
ここにメキシコシティを建設した。
1533年には征服者のピサロ(1470年頃〜1541年)が、ペルーのクスコを破壊。インカ帝国を滅ぼし、新たにペルーに首都リマを建設した。
アメリカ大陸の先住民には、歴史的に鉄を製造するテクノロジーはなく、車輪も実用化せず人力を重んじた。馬や牛のような大型家畜が分布していなかったのだ。
それに対しスペイン人は銃や大砲を装備しており、軍事的には歯が立たない。
さらにアメリカ大陸にはなかったタイプの感染症にかかってしまったことが、致命傷となったのだ。
スペイン王室は当初は軍事力として、国内であぶれていた人々を「征服者」として送り込んだ。直接支配するだけの資金力があるわけでもないから、植民者たちに先住民や土地を支配する権限をあたえることにしたのだ。
でもそれには条件がある。アメリカ大陸に住んでいる人々は”いちおう人間“なのだから、ちゃんと保護し、キリスト教を布教させなきゃだめだよということにしたのだ。
でも、その実態はとっても過酷。
凄惨な現場を見かねた聖職者ラス=カサス(1474/84〜1566年)は「先住民も人間なのだから、人間扱いするべきだ」とスペイン王に申し立てる事態に発展した。
「この40年間にキリスト教徒たちの暴虐的で極悪無慙(むざん)な所業のため、男女・子供合わせて1200万以上の人が残虐非道にも殺されたのは全く確かなことである。それどころか、私は、1500万以上のインディオが犠牲になったと言っても、真実間違いではないと思う。
[中略]
(そのおもな手口の)ひとつは不正で残酷な血なまぐさい暴虐的な戦争による方法である。いまひとつは、何とかして身の自由を取り戻そうとしたりする領主や勇敢な男たちを全員殺害しておいて、生き残った人たちを奴隷にして、かつて人間が、また、獣ですらこうむったことのないこのうえなく過酷で恐ろしい耐え難い状態に陥れ、圧迫する方法である......」[★7]
彼の主張に対し、神学者のセプールベダという人物との間に論争が起こされた。セプールベダの主張を聞いてみよう。
「人間の中には、自然本性からして主人である者と奴隷である者がいるのです。思 慮分別や才能に優れた人々は、たとえ肉体的に頑強でなくとも、生まれながらにし て主人であり、それに引き換え、必要な義務を果たすに足る体力を備えていても、 愚鈍で理性に劣る人々は生来の奴隷です。さらに哲学者たちが付け加えて述べる ところでは、生まれながらにして奴隷である人たちにとって、自然本性からして主人 である人々に仕えるのは正しいことであるばかりか、有益なことでもあります。」[★8]
この議論の下敷きには、古代ギリシアのアリストテレスによる奴隷制を擁護する主張もあった。
しかし結局1573 年には、アメリカ大陸の先住民の権利を守るための基本法が発布されることになる。征服者による行き過ぎた先住民の取扱いを規制し、キリスト教を布教するという大義と、植民地を安定的に支配しようとする方針が重んじられた結果だ。
ところで、その後もヨーロッパでは、突如として現れた「それまでまったく視界に入っていなかった人々(=他者)」を、どのように考えたらよいのかをめぐり、さまざまな議論が積み重ねられていった。
先住民のことを知れば知るほど、「キリスト教」という常識が、ガラガラと崩れ去っていくような気にさえ陥る。
そんな中、マゼランたちから2世代ほど後に生まれたモンテーニュ(1533〜1592年)というフランスの思想家は、次のように考えていた。
「自分の習慣にはないものを、野蛮(バルバリー)と呼ぶならば別だけど、わたしが聞いたところで は、新大陸の住民たちには、野蛮(バルバール)で、未開(ソバージュ)なところはなにもないように思う。どうも本当のところ、われわれは、自分たちが住んでいる国での考え方や習慣をめぐる実例 とか観念以外には、真理や理念の基準を持ちあわせていないらしい。あちらの土地にも、完全な宗教があり、完全な政治があり、あらゆることがらについての、完璧で申し分のない習慣が存在するのだ。彼らは野生(ソバージュ)であるが、それは、自然がおのずと、その通常の進み具合に よって生み出した果実を、われわれが野生(ソバージュ)と呼ぶのと同じ意味合いで、野生(ソバー ジュ)なのである。(1・30/31「人食い人種について」。太字は筆者による)[★9]
「あちらの土地にも、完全な宗教があり、完全な政治があり、あらゆることがらについての、完璧で申し分のない習慣が存在するのだ。」
べつにキリスト教徒の基準だけで考えなくてもいいじゃないか。
アメリカにはアメリカの価値観があるのだから。
そのようなモンテーニュの考えは、当時のヨーロッパの思想界においては、おそろしく画期的な考え方だった。
しかし、スペインやポルトガルによるアメリカ大陸の支配は、げんじつには過酷なものだった。
多くの先住民は鉱山や農園での労働力としてひどい働き方をさせられた挙句、ユーラシア大陸の感染症にかかり、ばたばたと倒れていくこととなる。
***
「コロンブス・デー」をどう見るか?
最後に、先ほど紹介した「コロンブス・デー」は、現代の各国ではどのように受け止められているのかについても、以下の記事や書籍も参考に考えてみよう。
歴史の認識をめぐって「偉人」の銅像を破壊する運動は、近年世界各地でみられる。この本で紹介されているのは、イギリスでかつて奴隷貿易に関わった地域の篤志家の銅像をめぐる問題だ。南北アメリカ大陸の事例と比べると、どのような共通点や相違点があるだろうか?
”ヨーロッパ人の大冒険“とされることが多い「大航海時代」は、アメリカ大陸の先住民にとっては、“大侵略時代”といえるかもしれない。
その後の中央アメリカ・カリブ海・南アメリカにおいて、「コロンブスをどう見るか?」という問題は、現代においてもナイーブな問題であり続けているのだ。
出典
[★1]歴史学研究会編『「他者」との遭遇』(シリーズ 南北アメリカの500年 第1巻)青木書店、1992年、p.7。「事実、「発見」=征服を契機に、アメリカ大陸の先住民諸社会の人びとは、ここの集団の固有の価値を否定され、インディオ(インディアン)という範疇に一括して押し込まれる。被征服者はすなわちインディオであり、インディオであるかぎり敗者であり、未開・野蛮なる民であり、文明化の対象である。同じように、イベリア半島内部では、カタルーニャやバスクといった地方は、「国民的」正統性からはずれた存在、あるいはその正統性を脅かす存在として、差異化・差別化の対象となる。「発見」は、先住民諸社会がスペインに示したはずの新たな価値の発見ではなく、「インディオ」「インディアン」といった被差別集団を創造する。その一方で、イベリア半島内部でも、カタルーニャ、バスクといった「少数民族」をも産み出していく、ひとつの歴史的契機なのであった。」
[★2]ジョバンニ・アリギ(土佐弘之ほか訳)『長い20世紀 — 資本、権力、そして現代の系譜』作品社、2009年
[★3]林屋永吉・訳『コロンブス航海誌』岩波文庫、1977年、p.13
[★4]山内進『北の十字軍ー「ヨーロッパ」の北方拡大』講談社、1997 年、280−281 頁
[★5]シュテファン・ツヴァイク(1881〜1942)『マゼラン』関楠生・河原忠彦訳『ツヴァイク全集(16)』みすず書房
[★6]印東道子「海を越えてオセアニアへ」、同編『人類大移動—アフリカからイースター島へ』朝日新聞出版、2012年、110 頁。図は、102-103頁。
[★7]ラス・カサス(染田秀藤 訳)『インディアスの破壊についての簡潔な報告』岩波文庫
[★8]セプールベダ『征服戦争は是か非か』染田秀藤訳、岩波書店、1992 年、83頁。
[★9]宮下志朗『モンテーニュ―人生を旅する ための 7 章』2019 年、146 頁。
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