新科目「歴史総合」をよむ 3-1-2. キューバ危機と核兵器の管理
■核兵器の開発と平和利用
メイン・クエスチョン
核技術は、どのような目的で推進されていったのだろうか?
1945年7月、アメリカ合衆国は人類初の原子爆弾の実験に成功し、8月に広島・長崎に投下した。
その後アメリカは1949年にソ連が原子爆弾実験に成功するまで、唯一の核保有国となった。1952年にはイギリスも核保有している。
資料 アインシュタイン=シラードの手紙
閣下、
原稿として私のところへ送られてきました E・フェルミと L・シラードによる最近の研究は、ウラン元素が近い将来、新しい重要なエネルギー源となるかもしれないという期待を私に抱かせます。 ……またこの新たな現象は爆弾、それも、あまり確かとは言えないのですが、考えられることとしては極めて強力な新型の爆弾の製造につながるかもしれません。 船で運ばれ港で爆発すれば、この種の爆弾ひとつで、港全体ならびにその周囲の領域を優に破壊するでしょう。 ですが、また、こうした爆弾は航空機で運ぶにはあまりに重過ぎることがわかるかもしれません。……私の知るところでは、実際ドイツは、ドイツが接収したチェコスロバキアの鉱山からのウランの販売を停止しています。 こうした、いち早い行動をドイツが取ったことは、おそらくはドイツ政府の外務次官フォン・ヴァイツゼッカーの子息が、現在ウランに関するアメリカの研究のいくつかを追試しようとしているベルリンのカイザー・ヴィルヘルム研究所に所属していることを根拠として理解できるでしょう。
資料 F・ルーズヴェルト大統領の対日宣戦演説
「昨日、1941年12月7日は、不名誉なひとして記憶されるであろうが、アメリカ合衆国は日本帝国の海軍と空軍によって突如として計画的に攻撃されたのである。……この交渉期間中、日本政府は平和の継続への希望を表明した虚偽の声明と言葉によって合衆国を意図的に騙そうとしたのである。……」(『世界史史料(10)』228)
資料 アメリカの原子爆弾投下(1945年8月6日) 広島原爆投下に関する大統領声明
「16時間前、アメリカの戦闘機が日本の重要な陸軍基地の一つ広島に爆弾を投下した。その爆弾はTNT2万トン以上の破壊力を持っていた。戦争史上かつて使用された最大級の爆弾である英国製「グランド・スラム」の二千倍を超える破壊力を持っていた。
日本人はパールハーバーへの空からの攻撃で戦争を開始した。彼らは何倍もの仕返しを受けたことになる。
それは原子爆弾である。(中略)」
資料 イギリス首相チャーチルの回顧(『第二次世界大戦回顧録 抄』283頁)「日本の運命が原子爆弾によって決定されたとするのは、誤りであろう。日本の敗北は、すでに原爆投下以前に定まっていたのである。日本に対する破壊的攻撃は、空と海からつづけられ、分散して内海に難を避けていた日本艦隊の残存戦艦は、一隻一隻がねらわれ、七月末には日本海軍は事実上存在しなかった。これは圧倒的なアメリカの海軍力がもたらしたのであった。」
資料 スミソニアン博物館におけるエノラ・ゲイ号展示
アメリカ人にとってエノラ・ゲイは、原爆を投下して日本を降伏させ戦争に勝利を収めた、「国民の物語」の一章だった。日本人からみれば、原爆は第二次世界大戦における破壊の頂点であり、各時代の始まりだった。「国民の物語」の神話性が暴露され、戦争を繰り返してはならないという反戦思想への転換が起こる、その中核が、広島・長崎の被爆だった(藤原帰一『戦争を記憶する―広島・ホロコーストと現在』講談社、2001年、62頁)。
1953年、第8回国連総会で、アメリカ合衆国大統領アイゼンハワーは「原子力の平和利用」という演説を行なった。
資料 平和のための原子力
(前略)核兵器を兵士たちの手から取り上げることだけでは十分とは言えない。そうした兵器は、核の軍事用の包装を剥ぎ取り、平和のために利用する術を知る人々に託さなければならない。
米国は、核による軍備増強という恐るべき流れを全く逆の方向に向かわせることができるならば、この 最も破壊的な力が、すべての人類に恩恵をもたらす偉大な恵みとなり得ることを認識している。
米国は、核エネルギーの平和利用は、将来の夢ではないと考えている。その可能性はすでに立証され、 今日、現在、ここにある。世界中の科学者および技術者のすべてがそのアイデアを試し、開発するために 必要となる十分な量の核分裂物質を手にすれば、その可能性が、世界的な、効率的な、そして経済的なものへと急速に形を変えていくことを、誰一人疑うことはできない。
原子力の脅威が、人々の、そして東西の国々の政府の脳裏から消え始める日を早くもたらすために、現 時点で講ずることのできる措置がいくつかある。
そこで私は以下の提案を行う。
主要関係国政府は、慎重な考慮に基づき、許容される範囲内で、標準ウランならびに核分裂物質の各国の備蓄から国際的な原子力機関に対して、それぞれ供出を行い、今後も供出を継続する。そうした国際機関は、国連の支援の下で設立されることが望ましい。
そうした供出の割合、手続き、およびその他の詳細については、先に言及した「個別交渉」の中で適正 に定めるものとする。
米国はそうした行動の探求を、誠意をもって行う用意がある。米国のパートナーとなる国で、同様の誠 意ある行動を取る国はいずれも、米国が、理不尽な相手国でも卑劣な相手国でもないことを理解すること になる。
この計画に従った最初の、そしてそれに続く初期の供出は、当然ながら量的には少ないものとなる。し かしながら、この提案は、完全に受け入れ可能な世界的査察・管理体制を構築するという、いらだちや相 互の不信感を招きやすい試みを必要とせずに実施し得る、という大きな長所を持っている。
国際原子力機関には、供出された核分裂物質ならびに他の物質の保管・貯蔵・防護を行う責務を持たせることもできる。そして科学者たちが知恵を絞り、そうして蓄えた核分裂物質が、何者かによって不意打 ちで強奪されることが基本的に不可能となるよう特別の安全体制を講ずる。
さらにこの原子力機関のより重要な責務は、そうした核分裂物質が人類の平和の希求に資する利用目的で使われる方法を工夫することになるだろう。例えば、核エネルギーを農業や医療や、その他の平和的活動のニーズのために応用することを目的として、専門家たちを動員することになる。また、世界の電力が不足している地域で、あり余る電力を提供することもその特別な目的となる。そうした体制によって、核 物質を供出する各国は、人類への脅威ではなく、そのニーズに貢献することに、国力の一部を捧げることになる。
米国は、他の「主要関係国」と共に、核エネルギーのこうした平和利用を促進する計画策定に着手する ことは、何よりも喜ばしい限りであり、また誇らしく思うものである。
こうした「主要関係国」には、当然、ソ連も含まなければならない。
私は、以下の計画を米国連邦議会に提出する用意があり、これらはそこで承認されると強く期待している。
第1 に、核分裂物資の平時における最も有効な利用法に関する世界的調査を促進するとともに、その目 的のために妥当であるすべての実験の実施に必要な材料がすべて確実に準備できるようにする。
第2 に、世界の核備蓄の潜在的な破壊力の削減に着手する。
第3 に、この文明が開化した時代に、東西両方の陣営の世界の列強が、戦争のための軍備増強よりも人 類の向上心に関心があることを、すべての国のあらゆる人々が認識できるようにする。
第4 に、世界が、恐怖による無気力から脱し、平和へと積極的に進展を遂げられるように、平和的対話 の新たな道筋を開き、官民両方の話し合いによって解決しなければならない多くの困難な問題に対し、新たな準備に取りかかる。
原爆(投下)という暗い背景を持つ米国としては、力を誇示することのみを望むのではなく、平和への 願望と期待をも示したいと望んでいる。
来たるべき数カ月間は、重大な決断を多々伴うだろう。それらの決断は、この総会で、世界各国の首都 や軍司令部で、統治者であれ統治される側であれ、あらゆる場所の人々の心の中で、こうした活動を脅威 から脱出させ平和へと主導する決断となってほしいと願う。(攻略)
(米国の歴史と民主主義の基本文書大統領演説、https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2375/)
PDFデータ:https://americancenterjapan.com/wp/wp-content/uploads/2015/10/wwwf-majordocs-peace.pdf
アイゼンハワーは、各国における原子力の平和利用を促進しつつ、軍事利用を監視・防止しようとの主張から、1957年に国際原子力機関(IAEA)が設置された(本部はウィーン)。
■反核運動
サブ・クエスチョン
反核運動は、東西両陣営の核軍拡にどのような影響を与えたのだろうか?
1950年代には核の平和利用が叫ばれ、期待される一方で、核の軍事利用に対しては、市民の間で世界的に反対運動が巻き起こった。
1954年にはアメリカ合衆国による太平洋でのビキニ水爆実験で、日本の漁船・第五福竜丸が被曝し、船員から死者が出た。
資料 水爆禁止署名運動杉並ニュース
杉並区魚商水爆被害対策協議会の訴えと杉並区議会の決議
まず、最初に声をあげたのは魚屋さんたちであった。魚商たちは当時の高木敏雄区長や杉並区議会(議長宇田川鐐太郎)に、魚の売れない窮状や水爆禁止は漁民だけの問題でないことを訴えた。
直ちに4月区議会で水爆実験のことは討議され、1954年4月17日水爆禁止決議を行った。区議会がこの決議を満場一致で行った意義は大きい。
魚屋の菅原トミ子はその前日の4月16日、開館して半年の杉並区立公民館で開かれた婦人週間の講演会で発言した。その内容は「水爆問題を取り上げてください。被害で魚屋を閉めなければなりません。」という激しい訴えであった。
この4月講演会に参加していた多くの主婦たち、公民館長安井郁、杉並区長そして区議会など、みんなの決意により、杉並区における水爆禁止署名運動への取り組みが、一気に沸き起こったといっても過言ではない。
ついに結成された「水爆禁止署名運動杉並協議会」
水爆禁止署名運動に取り組もうという動きの中で、以下の団体から38名の参加を得て、5月9日「水爆禁止署名運動杉並協議会」が結成された。協議会議長には杉並公民館長・安井郁が選ばれた。
(団体名)教員組合、杉並区教職員組合、杉並魚業組合、荻窪土建労組、岩崎通信機労組、杉並婦人団体協議会、杉並婦人文化連盟、杉並文化人懇談会、濁話会、杉並区小学校PTA、気象研究所、杉の子会、上荻窪婦人会、中学高校PTA、都立大学、泉会、阿佐ヶ谷平和懇談会、東京魚商協同組合杉並支部、都職労杉並支部、蚕糸試験場労組、井草原・水爆禁止期成同盟、あざみ会、杉中農業協同組合、西松主婦の会、杉並生協、家庭学校
杉並アピール
この時、後に「杉並アピール」と呼ばれる宣言が出されている。「全日本国民の署名運動で水爆禁止を全世界に訴えましょう」で始まる一文には、この運動の根本方針が簡潔に示されている。「この署名運動は特定の党派の運動ではなく、あらゆる立場の人々をむすぶ全国民の運動であります」と。
署名簿の表紙には「水爆禁止のために全国民が署名しましょう。世界各国の政府と国民に訴えましょう。人類の生命と幸福を守りましょう。」の3つのスローガンが掲げられていた。
瞬く間に集まった署名-その数は
運動の中心であった安井郁館長は、公民館で学びはじめた主婦たちの読書会「杉の子会」や婦人団体協議会(安井館長の呼びかけにより杉並の婦人団体が結集した組織)参加の42団体等をひろく横につなぎながら、この「杉並協議会」を核にして、原水禁署名運動に取り組んでいった。
婦人たちは、お互いに区域の担当を決め、署名簿をかかえて、戸口から戸口へと署名を求めて歩いたと言う。納得して署名してもらうという丁寧さだったが、一人で何千と言う署名を集めた人たちもいた。地域にねざす民衆運動(市民運動)の新しいタイプとして注目されるものであった。
1954年5月13日から始まった署名運動は、6月20日に259,508名に、6月24日には265,124名に達するという数字が記録されている。当時の杉並区人口は約39万、その7割に近い署名は驚くべき数である。二重署名を自戒していたし、他区の数字が若干含まれているとしても、地域からの平和運動に杉並区の住民が一丸となって取り組んできたことを数字は示している。
この時点での杉並協議会の実行委員は167名、参加団体は83団体に達していた。圧倒的な署名数を得て、杉並協議会は6月24日の段階で、杉並区内の活動から、第二段階の全国運動へすすめる方向を決定したのであった。
杉並から全国へ-「原水爆禁止署名運動全国協議会」
協議会は有田八郎(元外相)、植村環(日本YWCA会長)らが発起人になり、1954年8月8日結成された。安井郁館長は初代事務局長となり、杉並区立公民館館長室を事務所にしながら、実質的責任者として全国運動に取り組んだ。
館長室には宇山博明筆による宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」の額が掲げてあった。とくに「…アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ…」の一節を心にきざんで、日々の署名集めや集計作業に献身的に励んだという。
全国協議会趣意書には「…いかなる立場または党派にも偏しないこと」「原水爆の脅威から生命と幸福を守ろうとする全国民運動」「一切の党派的、個人的エゴイズムによって汚されない清らかな組織でなければならない」ことが強調されている。これは杉並アピールの精神と同じである。そして、「各地、各団体の手で行われた署名を集計すること。署名運動の全国センターにすること」となっている。
運動体の名称は「水爆」禁止署名運動から「原水爆」禁止署名運動となっている。当初から「原水爆禁止署名運動」としてはという意見もあったが、ビキニ水爆実験が署名運動の発端であったことから、皆に判りやすい方がいいと「水爆禁止署名運動」とした経緯があった。全国にこの運動を広げようとした人々の間には、全ての原水爆・核兵器から人類の生命と幸福を守ろうという思いが共通し、国内だけでなく世界に拡がる反核・平和運動を呼び起こす署名運動となったのである。
この運動の最中の9月23日、第五福竜丸の無線長・久保山愛吉が急性放射能症で死去した。彼の死は「三たび許すまじ原爆を!」の国民感情の奔流をつくり、全国の原水爆禁止署名運動を前進させる大きな原動力になったとされる。全国協議会の活動が活発に動いて1年後、1955年8月第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催された。この後、全国協議会は「原水爆禁止日本協議会」(原水協)に発展し、毎年8月に世界大会が開かれることとなった。
全国協議会がその役割を日本協議会にバトンタッチしたことによって、杉並での歴史的な原水爆禁止署名運動もようやく一つの段階を終えることとなった。署名運動による最終署名数は 32,590,907名(1955年11月)であった。

1955年に第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催され、同年にはラッセル・アインシュタイン宣言が出され、1957年には科学者により核兵器に反対するパグウォッシュ会議が開かれた。
資料 「ラッセル=アインシュタイン宣言」
「将来の世界戦争においては核兵器の使用は必至であり、しかも核兵器は人類の存続に脅威を与えている。このような事実にかんがみ、ここにわれわれは世界の政府が戦争によってその目的を達成することが不可能であることを公けに確認し、すべての紛争の解決に平和的手段を発見することを切に要請する。」(ゼーリッヒ『アインシュタインの生涯』東京図書)
資料 映画『ゴジラ』(1954年)
核戦争に対する恐怖は、米ソ首脳の間にも共有されるようになり、1953年にスターリンが亡くなると、米ソは「雪どけ」という緊張緩和の動きに向かった。
しかし1957年にソ連が大陸間弾道ミサイル(ICBM)と人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功すると、アメリカ合衆国に危機感が走った。アメリカのケネディ大統領がアポロ計画を発表し、1969年にアポロ11号が月面着陸に成功したのも、ソ連との軍拡競争が背景にあった。
■キューバ危機
サブ・クエスチョン
キューバ危機は、東西冷戦にどのような影響を与えたのだろうか?
1959年、キューバでカストロとゲバラらが親米派の独裁政権を打倒し、政権をとると、1961年に社会主義をかかげてソ連に接近した。
1962年に米軍の偵察機が、ソ連がキューバにミサイル基地を建設し、アメリカ全土を射程範囲におさめていることをつきとめた。このことは極秘にケネディ大統領に伝えられ、政権は、核使用も視野に入れた検討に入った。しかし、ぎりぎりのところで核ミサイルは配備されることなく、ソ連もミサイルの撤去に同意した。このわずか13日間の出来事は、第三次世界大戦の勃発や全面核戦争の一歩手前であったともいえ、米ソ両国の首脳に教訓を与えた。
キューバ危機後の1963年8月、米ソはイギリスとともに部分的核実験禁止条約(PTBT)に署名した。しかし五大陸のうち、1960年に核保有したばかりのフランスが反発し、ソ連と対立していた中華人民共和国も調印しなかった。中華人民共和国は1964年にかくじっけんに成功している。
その後、1953年に、核保有国を、1967年初に保有している国、すなわちアメリカ,ソ連,イギリス,フランス(1992年批准),中華人民共和国(1992年批准)に限るとする核拡散防止条約(NPT、核兵器の不拡散に関する条約)が国際連合で採択され、1968年に米英ソを含む62か国が署名、1970年に発効した(25年の期限付き)。それまで核兵器の弾頭数を競い合っていた米ソ両国は、核兵器を配備している国々を限定し、核軍備を管理していく方向性に転じたわけである(これをNPT体制という)。
しかし、NPTにはフランス(1992年批准)、中華人民共和国(1992年批准)、キューバ(2002年批准)などは署名をすぐにはしなかった。なお、インド、パキスタン、イスラエル、南スーダンは、2021年現在も署名していない。

資料 被爆者のサーロー節子氏によるノーベル平和賞受賞講演(2017年12月10日)
資料 オバマ大統領の「核兵器のない世界」についてのプラハ演説
さて、斯様に広範な課題に我々が対処できるか否かを疑う者も中にはいよう。国家間には避け難い不一致があるため、真の国際協力が可能か否かを訝しがる者もいる。そして、核兵器なき世界の話を聞き、実現不可能に見える目標を設定することに価値があるのか否かを怪しむ者もいる。
だが、誤解しないでもらいたい。そうした疑念の末路は判っている。国家や国民が、不一致によって特徴付けられることを認めてしまえば、互いの隔たりは拡がってしまう。我々が平和を追求しなければ、平和を攫むことなど永久にできない。希望でなく恐怖を選んだときの道は判っている。協力を求める声を批判し、あるいは無視することは容易なことであるが、卑劣なことでもある。戦争というものは、そのようにして始まるのである。人類の進歩は、そこで終わってしまうのである。
世界は暴力や不正立ち向かわねばならない。その際我々は分裂するのではなく、自由な国家として、自由な国民として団結せねばならない。武器を捨てよと言うよりも、武器を取れと言う方が人々の魂を奮起させるものである。だからこそ、我々は共に、平和と進歩を求める声を上げねばならないのである。
それは、今もプラハの街に谺する声である。1968年の亡霊である。ビロード革命時の歓喜の声である。1度も発砲することなく、核武装せる帝国の打倒を支援したチェコ国民の声である。
人類の運命は、自ら切り開くものである。ここプラハで、より良き未来へと手を伸ばすことによって、我々の過去に敬意を払おうではないか。我々の分裂を克服し、希望を基にさらに前進し、世界をより繁栄した、平和なものとする責任を引き受けようではないか。協力すれば、実現できるのである。
ありがとう。ありがとう、プラハよ。
(「プラハの春」を指す太字は引用者)
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