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1-1-3.メソポタミアの統一と周辺地域への動向 世界史の教科書を最初から最後まで

メソポタミア南部のシュメール人の都市を征服したアッカド人は、さらに川をさかのぼり、シリア方面の都市国家も攻撃。

シュメール人の都市国家も含め、このエリアの広い領域を支配することに成功した。

王はこのとき自分のことを、「世界全体の王」(四方領域の王)と呼んでいる

しかし、そんな王様に対し、シュメール人たちが反乱を起こし、アッカド人の帝国は崩壊。

その後シュメール人の都市国家が盛り返したものの、今度は「アムル人」という人たちが、ティグリス川の中流域のバビロンを拠点に王国を建設した。

これをバビロン第一王朝というよ。

アッカド人につづいてメソポタミアを統一することに成功したのは、最盛期のハンムラビ王だ。

広い領土を支配するためにハンムラビ王は、各都市でつくられていた法典を一つにまとめた。

これがハンムラビ法典だ。


史料 ハンムラビ法典

[略]そのとき、アヌム神とエンリル神は、ハンムラビ、敬虔(けいけん)なる君主、神々を畏(おそ)れる私を、国土に正義を顕(あらわ)すために、悪しき者邪(よこしま)なる者を滅ぼすために、強き者が弱き者を虐げることがないために、太陽のごとく人々の上に輝きいで国土を照らすために、人々の肌(の色つや)を良くするために、召し出された。

53. 自己の堤防を強固にすることを怠り,彼の堤防において崩壊が起こり,水が耕地を流し去ったときは,崩壊した箇所の堤防の所有者は,彼が損失させた穀物を償わねばならぬ。
195. 子がその父を打ったときは,その指を切られる。
196. 他人の目をつぶした者はその目をつぶされる。
199. 人の奴隷の目をつぶしたり,骨を折ったりした者は,その奴隷の価の半分を支払えばそれでよい。
205. 奴隷が人の頬をなぐれば耳を切りとられる。
(上:中田一郎訳『ハンムラビ「法典」』リトン、下:原田慶吉『楔形文字法の研究』清水弘文堂書房)


メソポタミアという地域は、「日本がすっぽり入るくらい」の面積をもっている。

地域によってさまざまなルールがあるのも当然だ。

ルールが違えば争いが起きる。

その争いがエスカレートすれば、最終的には当事者同士のデスマッチに発展してしまうおそれもある

そんな状況が起きて治安が乱れるのは王様としても困る。

そんな世の中じゃ、人々にとっても不安で暮しにくい。

だからハンムラビ王は「都市の神から授かった」という設定で、人々に「統一の法典」を定めたんだ。
どっしりとした王様ががっちりと支配してくれれば、人々にとっても安心だ

その内容は一言で言えば「やりすぎちゃダメよ」というもの。
目をやられたら、やり返すのは目だけにしときなさい。歯をやられたら、歯だけにしとくんだぞ―一般にこれを「目には目を歯には歯を」というね。

「やられたらやりかえす」という性質をもつ法のことを「復讐法」というけれど、その目的は「やり返しのエスカレートの防止」だった。
ちなみに、刑罰は被害者の身分によって異なる。被害者が奴隷の場合は厳しく、奴隷じゃない自由身分の人の場合は軽い。

人間は平等じゃない」という考え方は、この時代のメソポタミアに限らず、世界のどの地域においても、ここ数百年前までは当たり前の考え方だったんだ。


さて、ハンムラビ王のときに栄えたバビロン第一王朝の時代、バビロンの富を求め、周辺の民族が侵入するようになっていく。

その代表例が「ヒッタイト人」だ。
彼らのご先祖は、中央アジアのカスピ海という大きな湖周辺で、家畜を飼って移動生活をしていた人たちと見られている。
彼らの話していた言葉は、現在のインドからヨーロッパにかけて話されている言葉(インド=ヨーロッパ語族)に分類される。

古代の言語を聴いてみよう。


気候が寒くなったものだから、次第に南に移住し、そのうち自分たちのことを「ヒッタイト人」と認識するようになる民族が現れた。



彼らは、すでにいくつかの地域で生産がはじまっていた鉄を組織的に生産し、それを武器にしてメソポタミアに侵入。
バビロン第一王朝を亡ぼしてしまう。

さらにそのままシリアにも侵入し、南に移動してエジプトとも戦っている。
どうしてそんなことがわかるかというと、ヒッタイトとエジプトとの間に結ばれた和平条約に関する文書が、エジプトで発掘されているからだ(アマルナ文書)。


さて、そのころメソポタミア南部には、カッシート人という、どういう人たちなのかはっきりしない人たちが北のイラン方面から攻めてきて、バビロン第1王朝の滅んだあとのバビロン周辺を支配している。
また、メソポタミア北部ではフルリ人という民族が「ミタンニ王国」を建国して支配していたけど、やがてヒッタイトに滅ぼされてしまう。


とまあ、こんなふうに紀元前15~前14世紀(現在から3500年前)、ちょっと前の時代には「都市国家」が独立して栄えていたメソポタミアも、あっという間に複雑な情勢になってしまったわけだ。


それでも、はじめにメソポタミアに都市国家が現れた紀元前3500年(現在から5500年前)から、2000年の月日が流れているわけだから、かなりゆっくりとしたペースで物事がうごいていることがわかるね。


この地域ではさまざまな国や民族が生まれていったけれど、ベースとなる文化には共通点がある。

まず、いろんな種類の神様が信仰されているということだ。

こういう宗教を「多神教」という。

都市にはそれぞれ都市の守護神がいて、都市の支配者が変わるたびに、都市の守護神も変化した。
神様といえば、個人個人にも”守護神”がいると考えられていたんだ。
土地や神様に対する思いは、現代のわれわれとは全然違ったものだったに違いない。

どんな思いを持っていたのかということについては、文字のおかげである程度わかっている。

使われた文字は楔形文字(くさびがたもじ)という文字だ。
言語が違っても記録ができたので、さまざまな民族が、法典や税の徴収記録から物語(ギルガメシュ叙事詩)に至るまでいろんな記録を残している。

農業が中心だったこの時代。
生きていくには、まず安定した収穫が大切だ。
そのためには特別な技術のほか、「数」の記録は不可欠だ。
種を数えるのにも日付を数えるのにも、「数字」は必要だからね。

数の数え方は六十進法。現在の時計の数え方と同じだ。
日付は、初めの頃は太陽ではなく月の満ち欠けを基にした太陰暦(たいいんれき)によって数えていたけれど、それだと1年が354日になってしまい、季節がだんだんズレてしまうため、うるう年をもうけてズレを修正したカレンダー(太陰太陽暦)も作られるようになっていった。

記録ができるようになったことで、先祖から伝わった情報を元にして、さらに新しい情報を生み出すことが可能になったため、数学や農学といった実用的な学問も発達していったんだ。

しかし農業というのは、現在とは比べ物にならないくらい辛く厳しい作業だった。

そんな中、メソポタミアの人々はこのように信じていた。

「農民たちは神のために働いている」

シュメールの神話では、神々が、自分たちが農作業しなくて済むように、知恵の神の発案でから「人間をつくった」というようなストーリーが語られている(ギルガメシュ叙事詩。のちのバビロンの神話エヌマ・エリシュにも影響が見られる)。
それによって人間は、神の代わりに働いてくれるようになった、というわけだ。

農民たちは苦しい暮しの中で、そのような世界観を吸収し、自分たちの暮らしを納得させたのだろう。
支配者としても、農民たちを働かせるためには都合の良いイデオロギーだったに違いない。


そういうふうに見てみると、メソポタミアでは「王様」といっても、神によってつくられた存在でしかない。神に仕えるべき存在に過ぎないのだ。王によっては「自分は神だ」と言い出す者も現れるけれど、基本的に神と人の関係はそんな形とされている。
神が地上に住むために神殿(ジッグラト)を作るのも王の大事な役目。


神のために仕えているのだ」という考えを後ろ盾に、壮大な神殿を作り、多数の人々を従えていた王が、実際にはどんな考えを持っていたのか、真相は闇の中だけれど、王の墓の中から見つかる不可思議な像から、彼らの世界観の一部がイメージできるかもしれないね。

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文字を記録するプレート(粘土板)も、家を建てるためのレンガも、すべて泥に頼っていたメソポタミアでは、人間のご先祖までもが泥からつくられたということになっているこのメソポタミアの文明は、まさに「泥から生まれた文明」だったといえるだろう。


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