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新科目「歴史総合」をよむ 1-3-4. 明治維新と国民国家の形成

メイン・クエスチョン
「ウェスタン・インパクト」によって、東アジアは大きな影響を受けた」という説明は、どの程度正しいと言えるだろうか?

よくある説明
「1840年に始まるアヘン戦争を皮切りに、欧米諸国によるアジアに対する進出は激しさを増していった。
 西洋の衝撃(ウェスタン・インパクト)を受ける中、例外的に日本は近代化=西洋化を果たし、近代化=西洋化を果たせなかった中国(清)や朝鮮をしのぐ存在となっていった。」



 この説明(下図のα)は、「西洋の衝撃」(ウェスタン・インパクト)に対して、東アジア諸国が受動的に対応を迫られたという点、それに(2)「西洋」と「東アジア諸国」(日本・中国・朝鮮など)の対立という単純化した構図によって把握するものである。

 
 そうした説明に代わり、(1)「西洋の衝撃」を踏まえた、東アジア諸国による主体的な対応に注目すること、さらに(2)「東アジア諸国」内部の諸国・諸地域
(日本、中国、朝鮮、琉球など)の相互の絡み合いに注目してみると、この時期の東アジアの国際関係の変容を、どのようにとらえることができるだろうか?(下図のβ

 まずは、明治期の日本の近代化について見ていこう。

■明治維新

サブクエスチョン
明治期の日本は、どのようにして、どの程度、国民を統合していったといえるだろうか? 

国民国家の建設

 1867年12月9日(慶応3年12月9日。グレゴリオ暦では1868年1月3日)、薩摩藩を中心とする勢力が徳川慶喜とくがわよしのぶ政権に対して京都でクーデタをおこし、天皇を中心とする新政府が樹立された。このときに発せられたのが、王政復古の大号令である。

資料 王政復古の大号令
「徳川内府従前御委任の大政返上、将軍職辞退の両条、今般断然聞し食され候。そもそも癸丑以来未曽有の国難、先帝頻年宸襟を悩され候次第、衆庶の知る所に候。これによって叡慮を決せられ、王政復古、国威挽回の御基立てさせられ候間、自今摂関幕府等廃絶、即今、先ず仮に、総裁議定参与の三職を置かれ、万機行はせらるべし。諸事神武創業の始めに原に、縉紳武弁堂上地下の別なく、至当の公議を竭し、天下と休戚を同じく遊さる叡慮に付き、各勉励旧来驕惰の汚習を洗ひ、尽報国の誠を以て奉公致すべく候事。
一、内覧、勅問御人数、国事御用掛、議奏、武家伝奏、守護職、所司代、総て 廃せされ候事。
一、三職人体(中略)
一、太政官始、追々興させらるべく候間、其の旨心得居るべく候事。
一、朝廷礼式、追々御改正在らせらるべく候得共、先ず摂□・門流の儀止めら れ候事。
一、旧弊御一洗に付、言語の道洞開せられ候間、見込之れ有る向は貴賎に拘ら ず忌憚無く献言致すべし、且人材登庸第一の御急務に候故、心当の仁之れ有 り候はば、早々言上有るべく候事。
一、近年物価格別騰貴、如何共すべからざる勢、富者は益富を累ね、貧者は益 窘急に至り候趣、畢竟政令不正より致す所、民は王者の大宝、百事御一新の 折柄、旁宸衷を悩ませられ候。智謀遠救弊の策これ有り候はゞ、誰彼無く申 出づべく候事。
(中略)
右の通り御確定、一紙を以て仰出だされ候事。
  慶応三年十二月九日」

Q1. 「大政奉還」で掲げられていた政権構想との違いは何だろうか?
Q2.  「王政復古の大号令」を出した勢力は、当時の日本にはどのような対立があり、「大政奉還」はどのような形で協調をはかろうとしたのだろうか?

 新政府は、旧幕府勢力とのあいだに1年半ものあいだ戦争(戊辰ぼしん戦争)を戦い、全国に支配権を確立した。この政治的変革を|明治維新《めいじいしん》という。

 1868年3月14日には、天皇が神々に誓約する形で新政府の方針が発表された。

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 1869年、木戸孝允と大久保利通らの画策により、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主に朝廷への版籍奉還はんせきほうかんを出願させた。すると、多くの藩はこれにならい、翌年にかけて順次実施されていった。版籍奉還以降、藩主の家禄と藩の財政が分離されたものの、旧大名と徴税や軍権は温存されたままだった。租税負担への人々の抵抗が起こったことから、1871年、新政府は薩摩・長州・土佐の3藩から御親兵をつのり軍事力を固め、同年7月、ついに藩制度を全廃した。これを廃藩置県はいはんちけんという。これにより、新政府に権力を集中させ、旧来の支配階層であった武士身分は消滅し、1873年に徴兵制度が導入されたので、武士は軍事的な特権を失った。とはいえ、政府官員の8割近くは、士族身分で占められていた。
 武士に対する家禄かろくも不要となったため、1876年には一定額の公債証書を交付することで家禄を廃止する秩禄処分ちつろくしょぶんがおこなわれた。
 また、1873年には江戸時代の年貢村請ねんぐむらうけ制も廃止となり、地価にもとづいて徴税するしくみが導入された(地租改正)。

 1870年には、人々を士農工商(四民)に分ける封建的身分制度が廃止されていった。すなわち、1870年には農民・町人が姓(苗字)を名乗ることが許され、1871年には穢多えた・非人などの被差別民の差別的な呼称・身分が廃止された。公卿や諸藩の藩主は華族、武士は士族、そのほかは平民とされ、旧来の身分を超える結婚や居住・職業選択も自由となり、すべての国民が平等に扱われることとなった。


 しかし、日本国内に暮らす人々が、実際どの程度「平等」に扱われたかどうかは、検討の余地がある。

資料 部落民とアイヌ
1871年に、部落民は、アイヌと同じように「平民」の地位に向上された。だが、両者の現実的な不平等は、彼らが登録されていた別の名称において明らかであった。アイヌは「旧土人」となる一方で、部落民は通常は「新平民」と区別をされたのである。部落民の教育政策も、1908年までは分離教育として行うという原則に基づいていた。1922年に、左翼思想とキリスト教思想からの影響を受けた若い部落民の知識人のグループが、差別に対する強固な反対運動を展開するために「水平社」を結成した。組織内の闘争派は急進的な社会主義者とのつながりを築いて、まもなく当局からは反体制とみなされるようになった。この見解はまた、水平社の直接糾弾的な戦略によって強化されていった。これに対応するかたちで、当局は1903年に設立された穏健主義的な「融和運動」を後押ししていった。この運動に参加したすべての団体を内務省組織の一つに結集させて、中央融和事業協会を1925年に発足した。

(出典:リチャード・シドル(マーク・ウィンチェスター訳)『アイヌ通史—「蝦夷」から先住民族へ』岩波書店、2021年、161頁)


資料 北海道旧土人保護法



公教育の導入

 また、1871年には学制が施行され、小学校教育が義務化された。

資料 体操の導入

 文部省は学制発布の翌月、すなわち明治五年九月八日文部省布達番外をもって「小学教則」を公布し、小学校における教科課程および教授方法の基本方針を明らかにした。小学教則は、学制の規定した初等教育の大綱に基づいて上下二等の小学を各八級に分け、下等八級より上等一級に至る毎級の授業期間を六か月とし、毎週日曜日を除いて一日五時、一週三〇時の課程とし、学制に掲げた教科を各級に配当し、各教科で使用する教科書の基準を示してその程度を明らかにし、さらに教授方法の大要を示したのである〔下図〕。

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六年五月改正の下等小学教則を各級別・教科別の表として、そこに掲げられた教科書および教授内容を示した表。師範学校編集の教科書が掲げられていることがわかる(https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317589.htm)。


 (中略)改正教育令に基づいて、明治十四年五月四日小学校教則綱領が定められ、これに準拠して各府県では小学校教則を定めて管内に施行した。これによってそれまでまちまちであった各府県あるいは各地方の小学校の教育課程が十五年頃から全国的に統一化された。その点でわが国の初等教育史上における小学校教則綱領のもつ意義はきわめて大きい。明治十三年の改正教育令には、第三条に小学校の目的および教科を規定して次のように定めている。(中略)

 小学校教則綱領によれば、小学校を初等科(三年)、中等科(三年)、高等科(二年)の三段階編成とし、次のように教科を定めている。

 初等科 修身 読書 習字 算術 (唱歌)体操

 中等科 修身 読書 習字 算術 (唱歌)体操 地理 歴史 図画 博物 物理 裁縫(女子)
 高等科 修身 読書 習字 算術 地理 図画 博物 (唱歌)体操 裁縫(女子)化学 生理 幾何 経済(女子は家事経済)

 (中略)小学校教則綱領に示された教科のうち唱歌および体操は近代学校の教科として実施することは当時の学校では困難であった。そこで唱歌については、教授法等が整備されて後に設けることとした。文部省は学校に西洋音楽を取り入れるために、十二年文部省に音楽取調掛がおかれ、翌十三年に音楽教師メイソン(L.W.Mason)がアメリカから招かれ、わが国の音楽教授が開始された。体操については文部省は十一年に体操伝習所を設け、アメリカからリーランド(G.A.Leland)を招いて洋式体操が学校にとり入れられた。
(出典:文部科学省『学制百年史』、https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317589.htm)

Q. 体操が教育に導入されたのはなぜだろうか?


資料 「生徒勉強東京小学校双六」(安藤徳兵衛筆、1878年)

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1873(明治6)年に西洋体操が教科に設置された。


資料 体操と国民国家
近代以前の個人は無病長寿のため自らの身体を養成した。戦争などの各種負役のため個人は常に国家の動員対象ではあったが,国家が個人の身体や養成法について特別に干渉することはなかった。民衆にとって統制された身体の鍛錬といったものは無縁であり,身体の健康は「養生」として捉えられていた。しかし,近代国民国家の形成,資本主義の成立といった近代化の過程において,様々な観点から個人の身体は作り替えられていった。日本は明治維新以後,富国強兵のもと西洋文明を積極的に取り入れたが,近代国家建設のための第一の課題は,強力な近
代兵を作り上げるための「近代的な身体」を作ることであった。そのために国民の体力を向上させ,国家が求める軍事力のみならず,市場が要求する労働力を担当させる必要もあった。国民の身体は社会の諸力によって作り上げられる社会的・文化的産物において重要な対象となり,国家が必要とする新たな「身体づくり」が始まったのである。
(出典:権学俊「近代日本における身体の国民化と規律化」『立命館産業社会論集』53巻4号、2018年3月、http://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?id=371228)

 明治維新後、欧米思想を身につけた知識人は、雑誌や新聞を発刊し、欧米の思想をさかんに紹介するようになった。洋風の建築や洋服の着用もはじまり、都市部を中心に人々の生活や習俗も変化するようになった。



参考 タイの国民国家形成

資料 タイのピブーン首相の「ラッタニヨム第1号」(1939年6月24日)
「第2号(1939年7月3日):「チャートは最も重要なものである」がゆえに、その利益を損ねる行動を厳に慎まなければならない。」
「第3号(1939年8月2日) …国家が不可分であるにもかかわらず、その住民をエスニシティに分け隔てするのは適切ではなく、皆「タイ人」と呼ぶべきである。」
「第9号(1940年6月24日):タイ語に誇りを持ち、その習得に努めなければならない。」
(参考:玉田芳史「タイのナショナリズムと国民形成」『東南アジア研究』34巻1号,1996年,138頁。〕一部省略,および表現を改めた箇所があるが,( )の年月日は原文のまま。また,下線は引用者が付したもの。引用文内に使用されている「チャート」という言葉は,英語の nation に対応するタイ語で,「民族,国民,国家の3つの意味を渾然一体と備えて」(同130頁)いる。)

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