歴史のことばNo.5 「1760年という年は、中央ユーラシア草原史上にも珍しい平和状態の始まった時であった。」

1966年発行と、ちょっと古い刊行年ではあるが、ロシア方面と中央アジアのつながりを知ろうとするなら、落とせない本だ。
草原地帯は、ようするに「シルクロード」のことであるととらえればよい。
通常、シルクロードは、唐や宋、モンゴル帝国以後、東西交易の比重が海上交易にシフトすることで衰微するものと語られがちだった。それを筆者は、交易の実態をふまえて計量的に批判していく。
上に引用した「1760年」といえば、イギリスで産業革命がはじまったとされる時期である。
そんな年が、「中央ユーラシア草原史上にも珍しい平和状態」であり、ロシアのペテルブルクの商業資本が草原地帯にはいりこみ、タタール人、ブハラやコーカンドの商人の活動が活発化していた時期に当たるというのは、ふつうは思いも寄らないだろう。
しかしこのことは、その後、中央アジアに深く入り込んでいくこととなるロシアという国の成り立ちを考える上でも、見逃してはならぬ点だ。
参考 中央ユーラシアについて
ユーラシア大陸の内陸地帯のことを「中央ユーラシア」という。スキタイ・匈奴研究者の林俊雄氏の説明を引いておこう。
「中央ユーラシアは現在の国名で言うと、東はモンゴルからカザフスタン、南ロシア、黒海北岸地域です。南の方ではウズベキスタン、トルクメニスタン。あと中国の一部になりますが新疆ウイグル自治区。そういった地域です。
この地域はシルクロードが通っている地域でもあり、北寄りと南寄りでは少し環境が異なって、南の方が当然熱く乾燥した砂漠とオアシスの世界が広がっています。そこを通るシルクロードは「オアシスルート」とか「砂漠ルート」という言い方があります。北方は寒いですが、その代わり水の環境も良く緑豊かな草原地帯が形成され、もっと北へ行くと亜寒帯に広がる森林地帯になります。草原地帯を通るシルクロードは「草原ルート」とか「ステップルート」と呼ばれます。
オアシス地帯の方はオアシスで農耕を行う定住民が中心です。オアシスには点々と都市もありました。北方の草原地帯は、農耕民に比べ人口が少ない遊牧民が主に住んでいました。現代では少し話が違ってきましたが、中世以前ですと遊牧民、とりわけ騎馬遊牧民が中心の世界でした。
どちらも東西の文化交流に大きな役割を果たしたわけです。北方の騎馬遊牧民と南方のオアシス定住民とがどういう関係にあったか。軍事的には北の騎馬遊牧民が強いです。南方の人達は襲撃され、やられてばかりいたかというとそうではなくて商人として活躍し、シルクロードを使って交易活動を行うなど日常的に協力し合う関係にあったと思われます。
治安とかは北方の遊牧民が担い、交易活動や定住活動は南方の定住民が担っていた。ですから中央ユーラシアは、北方の騎馬遊牧民と南方の定住民とが共存共栄のような、時には定住民は都市を破壊され支配されたりすることはありましたが、総じて“持ちつ持たれつの関係”にあったと言ってよいでしょう。こうした関係は匈奴の頃やスキタイの頃からあったと思います。」
要するに、「中央ユーラシア」イコール、遊牧民のうごきまわる乾燥地帯ではないということだ。
森林もあれば、オアシスもある。
多様なエリアなのである。
その指し示す範囲には、論者によって幅がある。

(出典:杉山清彦「中央ユーラシア世界―方法から地域へ」、羽田正『地域の世界史』ミネルヴァ書房、2016年、97-125頁、113頁)
杉山清彦氏は、中央ユーラシアの範囲をつぎのように簡略化する。見事な概念図である。

(出典:杉山清彦「中央ユーラシア世界―方法から地域へ」、羽田正『地域の世界史』ミネルヴァ書房、2016年、97-125頁、100頁)
また、その構造をさらに模式化するとこうなる。

(出典:杉山清彦「中央ユーラシア世界―方法から地域へ」、羽田正『地域の世界史』ミネルヴァ書房、2016年、97-125頁、117頁)
南方のオアシスの農民は農産品、商工民は手工業品・交易品を、そして北方の遊牧民は畜産品・移動手段・安全保障を提供する。
さらに、この模式図には表現されていないが、中央ユーラシアの北方には、畜産品(毛皮など)を提供する北方の狩猟採集民がいるツンドラ、森林地帯も帯状になっている。
中央ユーラシアには、異なる生態系が、水平方向に、縞模様のように並んでいる。
草原地帯
↓
砂漠・オアシス地帯
↓
半草原・半砂漠地域が三重になっているわけである。
さらに、この模式図で、中央ユーラシア世界が、東ヨーロッパ、イラン、西北インド、華北と重なっている部分に注目したい。
中央ユーラシアの周縁部にある半草原・半砂漠地域が、定住農耕地帯に隣接するエリアでは、農耕も遊牧も可能だ。
遊牧民と農耕民は、バランスが成立していれば、争うことなく、たがいの生産物を交易しあう。
だがひとたび均衡が崩れると、土地をめぐり争うこととなる。
以前ふれたように、国家とは、農耕を基盤にすることによってのみ成立するわけではない。生活基盤が不安定である遊牧民は、オアシス民の都市国家と共生関係に入ることによって、遊牧国家が成立することになる。
前3世紀頃、中国で秦が統一するのに合わせ、モンゴル高原の匈奴(きょうど)が冒頓単于(ぼくとつぜんう、?〜前174)をもとに、遊牧民の諸集団をまとめたのも、そのような事情によるものである。
匈奴の建設した遊牧国家の内部には、遊牧民からオアシス民にいたるまでさまざまな民族が包み込まれ、まさに「遊牧帝国」と呼ぶにふさわしいものであった。
なお、半草原・半砂漠地帯と定住農耕地帯の交わる帯状のエリアは、「農業=遊牧境界地帯」と呼ばれる(妹尾達彦2001など)。今後の見通しを示しておけば、この地域に立脚し、遊牧エリアと定住農耕エリアの両者を安定的に支配する国家が現れるのは、10世紀以降のことだ。
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