【ニッポンの世界史】#38 比較文明の誘惑
比較文明学会と伊東俊太郎
前回取り上げた湯浅は、1983年10月に結成された「比較文明学会」とも接点があった。「比較文明」と聞いてピンと来ない人もいるだろうから、この学会を創設した伊東俊太郎(1930〜2023)にふれておこう。
伊東は日本を代表する科学史家。
ウィスコンシン大学でPh.D.を取得後、東京大学教養学部教授を務め、その後麗澤大学では教授および比較文明文化研究センター初代所長として活躍した。国内外の著名な研究機関で客員教授を歴任し、比較文明学や科学史の分野を国際的に牽引した。2009年に瑞宝中綬章を受章し、2020年には文化功労者としてその業績が広く顕彰されたが、2023年に逝去されている。
科学史の問い直しに端を発するその構想は、「伊東世界史」と呼んでも差し支えのないスケールを持つものだった。
伊東は1983年に比較文明学会が設立。その設立趣意には次のようにある。
二十世記最後のと言ってもよい、もっとも<総合的な>学問をめぐって、いまやその学会を設立する時機が熟してきた。その学問は、言うまでもなく比較文明学にほかならない。
周知のように、近代の学問は<分析>を基本原理として押し進められてきた。現代においてもその基本が変わったわけではない。
だが、科学の危機が時とともに深く意識されるにつれて、<分析>の問題性もまた自覚され、総合への学問的努力がつみ重ねられてきた。
そのような営みのなかで、今世紀もっとも総合的ないし包括的な性格を有すると考えられるのが、比較文明学なのである。
山口昌男、網野善彦など、ときあたかも異分野の混淆、領域を横断する研究が脚光を浴びていた時期にあたる。
〈総合〉〈包括〉という語が踊るのも時流をよくあらわしているともいえようが、同時に設立の趣旨が近代(学問)批判であることもうかがえる。
趣旨はさらに次のようにつづく。
少し長いが重要なので引用する。
「開国以来の日本の学問は、その文明的な時空の位置からして、ヨーロッパの近代的な学問を移植することからはじまった。その移植が日本文明のあらたな形成にとって、きわめて重要な意義をもつことは多言を要しない。
だがそれ故にわれわれは、学問的営為の評価の基準も、いわば既成のものの移植にあるかのごとく思いなしてきた。ここに、日本の学問の問題状況があるといわなければならない。本来、学問的営為の評価の基準は、どこまでも創造にあり、したがって学会は学問的創造を推進させることに貢献するのが、その存在根拠でなければならない。この意味において、比較文明学会の設立は、このあたらしい学問そのものの創造に貢献することがもとめられ、また今日こそその好機ではないかと思われる。
比較文明学は、19世紀後半から、言うならばヨーロッパの近代的学問の正系としてでなく、むしろ傍系として、歴史哲学、歴史社会学、文化人類学、比較歴史学などの境界領域として耕されてきた。今日、われわれは、一つの宇宙船<地球号>の遊曳のなかで生きつづけ、世界文明の形成というあらたな段階へ前進しようとしている。それだけに国際関係論および平和研究はいうにおよばず、科学、思想、芸術、宗教などすべての比較学の営為を集結して、過去・現在・未来へとわたる諸文明の構造や接触・変動を比較研究し、世界文明形成の一翼をになう運動に主体的にかかわっていくことがもとめられる。その意味において、学際的(interdiscip1inary)であるどころか、徹底的に超領域的(transdiscip1inary)に、しかも現代文明のなかで苦闘するすべての人々と連帯するために、開かれた学会として運営されることが目ざされなければならない。」
比較文明学は、世界をぶつ切りにする近代=西洋文明的な学問の乗り越えであり、その先に「世界文明」の形成が展望される。
これを実現するには、近代=西洋文明を摂取した日本文明が、かえって近代=西洋文明の課題に気づき、世界文明形成の一翼を担う必要がある。
おおむねそのような内容だった。
伊東の世界史構成
気宇壮大な設立趣旨は無根拠なものではない。
これを裏支えしていたのは、伊東が従来の科学史の西洋偏重をただす学究をもとにして描いた「世界史」構成だ。
伊東はそのキャリアのなかで幾たびにわたり世界史構成を披瀝している。
このうち下に掲げたのは1988年に刊行された伊東俊太郎『文明の誕生』(講談社、1988年)に掲載されている図をもとにした世界史構成だ。

伊東の世界史構成の特長は3つ。
①諸文明をフラットに並べる。
②「文明移転」により文明が相互に連関する。
③ ①・②の文明史を、自然史に拡張する。
①については見ての通り。いわゆる「四大文明」に狭窄せず、アメリカの文明も並べている。これは前に紹介したトインビーやバグビーの世界史構成を下敷きにしたものだという。
②の「文明移転」は伊東の用語で、文明が相互にその要素を交換し、影響し合う点に注目するものである(これを冠する江上波夫(1906〜2002)との対談本(全集にも所収。NDLデジタルコレクションでも閲覧可)が、文明史学会の翌年に刊行されている)。
さらに伊東の世界史構成は①・②の文明史のみならず、自然史をも接続させる。これが特長③だ。
自然史の系列がヒトという終局にいたり、これを新たな始点として文明史にいたる。その見取り図は以下のようなものである。

ただし一応断っておけば自然史を文明史の「前史」とする世界史構成(現代風にいえば「ビッグ・ヒストリー」)は、伊東が初めてというわけではない。
たとえばW.G.ウェルズ(1866〜1946)の『世界史概観』の例が有名だ。
@CodeKaitaroh「ビッグヒストリー」について(続き)… pic.twitter.com/yKPqYHEp6n
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世界文明への収斂と環境革命
このように見てみると、伊東の世界史構成はいかにも独創的にみえる。
だが、伊東の描く「今後の世界史」(世界史は過去に関するものなのに、「見通し」というのは奇妙であるのだが、"未来の" 世界史をいかに構想するか、そこに世界史構成の動機が反映されていると見たい)から、2点モチーフを抽出してみると、どうだろうか。
(a) 世界史は今後、多元性をのこしつつも「世界文明」に収斂する。
(b) エコロジーが今後の世界史の次の段階における焦点となる(環境革命)。
この連載をこれまで読まれてきた方ならピンと来るかもしれない。
そう。
実は伊東の持ち出す世界史構成の基本モチーフは、すでに謝世輝が提出していたものではなかったか(謝は1988年に『比較文明』にも寄稿している)!
無論、伊東が謝を変奏したということを言いたいわけではない。比較文明学会の参加者も「総合」を謳うからこそまさに多士済々かつ多様であり、学会は学会、代表の伊東は伊東である。
ここでは1970〜80年代日本において、あたかも誘われるかのようにしてかたどられる一種の「ニッポンの世界史」の定型があるのではないか。例によってそのように考えてみたい。
文明を比較する「主体」の奪還
むしろここで伊東の世界史構成を考える際に外せないポイントは、学会の設立趣旨にもあったように、構成する主体として明確に「日本」が据えられている点にある。
トインビーやバグビーが世界史を構成したとき、もちろんこれまでの西洋的世界史のとりこぼしてきた「周辺」「衛星」の文明への眼差しがあった。とはいっても眼差しているのは西洋であり、日本が眼差されている点は変わらない(トインビーの世界史において日本の扱いについて論争があるのは周知の通り)。
だが伊東が「比較文明」というとき、そこには明確に、日本が「比較」の主体となるべき自負がある。
日本だからこそ、世界の文明をフラットに「比較」しうるのだという積極的な意志がある。
そして、それだからこそ「世界文明」形成のイニシアティブすら発揮できるのだ、と。
たとえば前出の江上波夫との対談『文明移転』の「"地球人アピール"は日本人が」という小見出しの箇所を見てみよう。
江上 だから、「人類はできるだけ早く地球人になれ」という運動を起こすのは、どうしても日本人が最初であるべきだし、切実にそれを感じている人は、差し当たって日本人以外にはいないのではないか。
伊東 全くそれは賛成です。日本人以外にないと思いますね。先ほど言ったように、中華主義がなく、いろいろな文化があってもいいじゃないかというのはまさに地球主義なんです。地球がこれだけ狭くなると、「おれだけがえらい」という、肩ひじ張った姿勢ではダメです。生きていけません。
日本人というのは、昔から狭いところに人口がたくさんいて押し合いへし合いで、譲り合って生きてきたわけでしょう。だから自分の能力の発揮ということも考えるけれども、他人のことも十分考えるのですよ。この姿勢をやはり全地球的に拡大しなければならないと思うんです。こういう原理というものを日本は持っていますからね。
そういういくつかの日本的な行き方、日本的な発想をもっと見直して、その文化のあり方を地球主義の方向へもっていくことについて、日本人はもっとイニシァティブをとるべきだと思います。
江上 そうですね。いま、人類全体からみての問題というのがいくつかありますが、これは個々に解決はつかないと思います。たとえば人口問題。それから、食糧問題でも、環境問題でも、どれ一つとってみても、すでに一国の単位では解決しない。全地球的規模において、はじめて問題が解決されるべきものです。それを最もよく考えるノウハウを持っているのは日本なんですよ。
どうだろうか。
世界史について対談していたと思ったら、こうやって終わりに近づくにつれ、現在の日本人からすれば度肝を抜くほどのビジョンを持つ「日本人論」に逢着し、しかも二人のなかでは矛盾なく「地球社会化」とも融けあわされている。
世界の諸文明を比較し、フラットに世界史を描く「主体」としての日本人。
「中華主義」という語にみえる、中国との差異化(これもまたニッポンの世界史の基本問題のひとつ)。
このあたりの世界史構成の行き方が、日本文明の本質に「エコロジー」を置く見方とも合流し、1990年代以降のニッポンの世界史に発展・継承されていくのか。引き続き注目していくことしたい。
学校世界史にも影響を与えた「比較文明」
なお最後に、あまり指摘されていないことではあるが、伊東の世界史観は1990年代以降の学校世界史にも少なからぬ影響を与えたと思われる点について触れておこう。
たとえば、学習指導要領「世界史A」(1989年告示)の内容の取扱いとして「文明の意義、文化の比較、国際関係の展開などを取り扱う際、比較文化的視点も考慮する…」という文言が加えられ、同時代の文明をまたぐ「交流圏」という概念が取り入れられた。
1998年告示の「世界史A」ではさらに一歩すすんで、「諸地域世界,交流圏,国際関係の展開などを取り扱う際,比較文明的視点も考慮するとともに,各時代における世界の中に日本を位置付けて考察させること」と、「比較文明」という語が直接使用されている。
この点については資料をもとに論証を踏んだわけではないので、現時点では「思われる」としておくが、ここにも「非公式」世界史と「公式」世界史の往還の一端がうかがえよう。

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