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『アルカディア航路』試し読み⑥|四月十七日(金)20:52 小雨

 四月十七日(金)20:52 小雨
 雨に打たれながら靖国通り沿いの歩道を行く。ドン・キホーテ前の横断歩道を渡ってから十分以上直進しているのに、一向に目的の店が見つからない。駅周辺には密集していた飲食店も、ここではほとんど見当たらない。街灯の灯りだけを頼りにiPodから流れる音楽を聴きながら歩いていると、すでに通り過ぎたのかもしれないという不安に駆られ、剛也はときどき後ろを振り返った。しかしそれらしい店などない。もしかしたら地図が古かったのかもしれない、ホームページを更新し忘れていたのかも、そう思い始めた頃、チェーンのバーガーショップ、その緑の壁面看板が目に入った。見るとビルの一階部分がお店になっている。お店の隣に目を向けるとビルの出入り口があり、その右横にローリング・ストーンズの赤いベロのマークと店名が描かれた電飾看板、その看板の奥にもう一つ出入り口があった。ああ、あそこだ。剛也はにんまりして早足になった。
 二段ある玄関ポーチの階段を駆け上がって看板の近くまで来ると、出入り口の一メートルほど先から地下へと伸びる階段が見えた。そそくさと前進し、階段の前で立ち止まるとiPodを停止した。下に目を向ける。階段の下は角になっており、通路が左に続いていた。iPod本体にイヤフォンのコードをぐるぐる巻きにし、ポケットにしまってから剛也は階段を降り始めた。
 半分ほど降りたところでくぐもった音が聞こえてきた。これは何の音だろう? 不思議に思いながら降りていくと段々音は大きくなっていく。ロックはロックだけど、何の曲かな? 耳を澄まして下まで降り左に進むと、通路は右に曲がっていた。道なりに進む。角まで来て右に顔を向けると、廊下が真っ直ぐに延びていた。十五メートルほど先までが天井からの照明に照らされていたが、そこから先は真っ暗でどこまで続いているのかわからない。五メートルほど先の右側の壁に黒いドアがある。音はそこから漏れているようだ。耳に届く音は相変わらずくぐもっていたが、メロディーは聴き取れた。『Sympathy For The Devil』。ストーンズか。こんな昔の音楽を流すんだな。ここでこんな音だったら中じゃどんだけデカいんだろ?
 剛也は期待に胸を膨らませながら早足で進み、ドアまで来るとドキドキしながら取っ手を掴んだ。と、冬樹教授の顔が頭に浮かんだ。頬にえくぼを浮かべた笑顔。これでいいのか? 証明が終わってないのに。剛也は動きを止めた。しかしそれは一瞬で、迷いを振り切るように力を込めて取っ手を引いた。ドアは思いのほか重く、四十センチほどしか開かなかったが、体を滑り込ませるようにして中に入ると、店内は暗くタバコ臭かった。右からバカでかい音がする。そちらを向くと、左前方が出入り口になっているのだろう、そこから通路に光が差し込んでいた。三メートルほど先が突き当たりになっていて、そこに机があり化粧が濃い大柄な女が座っている。黒地にローリング・ストーンズの赤いベロのロゴがプリントされたTシャツを着、眉毛を細くし、アイラインやアイシャドウ、マスカラで目の周りを黒くした茶色い長髪の女。アヴリル・ラヴィーンみたいだなと剛也は思い、すぐにハッとした。ホームページに載っていた人だ。唯一の女DJで店長って書いてあった。名前は何だったかな?
 頭を絞りながら近づいていくと、女の足元には黒い大きなビニール袋がいくつもあった。あれは何だ? 疑問に思ってビニール袋を見ながら進む剛也だったが、机の前まで来て左からの音に驚きそちらに顔を向けた。すぐそこがダンスフロアだった。ドアなど遮るものは何もなく、大きな音が耳をつんざき、ベース音が胸を振動させる。タバコの強烈な臭いも相まって小さなライブハウスにいるよう。目の前ではミラーボールからの光と、壁の上部数カ所に設置されたオレンジ色の照明のみに照らされた薄暗い空間で、ミドルテンポの曲に合わせて、あばた面の男がゆったりと体を動かしていた。すぐ横には女もいる。男はTシャツにジーンズという格好で、目がくりくりと大きく、ムースか何かで髪をつんつん立てていた。女の方は黒い長髪をポニーテールにまとめて化粧は薄く、紺のワンピースを着ていた。この寒いのに上着はどうしたんだろう? どっかに置く場所があるのかな?
「すいません、チャージ二千円です」
 声がして前を向いた。女がにっこりと笑っている。剛也も微笑み返し、二千円を払ってドリンクチケットを二枚受け取ると、そそくさとダンスフロアに踏み出した。
 中に入って左を向くと、向こうの壁一面がDJブースになっていた。早い時間だからかダンスフロアはガラガラで、前方から中ごろにかけて踊っているのは七、八人だった。DJブースの左右にはデカいウーハー、その上にこれまたデカいスピーカーが備え付けてある。DJブースの真上に設置されたスポットライトがDJを照らしている。三十くらいだろうか、クエのようなたらこ唇をして目もクエのように離れた男だ。ガッシリした体格で黒い無地のTシャツの胸元がピンと張っていた。あの人が今日のDJか、厳つそうだな。お、いた! 剛也はDJの真ん前、DJブースとダンスフロアを仕切る木の衝立の前で、ぴょんぴょんと飛び跳ねるように踊る長身の男——タイキに目を向けた。にんまりする。ドリンクチケットをジーンズのポケットに突っ込み、前に歩き出した。
 剛也は右スピーカーの隣まで移動し、左を見上げた。しかしタイキは前を向いて黙々と踊る。話しかけようかと考えたが、踊りの邪魔をするのは悪いと思い、タイキが気づくのを待つことにした。と、右から甘い香りがする。そちらを見ると、肩が露わになった黒いドレスをまとったスレンダーな女が踊っていた。背中にかかるほど長い黒髪で、顔を見ると受付の女のように目の周りが黒かった。綺麗な人だと思って見とれていると、女がこちらに顔を向けた。ドキッとし、剛也は左を向いた。タイキは相変わらず楽しそうに踊っている。改めて間近で動きを見ると、タイキの踊りは驚くほど独特だった。他の客がミック・ジャガーのゆったりとしたボーカルに合わせて左、右と緩やかに体を揺らすのに対して、タイキはマラカスとコンガが刻むサンバのリズムに合わせて素早く体を上下させ、ステップを踏む。目で追うのが困難なほど足が素早く前後に動く。こんなに速くステップが踏めるものなのか。タイキに感嘆の眼差しを向け、同じように踊ろうとした剛也だったが、足元のタイルが一部欠けていてコケそうになってしまった。体勢を持ち直して左下を見ると、タイキの足元のタイルも欠けている。しかしタイキは全く気にしていないようだ。すごいなあ、酒飲んでるだろうに。体幹がしっかりしてるのか。剛也はうっとりとタイキの動きを眺めた。やっぱりあんな風に踊りたいと思ったが、いっぺんに全部の動きを真似るのは明らかに無理があった。それでまずは体を上下するタイミングを合わせることにした。軽く屈伸するようにタイキと同じタイミングで上体を上下させる。下がったときに表拍、上がったときに裏拍となるタイミング。頭を上げたとき胸を叩くベース音が心地いい。汗が出てきた。よしよし、次はステップだ。タイキの足元に目を向けると走っているように左右の足が高速で前後に動いていた。剛也も同じようにステップを踏もうとしたが、あまりの速さに足がもつれてしまう。二度三度と試みたが、とてもついていけない。
 剛也は悔しそうに顔をしかめ、それから大きく息を吐き出すと前を向き、ゆったり左右に揺れるように踊り始めた。そのとき右肩に何か触れ、そちらに顔を向けた。スピーカーの前に女がいない。踊りながら左後ろに頭を回すと三メートルほど後方、ダンスフロア中ごろに初老と思われる巨体の男がいた。黒いドレスの女は男に近寄っていく。男はタイキほどではないが背が高かった。白髪が交じった金髪の長髪、上は白の地にローリング・ストーンズのトレードマークである赤いベロがプリントされたTシャツ、その上からブルーのジージャンを着て、下はジーンズという、いかにもロック好きの若者がそのまま大人になったという格好だった。腹がぽっこりと出ていて、顔には深い皺がいくつも刻まれている。両足を肩幅ほどに開き、ファイティングポーズをとるように両腕を胸の前に突き出して上体を左右に揺らしていた。黒いドレスの女は男のそばまで行くと耳打ちし、間もなく男の体にまとわりつくようにして踊り始めた。剛也は首を傾げた。二人はどんな関係なんだろう? 恋人? でも女の方はどう見ても二十代から三十代だし、男の方は六十代か、下手したら七十代かもしれない。じゃあ親子かな? でも親子でこんなとこ来るもん?
 剛也が頭を悩ませていると肩に手を回され、次いでぐいっと引っ張られた。剛也は足を止め、左に顔を向けた。目の前に太い二の腕がある。小ぶりな木の幹のよう。胸の筋肉も隆起していてTシャツが窮屈そうだ。Tシャツには白の地にクラッシュのサードアルバムのジャケット(男がベースをステージに叩きつけようとしている瞬間をとらえたモノクロ写真をベースとして、左側にピンクのポップなフォントで縦に『LONDON』、下側にグリーンの同じフォントで横に『CALLING』という文字がある)がプリントされていた。肩までのソバージュにした髪が頬に当たってチクチクする。顔を見ると五十くらいだろうか、額や頬に皺が刻まれた男だった。男が間に割って入ったのでタイキは少し左にずれたが、相変わらず前を向き跳ねるように踊っていた。
 剛也はソバージュの男の腕を振り解こうとした。が、びくともしない。男はまた自分の方に剛也を引き寄せ、耳元で大声を発した。
「この曲おもしれぇーよな。やべーだろこの曲」剛也は前を向いたまま微妙な笑みを浮かべ首を傾げたが、男は構わず続ける。「キリストのそばに居たとか、サンクトペテルブルクにいたとかさ、六十年代後半の混乱を悪魔目線で描くってやべーと思わん?」
「そうですね」とだけ返し、またもや曖昧に微笑んだ剛也だったが、男は気にした様子もなく言葉を継いだ。
「俺これ聴いて初めて『巨匠とマルガリータ』って読んだんだけど、おもしれーのな。あれが発禁とかソビエトってとんでもねーよな」
 剛也は小さく頷き、男から視線をそらした。なんなんだこの人は。ただのうんちく好き? 俺を試してる? 質問されたらどうしよう? そんなことを考えているうちに手が外れたので左に顔を向けると、ソバージュの男は左後ろに体を向けていた。何事だろう? 剛也も立ち止まってそちらに顔を向ける。タイキのすぐ後ろでおかっぱ頭の女がはしゃいでいた。上は白い地で真ん中にレモンの断面、その上に黒字で『The Stone Roses』とプリントされたTシャツ、下は黒いロングスカートという格好の女だった。タイキに目を向けると、足を止めて腰を屈めていた。後ろを向いて何か言おうとするタイキだったが、女はその隙を与えず、タイキの背中に両手をついた。ぴょんと飛び上がって背中に乗っかろうとする。が、高さが足りずずり落ちた。すると今度は近くにいた上半身裸の男、肩までの長髪で濃い顔の男がタイキの背中に両手をついて飛び上がった。が、やっぱりずり落ちる。何がしたいんだ? 跳び箱? おんぶ? 剛也には謎だったがタイキは慣れているらしく、嫌がるように首を左右に振るものの、笑みを浮かべ相変わらず腰は屈めたままだった。
 何度か繰り返すとさすがに飽きたのだろう、二人は踊り始め、タイキも正面を向いてステップを踏み始めた。剛也も前を向いて踊り出したが、ときおり気になって後ろに顔を向けた。タイキの後ろではおかっぱの女がゆったりと前後に移動し、同時に上体を上下させるように踊っている。体の動きに合わせて両腕を横に広げ、鳥が羽ばたくように手を振ってスカートの裾をふわりふわりと揺らす姿は、まるでくらげが海中で漂っているみたいだ。前後に大きく移動するのでタイキには軽くぶつかっていたし、後ろで踊る金髪の男にももう少しで触れそうだったが、女はもちろん、タイキも金髪の男も気にしていない様子だった。おかっぱの女の横——剛也の後ろではソバージュの男が両腕を開いてこぶしを作り、髪を振り乱しながらリズムに乗っていた。あまり足を動かさず、その場で左右に体重を移動し足先を捻る独特のダンス。ステップを確認するように顔を下に向けていたが、剛也が視線を向けるとすぐに前を向いた。笑顔をDJブースに向ける。両手を頭上にかかげて手拍子し始めた。あんな足首を曲げて捻挫しないのか? と疑問に思い、顔をしかめた剛也だったが、すぐに気を取り直してぐるりと頭を回転させ、右後ろに顔を向けた。壁の近くで先ほどの上半身裸の男が踊っていた。後ろを向き、タイキのように高速でステップを踏んでいる。何を見てるんだろう? 気になった剛也が足を止めて後ろを向くと、上半身裸の男の後ろにタイキくらい背が高い白人の男がいた。上半身裸の男はダンスバトルをしかけるみたいに、大げさなほど全身を上下させてステップを踏んでいる。こんな挑発して大丈夫なのか、喧嘩にならないか。ハラハラしながら見守ったが、見上げると白人は笑顔だった。剛也はホッと胸をなで下ろし、前を向いた。そのとき曲がフェードアウトしていき、ギターリフが鳴り始めた。シンプルだが印象的なギターリフ。この曲なんだっけ? 頭を捻っていると歌が始まり、その歌い出しの歌詞から、ああ『You Really Got Me』か、ちょっと乱暴な選曲だなと思った剛也だったが、右後ろから声がしたのでそちらに顔を向けた。上半身裸の男と白人が肩を組んで歌詞を叫んでいる。二人とも楽しそうだ。こんくらい雑な方がいいんだなと思い直し、前方に顔を戻そうとしたとき左肩を叩かれ、剛也はそちらを見た。タイキが笑顔をこちらに向けている。タイキは親指と人差し指と中指で何かを持つ形にした右手を口に運んだ。ワインボトルを勧められた場面を思い出して剛也は苦笑いし、次いでこっくり頷くと、タイキに向かって背伸びして声を張った。
「この間はどうも、遊びに来たよ」
 タイキは首を傾げ、不思議そうな表情をこちらに向けた。少しして口を開く。「どちら様ですか?」
 どういうこと? ああお芝居か。剛也はタイキの二の腕を叩き、冗談は止めろや、と言ったがタイキは相変わらず首を傾げている。え、本当にわからない? それともこれも芝居? 剛也が困惑していると、タイキは剛也の方に上体を傾け大声で言った。
「すいません、忘れてたお詫びにおごります」
 軽くショックを受けながらも剛也が微笑んで頷くと、タイキは周囲の人に声をかけ始めた。おかっぱの女、ソバージュの男、上半身裸の男、黒ドレスの女と次々に誘っていき、あっという間に十人ていどの集団になったところでバーカウンターへ移動し始めた。
 タイキの後に続いて歩きながら、剛也が左右に目を向けると、ダンスフロアの後方からバーカウンターまでの左右の壁際には小型のテーブルと椅子が設置されていた。ほぼすべての椅子が埋まっている。デートだろうか二十代と思われる男女のペア、仕事帰りなのかスーツを着た四人組、三十代と思われる男ばかりの三人組など、大きな音で音楽が鳴る中、顔を寄せ合って会話を楽しんでいる人がほとんどだったが、ダンスフロアの近く、左の壁際の椅子には一人だけで男が腰掛けていた。その男は黒いキャスケット帽を目深に被り、背中が壁に着くように横向きに腰掛けて、両足を椅子の座面に乗せていた。眠ってる? ああやって音楽を聴いてる? 剛也は訝しがったが、すぐに頭を切り替え、壁に目を向けた。ロックバンドのポスターが三十センチ間隔くらいで貼られている。ローリング・ストーンズのものが多く、すべてどこかしら破れていた。それから前方に目を向けると、すでにバーカウンター前には人が集まっていた。だがバーカウンター左側、その手前にある三人掛けのソファーにはなぜか誰も座っていない。どうしてだろう? 椅子に座るならソファーの方が——
「初めてですか?」
 驚いて左に顔を向けると、DJの男のように厚ぼったい唇をし、細目で天然パーマの男がいた。カーキ色の地のTシャツにジーンズという格好。Tシャツには人の顔が茶色い線でプリントされている。額が広くて髭をたくわえた白人の男。リンカーンみたいだなと剛也は思い、次いで顔を上げて返事をした。
「あ、はい。初めて来ました」
「自分は亮五っていいます。DJです、よろしくどうぞ」
 そう言うとリョウゴという男は手を差し出してきた。両頬は持ち上がっていたが目は笑っていない。それで一瞬戸惑った剛也だったが、気を取り直して笑顔を作ると男と握手し、口を開いた。
「剛也です。よろしく」
「よろしく」とリョウゴは返し、剛也の背中を軽く叩いた。続いてバーカウンターの方に顔を向け、大声で呼びかけた。「真奈美さん!」
 剛也がそちらに顔を向けると、ドリンク待ちの列の近くに受付にいた大柄な女がいる。こちらに笑顔を向けて近づいてきた。
「こちらゴウヤさんっていって、初めてだって」
「ここで店長やってる真奈美です」女はそう言って剛也に手を差し出し、握手をすると付け加えた。「よろしく。暑いでしょ、上着は受付で預かるから脱いじゃって」
 なるほど、あのビニール袋に入れるんだ。せっかち過ぎた。剛也は苦笑いしながらパーカーを脱ぎマナミに渡したが、マナミが受付に向かおうとしたとき、リョウゴがまた口を開いた。
「真奈美さんは火曜と木曜にDJやってる。自分は月曜と金曜と土曜」
「そうなんですね」
 微妙な笑みを浮かべて剛也が返すと、マナミは不満そうな顔をリョウゴに向けて言った。
「最近週二がキツくってさ。二人でオールって結構体にくるね。やっぱ一晩に三人くらい必要ね」
「そんなん言ったら俺なんか週三ですからね」いかにも辛そうな顔をしてリョウゴは言う。「しかもずっと辰巳さんとタッグで。正直キツいっすよー」
「亮五は大変だよね」と、申し訳なさそうな顔で言い、小さくため息をついて、新人なんとか入れてかないとね、と続けたマナミだったが、急にぱっと明るい表情になると、ぽかんとした顔で二人を見ていた剛也に言った。
「よかったら火曜とか木曜も遊びに来てね。火曜はラウドロックっていうか激しい感じで、木曜は六十年代とか七十年代とか、そういう古い感じ」マナミはそこで言葉を切り、剛也が笑みを浮かべてこっくり頷くと、テキーラはあっち、と言ってバーカウンターの左側を指さした。剛也がそちらに目を向けると人だかりができている。タイキもそこにいた。マナミは続けた。「みんな分かる? 亮五みんなを紹介して」
「あいあいさー」と言って、リョウゴは敬礼し、剛也の背中をまた軽く叩いた。リョウゴと並んで歩き出す。
 バーカウンター付近までやって来ると、剛也はドキッとした。左端にあるスツール、そこに先ほどの初老と思われる男が座っている。男は黙ってダンスフロアの方に目を向けていた。剛也がその横顔をぼんやり眺めているとリョウゴが言った。
「あの人がこの店のオーナー。みんなに社長って呼ばれてる。真奈美さんのお父さん」
 剛也は頷き、するとリョウゴはスツールのそばまで行き、社長というあだ名の男に向かって声を張った。社長はリョウゴに何か言い、立ち上がった。それから剛也の近くまでやって来て手を差し出した。剛也が大声で名乗り握手をすると、社長は「ひとつよろしく!」と怒鳴るように言って、スツールに戻っていった。
 あっけにとられ、社長の姿を目で追う剛也だったが、「みんなを紹介します!」という声がしてビクッとし、横を向くとリョウゴが笑顔だった。
 剛也は次々に常連客を紹介された。筋肉質なソバージュの男はツッチー、社長と踊っていた黒いドレスの女はエリちゃん、長髪で顔が濃い上半身裸の男はユーキ、くらげ踊りをしていたおかっぱの女はマイちゃん、また、いまDJしている、クエのようなたらこ唇の男がタツミというエースDJであることもわかった。
 紹介されているうちに透明な液体が並々と注がれたショットグラスが手渡されていき、みんながグラスを手にしたことを確認するとタイキが声を張った。
「かんぱーい!」
 タイキに続いて全員が声を上げ、一斉にグラスを口に運んだ。だが何人もがすぐにむせた。ソーダも何も入っていない原液のテキーラ。顔を思い切り歪めたり、チェイサー代わりにビールを飲んだり、顔を上げて目を細めたり、それぞれのやり方で刺激が過ぎ去るのを待ったが、大抵の人は一分もしないうちにダンスフロアに戻っていった。しかし剛也は違った。久しぶりに飲むテキーラ、しかも原液のテキーラにやられ、腰を屈め顔を俯けて何とか呼吸しているありさまだった。
 ようやく苦痛が過ぎ去ったとき、ザクザクしたギターリフが流れ始めた。ボーカルが何語かわからない言葉を三つか四つ発し、次いでヘビーなギターリフが鳴り出してすぐ、ダンスフロアで歓声が上がった。ああ『Vertigo』かと剛也は思う。それでストーンズからキンクスにいったのか、これを流すために多少強引なことをしたってわけだと考え、こんな状態でもDJの分析を止めない自分がおかしくて剛也は苦笑いした。それからダンスフロアに向かって歩き出したが、すぐに肩を叩かれそちらに顔を向けた。にっこり笑ったタイキがこちらを見下ろしている。
「もう一発いきましょう」
 そう言うとタイキは剛也の肩を掴み、腕に力を込めた。剛也に抵抗する気力はなく、なされるがままバーカウンターに連れ戻された。
 酒を待つ間、剛也はぼんやりした視線をダンスフロアに向けた。ミラーボールに反射した光が瞬いてる。踊っている人たちのシルエットが膨張したり縮小したり、新種の生物のように見える。耳元で音が反響する。外からの音と自分の内部からの音がぶつかってるみたいだ。耳のそばで音符が押し合いへし合いしてるイメージが頭に浮かんできた。楽器になったみたい。耳や口や鼻、穴が空いた部分から空気の振動を受け取り、体内で共鳴した音を送り返す奇っ怪な楽器。ダンスフロアで踊る人たちもみんな楽器で、DJもこの店自体も楽器。だとしたら、同じ音は二度と——
 肩を強く叩かれ、剛也はハッとした。右を向くとニヤニヤしたタイキが両手にショットグラスを持っている。剛也は微笑み、グラスを受け取った。と、エモーショナルな歌声が鳴り響き、それと同時にタイキがウッヒョーと叫んだ。タイキはバーカウンターにグラスを置いた。と思ったら、ダンスフロアに早足で向かい出した。
 その後ろ姿を呆然と見送り、剛也はショットグラスに視線を落とした。この曲なんだっけ? 首を傾げて頭を巡らせ、それからグラスをバーカウンターに置こうとした剛也だったが、前方からの視線を感じ身を固くした。顔を上げると、シェイカーを振っているバーテンダーの男と目が合った。丸々と太った、髪も髭もぼうぼうの男で、リバティーンズのTシャツ(カーキ色の地で胸の辺りに黒で描かれたユニオンジャックを背景として短い塊と長い塊、二つの白いプリントがあり、短い方が『THE』、長い方が『LIBERTINES』とくり抜かれている)を着ている。この人もリバティーンズが好きなのかと思い、話せばわかるかもと考えた剛也だったが、睨むようにじっとこちらを見てくるので諦めた。苦しそうな表情でグラスを見つめ、次いで一気に飲み干した。火に油が注がれる。喉も胸も腹もカッカと熱く、息ができない。剛也は両手をバーカウンターについた。顔を下に向ける。呼吸を整えながら『Sweetness』だと思った。この曲『Sweetness』だった。全然スウィートじゃねえ。地獄だ地獄。胸のうちで悪態をつきながら、苦悶の表情を浮かべて下を向く剛也だったが、曲が終わる頃になってようやく顔を上げた。と、目の前にはバーテンダーの笑顔があった。ギョッとして緊張する剛也に向かって、男はショットグラスを差し出した。先ほどタイキが置いていったテキーラショット。剛也は男の目を見た。見逃して欲しい、今回だけは勘弁してくれ。そう思ったとき次の曲が流れ出したが、剛也に気にしている余裕はなかった。弱り切って、ただ目で訴えた。見逃してくれ、頼む。だが男はニヤニヤしてこちらを見ている。剛也は諦めた。男からグラスを受け取ると両目を瞑り、それを口に運んだ。顔を上向けて一気に飲み込む。再び内臓が燃え上がる。炎をまとった悪魔が嬉しそうに駆け回るイメージが頭に浮かび、剛也は体を折り曲げた。手を膝に持っていく。顔を床に向け喘ぐように息をする。先ほどの要領で苦痛が過ぎ去るのを待っていたら、吐き気がしてきて上体を起こした。グラスをバーカウンターに置く。壁に寄りかかってお腹の調子が落ち着くのを待ったが、声がして顔を上げた。
「はいこれ、スペシャル」
 バーカウンターに目を向けるとグラスが置かれていた。淡い黄色の液体が入っている。これ俺にってこと? 剛也が自分を指さすと髭面のバーテンダーは頷いたので、ポケットに手を突っ込んでドリンクチケットを取り出し、男に差し出した。だが男は首を左右に振って受け取らず、代わりに剛也に問いかけた。
「お前名前は?」
「ああ剛也っていいます」
「ゴウヤね。俺は風太。よろしく」
 フウタという髭面のバーテンダーはぶっきらぼうにそう言うと、軽く頭を下げた。剛也も頭を下げ、ドリンクチケットをポケットに戻した。次いでグラスを手にし、ダンスフロアに向かって歩き出す。文句を言ってやる、自分から誘っといて一人でダンスフロアに戻るとかありえないだろ。そう心に念じ、剛也はグラスを口に運んだ。グレープフルーツジュースのさっぱりとした甘みが口に広がる。おいしい。剛也は微笑み、今度はぐいっと飲み込んだが、次の瞬間アルコールがガツンと効いてきた。ウォッカなのかラムなのかテキーラなのか、ともかくとんでもなく濃いお酒で、剛也は頭の芯がふやける感覚を覚えた。顔を前に向けたがぼんやりした風景が左に右に揺らめいている。まるで夢の中みたいだという考えが頭に浮かんだ刹那、ふらっとしてグラスを握りしめ、足を踏ん張った。剛也はホッとして表情を緩め、続いて前屈みになりながら一歩一歩ダンスフロアを目指して前進し始めた。

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