夜行バスのザジ
『夜行バスのザジ』
ーー新世紀、か。
散りはじめた新宿御苑の桜をくぐり抜け、俺はアパートのある千駄ヶ谷から繁華街の方へと歩いていた。ノストラダムスが恐怖の大王を連れてくることも、地球全土をLCLの海が覆いつくすこともなく迎えた2001年の春は、どこか弛緩した空気をまとっていた。ーー少なくともその時点では。
そこに小宮が声をかけてきた。俺と同じく三十過ぎで、アルバイトで食いつなぎながら文芸に夢を見る、青春の期限を先延ばしにした同志ともいえる男だ。
「そういえば、新入りの女の子が来るって聞いたか?」
「ああ。何でも奈良から夜行バスで今日、上京してくるらしいな」
「どんなコかな。やっぱり眼鏡をクイッとさせて、清楚な白いブラウス、片手には文庫本、って文学少女タイプ?」小宮はだらしない笑みを浮かべた。
「まったく、いい歳のオッサンが妄想すんなよな。二十歳とは聞いてるけど……」
「じゃあ、今どきのギャル?あゆみたいな。そっちも悪くないよな」
「お前と浜崎あゆみが釣り合うわけないだろ」
そんな愚にもつかない会話をしながら、俺たちは繁華街の一角にある雑居ビルに着いた。どこからかラジオが聞こえてくる。期待の新人のデビュー曲です、そう紹介してDJはブレイク・シェルトンの『オースティン』を流した。
なんとなしに耳を傾けながら非常階段を登ると、サークルのドアの前には身長150センチにも満たない、中学生みたいな女の子がぽかんと突っ立っていた。
どう見積もっても三千円以上はしないくたびれたスカジャン、ひざ小僧がむき出しのジーンズ、泥のついたスニーカー。清楚な文学少女とも今どきのギャルともつかない彼女は、俺たちに気づくと駆け寄ってきておじぎした。勢いで、肩にかけてた空色のナップサックがずり落ちる。
「今日からお世話になります!」
俺も小宮もずり落ちそうになった。ザジは春風をまとい、ブレイク・シェルトンの歌声と共にやって来た。
当時、俺は新宿を拠点とする小規模の文芸サークルに所属していた。が、しょせんは文芸くずれの集まりである。書くことに本気な人間はごくわずかで、文学論を口実に歌舞伎町を飲み歩く「読み専」ばかりだ。長老格の俺と小宮も似たようなものだった。
そんな内情を知ってか知らずか、都会の賑やかなコミュニティにあこがれて奈良の片田舎から上京してきたのが彼女だ。
「実家の周りは田んぼばっかりで、本当に何もないところなんです。図書館も映画館も、なーんにも。地元の誰かと結婚してあそこで生きていくのが、うまく想像できなくて。だから東京に出てきたんです」
『地下鉄のザジ』が大好きなので、本名よりもザジと呼んでほしい。それが顔合わせでの自己紹介だった。たしかに成人こそしているが、ぱっつんな前髪に不揃いの歯。映画のザジっぽい雰囲気はあった。
「奈良の友だちは、パトリック・ドゥヴィルの『花火』も、カラックス監督の『汚れた血』も、誰一人知らないんです。東京に出てきて、やっとそういう話ができるのがうれしくて」
衒学的なサークルの連中が言うならともかく、ザジからは嫌味が感じられなかった。見渡す限り田んぼの田舎で、本当に飢えていたんだなと思った。
俺が大学でフランス語を専攻してたことを知ると、ザジは目を輝かせ、仔犬みたいになつくようになった。やれやれ、俺はガブリエルおじさんかよ。フランス語なんてすっかり忘れてしまったので、なんだか騙してるような気分にもなった。
住まいはどうしてるのか聞いたら、知人の家を転々としてるのだという。一応はマドモアゼルなんだから、と千駄ヶ谷の四畳半を寝床として提供するわけにもいかないおじさんは心配したが、あえて突っ込まなかった。
そんなザジはめきめきと頭角を表した。個人用のノートパソコンが普及しはじめた時期で、見栄っ張りなやつらは(ろくに書きもしないのに)ほとんどが持っていたが、パソコンどころかガラケーすら持ってないザジは手書きだ。原稿用紙はミミズをばら撒いたように汚く、習作の数々は文章こそ粗削りだが、一行一行にはきらりと光るものがあった。
ーー稲穂を鋭い風が撫でた。
ーー気がつけば私は、風に乗って季節も場所も越え、東京に運ばれていた。
一心不乱に書く姿は、子どものお絵描きをのぞきこむような微笑ましさもあった。
ザジはやがて、いろんな文芸誌の新人賞に応募するまでに成長した。小説一本も書き上げることのできない連中のやっかみが、いつしかサークルを支配する空気となった。まるでそこにいない人かのような扱いで、しかも落選続きだったがザジはめげなかった。
「入選するかしないかなんて、ただの結果なんです。私は書くことが何より楽しいんです」
「でもなあ。ゴミと間違えた、なんて理由で原稿捨てられてただろう?あれはひどくないか」
「いいんです、それも書き直せば済むことですから」
逃れるように入った近くのこぢんまりとした居酒屋で、ザジと俺はよくそんな会話をした。有線からは『オースティン』が流れてくる。新世紀を飾るには素朴なカントリーのラブソングだ。
「この曲、春からよくかかってるよな」
「そうですね……私にはちょっとクサいかもしれないです」
「ザジはどんな音楽が好きなんだ?」
「タヒチ80とか」
ーーそこでもフランスかよ!ザジが素の顔になって、すこし距離が縮まった気がした。酒の飲めないザジはいつもウーロン茶だ。氷のカランカラン鳴る音が涼を添え、俺はただザジが眩しく見えた。
そんな風に日々は過ぎて、ある晩夏の日。効きの悪いエアコンにみんなして悪態をついているところに、雑居ビルのドアをけたたましく開けて、息を切らせながらザジが駆け込んできた。仔犬みたいに俺に飛びつかんばかりだ。玉の汗が浮かぶ額には、春からやや伸びた前髪がべったり張りついていた。
「見てください、最終選考にまで残ったんです!」
ザジが手にしているのは『群衆』だった。名だたる作家を輩出した登竜門の文芸誌だ。ページをめくると、新人賞の最終選考に残った作品として『発泡スチロール』という題名と、ザジの本名が並んで記載されていた。
「発泡スチロール?」習作はいくつも読まされていたが、その題名には覚えがなかった。
「読んでもらおうとは思ってたんですけど、締め切りが迫ってたのであわてて送っちゃったんです。でもうれしい!」
発泡スチロール、か。ザジがこの言葉からどんな物語を編み出したのかわからないが、ありきたりの題名でないのが「らしいな」と思った。うつむく者、小さく舌打ちする者、白けたサークルの面々をよそに俺とザジは、受賞がまるで決定事項かのように盛り上がった。
「すごいじゃないかザジ!どんな話なんだ?ヒントだけでもくれよ」
「一言で説明するのは難しいんですけど……泣ける、とはちょっと違うかもしれません。でも自信作です!」
ザジが同年代なら、俺も嫉妬していたかもしれない。一回りは歳下だったので逆に、素直に応援する気持ちになれたのだ。
「どうせ無理だよ」「最終選考だってまぐれさ」どこからともなく流れてくる冷やかしの声は聞こえないふりをして、ザジと俺は来たるべき日を心待ちに待った。サークルに一台だけある小型テレビで、ブレイク・シェルトンが『オースティン』を歌っていた。
ーーそして、世界は変わる。稲穂を不吉な風が揺らして、黒い雲がたちこめ、すべては急転する。
2001年9月11日。いつもなら歌舞伎町を練り歩く時間だ。テレビにサークル全員が群がり、釘付けとなっていた。二機の旅客機が突っ込み、爆煙をあげてワールドトレードセンターが崩落する。どんな映画も描いたことのない、目を疑うような映像。
どうやらイスラムの過激派にハイジャックされたらしい、アルカイーダの自爆テロのようだ、断片的な情報が小刻みに流れてくる。テレビをとり囲む面々の中にザジもいた。
「何なんですかこれ……一体、何が起こってるんですか⁉︎」
ザジは小さく肩を震わせていた。とめどなく入り組んだ世界の成り立ちを説明するのは、まだ若い俺には到底無理だった。こらえきれず誰かが声を上げた。
「俺たちは聖書もコーランも書けない。世界中の誰にも届かない文学にダラダラしがみついてるだけで、そんなのただの自己満足じゃないか!」
普段はザジを無視しているお局の女が続いた。
「この現実の前では、文学なんて無力なんだわ」
ーー文学は……無力⁉︎
その言葉をなぞるようにつぶやいたザジの動きが止まったかと思うと、そのまま床に崩れ落ち、ぴくりとも動かなくなった。
「ザジ!」俺は叫んだ。
「下手にさわるな、救急車だ!」小宮が制す。
数分後に救急隊員が駆けつけ、ザジは近くの総合病院に運ばれていった。
ザジは過呼吸を起こしていた。俺と小宮で訪れた病院の一室にザジは寝ていた。
「ごめんなさい、ご迷惑かけちゃって」
「いや無理もない。衝撃的だったもんな」
「テレビを見て、たくさんの人の悲鳴や、痛みや、嘆きが身体に流れ込んでくるような気がしたんです。次に気がついたら……ベッドの上でした」
「一種の霊媒体質ってやつか」小宮が真剣な顔で冗談めいたことを言った。
「そうかもしれません。昔から本を読んだり、映画を見ると異常に反応しちゃうんです」
ある意味才能なのかもな、と俺は思った。
「とりあえず俺たちは帰るから。二、三日の入院になると思うけど、今晩はゆっくりお休み」
「おやすみなさい」ーーあっそうだ、とザジはつけ加えた。
「ひとつだけお願いがあるんです。明日『群衆』の発売日なんです。買ってきてもらえませんか」
そういえば新人賞受賞作の発表があるんだったな、と俺は思い出した。こんなときでもちゃっかり忘れないザジが可愛く思えた。
「わかった。明日の朝買って持ってくるよ」
こころよく引き受け、俺は病院を後にした。ニューヨークの喧騒がまるで嘘みたいに、新宿の街はいつもと変わらない夜を営んでいた。
翌朝、『群衆』を買い俺はザジの病室を訪れた。結果はーー落選だった。無機質な部屋をため息が包んだ。一次選考でふるい落とされるならあきらめも早いが、爪をひっかけたのに取り逃したのはさすがのザジもショックを隠せないようだった。
退院してからのザジは、全身の細胞が入れ替わった別人のようだった。サークルには顔を出すものの、連中のたたかわせる文学論(らしきもの)には耳を貸さず、窓の外ばかりぼうっと眺めていた。
「書かないのか」
「なんだか無性に、田舎のことばかり思い出すんです。私がいるべき場所はあそこなのかも、って」
秋めいた頃、ザジは奈良へ帰ると言い出した。サークルの仲間は誰一人止めなかったが、俺だけは必死で引き止めた。
「今回は残念だったけど、まだまだチャンスはあるよ。何よりザジはまだ若い」
「先輩だって若いですよ」ザジは不揃いな歯をのぞかせた。
「いいんです。東京で精いっぱいのことはやったんで。実家で花嫁修行でもします」
あれほど奈良の片田舎から脱出することを願っていたのに。新宿御苑を紅葉が包んだ帰郷の日、せっかくだからどこか最後に行きたいところはあるか、と尋ねた。
「東京タワーに行きたいです」
東京観光としてはあまりにベタだが、それが思い出になるなら悪くない。そういえば映画に似たようなシーンがあったな、ガブリエルおじさんがエッフェル塔にザジを連れていくんだ。その時までは、俺にとってザジは「東京に遊びに来た親戚の女の子」だった。
展望台からは東京の景色が一望できた。ザジはそれを目に焼きつけるようにしばし見入ると、振り返って俺に語りかけた。
「宝くじで一等が当たる確率は、ここからボールペンを落として地上の米粒に当たるようなものなんですって。新人賞を獲れる確率も、似たようなものかもしれないですね。宝くじは買わないと当たらないって言うけど、買っても当たらない。でもこの空の下の、どこかには当たる人がいる。よくわかんないです。こういうのも神様の気まぐれなのかしら」
文学的でもあり数学的でもあり、宗教的でもある物言いに俺は戸惑った。確率も神様も俺は信じない、信じるのは君の才能だけだ、そう告げたかった。でも口にしてしまうと、ザジが妹分から別の特別な何かに変わってしまいそうで言えなかった。
「実は……あの日から一行も書けないんです。それまでは文章がいくらでも湧いてきたのに。文学は無力、という言葉が頭から離れない。こんなんじゃ東京にいる意味もないですよね」
あの日、とはもちろん同時多発テロがあった9月11日だ。サークル内のいじめや無視にも決して泣き言を言わなかったザジが、そう言って俺の前ではじめて涙を見せた。テロの光景と落選が、二機の航空機のようにザジを貫いてしまったのかもしれない。
「捨てられるものにも役割はありますから」
どこかこの世の人ではないような表情を浮かべ、意味深なことをザジはつけ加えた。たしかにそうだ。文章で名を上げたり、有名なスターになることだけが人生ではない。人はそれぞれに(おそらくは神から)与えられた役割がある。ザジの役割は、農家のお嫁さんなんだろうか。発泡スチロール、その言葉が淡い光を放った。
この世界にあるものは軽くて、脆くて、いとも簡単に壊れてしまう。でもその痛みを引き受け、守るものもたしかに存在する。いつか捨てられる安いものであっても。
出会った頃の前髪ぱっつんから、だいぶ髪が伸びたザジは大人びて見えた。展望台に差し込む夕陽がザジのシルエットを、奇妙に現実感のないものとして浮かび上がらせていた。
「行きましょうか」
涙を拭いてザジは一足先に展望台を後にした。
その夜、夜行バスで帰るザジを俺は新宿のバスターミナルで見送った。乗り込むまぎわ、彼女は俺にやさしいハグをくれた。秋風に乗じて女の子の香りがした。そういえばザジにふれるのはこれがはじめてだな、と思った。
「お元気で」
「ああ」
俺たちの別れの挨拶はしごく簡単だった。
窓から小さく手をふるザジを眺めながら、だんだんと俺は取り返しのつかないことに気づいた。まだ『発泡スチロール』を読んでいなかった。9.11のごたごたが後を引き、それどころじゃなかったのだ。
天を仰いだその時、バスターミナルの影から妙な男がふっと現れた。カウボーイハットにカーリーヘア、肩にはギターを担いだ異邦人。どこかで見た顔だ……ブレイク・シェルトンだった。驚く間もなく、彼は低く野太い声で話しかけてきた。
「よう日本人。一曲どうだ?」
「……な、なんでここに?」
「まあいいから。聴け」
そう言うと彼は『オースティン』のイントロを爪弾きはじめた。大仰な歌い方、感傷的なメロディ。フランスかぶれのザジなら「クサい」とからかいそうなのに、その曲は俺の胸を激しく揺さぶった。
”She left without leavin' a number Said she needed to clear her mind“
(彼女は連絡先も残さず出て行った。一度、心を整理する必要があるといって)
ーーそうだ、携帯もメールアドレスも持たないザジとはこれが「今生の別れ」なのだ。雨も降っていないのに、何かがこぼれ落ちる音がした。
「じゃあな、日本人。次に会うとしたら運命だ」
きついテキサス訛りで言い残し、彼は雑踏の向こうへと消えていった。ターミナルのベンチにへたり込んだ俺は、街の灯までが幻めいて見えた。未読の小説は高速道路の彼方へと遠ざかった。
年月は車のバックライトのように刹那の光をまとって流れていく。ザジの面影も年を重ねるごとにおぼろげになっていく。ザジの記憶と陽の目を見ることがなかった『発泡スチロール』、思い出話としてはこれでまとめてしまうのが綺麗なのだろうが、何とも釈然としない後日談がある。
二十数年後、文学からすっかり遠ざかった俺は小さな会社に勤めながら空虚な日々を持て余していた。そんなある日、たまたま入った書店で『群衆』を見つけた。へえ、懐かしいなとパラパラめくってるうちに、9.11のこと、ザジのことが連鎖反応のように思い出された。
ふと思い立った俺は、『群衆』のホームページの過去の最終選考記録を検索してみた。そこには候補作として『発泡スチロール』とザジの名前があるはずだった。大した理由じゃない、ザジが東京でエネルギッシュに生きていた足跡を確かめたくなったのだ。
それが、どこを探しても見当たらない。ーーおかしいな。何かの手違いで記録から漏れているのだろうか。俺は小宮に連絡を取ることを思いついた。サークルが空中分解したのち、奴は「読み専」が高じて群衆の編集部にもぐりこんだのだ。まだ文芸に関わっていられる分、俺にはうらやましい存在でもあった。
電話口で奴は妙なことを言っていた。
「ザジって誰だっけ?まあ調べておくわ」
ーー誰だっけ、ってなんだ。まさか記憶を、9.11の爆風にふき飛ばされてしまったとでもいうのか。
数日後、例の居酒屋で小宮と久しぶりに会った。二十数年分の歳を取りすっかり頭の禿げ上がった奴は、挨拶も乾杯もそこそこに、
「それでな、電話でお前が言ってた『発泡スチロール』だけど、社内のデータベースで探しても出てこなかったぞ。最終選考まで残った原稿は、返却希望でないものは厳重に保管しているが、それもない。お前の記憶違いじゃないのか」と言った。
そんな馬鹿な。「おいおい、小宮も覚えてるだろ?あの頃ザジって女の子がいたこと。倒れたとき、一緒に病院に見舞いにも行ったじゃないか」
「いたっけなあ……なんせ9.11があった年だし、他のことはよく覚えてないわ。ワールドトレードセンターの映像だけが頭にこびりついてるもんでな」
なんてこった、小宮の脳内からザジは完全に失われているようだ。個人の存在なんて、歴史的大事件はたやすくかき消してしまうのか。それともあの春の日から、シェルトンが目の前で『オースティン』を歌った夜まで、長いこと幻を見ていたのは俺の方なのか?
サークルの連中はザジをそこにいない人かのように扱ったが、本当に存在しなかったのか。ザジと過ごした半年間は、白昼夢だったというのだろうか。ーーいや、そんなはずはない。9.11の傷は世界中の人の胸に刻まれているし、別れの日、ザジがくれたハグの感触は今もありありと残っているのだ。
そこで小宮が一席ぶった。
「まあ俺も文士のはしくれだからな、お前に仮説を授けよう。そのザジって子はお前の青春の残影というか、要はお前自身なんだよ。分裂症ぎみになって、ザジを実在の人物と勘違いしたんじゃないか?そもそもこういう症例は珍しくなく……」
こいつ、もっともらしいことを言ってるがザジの存在をなきものにしたいんじゃないか?内心では見下してた田舎娘が、才能を発揮するのに嫉妬して。ザジと向き合うのは、ダラけた自分の過去と向き合うことにもなるからだ。小宮の講釈はそんな仮説まで俺に授けた。
もういい、と話をさえぎってその夜はしこたま飲んだ。家に帰りつくと、俺は胃の中にあるものを洗いざらい吐いた。飲んで吐くなんて若い頃以来だな、と苦笑しながら。
すべてをぶちまけた後で眠りにつくと、夢にはあの頃と変わらない姿のザジが出てきた。そこは9.11の影がへばりついた、世界の終わりのような景色だった。サイレンが鳴り響き、瓦礫に埋もれた街は悲鳴と硝煙がうず巻いている。ザジは俺の手を取って走り出した。
ーーどこへ行くんだ。
ーーどこでしょう、ふふっ。
どこかで爆発音がし、地を這う衝撃で俺は倒れた。つないだ手はほどけ、起き上がったらザジの姿はもうどこにもなかった。目が覚めた時、俺は泣いていることに気づいた。
あの日バスターミナルで、俺はザジを自分から強く抱きしめて、手放すべきではなかったのだ。たとえ恋人同士の抱擁ではなかったとしても。俺がしっかりつなぎ止めなかったばかりに、ザジはどこか、この世とは別の世界に吸い込まれてしまったのだ。
夢と現実を行き来したあとの、映画のラストシーンが再生された。
「楽しかった?」母親が訊く。
「歳を取ったわ」ザジが答える。俺もまた二十数年分の歳を取った。
自分なりに『発泡スチロール』の内容を考えてみたことはある。でも、ザジが誰かと結婚して子どもを生んで歳をとった姿をまったく想像できないように、題名から一行も話が進まなかった。
ただ、「泣ける」だの何だのと、陳腐なキャッチコピーで広まる類の小説ではないと思った。世界の果てに捨てられた人間にも届く、ていねいに梱包された小包のような美しい小説である気がした。
この世界はさまざまな対立があり、時には理不尽な暴力に晒される。無数の絶望がある一方で、希望を見い出そうとする力もちゃんと働く。道半ばで倒れた誰かの希望は、別の誰かに受け継がれていく。そうして世界は保たれてきたし、これからもきっとそうなのだろう。時間も距離も超えて、俺はザジからの小包を受け取ったような気がした。
まだ間に合う、ザジとの記憶を書き起こそう、と思った。それが俺に与えられた役割なのかもしれない。小宮の仮説に従えば、ザジについて書くのはとりもなおさず自分自身について書くことなのだ。遅いだなんて誰に言わせるものか。残りの人生の中では、今の俺は一番若いのだ。
永遠に読むことのかなわない『発泡スチロール』、その題名の響きは、年月に運ばれてともすれば傷つき、崩れ落ちそうな記憶を支える緩衝材となっている。
