同じ世界を見ているはずなのに、なぜ話が通じないのか
関心と捨象が、感性と悟性を変えてしまうという仮説
同じ出来事を見ているはずなのに、まったく話が通じないことがある。
同じニュースを見ている。
同じ職場にいる。
同じ問題について話している。
同じ言葉を使っている。
それなのに、なぜか見えているものが違う。
こちらは責任の話をしているのに、相手は効率の話をしている。
こちらは痛みの話をしているのに、相手はルールの話をしている。
こちらは構造の話をしているのに、相手は個人の努力の話をしている。
こちらは境界が壊れていると言っているのに、相手は「言えばいい」と返してくる。
たぶん、これは単なる意見の違いではない。
もっと手前で、見えている世界が違っている。
何に関心を向けているのか。
何を見ないことにしているのか。
何を価値として残そうとしているのか。
何をコストとして外へ押し出しているのか。
その組み合わせによって、人の認識は変わる。
ここでいう認識とは、単に頭の中で判断することではない。
何が現実として感じられるか。
感じられたものが、どのような形で理解されるか。
そして、その理解が次に何を見えるようにし、何を見えなくするか。
そこまで含めて、認識である。
だから、人は同じ世界を見ているようで、同じ世界を見ていない。
その仕組みを「認識軸生成」という仮説として考えてみる。
難しい言葉を使えば、関心と捨象によって、感性と悟性が変化する、という話になる。
もう少し普通に言えば、
何を見るかによって、感じ方が変わる。
何を見ないかによって、理解の形が変わる。
その反復によって、その人にとっての世界そのものが変わっていく。
という話である。
なお、下の紹介記事では、エントロピー、内在時間、意味ループ、身体性といった語も出てくる。
ただし、これは医学的な診断でも、標準科学の置き換えでもない。
身体部位や体質で人を分類する話でもない。
誰かの思想や人格を診断するための道具でもない。
あくまで、世界がどのように見え始め、どのように見えなくなり、どのように別の世界として立ち上がるのかを考えるための、形而上的な補助線である。
