希死念慮支援で「相談してください」が危険になる理由
「相談してください」で終わらせるな
希死念慮や自傷に関わる言動をすると、「相談窓口はこちら」と案内されることがある。
相談窓口は必要である。
これは否定しない。
けれど、問題は、「相談してください」と言えば、それで支援が成立したことになるのか、という点である。
実際には、電話がつながらないことがある。
必要なときに限って話し中になる。
勇気を出してかけたのに、つながらない。
その経験をすると、「相談先がある」という表示そのものが、「どこにもつながらない」という確認になってしまうことがある。
これはかなり危ない。
しかも問題は、そこだけではない。
「死にたい」と言う人を、全部同じ入口へ流していることである。
今夜危ない人。
慢性的に消えたい人。
生活困窮で詰んでいる人。
DVから逃げたい人。
身体症状や薬の影響で処理能力が落ちている人。
孤立している人。
怒りが自分へ向いている人。
言葉にすることで何とか保っている人。
研究やメタ発話として死を語っている人。
必要な導線は、全部違う。
それなのに、全部を「相談窓口」に積む。
現場が詰まるのは当然である。
必要なのは、善意ある窓口を否定することではない。
危機入力を分類することだ。
つまり、トリアージである。
同じ「死にたい」でも、必要な支援は違う。
今すぐ救急につなぐべきなのか。
継続支援が必要なのか。
生活問題が主因なのか。
労働環境なのか。
孤立なのか。
医療なのか。
DVなのか。
環境調整なのか。
そこを見ずに、全部へ同じ「相談してください」を返すと、窓口も本人も壊れる。
AI応答でも同じである。
危険ワードに対して、全部へ同じ安全文を返せば安全、というわけではない。
危機は単線ではない。
だから導線も単線にしてはいけない。
119。
110。
夜間救急。
精神保健福祉センター。
SNS相談。
生活困窮支援。
DV相談。
労働相談。
退避先。
身近な人。
「つながらなかったときの次」を最初から設計しておかなければならない。
そして、ここで本当に危ないのは、別の絶望である。
相談しろと言われる。
相談先は表示される。
けれど、つながらない。
つながっても、必要な導線へ振り分けられない。
その構造を見てしまう人は、こう思う。
「ここでもまた、仕事がされていないのか」
その絶望は、本人の内側だけで発生しているわけではない。
支援の形をしているものが、実際には支援として機能していないことを見てしまう絶望である。
だから、自死対策に必要なのは、電話番号だけではない。
危機を分類すること。
入口を増やすこと。
つながらなかったときの次の道を作ること。
そして、それぞれの危機に応じた導線へ接続すること。
「相談してください」で終わらせるな。
その人はいま、どの危機にいるのか。
そこを見てほしい。
それこそ、仕事してほしい。
追記
昔、南条あやという、自死した少女のホームページがあった。
当時も「あれは危うい」と言われていた。
実際、かなり危うかったのだと思う。
ただ、今振り返ると、あの時代はまだ「壊れた個人」として見えていた。
この子が特別に危うい。
この子が特別に繊細。
この子が特別に壊れている。
そういう読み方が、まだ成立していた。
けれど今は、むしろ逆なのかもしれない。
あの感覚を量産する構造そのものが、社会全体へ広がってしまった。
しかも現代は、「可視化」だけは異様に強い。
苦しみは可視化される。
病名は共有される。
希死念慮は言語化される。
コミュニティも見つかる。
しかし、「見える」ことと、「支えられる」ことが一致していない。
相談先は表示される。
支援の言葉も並ぶ。
だが、実際にはつながらない。
分類されない。
過負荷のまま放置される。
生活問題、労働問題、孤立、DV、身体症状、慢性的希死念慮。
それらが整理されないまま、一つの入口へ積まれる。
すると、人はこう思い始める。
ここでもまた、仕事がされていないのか。
そして、たぶん当時も、あの危うさはどこか「物語」として消費されていた。
本当は、壊れていく人を観測するのではなく、
壊れる前に何が積まれていたのかを見るべきだった。
だが私たちは、壊れていく熱そのものを、どこか娯楽として見てしまった。
それは今も、形を変えて続いている気がする。
編集後記
私がこの構造に見るのは、本当に仕事をする人が、仕事をできなくなった社会である。
形を整えることはうまい。
人にやらせることはうまい。
流れを見て誘導することはうまい。
管理することはうまい。
評価することはうまい。
「支援している感じ」を作ることも、かなりうまい。
けれど、実際に仕事をする人。
実際に支える人。
実際に形を仕上げる人。
実際に接続する人。
実際に最後までやる人。
そういう人たちが、いつのまにか「やりたい」ではなく、「やらされている」へ変わっていく。
ここが危ない。
本来、その人たちの報酬は、
「整った」
「回った」
「助かった」
「壊れなかった」
「分かるようになった」
そういう接続感覚だったはずである。
だが、その上に管理や評価や速度や成果演出が過剰に積まれると、意味の接続が切れ始める。
すると、「本当にやる人」ほど摩耗する。
しかも厄介なのは、社会全体としては回っているように見えることだ。
会議もある。
窓口もある。
制度もある。
相談先もある。
研修もある。
管理もある。
みんな頑張っている。
むしろ、かなり真面目に頑張っている。
けれど、その頑張りが、「本当に必要な仕事」ではなく、「仕事を管理する構造」の維持へ吸われていく。
だから、誰もサボっていないのに、肝心なところが処理されない。
これは単なる手抜きではない。
むしろ逆で、善意と管理の過剰による空洞化に近い。
だから怖い。
「ちゃんとやっているはずなのに、なぜか壊れていく」
そういう社会になる。
そして、そのとき最初に壊れるのは、最後までちゃんとやろうとしてしまう人たちなのだと思う。
さらに言えば、
ぶっちゃけ、私は「壊れました」をもっと早めに出した方がいいのでは、とも思っている。
なぜなら今の社会は、自分に危機が迫っていてもなお、人の働きを期待し、その負荷を転嫁できる側が、管理だけうまくなる構造だからだ。
実際に支える人。
実際に回す人。
実際に処理する人。
実際に最後までやる人。
そういう人ほど、「まだ回る」と判断される。
限界でも回す。
壊れかけても埋める。
責任感で接続し続ける。
すると、構造側は学習しない。
だから、本当はもっと早い段階で、
「もう無理です」
「壊れました」
「これ以上は回りません」
という危機が、上流へ返らなければならないのだと思う。
もちろん、本当に壊れる側は損をする。
社会はしばしば、それを「個人の問題」として処理する。
メンタル不調。
適応障害。
自己管理不足。
コミュニケーション不足。
そうやって回収される。
だから難しい。
けれど、それでも、危機が最後まで末端へ押し込められ続ける構造は、かなり危ない。
私は本質的には、「仕事人間」ではない。
むしろ、意味が接続しないと動けないし、管理やインセンティブが前面に出ると、かなり脱力する。
それでも、自由だけ取る責任なき態度には、かなり怒りを感じる。
なぜなら、その自由は、多くの場合、誰かが壊れる寸前まで接続し続けていることで成立しているからだ。
そして、その「最後までやってしまう人」が先に壊れる社会は、たぶんかなり予後が悪い。
