1973年 ハワイへ家出してみた(2/4)
「吉岡…頼むワ。 わしのクラス、担任やで。 他でやってくれよ。」
高校3年の春、期末テストで英訳が0点にとってしまった私がハワイへ家出しました。
18才の春頃からグレ始め家出を繰り返し、一生話すことないと思っていた英語の国ハワイへ渡米しました。 70才を過ぎた今、人生のターニングポイントとなった経験を振り返ってみました。
若いってことは素晴らしく、楽しく、悩み多く、色々なことを経験することができました。 また自分の選択と決断で人生が変わっていくことも、皆さんと同じくきっと平等だったんだなと納得しています。
ただ、
その時々もしも自分が違った選択していたなら...?
と、思い返すこともあり、これが年を重ねることなんだとNOTEにしてみました。

楽しそうな家出先を見つけた
19の夏前、幼馴染の野口からハワイ旅行に誘われた。 詳しく聞くと彼の父の友人が10数名集めて旅行を企画していたものの、どうしても集まらず本来25万円ほどするところを半額以下の8万円でいいらしく行くことにした。 パスポートもこの方が取ってくれた。 この人の後ろをついていくツアーでした。
1ドル=360円でした。
初めての外国、憧れのハワイ
この方は英語が得意ではなさそうだが旅慣れた感じで、食事はほぼワイキキでたどたどしい日本語の通じる日本食でことを済まていた。
この時代は、ワイキキのエリアでは片言の日本語が話せる人がまだ数多く居なかった。 ところどころ片言の日本語が話せる人が居たので、少し安心だった。
ツアー客10名はオプショナルツアーに申し込んで出かけたりしていた。 残った私達はワイキキ界隈をうろうろしビーチで遊んだ。 唯一アラモアナショッピングセンターへ一度行っただけだった。
ビビリビビリしながら夜遅くまでワイキキ界隈あっちへこっちへ東西南北と観光地図を手に歩き回った。 部屋に戻っては朝まで語り合い大声で笑い過ごした。
朝になると、見たこともない豊富な種類と量がずらりと並べられたバイキング(ブッフェ)料理に驚いた。 始めてみる南国のフルーツが盛りだくさんだった。 食べる前には、クンクンと匂いを嗅ぎながら口に運んだ。 驚いたのはパパイヤとやらがやたらと臭い。
およそ口に運ぶ気になれなかった。
横に置いてあったレモンをかけると匂いが飛び、それはそれは甘くて驚くほど美味しかった。
朝食の後は、綺麗なワイキキのビーチで泳ぎ、そして訳の分からない英語を野口君と名前の聞き方どうやった?、あれはどう言うのやった?と、口から吐き出し次から次へと外国人の綺麗なビキニのお姉さんに声をかけ、英語0点の私が訳の分からない英語というか身振り手振りで話して楽しかった。
Do you know Steve McQeen? などと 映画スターの名前を連ねただけで、発音もままならい私たちの言葉に相手も、Oh Yeah とかニコッとしてくれるだけだった。
久しぶりに心底楽しめた、束の間の4泊6日だった。
ちなみにこの年に日本で最初のマクドナルドが銀座で1号店がオープンした。
この旅行の帰りの機内で、
私: 俺、ここに来るわ
野: えっ、どういうこと?
私: 家出てここで住むわ
俺アホやし、なんの取柄ないし
英語話せるようになったらええかなと思うねん
野: まじか? けど面白いかもな
私: 帰ったらもっと働いて、貯金してここに逃げてくる
ここなら探偵の手も及ばんと思う
野: そやな、友人が一人くらい外国に居ててもおもろいな
頑張れよ
この日に心にきめた。
開放感がとてつもなく自分を解放してくれたからだ。
ハワイは、
1.両親に見つからない
2.綺麗なお姉さんが多い
3.過ごしやすい気候
4.服代がかからない
5.日本語が通じそう
と思ったので決心した。
外国への家出の準備

まずは情報収集、どうする?
さて、ハワイへ逃げていくにはどうすればいいか?
…滅多と行かない本屋さんを梯子して、何冊か海外に関する本を買い漁った。 旅行以外の方法で行くには、移住か留学しか無いようだ。 立ち読みして見ると、移住するにはかなり無理っぽく現実味がなかった。 唯一留学しかなさそうなので、留学に関する本をひとつ買ってみたが少し違ったようなのでまた買いに出かけた。 新たに買った2冊本をワクワクしながら読み進めていくと一筋の希望が見えた。
どうも留学という方法なら行けそうだ。
本を読めば読むほどあきらめるしかないと思っていたので、ESL留学ができると思ったときには飛び跳ねるように心が躍った。 大学、高校、ビジネススクールに関する本を何冊か立ち読みし、色々読むと何だかわからないがESL英語学校とビジネススクールとやらには留学できそうなことが書かれていた。 そしてまた新たにそれらしき本を探しに行き2冊を買って、この本に載っていた学校で楽しそうに思ったを3校を当てすっぽで選んだ。 なかなかすんなりと指南書の通りには前には進まなかった。
よし、次は案内パンフレットや入学願書を手に入れなければならない。
本に書かれている入学案内の送付依頼の手紙の雛形を凝視して、間違わないようにゆっくりと全て丸写しした。 高校の担任の先生が話していたように、やっぱり英語は必要なんだなと実感した。 何度も何度も何枚も何枚も写し損ねては便箋を破り捨てた。
幾度となく書き直した手紙は三日がかりでようやく完成した。
三つ折りした便箋と共に大きな希望を一緒に封筒へ入れ、一番近い郵便局へ走って行った。
ワクワク首を長くして待った。 ただ祈り待った。
入学願書に悪戦苦闘
1月半ほどして、1校目の語学コースのあるビジネスカレッジから分厚いA4封書で入学案内が送られてきた。
2週間ほど遅れてハワイ大学のESLからも届いた。
3つ目のアダルトスクールからは結局返信が無かった。
本に書かれていた内容のものほとんどが入っていた。
丸写しの手紙は大成功した。
いくつかパンフレットや本に記載の無い色んな書類が沢山入っていたが後回しにして、パンフレットの写真部分を眺めてはうっとりしもうそこに行ったかのような気分を楽しんだ。
その他は当然すべて英字なので、何なのかも判るはずもない。
手持ちの辞書を開いたところで、ほぼ全てを引くことになるため到底理解には及ばない。
指南書に記載の有った必要な書類を探し出すことにした。 それぞれに似て非なりだったが、目を凝らして見比べて同じタイトルのものを探し出した。
まずい広げ過ぎた(><);
何度も同じ単語を辞書で探すより、同時にした方が効率的と考え、2校分の書類を広げて、同じような書類を並べることにした。
「ぐわぁ~ん、広げ過ぎた」書類が混ざってしまった。
数枚がどっちがどっちかわからなくなった。
自分の感と目を信じて仕訳けなおした。
それぞれ書く内容を書くべきところへ書く。
滅茶苦茶時間がかかり、2週間後何枚かの書類を完成させたがやはり空欄が少し残った。 辞書を引き空欄と同じ単語探したが、単語は見つかるものの全く意味不明だった。 何度が本屋へ行き、もう少し現実に近い内容のものを探したが見つからなかった。 この時beenが辞書に出ていないと苦しむ有様でした。
どうしても読めないというか解らない数か所が空欄のままで、埋めることができないのであきらめてそのまま空白で送ることにした。
早く一日も早く進めたい。
切実な思いを封じ込めて、郵便局へ駆け込んだ。
また1月半が経ったが、返事はない。 やっぱりきちんと書いてないと駄目だったのかなと、半ばあきらめ始めた頃にとうとう返事が来た。
ビジネススクールからのものが先に届いた。
もうこれに決めた。
ハワイ大学の分は忘れよう。
今度は分厚いものではなく、入学してもいいと言うような書類で比較的薄いA4封書で届いた。
中には寮の申込書類や学費などの明細やらが入っていた。
「よしっ」、これで入学書類はほぼ揃ったと本当にうれしく、心は既にハワイだった。
数週間遅れてハワイ大学からも届いた。
指南書に書かれていた特に重要なI20と言うFORMが入っていた。 そのほ他にも受け入れ許可するような書類が入っていた。
本に記載の内容の確認をした書類をまとめる。
次はパスポートが必要になる。
パスポートセンターへ行き、必要な書類等を教えてもらう。
区役所へ行き、戸籍抄本など必要なものを揃えた。
家出の準備 資金だ
夢の国旅行から帰国し、の父の会社の雑用掛かりをやめた。 教育教材会社の飛び込みセールスと夜は会社から5分ほどに有ったステーキハウスのウェイターをして、できるだけ多く貯めた。
10か月間貯めた、計170万円。
ただ、これでは足らない。 当時、未成年20才未満の場合、最低300万円以上の保護者の残高証明書が必要だった。 きっと保護者がサポートしないと生活できないという考え方なんだと思った。
ここで、一番大変な英文での300万円以上の預金残高証明書が必要になる。 未成年の私は、親の承諾書とこの預金証明書が必要なのだ。 親の承諾書はサインを偽造して私が書いたが、預金残高証明書はどうしようもない。
悔しいが、家から遠く離れ自由を手に入れるため、だましだまし母に懇願した。 何度も何度も懇願し、数か月後には父の預金残高証明書を手に入れることができた。
良く解らないが、これで入学のための書類が全て揃った。
なんども何度も書類と留学の指南書を見比べながら、チェックした。
家出の準備 英会話習得
家出結構日の2か月前に、少し英会話の勉強と思い2駅先の大きな駅の駅前にあった英会話スクールへ申込みに行ってみた。
受付で申し込みしたいと話したところ、「初めてですか」と尋ねられたので「ハイ」と答えた。
次にその人が、
受: How do you do って言ってみてください
私: How do you do…なめとんのかと思いながらおおむ返しに言ってやった
受: How do you do 言ってください
私: How do you do
受: 私について言ってください How do you do
私: How do you do
と、どんどんスピードアップしてきた。
はて、何十回How do you do 繰り返しただろうか。
プチっと頭にきたもので、
私: あほか、おっさん?
もええわ止めた
あほくさ
もうええから教材売ってくれ
と言われ、思わず悪態をついてしまった。
受: 入学しないと販売できません
私: こんなとこ2度と来るかっ
ボケっ
家で勉強するほうがましやっ
と捨て台詞して出たもののやはり不安だ。
仕方ないので、帰りにレコード店へ行き外国人の歌手のレコードを買おうとレコードショップへ向かった。 気持ちだけでも英語の勉強と思った。
海外のアーティストはビートルズ、イーグルスや映画のテーマ曲を何曲か知っているくらいで、あまり興味が無かった。 あれやこれやとレコードを物色して目に留まったのが、全く知らないブロンズ綺麗な女性シンガー。
”オリアニュートンジョン”だった。
少し聞かせてもらうとゆっくりと発音がはっきりして聞こえた気がしたので、初めて外国人のレコードを買うことになった。 家に戻って何度も聞いた。 何言ってるかわからないが、少しでも単語が聞ければと聞き続けた。 テープに録音して、カーステにいれても聞いた。
”そよ風の誘惑”が一番好きになった。
すこしほんの少し聞こえるようになった気がするものの、悲しいかな意味は全くわからなかった。
そうこうしながら年が変わり出発の日まで待った。
パンフレットを取り寄せてから、実に8カ月かけてようやく準備が整ったわけだ。 特に母に見つかると勝手に破って捨てるのはわかっているので、書類は大切にまとめて部屋の中に隠して誰にも見つからないようにした。
この時は期待と夢しか頭に描けなかった。
後の書類不備をはじめ色々なトラブルになるとは全く思いもしなかった。
今現在であれば、インターネットや通信ツールにメディアの普及により、こんなアナログでのことはイメージしようがないと思います。
本当に便利な時代になりました。

家出決行
気持ちも高ぶり始めた決行のひと月前に、都心のJAL航空会社のチケット売り場へ行きホノルルまでの往復1年間オープンチケットを買った。 この当時米国への入国の際に、必ず帰りのチケットが必要だった。 無い場合は、入国できなかった。
学校の書類にパスポートに航空券は揃った。
出発当日までワクワクしながら色んなことをしようと夢しかなかった。
いよいよ前日となった日に、旅行鞄サムソナイトへ下着や服を詰めていると、私の姉がじっと見ていた。
これまで私の両親兄弟は、海外からの手紙など何通も来ていて知っていたが何も言わなかった。 お金もないし、行けるはずもないと思っていたはずだ。 まして外国へなど到底無理だと信じていたにちがいない。
当然費用はもちろん洋服などの準備、なにひとつ応援してくれることもなかった。
私はただ黙って服をトランク詰めるだけだった。
家出決行前日の夜
姉: なにしてんの?
私: 服詰めてるんや
明日から行くから準備してるんや
姉: お前ほんとに行くの?
私: うん、もう戻ってこないから
姉: お母ちゃん、こいつ本当に行くみたいやで
母: ほっとき、3日もしたら戻ってくるわ
外国まで行きつかんわ
好きにさせとき
無言のままさっさと詰め込み、着ていくブレザー、ズボン、革靴、靴下も準備し夜11時にはベッドに入った。
ワクワクと言うかどきどきと言うか飛行機に乗れないと困るのでなかなか寝付けなかった。 結局数時間寝て日が変わり朝6時にベッドからでて父が家を出るのを自分の部屋で待った。 出たのを確認し部屋をでて階下の居間へ、準備していた服に着替え出かける準備をしていた。
母が「好きにせい お前のご飯はない」とひとこと言い放った。
「はい、そうします」と返してご飯食べずに家を出た。
迷子にならずJAL国際線ホノルル行きに乗れた
家を出て駅に向かう途中、なぜかスカッと煩わしが無くなった気がして、「さ、行くぞ」っと小さく呟いた。 最寄りの駅から電車に乗り一度乗り換えて都心の駅へ、駅から少し歩いて空港行きターミナルバス乗り場へ向かった。 空港までのチケットをかい、空港バスに飛び乗った。
初めて一人で空港へ来た。
不安ながら空港の職員の方々に尋ねがら、国際線の日本航空のチェックインカウンターを探し急いだ。 パスポートとチケットを出して羽田国際空港経由のホノルル行きの搭乗券をもらい手にした時は、よしっ、やったーと感慨深かった。
ただ、初めての私には国際線の搭乗ゲートへ着くには、なかなか電車を乗る要領では着かない。
少し進んでは空港職員の人を見つけて、搭乗券を見せては確認しながら進んだ。 まず搭乗口へ向かうまでには、出入国カードとやらにも必要事項を記入しなくてはならない。 そして出国管理パスポートにスタンプを押してもらい、無事出国となったようだ。
全ては約3時間弱ほど余裕を持って早め早めに行動した。
なんとか羽田行きの飛行機に乗ることができた。
今思えば、「この機会を絶対逃してはいけない」という強い思いと、本当にホノルルへ辿り着けるのか不安でしかなかった。
無事に羽田国際空港へ着いた。
が、ここから国際線の搭乗口へ行かなくてはならない。 また迷子の子のように搭乗券を見せては確認しながら進んだ。 少し小走りしたり汗をかきながら探し回ってようやく乗り継ぎカウンターへ午後2時半過ぎに辿り着きホッとした。 大阪空港で聞いたものの不安だったので、荷物はどこにあるかと尋ねたら勝手に次の飛行機へと運ばれてるとのこと。 ほっとしたけど本当かなと疑っていたが手が出せない。 ホノルルまで行ったので良かった。
ようやく搭乗ゲートへ着いた。 でも早すぎて予定もなにも掲示されていなかった。 いずれにしてもここから機内へ入ると確認すると、少し余裕が出てきたのか両替が必要だなと気が付いた。
ここまでの途中にあった空港内の両替所へ戻り、1000ドル分両替した。 当時のレートは円が変動制に変わった少し後だったので、$1/¥320円前後だったと思う。
無事にたどり着いたことで、ふとここまで大阪-羽田間のスープだけ口にしてそれ以外は飲まず食わずで来たことを思い出した。 喉が渇いたお腹がすいたと感じる余裕が出てきた。
たしか出発時間は夜20:00~21:00時頃だったと記憶している。 余裕を持ちすぎたかなと先の長い出発時間まで時間を暇を弄ぶことになった。
仕方ない。乗れないよりまし。と、逞しい自分が立派に思えた。
しかし油断は禁物!
飛行機に乗れないと大変なので、搭乗口が見える付近ではレストランが無かったが売店は有った。 売店でパンとコーラを買って椅子に座ってかぶりついた。 まだまだ搭乗開始まで時間がたっぷりあるので、搭乗口が見える範囲の近いところチョロチョロしながら無料のパンフレットなどあるもの全て漁ったがほとんどが用事の無いものだった。
乗り損ねないか不安で仕方なかったが、外国へ行く自分が何気に格好良くも思えた。
少し疲れた。
眠いが寝れない、ウトウトするもハッと気づいては搭乗口を凝視していた。
家を出発しておよそ半日12時間を過ぎた、あと一時間。
不安で逸る気持ちを抑え、ようやく搭乗時間となった。 初めて良好した時とは違って、その人の数の少なさに少し不安も覚えた。 平日の国際線ということもあって少なかったのだろう。 搭乗アナウンスも簡単なもので、一切の順番もなく、ただ搭乗できますと言うようなものだった。
ハイハイとばかりに進み機内へ入った。
案内された座席に座った。
これでもう大丈夫、ホノルルまで行ける。 そう思ったときに国内でこんな大変なのに、冒険家植村さんは本当に大変なんだな勇気があるんだなと改めて凄い人だと感心した。
今朝、朝日を見て始まったが、今外はもう真っ暗。
飛行機が離陸し空へ一路ホノルルへ。
なにか全ての不安が無くなった。
訳の分からない家を離れられる希望に夢膨らませていた。
前日の睡眠不足もありこれまで疲れで水平飛行に入ってシートベルトサインが消える前に寝てしまったみたいだ。

常夏の島ハワイへ到着
「お客様」「お客様」と肩を揺すられてはっと目が覚めた。
スチュワーデスさんに起こされ「着きましたよ」と声をかけられた。
窓を開けると、燦燦と太陽の光が溢れんばかりに差し込んできて
きたーっ、着いた
眩しいぃ~燦燦と太陽がいっぱい
自由だっ
と心の中で大声で叫んだ。
最後の一人だったので、急いでタラップを降りて思いっきり深呼吸した。 空気が美味しい。
なんかわからないけど、とてもいい香り匂いを楽しんだ。
夢見た太陽が一杯の自由の国へ来たんだ。
幸せとはこのことだ。
慌てて走って前の方にいる旅客の後を追いかけた。
みんなが並んでいるのでその最後尾に並んだ。 入国審査の場所だった。 他の人はパスポートやらなにやら手にしているので、こそっと見てパスポートを準備した。
嬉しく嬉しくてワクワクできたのは束の間だった。
入国の壁|悪夢
順番が回ってくると、なにか怪訝な顔をして私に話しかけてくる。 なにか言っているが解らないし聞こえない。
聞こえもしないのに、イエスだとかノーだとか言ってみた。 すると他の人の紙を私に見せて「入国カード」と日本語行ってくれたので理解でした。
「あ、そうかその紙が必要なんだな」と想像して、戻りいくつかあるカウンターへ探しに行った。
「無いっ」そんな紙がない。
ふと少し離れたところに日本航空のスチュワーデスさんの姿が目に入った。 急いで走っていった。
私: すみません
入国カードていうものが必要みたいなんですが、あります?
ス: お渡ししてますよ
私: すみません
飛行機乗って直ぐ寝てしまってもらってないんです
ス: そんなはずはないです
機内で食事後配ってますよ
食事はとられましたか?
私: いいえ
飲み物もご飯もなにももらってないんです
ス: えっ?
私: 起こしてもらったときには到着してました
ス: そんなはずはないですけどね
ちょっとお待ちください
彼女は呆れてたのか少しムッとした顔でショルダーバッグを探した。
たまたま1枚余分が有ったので「ハイ」と渡してくれました。
見ると英語でした。
読めない…。
「すみません、これ読めないんです。 日本語とかないですか」と言うと、一段とムッとしながらカウンターへ私を連れて戻り書き方を教えてもらい記入することができた。
お礼を言うと、ささっと急ぎクルー専用のところへ足早に去って行った。
不安ながらその紙とパスポートを持って先ほどの場所へ戻った。 同じ便の日本人客も次の便の日本人客も、もうすっかり誰もいなくなっていた。
先ほどのレーンへ行って再度パスポートとともに出すと、またなにか言い出した。 今度はさっきより、忙しくなにやかにやと沢山言っているようにみえたが全くわからない。
顔色を伺いながら適当に当たればいいと思って、「Yes」、「Yes」と言いたまに「No」と言ってみた。
話が進まないし解らないので、持っていた学校の書類やら残高証明書など持ってるもの全て出してみた。
すると今度はより声が高鳴り、大声で何やら他の職員に向かって声かけてなにか言っている。 逆効果だったか…出さなければよかったと反省した。
職員が少しよけて待つようにと、手で払い除けるようにジェスチャーを交えて示した。
その傍でただ呆然と立ち竦んでいるしかなかった。
列の後方旅行者が次々と横目で私を見ては、どんどんと通り過ぎて行く。
そうこうしていると、もうひとりの職員が来た。
片言の日本語で話してきた。
「何しに来た」聞かれたので、「学校に入るために来た」と言ったら、 書類を再度見て、またなにやかにやとゆっくりと英語で私に向かって話してくれるも通じるはずもない、私英訳0点。
今度は応援に来た職員が手招きして、「Come Come ...」と言うのでついて行った。 荷物が回っているBaggageClaimへ連れていかれ、荷物をとるようにと言われてとった。 ネームタグと私のパスポートを確認した。 また、「カムカム」とついて行った。
空港内のオフィス内へ連れていかれた。
そこで椅子を持ってきて、「STAY」「STAY HERE OK?」と両手の平を下へ向けてジェスチャーで示してくれた。
何十回ともなく手で合図してくれた。
うーん…そうか、ここで待てばいいんだと確信した。
座って一息つきて顔を上げた時、壁に掛けてある時計を見るとすでに12:30だった。 慌てて腕時計を現地時間に合わせ螺子を巻いた。 朝7時頃に着いたのにもう随分と時間がたっていた。
不安しかない。
何が起きるのだろうか?
想像すらできない。
ただ、待つだけ。
本当に長い時間を待っていた。
この24時間菓子パン2個と缶コーラしか口にしていないが、お腹も空かないほど不安だった。
おかしいな、ハワイは日本語が通じるはずなのにと少しムカついてきた。
だから英語嫌いやねん、もう学校やめて観光して帰ろ、ご飯を食べに行こう、早くワイキキ行って泊まるところを見つけないとなどと色んなことを考えながら待っていた。
救いの神が来た
午後3時半を過ぎた頃、ようやく職員が日本航空の現地ホノルル空港で働く員の日本人を連れてきた。 JALの職員の仕事が終わるまで待たされていたようだ。
いずれにしても、ホッとした。
日本語を話すのも1日半ぶりだったから嬉しかったし安心した。
今思えば空港には現地駐在の日本人JAL職員以外に通訳できる人は居なかったようだ。 海外へ行くほぼ100%の日本人は旅行社が準備してくれる記入済の書類を持って、案内してくれる通りに動いていれば何の問題もなく入国できた。 なにか問題あっても引率の人が全て対応してくれていた時代だった。
このJALの職員を介して話すことになった。
すると、いきなり「日本へ帰れって言っています」と言い出した。
私: えっ? 今さっき着いたんですよ
神: 留学ビザが無いんです
私: ビザ? I20ですか? ここにあります
ハワイはビザ要らないのと違いますか?
神: 違います、留学VISAは必要なんです
私: I20があれば良いって書いてましたけど…
神: それはわかりませんけど、留学VISAが無いんです
なので入国できないんですよ
私: じゃ、どうすればいいんですか?
神: 帰るしかないですね
私: 帰るって…どこに行けば帰りの飛行機乗れますか?
神: 今日は日本行きの便はもう無いです
私: じゃここで明日まで待つんですか?
1週間したら帰国するので、観光で出してもらえないですか?
もう二度と来ませんから、お願いしてみてください
神: やはり留学VISAが無いので入国は無理なんです
こんなことをやり取りしていたら、JAL職員が入国管理の人となにやら話していました。 きっとここから帰国することは現実的でなかったのだろうか、または可哀そうだと思って話していたのかは全く解らない。
入国管理の人がJAL職員に何か話し始め、それを聞いたJAL職員が振り返り私に話してくれた。
神: 今日は帰国便もないし、空港では危険なので入国できるようです
私: ありがとうございます、もう二度ときません
神: ただし、3日間だけです
私: 1週間にはなりませんか?
神: 無理ですよ
私: 仕方ないですね
神: ただし、この3日間の内にイミグレーションへ出頭してください
私: イミグレーション? 何ですかそれ?
神: 移民局です
私: どこへ行けばいいんですか?
神: 知り合いに聞けばわかりますよ
私: だれも知り合いはいません
神: え? 本当ですか?
良く来ましたね?
私: はい
神: 場所は入国管理の人が書いて渡しますって言ってます
約1時間強のやり取りを終えて、JALの神にお礼をいい、入国管理の人のなされるがままに入ってきたところとは違う出口連れていかれ解き放たれた。
ようやく外へ出されたものの、もうそこには日本人の姿が全く見えない。
まさしく外国だった。
燦燦と降り注ぐ太陽は少し西へ傾きはじめていた。
言葉もわからないし、外国にも慣れてない私が1人で来るには無謀すぎたかと反省していた。 同時に、この先どうすればいいのか不安しかなかった。
日本人の姿があればきっとワイキキへ向かうだろうからタクシーにでも乗って着いていけばいいと安易に考えていたが、本当に迷子になった気分だった。 聞こえない、読めない、話せない。 どうして学校に行こうか? どうしてワイキキに行こうか?

空港のターミナルビルの自動ドアを出たところで立ちすくんでした。
前の方から「TAXI? TAXI?」と声をかけてくる少し小柄なアジア系らしき男性が近づいてきた。 こいつなら喧嘩しても勝てそうだと思ったので、「Yes」と言ってみた。 彼は私の荷物を取りゴロゴロと引いていくのでついていく、車に着くとささっと荷物をトランクに、ドアを開けて乗せてくれた。 ドライバーは振り返り何か言ったが、解らない。 少し危険を感じたが、学校の封筒だけを出して封筒にある住所を見せて「Here Here」と指さしたら「OK」と車を出した。 目に入ってくる景色など見る余裕もなかった。 何か言ってるくるも稀に聞こえたりもしたが解らなかった。
運: You Japanese?
私: Yes
運: Tokyo? Osaka?
私: Osaka
この人はどうも親切そうだと安心した。 他愛もない会話と言うか沈黙の時間に少し落ち着いた。
20数分ほど走っていくと街中に入った。
彼はゆっくりと徐行しながら、通りを探している様子だった。
少し停まっては通りの左右のビルを確認していた。
17時前に付近に到着したようだが、明確にここだと指ささなかったように思えた。 「Here」と降りてトランクからサムソナイトを下した。
もう幾らだったかは記憶には無いがドル紙幣で支払った。
ドライバーはこの辺りだと指さし言っていたように思った。
恐らく付近に適当に降ろされたのだ。
当然、降りた場所には、
学校が無い
門があって、塀がある学校が無い
迷子になってしまった。
通りには新旧入り交ざったビル4~5階建てのビルばかりで、学校の正門が見当たらない。
どうしようどこへ入ればいいのか?
辿り着けない。
どうすればいいのか本当にこれが迷子。
路頭に迷った。
降ろされた通りを右往左往しながら降りた場所から前へ後ろへ前後1kmほど数往復した。
ここはダウンタウンと言う場所だと後で知った。
私の格好はジャケット、襟付きシャツ、スラックスに革靴とで周りの人とは違い少し歩くと汗だくにりながら、サムソナイトをゴロゴロと引き30分ほど、歩いたり走ったりと行ったり来たりした。
周りは暗くなり始めてきていて本当に焦った。
封筒の住所の綴りと同じ綴りの場所を1文字ずつ合わせて探すには時間がかかるが歩いて探すしかなかった。
ようやく同じ綴りを小さめのビルの入り口を見つけたものの、私の想像していた学校名の書かれた門があるところではなかった。
タクシーを降りた場所から5mほど後ろ側だった。
後に判ったがこの学校はダウンタウンメインストリート沿いのビルの中にあったのだ。
悪夢が続く
入り口は1階階段で、本当かなと少し上がっていくのを躊躇した。 意を決して上がっていき、一番最初にすれ違った外国人に書類を見せた。 これを見たおじさんは、「Come Come」と手招きしながら事務所へ案内してくれた。
事務所の白人男性が対応してくれた。 全ての入学に必要な書類を見せるとなにやら話しかけてきたので、また「Yes」と「No」を適当に返した。
すると「チョットマッテ」と戻り電話をした。
少し経つと少し日焼けした白人の人がやってきた。
彼はMr.OcConnerという先生らしい。
また通じない会話となった。
私が全く英語が話せないと判った彼は、慌てた様子で振り返り事務所の人と話をし始めた。
事務所の人は慌てた様子で電話をかけ始めた。
何度もかけていた。
対応してくれているMr.OcConnerは、私に「Stay here チョットマッテ」と数回繰り返し、事務所の人達と数名が慌てて事務所を飛び出していった。
またか、良く待たされる日だなと思いながら待っていると、日本人をひとり連れてきた。
時間も時間だったので日本人留学生が残ってるか、慌てて探しに行って偶然居た一人見つけて戻ってきたのだ。 彼はこのビジネスカレッジの生徒で、とても流暢な英語を話している姿がとても格好良く見えて今唯一頼れる人だった。 話している相手は偶然にも英語の先生で後にクラスを受けることになるとは知る由もない。
私は彼に空港での出来事を説明した。
彼はその内容を先生に通訳してくれた。
やはりVISAが無いと言う。
VISAなんて見たことも聞いたこともなかった私は、どこでもらえるものか聞くとI20FORMを持って日本にある米国大使館へ行き申請するとくれると説明を受けた。
その時先生がじっと目を凝らして私のI20を見つめて驚いて、彼に書面に指さしながら何か説明した。
彼は振り返り私に、このI20は学校が全てが記載しているが、
I20に肝心のサインが無い
忘れて漏れたようだ。
本当に申し訳ないと誤っていると言って、そのフォームの最下部の署名欄を指さした。
それなら今サインしてもらって、こちらHonoluluの役所へ持って行けばいいんですねと尋ねた。 このI20は留学VISAを申請するときに必須な書類とのこと。 ゆえにホノルルでは多分無理なので、一旦帰国して日本で申請しに戻り出直すしかないと言われた。 出直しと簡単に言われても、また往復の高額な航空運賃が必要になる。 この当時はまだディスカウントチケットが無かったのだ。
思わず何とか方法を考えて欲しいと懇願したが空しく終わった。
先生は急ぎI20へサインをすると一旦事務所奥へ入っていった。
私: ところでここはどこですか? Waikikiから遠いんですか?
生: ダウンタウンですよ、Waikikiから15分かからない所です
私: VISA無いと帰るしかないんですか?
生: そうですね
でもイミグレーションで話してみたらどうですか
私: VISAは幾らですか?
生: こちらでは知らないけど、日本では安いですよ
私: こっちに来て長いんですか?
生: ようやく2年半ですよ
時間も遅くなって気が付けが、夜7時前になっていた。
彼も早く帰りたそうで、私との話も適当にしていたことに気が付いた。 そこへ先生がI20を持ってきて、書類を自慢げに私に渡しサインを指さして見せてくれた。 そもそも忘れるな!
先生が彼に付け加えて話をした。
先: 今夜泊まるところはあるか?
私: ないです、ここに来たら寮がると書いていました
と話したら、またまた大慌てで大変だ宿泊先を探すから少し待っててと言われた。
時間も遅くなってきたから探せるかわからないと言われ待った。
お腹も空いていて本当に疲弊していた私は、早くワイキキへ行ってご飯を食べて寝たかった。 このとき本当に留学あきらめて、観光して帰ろうと考えていた。
私: Waikikiに行けばどこかホテルに泊まれますよね?
生: 高いですよ
私: もともと数泊はそのつもりで来ましたから
先生に話してみてください
生: 今探しているようなので戻ったら聞いてみます
先: 見つかったよ
私: サンキュー
先: 場所はここだとメモを見せてくれた
私: はぁ、ややこしい 英語や
またか、探すの苦労するなぁ
先: 自分で行けるか?
私: タクシー乗っていけますか?
先: 帰り道だから乗せてってやろう
私: ありがとうございます
と、ここで通訳してくれた彼は急ぎ早に帰って行った。
先生は「Stay OK #%$!&%$#」と両手のひらを下へ抑えるようにし、何度も確認するかのように私に待つようにと言った。 少しして先生が階段から上がってきて、着いてくるようにと手招きしてくれたので、階段を下りて行った。 1台の車が目の前に停まっていた。
先生がトランクを開けてサムソナイトを入れてくれて、助手席のドアを開けて私を乗せて走り出した。
現地のビジネスアワー営業時間が過ぎていたのでみんな焦っていたいたのだった。
宿泊するところへ向かう道々色々と話しかけてはくれるが、全く何を言っているかさっぱり耳に入ってこない。 偶に日本語が出てきたかなと思ってが、聞こえるはずもない。 良く解らないまま何とか聞こうとしている自分に気づいた。 やはり片言の日本語(単語)が聞こえたりする。 先生のたどたどしい日本語が聞こえた時、私はたどたどしい英語でYesとNoで応えた。 外国人は英語と決めつけている脳には、彼が話す英語の合間の折角の片言の日本語はなかなかむつかしい。
日本語が聞こえてこない…不思議だった。
10分足らずで宿泊場所へ着いた。 教会のように見えたが、十字の印は見当たらなかった。 車を降りてサムソナイトを持って先生に付いて入っていくと、日本人と思われるお年寄りのおばあさんが待っていた。 彼はおばあさんと少し話をして、私の手を取って「#%$!&%$# Good Night #%$!&%$#」と言って帰っていった。
宿泊場所はお寺
残された私におばあさんが話しかけてくれた。
婆: トオイトコロヘヨクキタネ、タイヘンダッタデショ
ワタシハニッケイニセイ、
ワカル? ニホンゴハナセマス
私: 日本語出来るんですね、良かった嬉しいです
おばあさんの日本語は英語交じりで、日本語のイントネーションとは違ったが通じることに安心した。 ただ住んで長かったせいだろうか、日本語を話すがとても話しにくい様子がうかがえた。
彼女は私自身のことを聞きはじめた。
ナニシニクル?
ドコカラキタ?
ナンサイ?
などと、話しながらパスポート見せてというので、渡すと大きな机に向かいなにやら書き留めていた。 紙を数枚出して数カ所へ署名するように言われたので、指さす場所へ普通にアルファベットで署名した。
初めてのサインだった。
おばあさんは書類を机にしまうと、少し待って言いと部屋から出て行った。
少しして一人連れて戻ってきた。 この方はいわゆるお坊さんの見習いの人で、こちらに来てまだ2年ということで当然日本語が話せました。
おばあさんは彼に、あなたはお兄さんだから私と仲良くして助けてあげなさいと紹介してくれた。 日本語が通じる彼に心から「助かったぁ」と思ったが、彼は全く興味なさそうだった。 お酒の匂いがプンプン振り撒きながら、私の手を取って「よろしくー」と挨拶を交わした。
彼はここはShinshu Kyokai浄土真宗のお寺だと説明してくれた。 この敷地内にDomitory(寮)があり、そこに寝泊まりすると言い禁止事項を早口で説明してくれた。 その後、寮を案内するからと部屋を一緒に出た。
最初に既に終わっていた食堂を案内され朝ごはん晩ご飯の時間を説明してくれた。 次にシャワー・トイレの場所を案内してくれた。 シャワーは横一列になって仕切り板もなく、後ろにはトイレが横の仕切り板だけで前面開放だったことに衝撃を驚いた。 彼は急いでいたのか面倒だったのか、全て早口でささっと最後に部屋へと案内してくれた。 机とベッドがふたつずつ、先客が居るみたいだったが姿は見えない。 空いているベッドを指さし、ここが君のベッド分らないことあればいつでも聞いてください。 荷物を置いて、晩ご飯はないかと聞くと、「食堂はもう終わってるから無いよ、では」と言って足早に部屋を出て行った。
呆然としてベッドに座っていると、真っ黒に日焼けしたこの部屋の先客のような少年が入ってきて「Hi I'm Randy」と声をかけてきた。
私: How do you do
R: Are you Japanese?
私: Yes
R: Where are you from Tokyo Osaka?
私: Osaka
R: how old are you?
私: 19 years old
R: Okey See you
私: ????
これは彼がゆっくりと、幾度も幾度も言ってくれてたので理解できた。 他にも何か言ってくれてたようだけど会話は成りたたない。 ランディはすぐに部屋を出て行った。
ひもじい長い一日
ふと時計をみるともう夜8時を過ぎていた。
お腹が空いた。
食堂へ行ってみると、キッチンの床を清掃している人が2名だけで、食べれそうなものが見当たらなかった。 教会の門を出てみたが、真っ暗でレストランぽい看板も見えなかった。 向かいにライトアップされた教会だけあったが、それ以外通りの左右の見える範囲には明かりも無かった。
自分が連れてこられた場所も全く見当もつかず、一人で通りを出ていくには「戻ってこれない」危険を孕んでいたので諦めた。 明日の朝ご飯まで我慢しようときめて部屋へ戻った。
不安と焦りでパニックてばかりの時間で、最後に口にしたのは40時間弱ほど前、羽田空港でのパンとコーラだけだった。
事前の情報もない知らない場所で、解らない言葉、知り合いもいないし頭も痛かった。 ワイキキにさえいければ食い物にありつけたのに、こんなところへ連れてこられてと腹立たしく思えた。
夜は少し肌寒いものの日中のてんやわんやで、汗かいてたのでシャワーして寝ようとシャワールームへ行ってみたが、だだっ広いそこは薄暗く怖くて長居する気にはなれなかったのでそのまま寝ることした。 寮の廊下の突き当りに冷水機があったので、水をお腹一杯飲んだ。
部屋に戻り、サムソナイトから目覚まし時計だけ出して鍵をかけ、朝食の時間にセットしてベッドで横になたがなかなか寝れなかった。
10時過ぎに戻ってきたランディ君は、ベッドに入るとすぐに寝たようだ。 明日からどうしよう方考えているとほどなく寝落ちしたようで、爆睡した。
本当に疲弊していた。
この国が嫌いになったほど疲弊していた。
ここへ家出して来たことも深く反省した。
観光で引率の後ろをついていくことが、いかに安全でいいものなのかと心底思った。
はっと目が覚めて目覚ましを見ると10時半、慌てて食堂へ駆け込むもすでに終了していた。
がぁーん、逃した!
また食べれない!!
目覚ましが鳴ったのだろうと思うが、疲れすぎていて聞こえなかったのだろう。 お昼ご飯まで待とうと諦めるしかなかった。 また冷水機に立ち寄り一杯飲んだ。 シャワー室へ行くと数人がシャワーを浴びていたので、私も恥ずかしながら、シャワーを浴びた。
さっぱりして、12時になって急いで食堂へ行ったが、どうもお昼は提供されていない。
もういや。
このひもじさ辛い。
悲しい。
どうしろ言うねん、と怒りさえ覚えた。 やむを得ないので、思い切って勇気を振り絞って外へ出てみようと考え門を出た。 先ずは戻ってこれるように、目視できる移動をと注意しようと考えた。 左へ1km前後歩いてみたが、食べれそうなところはなかった。 門まで戻り、次は右へ1kmほど歩いてみたが、やはりなかった。

右側から戻る途中、寮から一番近い筋があったので曲がってみたら細い通り Young St へ出た。
左右を見てみるとお店がいくつか目に入ったので、とりあえず一番手前の小さなお店に入ってみた。
小さなスーパーみたいで勇気をもって入ってみた。
急いで食べ物を物色していたら食パンはあったが菓子パンが無かった。
菓子売り場に置いてあった、縦8cm横2~3cm高さ2cmのパッケージにクラッカーとチーズがセットになったものを見つけた。
手に取ってじっと見るが読めるわけもない。
とりあえず5個、チョコレート、りんご1個にコーラ1本を手に取ってレジへ進んだ。
黙って20ドル紙幣出した。 お釣りをもらって急いで寮へ戻った。
袋からとりだして、コーラを一口飲みりんごにかぶりついた。
矢継ぎ早にクラッカーの封を剥がしてクラッカーを1枚出して、横にあるカーキ色のものを鼻に近づけてに匂ってみた。
「臭っ」
腐っているのかと思い、1パック目はクラッカーだけ食べた。
これまでこのような癖のあるものを食べたことが無かった。
次のパックも開けてみるとまた同じなので、信じ難いがこういうものなんだと思うことにした。
疑念を持ちながらほんの少し人差し指に少しつけ味見してみた、食べれないこともなさそうなのでクラッカーにつけて口にしたがやはり腐っているような感覚を覚えた。
三つ目を開けて匂うとやはり同じ匂いがしたが、食べ進めると匂いに慣れてきたのか気にならなくなってきたので残りを一気に夢中で、コーラでと一緒に流し込んだ。
※この時代、チーズはまだまだポピュラーではなかった。
雪印の6Pが唯一普通に売られていたが、一般庶民の家庭には当たり前には食べられていなかったし、まして独特な匂いもさほど強いものでもなかった。
余談だけど、私が初めてケチャップは小学校4年生の時で、6Pチーズを口にしたのは中学校2年生の時、マヨネーズは中学2年生の時だった。
食べ終わるとやはり口の中に少し違和感があったので、チョコレートをむさぼり口の中を甘くした。
食べながら、お釣りの紙幣とコインを見ながら、大きさの順番に並べてどれが幾ら使ったのか日本円換算しながら数えた。
一番小さな銀色のコインは小さいにも関わらず、次に大きい銅褐色のコインより明らかに高そうに見えた。
またその次に大きなコインと比較しても、その輝きは高そうに見えた。
旅行の本をサムソナイトから出して、お金の写真が載っているページを眺めながら「これは注意しないとな」と、ぶつぶつ呟きながら久しぶりの束の間の食事を手に入れることができた自分がたもしく嬉しくて一人で満足していた。
これで、晩ご飯まで絶対寝ないぞ、今夜は必ずレストランへ行って食べるぞと思いながら、夕食までの残りの時間をどう過ごそうかと考え始めた。
「ふと、そうだ3日以内に移民局へ出頭しなくては」と思い出し、メモ書きの住所を見ても、今いる場所すら不明な私にはわかるはずもない。
そこで、オーナーのおばあさんのところへ一緒に行ってもらえるか聞きに行くことにした。
遅めのランチに出かけているらしく、夕方に来てくれと事務所の方が片言の日本語で応対してくれたので、一旦部屋へ戻り出直すことにした。
常夏のハワイのはずが、気候のいい4月の中旬だったので、初めて見るルーバー窓を少し開放すると爽やかな涼しい風が入ってきて全く暑くない。
ベッドにいると疲れていようがいまいが、自然に寝落ちするほど寝るには最高な場所だと思った。
時間はまだあるので先ほど行った小さなスーパー(Grocery Shop)へ足を運び今度はもう少し多めに仕込むことにした。
今度は、日本のおかきのようなMade In USAのもと、さっきのクラッカーとチーズセットをもうお5つ買っておいた。
時間も4時を回りオーナーの事務所へ行くと、おばあさんが帰ってきてデスクに座っていた。
空港での出来事を説明した。
私: 移民局出頭しないとダメなんですが、歩いて行けますか?
オ: アルク ワ トオイ
私: 一緒に連れて行ってください
オ: ワタシノシリアイノタクシードライバータスケテクレルヨ
オネガイシマスショ
私: えっ!? でも言葉ができないです
オ: カレハニホンゴデキマス
私: 本当ですか、お願いします
オ: アトデデンワシマス
アシタアサ10ジニココニキテ
私: 分かりました、ありがとうございます
翌朝なんとか頑張って起きて食堂へ、慣れない朝ごはんに見様見真似で黙ってトレイを差し出すと食べれそうなものを乗せてくれた。
卵料理や他のオーダーもできたのだろうが、英語がわからないだけでなく料理名すら知らない私には出されたものが食べるものがだった。
レストランには数人の日本人の学生に見える子たちが固まって食べていた。
私の方を珍しそうにチラチラと見ている様子だったが、ささっと食べて部屋に戻ってハワイっぽい支度をした。
と言っても、アロハもジーンズもなく普通にシャツとスラックスです。
10時前におばあさんのオフィスへ行くと、優しそうな顔立ちの運転手らしき人が既にいた。
おばあさんが紹介をしてくれた。
タクシードライバーはUncle Danielさんで、「コンニチワ」と握手を求められたので、「How do you do」と手を出して唯一できる英語で応えた。
おばあさんとジョージは話の続きをして、おばあさんに見送られて出かけることになった。
車の後部座席に乗ると、「マエガ ケシキ イイネ」って言われたので横に乗った。
Danielさんは時たま英語混じりで話すも、私が解らないと思うと色々とゼスチャーや優しい単語と片言の日本語で言葉の連想ゲームのように話してくれた。
そして道々空港での出来事を説明しながら車は走っていきました。
D: ヨシオカサン ワ ドコカラキマシタ
私: 大阪です
D: タイヘンダッタネ
イミグレーションハ キビシイデス
私: えっ!? 厳しいのですか?
D: ハイ キツイデスネ
私: 一人では戻れないので、着いたら終わるまで待っていてほしいです
お金は払います
D: ダイジョウブ マッテマスネ
私: 日本語で通じますか?
D: オソラク ムリデスネ
私: 一緒についてきて通訳お願いできますか?
お金はいくらでも払います
D: オオ、オッケー
ダイジョウブ イッショニ イキマショ
と、不安を払拭できるほど優しく丁寧に引き受けてくれました。
移民局へ着くと車を停めて、Danielさんの後ろをついて中へ入っていきました。
受付で出頭の話をしたようで、受付の人の指さされる方向へ進んでいきました。
もう記憶もないほどドキドキしていたので、入っていった部屋の様子以外は記憶にない。
入った部屋は、前方には一段高いカウンターのような長いデスクあり、女性の黒い服をを来た人が座っており簡単な裁判所の作りのような部屋だったと記憶している。
今思えば、後に米国映画でよく出てくるシーンに似ていて、次々と陳述をして即決する簡易裁判だったのかもしれない。
Danielさんに「学校に入りたいから何とかVISAを出してほしい」と懇願するようにお願いしたが無理なようでした。
良く解らないまま、彼は私の意志だけを偶に聞き女性の人と話していた。
会話の内容は全く解らないが、なんとかVISAの発給を交渉しているのだと思いながら斜め後ろに立っているだけでした。
Danielさんが振り返り、
D: VISA ダメト イッテマス
ムツカシイデスネ
アトワ サイバン イッテマス
私: えっ? 裁判... 裁判すればVISAくれますか?
D: サイバン ワ カテナイデス マケマス
私: 負けたらどうなるのですか?
D: モウ アメリカ クルコト デキナイデス
私: 1か月だけでも滞在できないですか?
D: ダメ ト イッテマス
ドウシマスカ
私: 私はこの後どうすればいいですか?
と、前の女性とやり取りしながら交渉してくれているように見えました。
D: イチド ニホンヘカエッテ アメリカタイシカンデ ビザ トリマス
私: えっ? ...殺生な!
いつ帰らなければならないですか?
D: イマ ハナシテ アト3ニチ タイザイデキマス
私: 解りました
ありがとう
Danielさんは、私を見て気の毒そうに
ニホン モドッテ VISAモッテクルト イイデスネ
スクールニイケマス ハワイイイデス
などと色々と話しかけてくれてなだめてくれた。
移民局を出てくるとすでに12時半を過ぎていた。
寮に戻っても昼食はクラッカーとチーズの例のものしかなく飢えていたので、この時とばかりにやさしいDanielさんご飯を食べる場所へ連れて行ってもらおう思い、一緒に食べようと持ち掛けると快諾してくれた。
着いたところは、今はもう無いようだがリトル・ジョージといういかにも大人な雰囲気のステーキレストランさんだった。
通訳も居るし久しぶりのまともな食事ができる喜びと安心感で嬉しかった。
もちろん大好物のステーキを、メニューの写真を見てお願いした。
お腹一杯食べた。
この食事の間、ハワイのことを色々と教えてくれて困ったら電話しておいでと名刺もくれました。
レストランの支払いを済ませ寮へ戻った。
寮に着くとタクシー代とチップを払おうとすると、ほぼ半日以上の貸し切り状態にもかかわらず「5$でいいよ」破格値で助けてもらった。
感謝しかない「Thank you」。
これまで、異国の知らない人に助けられて本当にVISAの件は別として、出会った人たちに感謝しかない。
日本を出る前には治安が悪いとか騙されるとか色々とネガティブなことばかり聞いていたが今のところ良い面しか見えない。
アメリカは危ないなんて嘘だ。
数日ぶりに満腹感に浸り一旦寮の部屋へ戻った。
心地よい風が入って涼しい。
ベッドに横たわり作戦を練りながら夢の中へ入っていった。 後まるまる2日は滞在できる。
もう帰国したら戻ってこないのだから、満喫して帰ろう。
折角だから残された時間は、楽しめることを沢山しよう。
とわ言え、さて何をしようかな?
何すればいいんだろう?
飛行機代は高額だし、もう戻っては来ないだろうし何をしようかと考えたり切ないなぁと思いながら居ると、晩ご飯の時間になっていた。
食堂へ行き、少し勇気をもって他のテーブルで食べているみんなと同じメインディッシュを頼みたい。 食堂の人になにか聞かれているが、解らないので、ささっと歩いて近くのテーブルで食べている子のトレイを指さした。 通じたようで、なんとかトレイに乗せることができた。
また、真ん中あたりの空いている席に座って食べていると、先日見た日本人留学生達がこちらをジロジロと見ているのでニコッと返した。 すると一人がすくっと立ち上がり近づいてきた。
「日本の方ですか」と声をかけてくれた。
ハイと答えると、彼は振り返り私のテーブルへと他の二人に手招きして呼んで私の向かいへ座った。
みんなどこ出身の誰々と簡単な自己紹介をして、私に色々なことを聞いたり話したりと話が弾んでいった。
九州から来て3年目の16才高校12年生の信ちゃん、大阪出身約半年弱の17才高校3年生康ちゃん、神奈川出身2年目の高校3年生18才淳君との出会いだった。
信ちゃんは私立の名門高校へ通っていて、康ちゃん、淳君はハワイ大学にあるESL語学プログラムのHELPへ通っていた。
彼らは私に語学習得ならハワイ大学マノア校 N.I.C.E.とH.E.L.P.プログラムがある詳細に教えてくれた。
私はキャノンビジネススクールのESLプログラムへ行くと話した。
後にNICEは日本の芸能人のハワイ大学留学の場所となり有名になっていった。
NICEはスピーキング、HELPはハワイ大へ入学時の英語スキルTOEFL対策のプログラムとして開講していた。
彼らと話す中で私のVISAのことを話し帰国しなくてはならないことに驚きながら、東京へ戻り港区虎ノ門にある米国大使館へ行くと簡単にVISAが取れることを詳しく教えてえくれた。
加えてハワイは良いと必ず戻ってくるようにと言ってくれて、残りの時間を一緒に過ごそうと誘ってくれた。
この夜は食事のあと私の部屋に来て、結構遅くまで色々とハワイでの生活など教えてくれた。
日本を出てからほぼまともに話などする機会がなく、機会があっても解らない英語交じりだったので、久しぶりに会話できる喜びを感じた。
それどころか、一瞬にして不安がなくなり残りの時間を安心して過ごせると思い心の中で嬉しくて仕方なかった。
安堵感を感じながら本当に熟睡した。
翌朝少し寝坊し、慌てて心ワクワクと彼らに会いに食堂へ行くと誰も居なかった。
食堂の時間ギリギリだったせいだ。
ささっとご飯を食べて、昨日聞いていた彼らの部屋を訪ねてみたが、誰もいない。
「もう海にでもいったのか、冷たいなぁ」と意気消沈していると、寝て無理居落ちた。
目が覚めてが暇で仕方ないので、寮の前にあるS Beretania Stを左(北)へ1~2km歩いてみた。
もとへ戻り次に右(南)へ1~2km歩いてみた。
やはり前に来たハワイと違う景色だ。
ワイキキらしい景色を探せない。
今度は、寮の裏手GroceryShopのあるYoung Stを同様に歩いてみようと思ったが道が細いので期待を持てないのでやめた。
ひとつ先の通りまで歩くと6車線の広いS King St通りに出た。
南北へまた歩いてみた。
やはりワイキキが見当たらない。
止むなくまた小さなGroceryShop(スーパー)へ入り、またクラッカーとチョコレートバーを買ってお昼にした。
今の人には想像がつかないと思いますが、当時ポテトチップ、コーンチップ、ポップコーンなどのスナック菓子はなく食べたことが無いものでした。
しょぼい昼食を済ませたら、また眠くなり寝落ちした。
午後になると徐々に廊下に人の気配がしてきた。
康ちゃんと淳君が部屋に来たので、どこへ行ったのかと尋ねると学校へ行ってきたと言った。
考えてみれば彼らは学校があったのだ。
3人で食堂へ降りて行くと、そこには白人や黒人にアジア系の子達がちらほらと勉強していた。
私達はまたいろんな話をしてた。
やがて時間も夕食の時間になり、次から次へと学生たちが集まってきた。
信ちゃんも帰ってきたようで、私たちのところにやってきた。
私に残された滞在時間はあと一日もないので、晩ご飯ご馳走するから外へ食べに行こうと誘った。
出来ればワイキキへ行きたいと言うと、彼らは高いから近くのレストランへ行こうというので、彼らについてS King Stの反対側にあったレストランZippy'sへ入った。
見るからにローカルで私にとっては映画に出てくるような雰囲気のおしゃれな外国のレストランだった。
入って席に案内された。
席に着くと白人のウェイトレスがメニューを持ってきて、なにやら言っている。
「何か飲み物注文しますか?」と私に説明してくれた。
聞くと海外では食事の前にアルコールなどを注文するのが普通だと言うので、お酒を飲まない私は飲みなれていないコーヒーを注文してとお願いした。
幸いメニューには写真が載っていて選びやすいが、どれもこれもこれまで目にしたことのない食べ物ばかりで想像がつかない。 ワイキキのホテルのレストランとは大違いだった。
それどころか肉類が好きでないし鳥と豚は絶対食べない食わず嫌いなので、安心して口に運べるものを選ぶのに苦労した。
口いっぱいに頬張れそうなものを見ては彼らに「これはなに?」とひとつずつ訪ねながら、結局はスパゲッティミートソースに似たこちらでは名物なものらしいチリスパゲッティを選んだ。
まぁ食べれないことはなかった。
後にこのチリソースが大好物になった。
※ 加筆・編集中 続きます
