念仏は方法なのか? -方法論と存在論-
念仏は方法なのか? -方法論と存在論-
私たちは一人ひとり、誰にもとってかわることのできない命を生きています。ひとり生まれ、ひとり死んでいくこの私の代わりはいません。「社員は会社の歯車だ」「いくらでも代わりがいる」という嫌な考え方も社会の中に存在しますが、それはその会社内での役割に過ぎません。あなたには所属による役割がありますが、役割はあなたではありません。例えば、私はお寺の坊主、幼稚園の教員、家に帰れば子どものお父さん、犬にとっては飼い主のひとり、ある喫茶店にとっては毎週月曜・水曜の昼に来る常連・・・と複数の役割を持っています。しかしこの中のどれか一つを取り上げて拡大してみても私自身は表せません。役割=ラベルを自分自身だと思い込んでしまうと、自分が分からなくなります。
『バカの壁』で有名な養老孟子先生は「何かをしたから、おかげでこういう結果になった。こう考えたがる人間の性向を、私は「ああすれば、こうなる」型の思考と呼ぶ。これこそ、脳化社会の基本思想である。」と書かれています。私はこの考え方は科学由来のものだと考えています。“設定されたある条件下で特定の行動をした場合、一定量の結果が得られる”、これが科学の根本です。ある行動をしたらある結果が得られた、ある結果が得られた際にある行動があった、これをいくつもいくつも集めて、その統計の中で最も確からしい結果を抽出するのが科学です。雨雲があったから、雨が降った。雨雲があったけど、雨が降らなかった。何回分も集まったデータを基に考えたら、どうやら雨雲があると雨が降りやすいことが分かった。科学ですね。このように統計から確からしい結果を導き出せると、次は再現しようとします。同一の条件を揃えて、一定の働きかけをして、同じ結果が得られるまで試行する。できなかったらやり直し、できたら記録する。このような科学は確かに私たちの社会生活を豊かにしましたが、それと同時に、私自身ということは分からなくさせてしまいます。
この私を再現することはできません。科学がより発展していけば、形くらいだったらマネできるかもしれませんし、脳の電気信号ならマネできるかもしれません。しかし、ひとり生れてひとり死んでいくこの私をそっくりそのまま再現することはできません。科学は方法論です。
方法論に軸足を置くと、誰にも代わることのできない命を生きていることを忘れ、同一化、均一化された量産型の命を生きていると考えてしまいます。人間は科学で自然を管理して文明を発展させてきましたが、今は自然どころか人間さえも管理する社会です。人間が人間を管理します。管理する側にとっては管理される側に個が無い方が楽です。管理する側は役割だけを求めて、される側は求められた役割の仕事だけ返せば良いのです。求めた役割以外は必要ありません。子どもの発熱のために頻繁に仕事を抜ける社員と、仕事を抜けないといけないプライベートの発生しない社員であれば、どちらが会社にとってありがたい人材であるかは明白です。しかしこれは方法論に過ぎないことは理解が必要です。方法論でしか無かった科学を人間の存在に適用させてしまうことに落とし穴があります。
方法論に支配されると、人間は個を忘れます。自分という個を忘れた人はラベルを自分だと思い込みます。そうすると役割を満たせているときは良いかもしれませんが、調子が悪くなると、自分には代わりがいるんだ…自分がいなくなっても何も変わらない・・・私の存在価値とは・・・となっていくんですね。科学の考え方を自分の思想にしてしまうことで起きる苦しみです。確かにラベルには代わりがあるかもしれません。しかしラベルを剥がしたところの自分には代わりはありません。方法論に頭を支配されて、これが分からなくなってきているんだと思います。(勘違いしてはいけない点として、ラベルを剥がしたところの自己が不変的で真実の存在であるという意味ではありません。ラベル無きところに自己あらず、自己無きところにラベルあらず。)
そうすると、仏教は存在論です。見た目は方法論ですね。確かにぱっと見は方法論に思えますが、思考していくとやっぱり存在論であります。方法論の仏教もあるかもしれませんが、浄土真宗においては存在論であるというのが私の確信するところです。
「念仏を称えると仏に救われる」これが浄土真宗の本題です。文字通りに受け取ると方法論ですね。「念仏を称える」という方法で「仏に救われる」という結果が得られると読むことができます。シンプルで分かりやすいテーゼでありながら、その実情は非常に難解であります。これがただの分かりやすい方法論で済んでいたならば清沢満之、西田幾多郎、鈴木大拙らの名は今に残らなかったと思います。
私が思うに「念仏を救うと仏に救われる」というのは大衆に向けて一般化したテーゼに過ぎません。浄土真宗とは何ぞやとひとことで説明することができないから、本意に外れないようにシンプルに表現した言い方の一つです。では大衆に向けず、自己の救いを考えたときにこの命題をいかに表すか。
「念仏を称え仏に救われる道しかこの私にはないと知る」であります。本願寺前門主である大谷光真氏は著書『世の中安穏なれ 現代社会と仏教』の中で「浄土真宗では、「念仏を称えれば救われる」よりも、「念仏を称える身になって救われる」と言う方がしっくりします。念仏を救いの条件としないからです。」と書かれています。称名念仏したときに出会っている阿弥陀仏は、自己の全肯定者であります。ラベルも自己も併せて全てを肯定する絶対無限です。念仏を称えた作用で絶対無限に出会うと言えば方法論になりますが、その実は絶対無限に出会ったところに同時に称名念仏がある・念仏を称える身になっている。苦しみの中にいた自分がいつの間にかすくわれている、存在論です。
ラベルのみを要求する科学的社会に疲弊して自己の存在意義が分からなくなった現代人こそ、潜在的に絶対肯定者を希求しているのではないかと思います。誰にもとってかわることのできない命を生きていることを忘れ、苦しみの中で自己の存在理由を求めたときに、「そのまますくう。あなたのすべてを受け入れる。」の声が響きます。社会生活の場では求められるラベルを提供する無個性ロボットであっても、命の現場ではあなたは誰にもかわることのできないたったひとりです。あなたはあなたのままでよい。勝手な言葉ではありません。あなたをあなたのままに全肯定する絶対の言葉です。
