SS『落ちた蝶、ブラジルの皆さんへ』
「元気出しなよ」
「うん、大丈夫大丈夫」
掴まれた肩が力まないよう気につける。笑顔は貼りついたまま、もう、どれくらい経つだろう。考えない。置かれた手に、きゅう、と力が入った。
「……これからだから」
「うん」
着慣れないスーツに皺が寄る。静かに離れていった手が振られて、友達は駆けていった。わたしも手を振る。笑ったままだった。
「……」
気を抜けば漏れそうな息を飲み込む。胃に落ちて、重たい。植え込みの縁に座り込んだ。慣れないパンプスが痛い。ただ、痛い。
「……痛い」
暑い。もう夏なのに。スーツを着て、知らない人たちにただ品定めされる毎日。そのくせ、メールには同じ定型文ばかりが送られてくる。
遠くで、いや近くか、雷が鳴った。降るなら降れよ。縁に手を置き、見上げる。白い空に薄いグレーが掛かっていた。ふと、何かが手に触れる。見下げる。季節外れの小さな蝶だ。ふわふわと、広い世界へ飛び立とうとする。
夏の雨が軽やかに降り出す。その粒は大きくない。しかし、いくつかに当てられて、そして、落ちた。
「ばかね」
雨の匂いがしていたのに。アスファルトに溜まっていく水の中、蠢くそれを見ていた。雨はまだ止みそうにない。鱗粉も敵わないだろう。
土であればよかったのに。そうすれば、ブラジル辺りに行けたかもしれないのに。
「……ふふっ、ブラジルね」
誰のネタだったか思い出せない。蝶はもう動かなくなっていた。
立ち上がる。スーツが重たい。雨の匂いを吸っていた。目を下げる。流されたのか、蝶は植え込みの端から生えた雑草に引っ掛かっていた。
「行けるといいね」
雷がまた鳴った。傘はない。明日、スーツはまだ、雨の匂いがするだろうか。
歩き出す。雨はきっと、まだ止まない。蝶はもう飛べない。ただ、わたしはまだ歩ける。
「ブラジルの皆さんへ、」
笑った。
