とある介護士の記録|第五話 504号室
504号室
辞めると決めてから、何も行動できていない。そんな自分に嫌気がさす。心の中で言い訳ばかりして、先延ばしにしている。
自分がどこにいるのか、もうわからない。
私はもう、私自身の形を成していない。
ノックをする。返事はない。けれど、無言の扉を開けるのも、もう慣れた。
「こんにちは、佐々木さん。お風呂の時間ですよ」
返事はない。いつものように壁を見つめている。
さっき、電話では孫と笑って話していたはずなのに、その笑顔はどこにもない。
この老人は、スイッチのように、オンとオフを切り替える。
3日前は入浴拒否だったと、坂田が言っていた。
この老人は、3回に一回しか風呂に入らない。前々回は確か入浴済みとあったはずだ。
だけど、今日どうするのか、それは本人しか知らない。
入浴のための時間は1時間だ。入らないなら拭くだけ、入るなら早くスタートを切りたい。
この仕事には、「見えないルール」がたくさんある。
時間を読み、空気を読み、相手を読む。外れても怒られないが、当たらないと進まない。
部屋の中は暑い。エアコンはついているはずなのに、空気がじっとりと肌に張りついてくる。
この部屋の匂いは独特だ。本人が出しているのか、生活が染みついたのか、もうわからない。
「おトイレはお済みですか? お手伝いしましょうか?」
声をかけながら、笑顔を作る。誰にも見られていないのに。
佐々木は、壁を見たまま、ようやく口を開いた。
「……うるさい」
たったひと言で、すべてが切られる。
私は、笑ったまま、視線だけ落とす。
「すみません。もうお風呂は溜めてあるので、サッと入りませんか」
「ふん」
「シャワーだけでも大丈夫ですよ」
「ふん」
鼻息とともに、この部屋の匂いが私に飛びかかってくる。
予想通りだが入る気はないらしい。時間だけが過ぎる。色々な言葉を投げかけても「ふん」という息しか返ってこない。
会話のキャッチボールというが、ボールが紙風船だ。放つたびに空気が抜ける。ふん
攻防の末に、なんとか身体を拭く許可をもらった。急いで準備をする。バケツに熱めのお湯とタオルを持って部屋に戻る。残り時間は、30分。余裕だ。
タオルを硬く絞ったところで、佐々木は声を出した。
「風呂に入る」
ふざけるな!と心の中で叫ぶ。
「すみません。残り時間があまりないのですが...」
「構わん」
構えよ。私はあんたの次も、岡村や坂田の目もあるんだよ。
風呂場に着いた頃には残り20分だ。浴室の扉を開けると、湯気が視界をぼやけさせる。一瞬で汗が噴き出るが、佐々木は涼しい顔で車椅子に座っている。
浴室の手すりに誘導し、立つように声をかける。よろよろと手を伸ばすが全然力が入っていない。
腰を支え、ゆっくり立ち上がらせる。私にほとんどの体重を預けながら浴室のイスまで手すりをつたう。
のろい、のろすぎる。
太っているのにしわしわの身体が、私に重くのしかかる。
丁寧に、しかし素早く体を洗い、浴槽につける。
「そろそろあがりましょうか」
声をかけるも返事はない。耳に水でも入ったんだろう。
そう自分に言い聞かせ、浴槽の縁に足をかけ、脇の下に手を入れて立ち上がらせた。
なんとか服を着せた頃には、私の方が風呂上がりだ。時間を5分過ぎている。
ツーっと汗が額を滑る。
ポタ
佐々木の肩に落ちてしまった。着替えたばかりの服に染みる。
落ちた汗にも、咄嗟ににでた「すみません」にも、佐々木は気づかないのか、何も言わなかった。
私も、拭わなかった。
———
落ち着く間もなく、記録用紙を前にする。
ペンを走らせながら、汗が落ちないように背を丸めた。
「504号室 佐々木慎之介 入浴済み」
