とある介護士の記録|第三話 108号室
108号室
大雨だ。ザーザーと雨の音がしている。老人たちの匂いと、湿気を含んだ雨の匂いがまざって、なんともいえない空気だ。廊下の隅に置かれた空気清浄機はゴォゴォと、これでもかとフル稼働している。
「キャー!」
誰かの叫び声が聞こえた。思わず駆けつける。声の主は108号室に入っていた、新卒の真壁だ。
「どうしました!?」
転倒か急変かとバタバタとスタッフが集まってくる。
「こ、これ...」
真壁が指差したのは、洗面台だった。
そこに盛られたブツを見て、私は思わず息を止めた。
一瞬で察した先輩たちは、「あーあ」「大変だなあ」と笑いながら、各自の仕事に戻っていく。
泣きそうな顔で取り残されている、真壁。
そして騒ぎの発端となった服部は、ニヤニヤと宙を見ている。
「これ...どうしよぉ...」
これを1人で片付けるのは大変だろう。他の仕事の段取りも考えると、真壁がとてもかわいそうに思えた。彼女はいつかの私だった。
「手伝うよ」
私の一言で彼女はパッと表情を変えた。
「じゃあ私、服部さんを食堂へ連れていきます!」
いや、私が洗面台の掃除するんかい。
とズッコケそうになるのをこらえ、笑顔をつくる
「真壁さん、私106の松谷さんを食堂に連れて行かないと」
そう伝えると、
「あ!私が行きますね!ありがとうございます!」とそそくさと服部さんを連れて出て行ってしまった。
残されたのは、ブツと私。
しょうがない。手伝うと言ったのは私だし。
本当は私だって、立ち去りたかった。手伝いたくなかった。自分の時じゃなくてよかったと、さっさと自分の仕事に戻りたかった。それでも”いい人”のフリをして、私に残るのはブツだけ。いつものことだ。
浅くため息をついて、洗面台に向き直りながら、ふと鏡を見る。そこに映っていたのは、作り物の笑顔を浮かべた私だった。私は、なんのためにここにいるんだろう。
使い捨てのエプロンと手袋を装着する。トイレットペーパーや新聞紙、ゴミ袋、除菌スプレーに消臭スプレー。使えそうなものをかき集めてきた。何をするにも、まずこのブツをトイレに流さなくては。
苦しくなって、息を止めていたことに気づく。
急いで廊下に出て深呼吸をする。
ゴォゴォ
ああ、まだ味方がいた。廊下の片隅で私を応援する音がする。空気と一緒に、私のこの作り笑いも吸い取ってくれよ。
———
片付けが終わり、記録用紙を取り出した。
「108号室 服部孝 洗面台掃除 済み」
