とある介護士の記録|最終話 101号室
101号室
「変な笑い方だな」
この部屋の住人、高橋勲はベッドに横になったまま、私の顔を見て笑った。昨日よりも掠れた声だ。いつもこの老人の前では、なぜか「すみません」が出ない。そしてなんだか異様に腹が立つ。何も返せず、ただそこに在るだけの私に、高橋は言う。
「笑顔はしんどいだろう?」
「いえ、あの、大丈夫です」
スムーズに言葉が出ない。彼の目が、私の笑顔の奥を見透かしているようで、居心地が悪い。
「大丈夫ってのはな、危険な言葉だな」
高橋は続ける。
「俺は大丈夫。って言ってあんた、信じるか?」
私はじっと観察した。
皮膚は弛み、骨に張り付いている。目は落ち窪み、布団から出ている細い手は干からびている。今にも呼吸が止まってもおかしくない。死んでいると言われても驚かないだろう。
笑えないほど死に近い高橋に、なぜかフッと息が漏れた。
「まあ、大丈夫そうでは、ないですね」
「だろう?まあ、俺はな、大丈夫なんだけどな」
カサカサと笑う。
「あんたは大丈夫じゃない。俺のしわしわの顔より、あんたの顔の方がひどいぞ?鏡みたか??」
ひどい言われようだ。それがなぜか、余計に私の顔を緩めた。仮面がひび割れていくような、不思議な感覚だった。
「俺はな、もう死ぬだろ?」
「そうですね」あ、しまったと思った。だが、高橋は穏やかに笑っている。
「死ぬのは、怖いと思うか?」
そんなこと、考えたことがない。日々の業務とストレスで、自分の感情ですら手いっぱいで、他人の生や死など、深く考える余裕はなかった。
「坂田さん、おるだろう?あの人は、仕事に厳しいなあ。俺らにも厳しい。でもな、すごく気のつく奴だよ。案外細やかな仕事をする。嫌われとるだろうがな。」
高橋は穏やかに、だがはっきりとした口調で語る。
「岡村さんは、がさつだがな。あれで優しいぞ。みんなの話にちゃーんと耳を傾けとる」
「あの新人の子も、抜けとるが頑張っとるな」
私は黙って聞いていた。私の知らない、彼らの別の顔。私が「嫌なやつ」と内心で毒づいていた同僚たちを、この老人は私には見えない別の視点で見ている。彼らもまた、この過酷な現場で、それぞれのやり方で生き抜いているということか。
「あんた、この仕事向いてないなぁ」
高橋は生きてるんだか死んでるんだか、天井を見ながら微笑んでいる。
言われなくてもわかっている。だから辞めるんだ。明日にでも施設長に話すつもりだ。この言葉は、私の「辞めよう」という決意を肯定している。
「でもな、この仕事はな、向いてないやつが向いてるんだよ」
その言葉が、私の頭の中で、ぐるぐると回り続ける。向いてないやつが向いている。どういう意味だ?
私は、この仕事が好きではない。夜勤のせいで生活リズムは乱れ、肌はボロボロ。老人やスタッフのストレスの吐口にされ、心もボロボロ。やりがいをどこに感じればいいのか、もう8年経つがまだわからずにいる。でも、もしかしたら。
今終わろうとしている、その命と向き合う高橋は何を思っているんだろう。私には何ができるんだろう。何ができたんだろう。
———
101号室を出て、記録用紙を取り出した。
「101号室 高橋勲 」
ペンが止まる。
彼の「人間でいいんだ」という言葉や、同僚たちへの意外な評価、私の心の中の葛藤など、この部屋で起こった、ありとあらゆる「本当のこと」は書けない。書く欄もない。誰も求めない。
私は知っている。記録に残るのは、たった数文字の事実と、その裏に隠された、無数の「記録に残らないもの」が積み重なった、日々の業務の断片だけだ。
もう少し、続けてもいいのかもしれない。そう思いながら、ゆっくりとペンを置いた。
