22世紀にかける橋(3)――ソシュールと言語哲学ーー
ソシュール言語学を蘇らせたふたりの「ジャック」
19世紀後半から20世紀初頭にかけて「言語学」を科学として体系化したフェルディナン・ド・ソシュール、その名は、<現代の知>の根底を築いたマルクス(経済学)やフロイト(精神分析学)、アインシュタイン(物理学)らほど知られていない。
もちろん、それは一般大衆レベルの話であって、哲学・文学・批評の専門家でソシュールを知らないとしたら問題である。
が、フランスでは、事情はいささか異なる。
1960年代以降のフランスでは、前衛的文学運動と結びつく形で、哲学と精神分析学とが異様なまでの文化的高揚を現出させた。もともと、フランスでは、絵画や音楽の分野において抽象的かつ前衛的な表現が興隆していたのだが、それが文学に及んだのが60年代以降だった。
この流れに敏感に反応して「創造的思考」を展開した人々のうちの代表的な二人がジャック・ラカンとジャック・デリダだった。
彼らは、ともに、20世紀初頭のジュネーブ大学においてフェルディナン・ド・ソシュールが行った一般言語学講義の書籍版(6人の受講生のノートをアルベール・セシュエとシャルル・バイイとが編集した『一般言語学講義』)をめぐる重要な理論を産み出したのである。
これによって、言語学の入門編で触れられる「言語学の祖」でしかなかったソシュールの現代的な価値とその理論の未来的射程とが浮き彫りになったのである。
ジャック・ラカンの理論とフロイトの言語論
さて、ソシュール同様、フロイト理論も一時「過去のもの」になりかけていた。それが、ジャック・ラカンの論文集『エクリ(Écrits)』(「書かれたもの」の意)によって現在化されたのであるが、その際、ラカンは、ソシュール言語学を経由したのだった。
通常の言語学は言語を表出する主体を理論からはずしているのだが、ソシュールは「発話活動la parole」を「言語主体le sujet parlant」の行為として定義し、「発話(la parole)」は、「言語」(la langue)」という「宝庫」に蓄えられた言葉を発することによって遂行されるというように理論枠組みに組み込まれている。
この理論を精神分析の世界で展開したのがラカンである。
つまり、ラカンの有名な定式、「無意識はひとつの言語として構造化される」は、「発話(la parole)」の条件としての「言語(la langue)」にほぼ相当するではないか。また、ラカンは、これを「無意識は自分の言説であるどころか他者の言説に他ならない」ともパラフレーズしているが、これは、よりソシュールの言語学における「発話(la parole)」の規定に近づいている。
ラカンがソシュールの『一般言語学講義』を「おお、これ、フロイトの無意識のことを言ってるじゃないか!」と言いつつ読んだかどうかは知らないが、実際、ソシュールの草稿では「無意識」とか「前意識」といった語が明確に用いられて「言語」の位置づけがなされているのだ。ソシュールの言語理論がそれ自体の内部に「無意識」というエレメントをすでに組み込んでいたのである。
その意味で、20世紀冒頭の時点では理解されなかったソシュール思想の核心部分が引き出されたのはラカン以降だったと言ってもよい。
なぜ「無意識」が問題化されたのか?
端的に言えば、「意識」と「無意識」の関係において、「無意識」は創造性の源泉として機能するからである。むろん、両者の関係が破綻すれば、それは狂気をもたらす。創造と狂気とはほんの紙1枚ほどの違いでしかないわけで、絵画、音楽、文学などの芸術分野における創造的表現者は必ず一面で狂気を孕んでいる。
したがって、19世紀までの世界では、「無意識」の領域に蓋をしてきたのだ。その代わりに「神」からのインスピレーションという物語をでっちあげていた。「無意識」がもたらす創造性を「神」に帰していたのである。
しかし、20世紀は、「創造性」の源泉を「人間」そのものになかに見出したのであり、それが「無意識」だった。
キリスト教の衰退と構造主義の興隆とは表裏の関係にあるということになろう。
Intermezzo:ラカンとデリダとアルチュセール
ここでもう一人、ソシュール理論への独特のかかわり方をした思想家としてのジャック・デリダに登場してもらうことになるのだが、その前に、ジャック・ラカンとジャック・デリダには不思議な縁があることをチラと書いておく。
それは、両者が、ルイ・アルチュセール(哲学者、マルクス理論を現在化)の計らいによってパリの高等師範学校(École normale supérieure、エコール・ポリテクニークとも並び、その入学試験はフランスで最難関と言われている)の大講義室で講義をした点である。
わたしは、1989年-90年の学年のデリダの公開セミネールにデリダ研究者の浅利誠氏といっしょに参加していたが、その折に、浅利氏から「この大講義室は前にラカンも使っていたんですよ。」という話を聞いたことがある。
なぜ、浅利氏がそのようなことに言及したかと言えば、デリダにとっての最大の他者はラカンだったのではないか、という着想をもっていたかららしい。確かにそれっぽい気もしなくはない。
ただ、浅利氏らしい言い方が今も記憶に残っているーー「(講義中に)デリダがふと後ろをふりかえったら、そこにラカンがいるんじゃないかと気になる瞬間があるんじゃないかな」と。
いずれにせよ、フランス哲学史上もっとも生産的な言説が、あの高等師範学校の大講義室で展開されていたのであり、それをしきっていたのがアルチュセールであったというのは記憶に値すると、私は思うのである。
デリダの「恐ろしい手」はソシュールの論じる「意味」は「超越論的」だと批判した
「デリダの恐ろしい手」が『声と現象』や『グラマトロジーについて』でソシュール言語学における「記号学la sémiologie」には、なお、形而上学の要素があると批判したこと、は、言語哲学上の画期と言ってよい。デリダは、ソシュールの論じる「意味」は「超越論的」だと批判した、つまり、言語主体や言語の外にそれ自体としての「意味」があるという前提だという批判である。
何が言いたいかと言えば、ソシュール言語学を「能記le signfiant」と「所記le signifié」とからなる「記号le signe」という理論として捉えるような理解をデリダは批判しているということである。
このデリダの批判は、R.ヤコブソンやJ.クリステヴら、言語学者からの批判以上にソシュール言語学のクリティカル・ポイントが、その「意味」(le signifié「所記」)の捉え方にあることを突いている。
しかし、「語」を「表現」と「意味」との両面性でとらえるような理論枠組みはかなり古くまで遡ることができるのであり、ソシュールの発明ではない。だからこそ、『ソシュールの思想』の著者・丸山圭三郎氏は、晩年に至るまで、デリダの「脱構築déconstruction」の哲学に取り組み、まさにソシュール自身が言語学の「脱構築」に取り組み、それによって「記号学」を定礎établirしようとしたと論じるに至っている(『ソシュールを読む』)。
ソシュール理論自体が脱構築的であった
上に述べたように、デリダは、ソシュールの記号理論における「意味」についての規定がなお形而上学のエピステメーの内部にあると批判している・・・ように見えるが、そもそもソシュールが「差異の思想家」と言ってよいこと、具体的には、「言語の中には差異しかない(まさに差異があるのみである)Il n'y a que de différences dans la langue.」と述べていることは、デリダも百も承知なのである。
この点は、頭のいい浅田彰はしっかり『構造と力』で押さえている。また、浅田は丸山の『ソシュールの思想』における「差異と記号」についての説明を特筆引用している。これをもってしても、ソシュールが1960年代のフランス哲学の水準をすでに先取りしていると見てよい。
ソシュールが「語」を「記号」と呼び、「表現」を「能記」と、「意味」を「所記」と(これらの訳語は、『一般言語学講義』の翻訳として世界一早かった言語学者・小林英夫氏のものである)それぞれ呼んだのは、「言語学」をいずれきたるべき「記号論」の一分野として構築するためであった。
要するに、ソシュール自身の言語学には、形而上学的な言語学を脱構築しようとするモチーフがあったわけで、丸山圭三郎氏は、ゴデルによるソシュール講義の『原資料』研究およびエングラーによる学生ノートの『校訂版』を
熟読の上の立論をしているのだ。
が、あまりに精緻で、専門的な丸山氏の研究は、少なくとも日本では、今も正当な理解を得ているとは思われない。
いまだにソシュールを引用する文学研究者が、「ラングとパロール」、「能記と所記」という出発点の用語をソシュール言語学理論として引用するのを見るたびに「もっと勉強してもらいたいな」と感じる。
ゴデルとエングラーで講義ノートを読むくらいは、ソシュール研究では基礎論だが、日本での議論はあいもかわらずセシュエとバイイが編纂した『一般言語学講義』の引用からなされている。
しかし、セシュエ&バイイの『講義』は、ソシュールの思想を従来の形而上学のエピステメーの枠内に落ち着かせているのである。
丸山圭三郎の孤独
丸山圭三郎氏の血のにじむような努力を私は講義を通じて感じていた。丸山氏は還暦を迎えてすぐ、すい臓がんで他界された。無理がたたったのではないか。
その膨大な著作にもかかわらず、丸山氏の学問上の達成が正当に評価されているとは思われない。前にも書いたように、「構造主義ブーム」を批判するという立ち位置をとった丸山圭三郎は、最初から「孤独」であった。
「一般言語学講義」が生前刊行できなかった理由
伝統的な西欧の言語観において「当たり前」とされてきたのは、「言語名称目録観」である。
つまり、語は物と1対1に対応している「名称」であり、「言語」とはその「目録」だという言語観である。言語は道具にすぎず、重要なのは言語が指し示すもの(指向対象とか指示対象とか言われる)なのだという観念である。そして、これはいつの時代にも、人類に付きまとう亡霊的観念だと言ってよい。
デリダが「超越論的」と批判するのは、まさにこのパタンだ。
ところが、幼少時から比較言語学の具体的な研究を積み重ねてきたフェルディナンは、「言語」においては、「音」も「意味」も、恣意的なものでしかないということ、裏返せば、そこに必然的なものはないということ、つまり、超越論的要素などないことを身に染みて知っていた。
だが、言語の意味作用は恣意的であり、要するに所詮は「意味ありげ」なものでしかないということは、人間にとってスキャンダラスな真相を明かすことでしかないのだった。
晩年のソシュールは、この言語の恣意性をいかに既存の学術的な枠組みの中に落ち着かせることができるかに心を砕いたのだった。
しかし、彼は、友人への手紙のなかで「自分は一般言語学には向いていない」と書いている。それは、西欧の学問体系のなかでは、自身の過激なまでに根底的な思考をそのまま表現することが許されないことを知っていたからであろう。
しかしながら、少年時代から比較言語学に対する異様な興味と才能を発揮したフェルディナンは、その晩年、ジュネーブ大学で、実は半ばいやいやながら「一般言語学」の講座を引き受ける。
しかも、ソシュール自身は、自分の「一般言語学」についての考えを公刊することはなかった。その講義は、ソシュールの死後、6人の教え子のノートを集めて、シャルル・バイイとアルベール・セシュエによって『Cours de linguistique générale(一般言語学講義)』として公刊されることによって世に知られることになったのである。
「二人のソシュール」
一方、ソシュールが残した草稿群のなかに、非常に謎めいた研究ノートが大量に発見されている。それは、古代のギリシャおよびローマの叙事詩などにあらわれるアナグラムの研究であった。
むろん、これは、人間の無意識の創造性をさぐるという問題意識を秘めた研究である。
ジュリア・クリステヴァは、この分野のソシュールを言語の生産性を研究しているものとして高く評価し、『一般言語学講義』のソシュールとは別のソシュールだとした。
・・・が、このパタン、私にとって、デジャ・ヴュ観がある。
『古事記伝』を書いた本居宣長と皇国思想を喧伝した宣長を別物とした明治以来の国学研究のあり方に非常に似ているのだ。
ある思想家の内部で「脱構築的な展開」があるとき、事後的に見れば相いれない異質な主張が混在しているように見えるのは、ある意味当たり前であるが、その内部的展開を認めないで言われている結果だけを読んでいれば、「二人のソシュール」や「二人の宣長」が登場してしまうのも無理はない。
だが、人間というものは、言語の表現場によっては、一見、矛盾するような言説を発するものなのである。
時代をまたいで人類を前に進めるような存在は、前の時代と後の時代を行ったり来たりしながらものを考え、ものを書く。そこに「二人のソシュール」が登場するかに見えるのは、われわれがこちら側にしか足場を持っていないからだ。
もうそろそろ、22世紀の側に視点を前未来的に投企することを考えるべき時期に、我々はさしかかりつつあるのではないか。
