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贈衛八処士/杜甫を読む

杜甫の詩に、こんな一節がある。

人生不相見、動如参與商

人生において、人と人はなかなか会えない。
まるで参星(オリオン座)と商星(さそり座)のように、片方が昇れば片方は沈む。
同じ夜空に並ぶことはない。

この詩は杜甫が二十年ぶりに旧友と再会した夜に書かれた。

二十年という時間を想像してほしい。

あなたが二十年前に最後に会った人を、思い浮かべてほしい。
学生時代の友人でも、かつての同僚でも、若い頃によく連れ立って歩いた誰かでも、いい。

その人は今、どこにいるだろうか。

杜甫は再会の夜、驚いた。
旧友たちの鬢に白いものが混じっていた。

「訪舊半為鬼」
かつての友人の半分は、もうこの世にいない。

その事実に、腸が熱くなったと彼は書いた。

誰かが亡くなったという知らせが、若い頃より近い周波数で届くようになった。訃報を読むたびに、自分の中の何かがかすかに揺れる。
悲しみとも違う。
恐怖とも少し違う。
なんと言えばいいのか——時間というものが、確かに流れているのだという、重たい実感、とでも言うべきものだ。

杜甫が「驚呼熱中腸」と書いたとき、彼が感じていたのも、きっとそういう感覚だったのではないか。

それでも、その夜の詩は暗くない。

旧友の家に着くと、子どもたちが酒や料理を運んでくる。
雨の夜に摘んだ春の韮を刻んで、黄粱を炊いて。
主人は「会うことは難しい」と言いながら、杯を重ねた。
十杯飲んでも酔えなかったのは、酒が薄かったからではない。
旧友の温かさが、酔いを追い越していたからだ。

感子故意長
君の友情の長く続くことに感じ入る。

二十年離れていても、変わらない何かがある。
人は変わる。
時代は変わる。
鬢は白くなり、友人は減り、身体は正直に老いていく。
それでも、二人の間に流れる空気の質感は、あの頃のままだった。

そういうことがある。

現代を生きる私たちは、つながりが多い割に孤独だ。

スマートフォンの中には数百人の連絡先がある。
SNSには何十人もの「友人」がいる。
それなのに夜中に泣きたくなったとき、電話できる相手が思い浮かばない——そういう人が少なくないと思う。

今夕復何夕」と杜甫は語る。
何と素晴らしい夜なのだろう。

それはつまり、この夜の奇跡を讃える言葉だ。
あなたと私が、同じ灯のもとに座っている。
それだけで、この夜は特別なのだと。

人生は短い。

少壮能幾時」——若く盛んな時期は長くは続かない。

この問いは絶望ではなく、警告だと私は思う。
あの人に会いに行くのを来年まで待つな、と。
あの電話を明日まで先延ばしにするな、と。
詩の最後に杜甫は書く。

明日隔山岳
世事両茫茫

明日 山を隔ててしまえば、
世間のことも個人的なことも、どうなってしまうか、先はわからないのだ。

会えるときに、会いに行く。

これだけが、私たちに残された選択肢だ。

灯火はやがて消える。

それはどんな灯火も同じだ。
けれど消えるまでの時間を、誰かと分け合うことができる。
杜甫と旧友が、雨の夜に春の韮を刻み、酒を重ねたように。

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